アンリ4世 (フランス王)

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アンリ4世フランス語: Henri IV1553年12月13日 - 1610年5月14日)は、ブルボン朝初代のフランス国王(在位:1589年8月2日 - 1610年5月14日)、およびナバラ国王エンリケ3世テンプレート:Lang-eu、在位:1572年6月9日 - 1610年5月14日)。

ユグノー戦争で叔父コンデ公ルイが戦死したため、年少にしてユグノーの盟主となる。1572年、自身の婚礼に際して企てられたサン・バルテルミの虐殺に遭遇したが、カトリックに改宗して難を避け、1576年に脱走して再びプロテスタントに復帰し、1589年アンリ3世の暗殺により王位を継承する。その後再度カトリックに改宗して国内を平定し、1598年ナントの勅令を発布してカトリックとユグノーとの国内融和に努め、40年近くにわたる戦争を終結させた。戦後は戦争によって疲弊した国家の再建を行ったが、1610年に狂信的なカトリック信者によって暗殺された。在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人で、大アンリ(Henri le Grand)、良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれる。1959年から発行された50フラン紙幣において肖像が採用されていた。

生涯

幼少期

ブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌを父に、フランス王フランソワ1世の姪であるナバラ女王ジャンヌ・ダルブレを母に、ナバラ領のポーで生まれた。

母ジャンヌは熱心なユグノー(カルヴァン主義プロテスタント)であり、その影響で父もプロテスタントに帰依していた。当時のフランスではユグノーが勢力を増してカトリックとの対立が高まり、有力な王位継承権を持つ家柄であるブルボン家当主の父がこのユグノーの盟主となっていた。

1559年アンリ2世が事故死し、フランソワ2世が即位する。フランソワ2世の治世下では王妃マリー・デコス(スコットランド女王メアリー・ステュアート)の親族であるギーズ家が権勢を振っており、ギーズ公フランソワは熱狂的なカトリックだった。宗派間の対立が高まり、ギーズ公は1560年のアンボワーズの陰謀事件で多数のプロテスタント貴族を粛清している。

フランソワ2世は1560年に早世し、弟シャルル9世が即位する。本来ならブルボン家当主のアントワーヌが摂政を務めることになるが、この時は母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政に就任し、アントワーヌは王国総代官(軍最高司令官職)となった[1]。翌1561年に7歳のアンリは父に呼び寄せられて宮廷に入った[2]。摂政カトリーヌはカトリックとプロテスタントの融和を図るものの、対立は更に激化してしまい、その最中に父がカトリックに寝返り改宗してしまう。熱心なプロテスタントの母ジャンヌは宮廷を去り、幼いアンリはカトリックに強制的に改宗させられた[3]

ユグノー戦争

1562年、ギーズ公のユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)を契機にユグノー戦争が勃発する。プロテスタント信仰に忠実な叔父のコンデ公ルイ1世がユグノー陣営の盟主となり、母もこれに加わった。一方、改宗した父はカトリック陣営の司令官として戦うが、ルーアン包囲戦で戦死してしまい、幼いアンリがブルボン家の当主となった。

1563年2月にギーズ公がプロテスタントの刺客に暗殺、3月にアンボワーズの和議が成立して戦争は一旦終わる。1564年、シャルル9世と王太后カトリーヌが全国巡幸に出発し、アンリもこれに随行した。この巡行中にサロン=ド=プロヴァンスに立ち寄った際、著名な占星術師ノストラダムスからアンリが将来国王になると予言された逸話が伝わる[4]

1567年に和平は破綻し、再び戦争が始まる。アンリは母にベアルンへ連れ帰され、ユグノー陣営に加わった[5]。ベアルンでカトリックの反乱が起こると、アンリは初めて軍隊の指揮を執り、見事に撃退している[5]。アンリは母と共にユグノーの本拠地ラ・ロシェルに入った。1568年ジャルナックの戦いでユグノー盟主の叔父コンデ公が戦死してしまう。このため若いアンリが盟主となり、軍隊の指揮はガスパール・ド・コリニー提督が執ることになった。戦争ではユグノーは苦戦するものの、やがて有能なコリニー提督の指揮の下で勢いを盛り返し、1570年に和議が成立して終わった。

王太后カトリーヌはカトリックとプロテスタントとの融和のため、アンリと王妹マルグリットとの婚姻を提案する。母は両人の宗派の違いから悩むが、最終的にはこの婚姻に同意した[5]。この結婚同意から程ない1572年6月に母が急死、アンリはナバラ王位を継承した(アンリ・ド・ナヴァール、スペイン名でエンリケ3世)。

同年8月18日、アンリは王妹マルグリットとの結婚式を挙げる。ところが8月24日、結婚式参列のためパリに集まっていたコリニー提督をはじめ多くのユグノー貴族がカトリック派のギーズ公アンリ1世の兵によって虐殺された(サン・バルテルミの虐殺)。カトリックは貴族だけでなくプロテスタントの民衆まで無差別に虐殺を始め、数千人が殺された。虐殺はフランス各地にも広がり、死体がパリ市内の至る所に放置される中で、アンリは従弟のコンデ公アンリ1世とともに強制的にカトリックに改宗させられ、宮廷に幽閉された。

虐殺を契機に戦争が再開すると、アンリはカトリック側で参戦している[6]。途中休戦を挟みつつ戦争が続く中、1574年にシャルル9世が死去する。弟アンリ3世は前年の1573年にポーランドの国王に迎えられていたが、兄の訃報を受けるとただちにポーランドを出奔して帰国し、フランス王に即位した。

アンリは幾度かの宮廷脱出の試みの失敗[7]の後、1576年2月3日の狩猟大会中に逃走に成功する[8]。その後しばらく戦争の情勢を観望したアンリは、同年5月にユグノー有利の和議が成立すると6月13日にプロテスタントに再改宗し、ユグノー陣営の盟主となった[9]

即位と王国平定

カトリック陣営はギーズ公アンリを首領とするカトリック同盟を結成して巻き返し、またも戦争が再開する。1584年、王弟アランソン公フランソワの死に伴い、ナバラ王アンリは筆頭王位継承権者となった。宗教戦争にフランス王位継承問題もからみ、アンリ3世とカトリック同盟のギーズ公アンリ、そしてユグノー盟主のナバラ王アンリによる、三アンリの戦いと呼ばれる様相を呈するようになった。

危機感を覚えたギーズ公は、アンリ3世に圧力をかけて1585年ヌムール勅令を出させ、ナバラ王アンリの王位継承権を無効とさせる。ローマ教皇シクストゥス5世もこれに同調する教書を出す。不利になったナバラ王アンリだったが、穏健派カトリック貴族の協力を得て、1587年クートラの戦いではカトリック軍に大勝することに成功している[10]

アンリ3世は交渉による和平を模索するが、1588年5月にパリで起こったバリケードの日事件を契機としてギーズ公はアンリ3世に、自らの推すブルボン枢機卿シャルル(ナバラ王アンリの叔父)を王位継承者と認めさせることに成功し、カトリック側が優位に立った。だが、巻き返しを図るアンリ3世は同年12月、ギーズ公とその弟ギーズ枢機卿ルイを暗殺した。カトリック同盟と敵対したアンリ3世はナバラ王アンリのユグノー軍と合流して、カトリック同盟の本拠地パリの奪回を図るが、1589年8月にアンリ3世もまた熱狂的なドミニコ会士の凶刃に倒れた。

アンリ3世は死の床にナバラ王アンリを呼んで王位を託し、同時にカトリックへの改宗を勧めた[11] 。8月2日、アンリ3世が死去してヴァロワ朝は断絶した。35歳のナバラ王アンリがフランス王位を継承してアンリ4世となり、新たにブルボン朝が開かれることになる。

ファイル:Ivryrubens.jpg
イヴリーの戦い

しかし、スペインの後ろ盾を持つカトリック同盟はローマ教皇から破門されていたアンリ4世を認めず、ギーズ公の弟のマイエンヌ公シャルルを盟主に擁立、ブルボン枢機卿に「シャルル10世」を称させて新国王に擁立し、アンリ4世に戦いを挑んだ[12]。アンリ4世は各地を転戦してカトリック同盟と戦いつつパリ攻略を目指すが、頑強な抵抗を受け容易に陥落できなかった。一方、1590年にブルボン枢機卿が死去したためカトリック同盟も決め手を欠いていた。

アンリ4世は、カトリック信者が圧倒的なパリがプロテスタントの王を受け入れることがないと悟った。1593年7月にアンリ4世は寵妃ガブリエル・デストレへ「とんぼ返りを打つことにする」と手紙を書き送っている[13][14]。同年7月25日、アンリ4世はサン=ドニ大聖堂で司祭の祝福を受けてカトリックに改宗した[15]。巷間知られるところによれば「Paris vaut bien une messe」(パリはミサを捧げるに値する都市である)と語ったとされる[16]

これによって、なおカトリックが優勢であったフランス国民の広汎な支持を受けることに成功し、1594年2月27日シャルトル大聖堂で正式に成聖式(戴冠式)を執り行うことができた(本来はランス大聖堂で行わねばならないが、この時点では未だカトリック同盟の勢力下にあった)。同年3月22日に遂にパリ入城を果たす。その後、地方の各都市も続々とアンリ4世に帰順し、マイエンヌ公と甥でギーズ公の遺児シャルル1世も帰順しカトリック同盟は瓦解した。

ブルターニュではスペインの支援を受けたメルクール公が抵抗を続けており、1595年にアンリ4世はスペインに宣戦布告をしてブルターニュ平定を行った。メルクール公が降伏し、スペインとの和平交渉も始まった1598年4月30日にアンリ4世はナントの勅令を発した。同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつ、プロテスタントに多くの制約はあるものの信仰の自由を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図ったものであった。

再婚

サン・バルテルミの虐殺のため、不幸な結婚となったアンリ4世と妻マルグリットとの関係は冷え切ったものであり、子供もいなかった。長きにわたって別居状態で、それぞれが大っぴらに幾多の愛人を抱えていた。後にマルグリットは一人でオーヴェルニュユソン城に移り住んでいる。

アンリ4世がフランス王位に就くと、側近たちは後継者問題で再び内戦状態にならないためにもきちんとした後継者を残すよう提言した。アンリ4世はローマ教皇にマルグリットとの結婚の無効を認めてもらうことで、すでに3人の子供を生んでいるガブリエル・デストレを正式な妻に迎えたいと望んでいた[17]。身分の問題から側近は反対したが、ガブリエルが1599年4月に急死したことで問題は立ち消えとなった。同年、教皇からマルグリットとの結婚が無効であったとの宣言が下され、1600年にアンリ4世はメディチ家マリー・ド・メディシスと結婚した。2人の間には6人の子が生まれている。だが、政略結婚である2人の仲は決して円満ではなく、多情なアンリ4世は多くの愛人を持ち、その数は56人以上に及んだとする説もある[18]。アンリ4世は愛人の中でもとりわけアンリエット・ダントレーグを深く愛した[19]

統治

アンリ4世は賢明で有能な君主であった。反対派貴族を武力で弾圧するのではなく、懐柔することに努め、そのためには賠償金の支払いさえ辞さなかった。さらに国民の生活状態を配慮する姿勢が評価されて絶大な人気を誇り、「良王アンリ」と呼ばれるようになる[20]

まず、内戦で疲弊したフランスを立て直すために、側近であったシュリー公マクシミリアンに国家経済の再建、農業の促進、開墾地の拡大、公共事業の活発化などの政策を行わせた。さらに教育機関の拡充、街道の整備、森林の保護、橋や運河の整備を推し進めた。また、セーヌ川にまたがるポンヌフ橋の建造を中心とした首都パリの大規模な再開発計画を実行し、パレ・ロワイヤルルーブル宮殿の大ギャラリーを建造した。このギャラリーは長さ400m、幅30mにも及ぶ、当時の世界では最大級の建築物であった。さらにアンリ4世はあらゆる芸術家・工芸家を招いてルーブル宮殿に住まわせ、創作活動を行わせた。これはナポレオン・ボナパルトが禁止するまで、歴代の王によって継承される政策となった。

行政面では、税の支払いの見返りに官職の世襲を保証するポーレット法を定め、また金融家から地域の税金を前借りして代わりに徴税を請け負わせる徴税請負人制度を作り、財政の再建に努めている[21]

ファイル:Franz Hogenberg Franss Rauaillart der morder shnodt 1610.jpg
フランソワ・ラヴァイヤックの公開死刑

アンリ4世のヴィジョンは国内を越えており、北アメリカの探検にサミュエル・ド・シャンプランを派遣している。これは後にカナダにフランスの植民地が築かれる基礎となった。また、悲惨な戦争の惨禍を防ぐため、ヨーロッパ各国が共同して国際裁判所と国際軍を持ち、侵略行為に対抗するという「大計画」を構想していた[22]

有能な君主として国民に広く愛されたアンリ4世だったが、たびたび暗殺の危機にさらされていた。1594年にはジャン・シャテルJean Châtel)による暗殺未遂で重傷を負った。 そして1610年5月14日、アンリ4世は馬車に乗ろうとした際に狂信的なカトリック教徒のフランソワ・ラヴァイヤックFrançois Ravaillac)に刺殺された[23]。事件は単独犯として決着したが、多くの歴史家たちは権力上層部による陰謀であったと考えている[24]5月27日にラヴァイヤックは、16年前のシャテル同様、パリで惨たらしい方法による公開死刑に処されている[25]

アンリ4世はサン=ドニ大聖堂に埋葬され、8歳の王太子ルイがルイ13世として即位し、成人する1617年まで母后マリーが摂政として政務を執ることになった。

死後

アンリ4世の遺体はフランス革命後の1793年に墓から暴かれ、頭部は切断されて行方不明となった。その後頭部は各地を転々としたが、死後400年経った2010年になって、法医学者の鑑定によって正式にアンリ4世のものと確認された[26]。ミイラ化した頭部の保存状態は良好で、1594年の暗殺未遂の傷跡などが残っていたという。

家系

アンリ4世の先祖3世代
フランス王およびナバラ王
アンリ4世

父:
ナバラ王およびヴァンドーム公
アントワーヌ・ド・ブルボン
父方祖父:
ヴァンドーム公
シャルル・ド・ブルボン
父方曾祖父:
ヴァンドーム伯
フランソワ・ド・ブルボン
父方曾祖母:
マリー・ド・リュクサンブール
父方祖母:
フランソワーズ・ダランソン
父方曾祖父:
アランソン公
ルネ・ダランソン
父方曾祖母:
マルグリット・ド・ロレーヌ
母:
ナバラ女王
フアナ3世
(ジャンヌ・ダルブレ)
母方祖父:
ナバラ王
エンリケ2世
(アンリ・ダルブレ)
母方曾祖父:
ナバラ王
フアン3世
(ジャン・ダルブレ)
母方曾祖母:
ナバラ女王
カタリナ
(カトリーヌ・ド・フォワ)
母方祖母:
マルグリット・ド・ナヴァール
母方曾祖父:
アングレーム伯
シャルル・ドルレアン
母方曾祖母:
ルイーズ・ド・サヴォワ

母方の祖母マルグリット・ド・ナヴァールフランソワ1世の姉であり、アンリ4世はヴァロワ朝末期の3人の王(フランソワ2世シャルル9世アンリ3世)および最初の妃マルグリット・ド・ヴァロワの又従兄弟に当たる(そのため妃マルグリットとは婚姻の無効が成立しえた)。ただし、王位継承権自体は直接にはこの血縁および婚姻関係でなくサリカ法に基づき、カペー家の男系支流であるブルボン家の家長であったことによるものである。ブルボン家の祖であるクレルモン伯ロベールは、ルイ9世の六男、フィリップ3世の末弟で、アンリ4世から9世代さかのぼる、約300年前の人物である。

一方、ナバラ王位は女系継承が認められており、母ジャンヌ・ダルブレの死によりアンリ4世が継承することになった。以後、ブルボン朝の歴代フランス王はナバラ王を兼位し、「フランスとナバラの王」を称した。ナバラ王の血筋を遡ると、同様にフランスとナバラの王を兼ねたカペー朝末期のルイ10世に至る。ただし、曾祖母カタリナの時代にナバラ王国は大部分がスペインに併合されており(スペイン側でも歴代スペイン王がナバラ王の称号を用いている)、ルイ10世の時代より領土は大幅に縮小している。

なお、祖母マルグリットはナバラ王アンリ・ダルブレとは再婚であり、最初の夫アランソン公シャルル4世はアンリ4世の父方の祖母フランソワーズ・ダランソンの兄であった。シャルル4世とフランソワーズの家系アランソン家は王位継承権を持つヴァロワ家の有力な支流であったが、シャルル4世の死により断絶していた。

ヴァンドーム公アントワーヌの家系はブルボン=ヴァンドーム家といい、元来ブルボン家でも傍系であったが、祖父シャルルの時代に本流が断絶したためブルボン家家長となり、ヴァロワ家断絶後のフランス王位継承権を得ることになった。また、カトリーヌ・ド・メディシスの母方の祖母ジャンヌ・ド・ブルボン=ヴァンドームはシャルルの父ヴァンドーム伯フランソワの姉であった。さらに、シャルルの妹アントワネットギーズ公クロードに嫁いで嫡男フランソワスコットランド王妃メアリー・オブ・ギーズをもうけており、アンリ4世はフランソワ2世の王妃でもあったスコットランド女王メアリーや、敵対関係にあったギーズ公アンリの又従弟でもあった。加えて、アントワーヌの母方の祖母マルグリット・ド・ロレーヌロレーヌ公ルネ2世の妹でギーズ公クロードの叔母に当たり、アンリ4世とギーズ家とはロレーヌ家の血を通じてもつながりがあった。なお、マルグリット・ド・ナヴァールの父シャルル・ドルレアンと母ルイーズ・ド・サヴォワが共にブルボン家本流の血を引いている。また、ロレーヌ家との関係ではさらに、アンリ4世の妹カトリーヌがロレーヌ公アンリ2世(マルグリット・ド・ヴァロワらの甥にあたる)と結婚している。

シャルルの母マリー・ド・リュクサンブールルクセンブルク家の最後の末裔であるが、神聖ローマ皇帝ボヘミア王の家系となった本流でなく、分家リニー家の子孫である。ジャンヌ・ダルブレの父方の祖母カトリーヌ・ド・フォワと母方の祖父シャルル・ドルレアンは共にボヘミア王ヨハンの娘ボンヌの血を引いているので、アンリ4世はルクセンブルク家本流とも血のつながりはあることになる。

子女

マリー・ド・メディシスとの間に6子を儲けている。

ガブリエル・デストレとの間に死産を除き庶子3人を儲けている。

  • セザール(1594年 - 1665年) ヴァンドーム公
  • カトリーヌ・アンリエット(1596年 - 1663年) 1619年にエルブフ公シャルル2世と結婚
  • アレクサンドル(1598年 - 1629年)


略系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カペー朝
ルイ9世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フィリップ3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ロベール
(クレルモン伯)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フィリップ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヴァロワ家
シャルル
(ヴァロワ伯)
 
 
 
 
 
ブルボン家
ルイ1世
(ブルボン公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルイ10世
 
フィリップ5世
 
シャルル4世
 
ヴァロワ朝
フィリップ6世
 
 
 
 
 
ピエール1世
(ブルボン公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャック1世
(ラ・マルシュ伯)
français版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャン1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャン2世
 
 
 
 
 
ルイ2世
(ブルボン公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャン7世
(ヴァンドーム伯)
français版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル5世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャン1世
(ブルボン公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルイ1世
(ヴァンドーム伯)
français版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル6世
 
ルイ
(オルレアン公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル1世
(ブルボン公)
 
ルイ1世
(モンパンシエ伯)
 
 
 
 
 
ジャン8世
(ヴァンドーム伯)
français版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル7世
 
シャルル
(オルレアン公)
 
ジャン
(アングレーム伯)
 
ジャン2世
(ブルボン公)
 
シャルル2世
(ブルボン公)
 
ピエール2世
(ブルボン公)
 
ジルベール
(モンパンシエ伯)
 
 
 
 
 
フランソワ
(ヴァンドーム伯)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルイ11世
 
ルイ12世
 
シャルル
(アングレーム伯)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シュザンヌ
(ブルボン女公)
 
シャルル3世
(ブルボン公)
 
ルイ2世
(モンパンシエ伯)
 
シャルル
(ヴァンドーム公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル8世
 
クロード
 
フランソワ1世
 
マルグリット
(ナバラ王妃)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンリ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャンヌ3世
(ナバラ女王)
 
 
 
 
 
アントワーヌ
(ヴァンドーム公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フランソワ2世
 
シャルル9世
 
アンリ3世
 
マルグリット
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブルボン朝
アンリ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

  1. 「聖なる王権ブルボン家」P15
  2. 「聖なる王権ブルボン家」p15
  3. 「聖なる王権ブルボン家」p17
  4. 「聖なる王権ブルボン家」p20
  5. 5.0 5.1 5.2 「聖なる王権ブルボン家」p23
  6. 「聖なる王権ブルボン家」p31
  7. 「聖なる王権ブルボン家」p31-32
  8. 「聖なる王権ブルボン家」p33
  9. 「聖なる王権ブルボン家」p33
  10. 「聖なる王権ブルボン家」p40
  11. 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p36
  12. 「聖なる王権ブルボン家」p44-46
  13. 「世界の歴史7 文芸復興の時代」p271
  14. 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p38
  15. 「聖なる王権ブルボン家」p47
  16. 「世界の歴史15 近代ヨーロッパへの道」p167
  17. 「聖なる王権ブルボン家」p53-54
  18. 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p42
  19. 「聖なる王権ブルボン家」p55-56
  20. 「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」p256
  21. 「世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩」p256
  22. 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p40-41
  23. 「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」p257
  24. 「聖なる王権ブルボン家」p59
  25. 「聖なる王権ブルボン家」p60
  26. 流転200年・・・仏国王アンリ4世の頭部、本物と断定AFPBB News2010年12月31日閲覧

参考文献

  • 長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』(講談社選書メチエ、2002年) ISBN 978-4-06-258234-6
  • ジョルジュ・リヴェ『宗教戦争』(二宮宏之・関根素子共訳、白水社、1968年) ISBN 978-4560054284
  • 赤井彰、山上正太郎『世界の歴史7 文芸復興の時代』(教養文庫、1974年)
  • 大野真弓、山上正太郎『世界の歴史8 絶対主義の盛衰』(教養文庫、1974年) ISBN 978-4-390-10829-4
  • 大野真弓『世界の歴史8 絶対君主と人民』(中公文庫、1975年) ISBN 978-4-12-200188-6
  • 成瀬治『世界の歴史15 近代ヨーロッパへの道』(講談社、1978年)
  • 長谷川輝夫、大久保桂子、土肥恒之共著『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』(中公文庫、2009年) ISBN 978-4-12-205115-7
  • 谷川稔、鈴木健夫、村岡健次、北原敦『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』(中公文庫、2009年) ISBN 978-4122051294

小説・伝記

関連項目

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