カール・グスタフ・ユング

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テンプレート:Infobox Scholar カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875年7月26日 - 1961年6月6日)は、スイス精神科医心理学者ブロイラーに師事し深層心理について研究、分析心理学ユング心理学)を創始した。

生涯

スイス、トゥールガウ州ボーデン湖畔のケスヴィルでプロテスタント改革派牧師の家(ドイツ系)に生まれる[1]。少年期は己の内面に深い注意が向けられ、善と悪、神と人間についての思索に没頭し、学生時代はゲーテカントニーチェの著作に感銘を受け、後の心理学者としての著作に、ゲーテの「ファウスト」やニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」への言及も多くみられる。内的な基盤を持たない形式的な信仰というものに疑問を感じ、牧師という職を継ぐことを特には望まず、同名の祖父と同じ名門バーゼル大学で医学を、特にクラフト=エビングの影響で精神医学を学んだ[2]。この同名の祖父には、ゲーテの私生児だと言う伝説があった[3]。学位論文は霊媒現象を考察した「いわゆるオカルト現象の心理と病理 (Zur Psychologie und Pathologie sogenannter occulter Phänomene)」。

1900年12月からは、チューリヒ大学オイゲン・ブロイラーの元で助手を務めるが、1909年には、大学を離れて個人開業を開始する[4]

1900年には、ジークムント・フロイトの『夢判断』に触れるものの、当初は特に影響がなかったが[5]1907年からは、親交を開始している[6]

1904年には、勤務先のチューリヒ大学に入院してきた患者のザビーナ・シュピールラインと治療を通して親しくなり、不倫関係となった。ザビーナはユングと別れた後にフロイトに師事し、精神分析家となる[7]

生理学的な知識欲を満たしてくれる医学や、歴史学的な知識欲を満たしてくれる考古学に興味を抱き、友人と活発に議論を交わし、やがて人間の心理と科学の接点としての心理学に道を定めた。精神疾患の人々の治療にあたるとともに疾患の研究も進め、特に当時不治の病とされた分裂病(統合失調症)の解明と治療に一定の光明をもたらした。ヒステリー患者の治療と無意識の解明に力を注いでいたフロイトと、一時親しく意見を交わした。

1911年には国際精神分析協会を設立し、その初代会長になる。フロイトでなくユングなのは、ユダヤ人以外を会長に選ぶ目的があったためである[8]

ところが、フロイトとは別に神話研究に励むユングは、次第にフロイトとの理論的な違いを表に出し始め、1914年には国際精神分析協会を辞して、フロイトらと袂を分かつことになり[9]、チューリヒ大学医学部の私講師の職も辞任した[10]

精神分析の運動から離れ一人研究を進め、1916年には石油王ジョン・ロックフェラーの四女イーディス・ロックフェラー・マコーミック(en, 1872年 - 1932年)の助力で「心理学クラブ」を設立して、分析心理学の確立に努める[11]。このクラブには、ヘルマン・ヘッセも訪れている[12]。このマコーミック夫人の縁でジェイムス・ジョイスを知り、『ユリシーズ』の批評も書いている[13]

1922年にはスイスのボーリンゲンに土地を得て、塔の建設を開始する[14]。また、1921年には代表作『心理学的類型』(『タイプ論』『元型論』とも)を公開する。

1928年、ユングはリヒャルト・ヴィルヘルムの手による中国道教錬金術のドイツ語訳を入手し、曼荼羅に夢中になる。これにコメントを付けて、1929年に『黄金の華の秘密』というタイトルで出版した[15]

1948年に共同研究者や後継者たちとともに、スイス・チューリッヒにユング研究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎と伝統を確立した。また1933年からは、アスコナエラノス会議において、主導的役割を演じることで、深層心理学神話学宗教学哲学など多様な分野の専門家・思想家の学際的交流と研究の場を拓いた。開催をしたオルガ・フレーベ・カプタインは、ユングに強く協力を求め、ユングが参加できない場合は廃止も辞さない構えであった[16]。これには1951年まで出席する[17]。ここで、鈴木大拙ミルチャ・エリアーデハーバート・リードらと親交を結ぶ。

1946年に『転移の心理学』、1951年に『アイオーン』、1955年1956年には『結合の神秘』の第1巻と第2巻が出版されている。これらは、70歳を過ぎての著作であった[18]

1961年6月6日逝去。チューリッヒ州のキュスナハト改革派教会に葬られた。

死の直前まで、ユング唯一の一般向け著書『人間と象徴』をジョゼフ・ヘンダーソンアニエラ・ヤッフェヨランド・ヤコビーの3人と分担して英語で執筆し、ユング自身は担当する第1章を死の10日前に書き終えた[19]

著作の大半は、下記のようにドイツ語でなされた。

ユング心理学の変遷

精神科医であったユングは、当時の精神医学ではほとんど治癒できなかった各種の精神疾患に対する療法の確立を目指し、ピエール・ジャネウィリアム・ジェームズらの理論を元にした心理理論を模索していた。フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近し、一時期は蜜月状態(1906年 - 1913年)となるが、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。

ユングがそのキャリアの前半において発表した「連想実験」は、フロイトの「自由連想」法を応用して、言葉の錯誤と応答時間ずれ等を計測し、無意識のコンプレックスの存在を客観的な形にしたということで、科学的な価値を持ち、フロイトもそのために初めは喜んでユングを迎え入れた。両者の初めての邂逅において交わされた対談は10時間を超し、以後両者は互いに親しく手紙で近況や抱負、意見を伝えあった。しかし数年の交流のうちに、両者の志向性の違いが次第に浮き彫りになってきた。フロイトは無神論を支持したが、ユングは神の存在に関する判断には保留を設けた。またユングはフロイトとアルフレッド・アドラーの心理学を比較・吟味し、両者の心理学は双方の心性の反映であるとし、外的な対象を必要とする「」を掲げるフロイトは「外向的」、自身に関心が集中する「権力」に言及するアドラーは「内向的」であるといった考察をし、別の視点からの判断を考慮に入れた。

ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、やがてフロイトが「リビドー」を全て「性」に還元することに異議を唱え、はるかに広大な意味をもつものとして「リビドー」を再定義し、ついに決別することとなった[20]。ユングは後に、フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。

ユングの患者であった精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があること、またそれらは、世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことを見出したユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。また、晩年、物理学者のウォルフガング・パウリとともに共時性(シンクロニシティー=意味のある偶然の一致)に関する共著を発表した。

ユング心理学の特徴

ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通しているとされる集合的無意識(普遍的無意識)の分析も含まれる。ユング心理学による心理療法では能動的想像法も取り入れられている。能動的想像法とは、無意識からのイメージが意識に表れるのを待つ心理療法的手法である。また、ユング心理学は、他派よりも心理臨床において夢分析を重視している。集合的無意識としての「元型イメージが日常的に表出している現象」[21]でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとされる。

夢の分析はフロイトが既に重視していたことであった。しかしユング心理学の夢解釈がフロイトの精神分析と異なる点は、無意識を一方的に杓子定規で解釈するのではなく、クライアントセラピストが対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることによって、クライアントの心の中で巻き起こっていることを治癒的に生かそうとする点にある。

ユングはフロイトとの決別以後[22]も治療を続けた。ただ、彼は人生の方向を決めるのは治療者ではなく、クライアントであるとし、クライアントの無意識的創造力を信頼した。ユングの始めた心理学セラピーは、その後も治療者の数を増やし、比較的軽度のクライアントのカウンセリング主体の治療法として定着し、日本でも臨床心理士等の資格が造られ、今日精神医療の大きなウェイトを占めるまでになっている。 

また、日本においてユング心理学がここまで大きなものになったのは、その心理臨床において箱庭療法を積極的に取り入れ、多くの著書を発表した河合隼雄の功績である。

ナチズムや反ユダヤ主義の勃興に対する姿勢

ナチスが政権を取った1933年ドイツ精神療法学会が改編されることになりヒトラーに反対したユダヤ人エルンスト・クレッチマーがその会長を辞任。新たに設立された国際精神療法学会の会長にユングが就任した[23]これをもって、ユングはナチスに加担してクレッチマーを追い落としたと一部に言われた。後にユングは精神療法という学問分野を守りたかったので非ユダヤ人である自分が会長職を引き受けたと述べている。彼は実際、ナチスからの影響を逃れるために国際精神療法学会の本部をスイスチューリッヒに移し、ドイツ国内で身分を剥奪されたユダヤ人医師を国際学会で受け入れ、学会誌にユダヤ人学者の論文が掲載されるように図ってもいる。

けれども、ナチスが国際精神療法学会に干渉して、ナチスへの忠誠を誓うマニフェストが学会誌に掲載されたために、会長のユングは激しく非難された。ユングはこの非難に対しては即座に反論したものの、今日に至るまでユングとナチズムとを関係づけ、非難する意見は存在する。

しかし、ユングはユダヤ系の師フロイトにも支援の意図について打診[24]しており、長年にわたってユングの秘書を務めたユダヤ人アニエラ・ヤッフェによれば、「ナチスへの対応には甘いところがあった」が、ユングはナチスの反ユダヤ人政策には明確に反対しており、ユダヤ人のドイツ脱出支援活動にも関与していたようである。[25]

また、ユングが戦前において、人々の群衆心理への傾倒、及びそれに伴う暴力性の発現に対して警鐘を鳴らしていた記録[26]や、ヒトラーに関連した事象がもたらす危険性について警告していた記録[27]も残っている。

ユングと超心理学

ユングはその学位論文『いわゆるオカルト的現象の心理と病理』において、従妹ヘレーネ・プライスヴェルクを「霊媒」として開かれた「交霊会」を扱ったこと(ただしこの論文では神秘的要因ではなく精神の病理的状態に帰されている)、また錬金術占星術、中国のなどに深くコミットしたことにより、オカルト主義的な傾向を見て取られ、また新異教主義的な人々からその預言者とみなされる傾向がある。これにはおそらく母方のプライスヴェルク家が霊能者の家系として著名だった出自も影響していると思われる。また「集合的無意識」や「元型」などの一般の生物学の知見とは相容れない概念を提起することによって、20世紀の科学から離脱して19世紀の自然哲学に逆戻りしてしまったという批判がある。[28]。またフロイトもユングとまだ訣別する前に、「オカルティズム」を拒絶するよう強く求めた[29]

一方で、ユング自身は、夢に見られる元型に関して、遺伝に関連づけて言及していたくだりがある(『分析心理学』)。無意識に蓄えられている遺伝情報は莫大であり、人の心性がそれを基礎にしているからには、その生み出すものも、その起源をはるか過去に遡ることができるとする解釈も可能であり、遺伝情報内の大量の経験データの中には、人に平均して訪れる体験の体系も含まれていると考えた場合、元型の普遍性も説明できるであろう。また、そうした無意識内容を生み出す傾向、というユングの説明の付与は、人間が普遍的な基盤に立脚しながらも、決して固定された構造ではなく(これが生物学的な本能にしばられた動物と違う点である)、変化の可能性を秘めていることを示唆している。無意識と意識の調停作業はユングの言う「個体化」に結実する。

ただし19世紀末から20世紀初頭の状況は、一方では精神医学を極めて機能主義的に捉えることのみが科学的であり「心の治癒」といったものを語ることは出来ないという流れがあった一方で、アカデミズム以外でオカルティズムの大流行があったのみならず、ウィリアム・ジェームズのような学者も心霊主義の実験に乗り出すなど、心の問題に関するアプローチは現在以上に定まらないところもあった[30]。こうした問題に関してユングに批判的であったフロイトも、そもそも性理論を打ち立てるのはオカルトの「黒い奔流」に対する「堅固な城塞」を築かねばならないからだという動機を口にしており[31]、こうした問題に必ずしも安定した姿勢で臨んだばかりいたわけではなかった。またユング自身はきわめて厳格に学問的な方法論を意識して研究を進めていたという主張もあり[32]、こうした点について決定的な評価を下すことはまだ難しいといえる。

しかしながら、オカルトはユングの研究対象であったのか、それともユングの心理学そのものがオカルトであったのか、ということは、しばしば誤解を生んでおり、峻別しなければならない問題であろう。

著作

ユングの著作は、『ユング全集』にほぼ全ての重要な論文(単行本を含む)が網羅されている。全20巻の構成となっている。ドイツにおいて『Gesammelte Werke von C. G. Jung』 (Walter Verlag) として出版されている(「GW」 と略する)。英語版は、ユングの監修の元に翻訳が行われている(『 The Collected Works of C. G. Jung 』)。 代表的な著作としては、以下のものがある。

  • 『転換のシンボル』 Symbole der Wandlung, 1912, /1950, GW Bd.5.
  • 『心理学的類型』 Psychologische Typen, 1921/1950, GW Bd.6.
  • 『心理学と宗教』 Psychologie und Religion, 1940/1962 (GW Bd.11).
  • 『アイオーン』 Aion, 1950, GW Bd.5-2.
  • 『心理学と錬金術』 Psychologie und Alchemie, 1944/1952, GW Bd.12.
  • 『ヨブへの答え』 Antworf auf Hiob, 1952/1967 (GW Bd.11).
  • 『結合の神秘』 Mysterium Coniunctionis, 1955/1956, GW Bd.14.

ユングが登場するフィクション

映画
テレビドラマ
コンピュータゲーム
小説

参考文献

  • C.Gユング 『ユング自伝 1―思い出・夢・思想―』 ヤッフェ編、河合隼雄藤縄昭・出井淑子 共訳、みすず書房 、1972。ISBN 4622023296
  • C.Gユング 『ユング自伝 2―思い出・夢・思想―』 ヤッフェ編、河合隼雄藤縄昭・出井淑子 共訳、みすず書房 、1973。ISBN 462202330X
  • C.G.Jung , R.F.C.Hull(trans.),'Symbols of Transformation',Princeton/Bollingen Paperback
  • C.Gユング 『自我と無意識の関係』 野田倬(あきら)訳、人文書院、1982年。 ISBN 4-409-33010-1
  • C.Gユング 『現在と未来 ユングの文明論』 松代洋一編訳、平凡社ライブラリー、1996年。ISBN 4-582-76171-2
  • C.Gユング 『創造する無意識 ユングの文芸論』 松代洋一編訳、平凡社ライブラリー、1996年。ISBN 4-582-76140-2

脚注

  1. 山中康裕(編)、2001、「ユングの思想と生涯」、『ユング』、講談社〈講談社選書メチエ〉 pp. p.12
  2. 山中康裕(編)、2001、「ユングの思想と生涯」、『ユング』、講談社〈講談社選書メチエ〉 pp. p.34
  3. ゲルハルト・ヴェーア、村本詔司(訳)、1994、「発端と系譜」、『ユング伝』、創元社 pp. p.13
  4. 山中康裕(編)、2001、「ユングの思想と生涯」、『ユング』、講談社〈講談社選書メチエ〉 pp. p.35
  5. ゲルハルト・ヴェーア、村本詔司(訳)、1994、「ジークムント・フロイト:「現実的に意味を持つ最初の男」」、『ユング伝』、創元社 pp. p.80
  6. 山中康裕(編)、2001、「ユングの思想と生涯」、『ユング』、講談社〈講談社選書メチエ〉 pp. p.38
  7. ザビーネ・リッヒェベッヒャー、田中ひかる(訳)、2009、『ザビーナ・シュピールラインの悲劇』、岩波書店
  8. ゲルハルト・ヴェーア、村本詔司(訳)、1994、「避けられない決裂」、『ユング伝』、創元社 pp. p.107
  9. ゲルハルト・ヴェーア、村本詔司(訳)、1994、「避けられない決裂」、『ユング伝』、創元社 pp. p.131
  10. ゲルハルト・ヴェーア、村本詔司(訳)、1994、「「夜の航海」―無意識との対決」、『ユング伝』、創元社 pp. p.138
  11. ゲルハルト・ヴェーア、村本詔司(訳)、1994、「塔と旅の建設」、『ユング伝』、創元社 pp. p.189
  12. 河合隼雄、1994、「分析心理学の確立」、『ユングの生涯』、第三文明社 pp. p.137
  13. 河合隼雄、1994、「分析心理学の確立」、『ユングの生涯』、第三文明社 pp. pp.137-139
  14. ゲルハルト・ヴェーア、村本詔司(訳)、1994、「塔と旅の建設」、『ユング伝』、創元社 pp. p.185
  15. 河合隼雄、1994、「ユングと曼荼羅」、『ユングの生涯』、第三文明社 pp. pp.111-112
  16. 河合隼雄、1994、「発展と深化」、『ユングの生涯』、第三文明社 pp. pp.148-150
  17. ゲルハルト・ヴェーア、村本詔司(訳)、1994、「エラノス--世界の臍」、『ユング伝』、創元社 pp. p.224
  18. 河合隼雄、1994、「晩年」、『ユングの生涯』、第三文明社 pp. pp.180-181
  19. 『人間と象徴 (上)』序文 河合隼雄監訳 河出書房新社、1975年
  20. ユング著「リビドーの変容と象徴」(1912)にフロイトは難色を示したが、ユングは学問的な視野の拡大化をはかる意味合いを著書に持たせていた。
  21. 面白いほどよくわかる現代思想のすべて29頁
  22. 1906年4月から1913年の訣別まで、約360通の書簡が、『フロイト=ユンク往復書簡』(上・下、金森誠也訳、講談社学術文庫、2007年)で訳されている。
  23. エレンベルガー、1980年、下、308頁。
  24. ただし、これに関してはフロイトに「敵の援助を受けることは出来ない」と拒まれている。
  25. 以上の記述は、河合隼雄『ユングの生涯』第三文明社レグルス文庫100、1978年、pp.52-56に基づく。ヤッフェの評論については平田武靖「ユンク心理学の系譜 -ユンク・ナチス・ユダヤ人-」、『is No.1』ポーラ文化研究所、1978年で紹介されている。
  26. C.Gユング『自我と無意識の関係』、人文書院、p.51,52以下。原文は1928年発表された。
  27. C.G.ユング『ヴォータン』、1936。ヒトラーに関して、扇動される群衆および扇動者自身の熱狂を指摘し、事態の危険性をユングは警告している。
  28. リチャード・ノル 1998:201-2,382-3,415-7頁
  29. 『ユング自伝』1、みすず書房、1972年、p.127。
  30. 上山1989:483,488-491頁。
  31. 『ユング自伝』。
  32. 林道義『ユング思想の真髄』朝日新聞社、1998年。

関連項目