イエズス会

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イエズス会(イエズスかい、ラテン語: Societatis Iesu

1534年8月 15日,イグナチウス・デ・ロヨラが6人の同志とともにパリのモンマルトルの丘に集まり誓約を立て,1540年に教皇の認可を受けて創立した司祭修道会。 1541~56年イグナチウス,1581~1615年アクアビバ,1687~1705年ゴンザレスが総会長を務めた。 1759年ポルトガル,1764年フランス,1767年スペイン,ナポリほかで禁止されたのに続いて,1773年クレメンス 14世により解散させられた (ロシアでは 1820年まで存続) が,1814年ピウス7世により復活され,再び最大の修道会に復して現在にいたる。イグナチウスはキリストを理想像としてイエズス会の名を与え,「より大いなる神の栄光のために」 Ad majorem Dei gloriamを標語とした。彼は制服,合誦祈祷,義務的日課などを廃して修道会史上に一時期を画したが,修士には組織的な教育と指導を施し,総会長を頂点とする君主制的な厳しい組織を与え,会の特色となっている会士の服従を定めた。会全体は直接教皇の下に立ってその特別使命にただちにこたえる奉仕によって,神の栄光を求めるその標語を実現するのである。こうした態度は創立期に教会がおかれていた状況のなかでイエズス会に主として二つの活動領域を与え,それを通して会は飛躍的に大きくなった。二つの活動とは,反宗教改革運動としてのヨーロッパ伝道と学校経営,そしてアメリカ大陸到達に伴う異教地布教である。イエズス会は宗教改革に対抗するために創立されたものではなかったが,その中核的役割を果たした。 1599年に発行された学事規則 Ratio studiorumにのっとりほぼ全ヨーロッパの高等教育を一手に引き受けたのである。またフランシスコ・ザビエルを先頭としての布教活動でもイエズス会は第一の修道会であった。日本にもザビエル自身の手で 1549年布教がなされ,耶蘇会の名で知られ,三木パウロなどの会士を出したほか,キリシタン版と呼ばれる活字本をつくって日本史に貴重な資料を残している。中国には 1583年以後マテオ・リッチらが布教した。 1908年日本に再渡来してのち,上智大学,六甲学院,栄光学園を経営し,広島教区 (中国地方の5県) を担当している。