アンドレア・ピルロ

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{{#invoke:Infobox3cols|infobox}} アンドレア・ピルロ(Andrea Pirlo, 1979年5月19日 - )は、イタリアブレシア県フレーロ出身の元サッカー選手。元イタリア代表。ポジションはミッドフィールダー。その正確なパスと高度な戦術眼を武器とし、希代のレジスタとして活躍した[1][2]フリーキックの名手としても知られる[2]

経歴

クラブ

ブレシア

1995年に地元のブレシアでセリエAデビュー。翌年、クラブはセリエBに降格したが、1年で昇格。この時にロベルト・バッジョと出会い、「自らの後継者」として指名された。

インテル

セリエBでのプレーが目に留まり、1998年7月1日に自身の憧れのチームでもあったインテルに移籍した。

しかし、トップ下と言うマークの集中するポジションを担う選手としては、彼のフィジカルの脆弱さは致命的であった。選手層の厚いインテルではまともな出場機会も与えられぬまま1999年にはレッジーナ2001年には古巣のブレシアにレンタルに出される。ブレシアではカルロ・マッツォーネ監督の下、バッジョがいることもあり中盤の底でのプレーを経験した。

ミラン

2001年7月1日、インテルのライバルであるACミランに完全移籍する。しかし、トップ下にはマヌエル・ルイ・コスタがいたためファティ・テリム監督の構想外であり、出場機会はほとんどなかった。2001-02シーズン途中にカルロ・アンチェロッティが新監督に就任。アンチェロッティもトップ下にはルイ・コスタを起用し続け、試合出場を願うピルロは、通常のトップ下のポジションではなくアンカーとしての起用を直訴した。ピルロのブレシアでの経験を知っていたアンチェロッティはこれを承諾した。トップ下ほどフィジカルの当たりが激しくない中盤の底で、クラレンス・セードルフジェンナーロ・ガットゥーゾといった強力なハードワーカーや、マッシモ・アンブロジーニのような守備能力に秀でたディフェンシブミッドフィルダーといったチームメイトにも恵まれ、ピルロは攻撃の指揮を司る存在として、長短織り交ぜたパスを供給し続けレジスタ(regista)としてのポジションを確立した。UEFAチャンピオンズリーグ優勝にも貢献した。そして2007年バロンドール投票でカカクリスティアーノ・ロナウドリオネル・メッシに次ぐ4位の票数を獲得した。

2009年、恩師であるアンチェロッティがチェルシーFCの監督に就任したことにより、チェルシーへの移籍が噂されていたが残留した。その後は故障が相次ぎ、本来の出来には程遠い状態が続いた。

ユヴェントス

2011年5月18日6月30日で満了となる契約を延長せずに10年間在籍したミランを退団する事を発表[3]5月24日、移籍金なしの3年契約でユヴェントスFCへ移籍した[4]。背番号はミラン時代と同じ21番でズデニェク・グリゲラから譲られた。過去にはジネディーヌ・ジダンリリアン・テュラムが着用していた番号でもある。

ライバルからの移籍であることや前年の不振から獲得には疑問の声が上がったが、ミラン時代を思わせるような正確無比なパスで一躍不可欠な存在となった。加入前は2年連続7位だったが、チームはアントニオ・コンテ新監督の下で快進撃を続け2002-03シーズン以来(※2005-06シーズンのタイトルはカルチョポリにより剥奪)のスクデット獲得・ならびに1991-92シーズンのミラン以来20季ぶり2チーム目となる無敗優勝に貢献した。また、この活躍によって、UEFA.comのシーズンレビューで年間最優秀選手に選ばれた[5]。 2014-15シーズン、ミラン時代に不仲が噂されたマッシミリアーノ・アッレグリが監督に就任するものの、双方とも不仲を否定。W杯の疲労からか欠場や途中出場が多かったものの、ユヴェントスの二冠とチャンピオンズリーグ準優勝に貢献した。

ニューヨーク・シティ

2015年7月6日、MLSニューヨーク・シティFCに移籍が決定した[6]。2017年11月6日、自身のtwitterで引退することを発表した[2]

代表

ファイル:Andrea Pirlo Euro 2012 vs England 01.jpg
イタリア代表でプレーするピルロ

A代表初出場は2002年9月7日アゼルバイジャン戦。その後は代表に定着し、UEFA EURO 2004にも出場を果たしている。アテネオリンピックにはオーバーエイジとして出場し銅メダル獲得に貢献した。2006 FIFAワールドカップでは準決勝ドイツ戦で見せたファビオ・グロッソへのノールックパスなど、大会を通じて好プレーを披露。初戦のガーナ戦、準決勝のドイツ戦、決勝のフランス戦で3度のマンオブザマッチに輝き、ブロンズボール賞を受賞。イタリアのワールドカップ優勝に貢献した。

2010 FIFAワールドカップにメンバー入りするも、負傷により初戦・第2戦を欠場した。グループリーグ突破には勝利が必要となった第3戦には、1点ビハインドになったため後半途中から強行出場したが、スロバキアに2-3で破れグループリーグで姿を消した。

UEFA EURO 2012ではハイプレスとポゼッションを基本としたチームの新戦術の中心として活躍。準々決勝のイングランド戦ではPK戦にまでもつれ込み、1人失敗したあとの3人目のキッカーとして登場すると相手GKジョー・ハートをあざ笑うかのようなチップキックを陥れPK戦の流れを変えた。結果、イタリアはPK戦を制し最終的には決勝に進出。決勝ではスペインに0-4のスコアで敗れ準優勝という結果に終わったが、準々決勝で見せたプレッシャーの掛かる場面でのチップキックに関しては、評価を受けた[7]

2013年5月2014 FIFAワールドカップを最後に代表から引退する意向を明かした[8]。同年6月16日のFIFAコンフェデレーションズカップ2013メキシコ戦でイタリア代表史上5人目となる、通算100試合出場を達成[9]。この試合では直接フリーキックから先制ゴールを挙げ、大会選定のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた[9]

2014年9月7日、代表復帰を表明した[10]

引退後

  • 2018年5月21日、引退試合がACミランの本拠地・サン・シーロで開催され、ミランを中心にセリエAで活躍した元選手たちとプレーした[11][12]。開催日の選択理由は「自分の背番号が21で、デビューしたのが5月だったから」と説明した。

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1994-95||rowspan="4"|ブレシア||||セリエA|| 1 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 1 || 0 |- |1995-96||||rowspan="2"|セリエB|| 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 |- |1996-97|||| 17 || 2 || 1 || 0 || 0 || 0 || 18 || 2 |- |1997-98||rowspan="2"|21||rowspan="19"|セリエA|| 29 || 4 || 1 || 0 || 0 || 0 || 30 || 4 |- |1998-99||インテル|| 18 || 0 || 7 || 0 || 7 || 0 || 32 || 0 |- |1999-00||レッジーナ|| 30 || 28 || 6 || 2 || 0 || 0 || 0 || 30 || 6 |- |2000-01||インテル|| 11 || 4 || 0 || 1 || 0 || 3 || 0 || 8 || 0 |- |2000-01||ブレシア|| 5 || 10 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 10 || 0 |- |2001-02||rowspan="10"|ミラン||rowspan="14"|21|| 18 || 2 || 2 || 0 || 9 || 0 || 29 || 2 |- |2002-03|| 27 || 9 || 2 || 0 || 13 || 0 || 42 || 9 |- |2003-04|| 32 || 6 || 0 || 0 || 10 || 1 || 42 || 7 |- |2004-05|| 30 || 4 || 1 || 0 || 12 || 1 || 43 || 5 |- |2005-06|| 33 || 4 || 4 || 0 || 12 || 1 || 49 || 5 |- |2006-07|| 34 || 2 || 4 || 0 || 14 || 1 || 52 || 3 |- |2007-08|| 33 || 3 || 1 || 0 || 9 || 2 || 43 || 5 |- |2008-09|| 26 || 1 || 0 || 0 || 3 || 1 || 29 || 2 |- |2009-10|| 34 || 0 || 1 || 0 || 8 || 1 || 43 || 1 |- |2010-11|| 17 || 1 || 3 || 0 || 5 || 0 || 25 || 1 |- |2011-12||rowspan="4"|ユヴェントス|| 37 || 3 || 4 || 0 || 0 || 0 || 41 || 3 |- |2012-13|| 32 || 5 || 2 || 0 || 10 || 0 || 44 || 5 |- |2013-14|| 30 || 4 || 1 || 0 || 13 || 2 || 44 || 6 |- |2014-15|| 20 || 4 || 2 || 0 || 10 || 1 || 32 || 5 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2015||rowspan="3"|ニューヨーク・シティ||rowspan="3"|21||rowspan="3"| MLS || 13 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 13 || 0 |- |2016|| 32 || 1 || 0 || 0 || 0 || 0 || 32 || 1 |- |2017|| 15 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 15 || 0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始 493 || 58 || 38 || 0 || 138 || 11 || 669 || 69 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行 17 || 2 || 1 || 0 || 0 || 0 || 18 || 2 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行 60 || 1 || 0 || 0 || 0 || 0 || 60 || 1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終 570 || 61 || 39 || 0 || 138 || 11 || 747 || 72 |}

代表歴


イタリア代表国際Aマッチ
出場得点
2002 4 0
2003 1 0
2004 7 1
2005 9 3
2006 14 1
2007 8 1
2008 9 1
2009 12 1
2010 8 1
2011 9 0
2012 13 2
2013 13 2
2014 6 0
2015 3 0
通算 116 13

ゴール

タイトル

クラブ

ACミラン
ユヴェントス

代表

個人

著書

  • 『我思う、ゆえに我蹴る。アンドレア・ピルロ自伝』(東邦出版、2014年、ISBN 978-4809412059)

脚注

  1. 選手名鑑 【イタリア】アンドレア・ピルロ jiji.com
  2. 2.0 2.1 2.2 「サッカー選手としての終わりを迎えた…」“稀代のレジスタ”ピルロがSNSで現役引退を正式発表 ゲキサカ 2017年11月7日
  3. ピルロ、ミラン退団を認めるGoal.com 2011年5月19日
  4. ピルロがユベントスに移籍”. UEFA.com (2011年5月24日). . 2011閲覧.
  5. シーズンレビュー:イタリア ”. UEFA.com (2012年5月21日). . 2012-5-22閲覧.
  6. ユーヴェMFピルロのニューヨーク移籍が決定…ランパードらの同僚にsoccerking 2015年7月6日
  7. ピルロの超絶PKにトップ選手たちが驚嘆の声「すごすぎる、怪物だ」”. サッカーキング (2012年6月26日). . 2012閲覧.
  8. ピルロ、14年W杯でイタリア代表引退”. Goal.com (2013年5月3日). . 2013閲覧.
  9. 9.0 9.1 イタリア代表MFピルロが代表通算100試合出場を達成”. サッカーキング (2013年6月16日). . 2013閲覧.
  10. ピルロ、イタリア代表復帰 「コンテに聞かれて…」”. Goal (2014年9月8日). . 2014閲覧.
  11. ピルロ氏の引退試合開催、名だたるスターが世界中から大集結”. フランス通信社 (2018年5月22日). . 2018閲覧.
  12. 豪華メンバー集結のピルロ引退試合、インザーギのハットなど計14ゴールで記憶に残る一戦に”. ゲキサカ (2018年5月22日). . 2018閲覧.
  13. UEFA Champions League squad of the season”. UEFA.com. Union of European Football Associations (2015年6月9日). . 9 June 2015閲覧.

関連項目

外部リンク