グループB

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グループBは、自動車レースに使用する競技車両のカテゴリーの1つ。1981年FIA(国際自動車連盟)の下部組織だったFISA(国際自動車スポーツ連盟)によって、それまで1から8の数字によって形成されていたレギュレーション(国際自動車競技規則・付則J項)を改定し、AからF・N・Tという8つのアルファベットへ簡略化されたものの1つである。

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モンテカルロ・ラリー1986年
ファイル:Juha Kankkunen - Peugeot 205 Turbo 16 (1986 Rallye Sanremo).jpg
1986年ラリー・サンレモでプジョー205T16E2をドライブするユハ・カンクネン

グループB車両は、それまでのグループ4の後継にあたるカテゴリーである。競技専用の自動車であるグループC車両とは異なり、一般の市販車として公認されたベース車両に、大幅な改造を施せるものがグループB車両である。

概要

グループBは、WRC(世界ラリー選手権)のトップカテゴリーとして定められていた。1982年は移行期間としての試験導入が行われ、この年は新旧両レギュレーショングループが入り混じって選手権を競った。グループBが全面施行されたのは1983年からである。

分類上の定義はグランドツーリングカー。また排気量によって1300cc未満はB9、1300cc以上1600cc未満はB10、1600cc以上2000cc未満はB11、2000cc以上はB12(過給器付は×1.4した数を適用)と分けられていた。

グループBでは、連続する12か月間に200台製造された車両がホモロゲーション(公認)の対象となる。これは従来のWRCのトップカテゴリーであったグループ4規定が連続する24か月間に400台生産することを義務付けていたことを考えると、マニュファクチャラーへの大幅な負担軽減措置である。FISAによるこれらの規定変更は、1970年代の石油危機を契機に選手権参戦から遠ざかりつつあった各マニュファクチャラーに対して選手権への参戦を促す措置であったが、FISAの当初の目論見通り、各マニュファクチャラーがこぞってWRCに参戦することとなる。

後に「ワークスカーとして選手権に参戦する車両となるエボリューションモデル20台をラリーカーとして認める」という文章が追加され、この規定を最大限広くとらえた各社ワークス、特にトップクラスの技術を持つワークスの手により、グループBでの選手権は実質限りなくプロトタイプスポーツカーに近い車両で行なわれることとなった。

また、グループBはサーキットレースであるWEC(世界耐久選手権)にも参戦出来た。グループCとの混走となる為、目立った成績は残せていない。

グループBカーが活躍した当時のWRC史

1982年

グループ4とグループBの混走となった移行期間の1982年シーズンの台風の目となったのは、WRCの世界にヨーロッパメーカーとしては初めてターボ過給エンジンと4WDを持ち込んだアウディ・クワトロであった。4WD車といえばジープのような、不整地用の特殊車両というイメージしかなかった当時、アウディは乗用タイプの4WD車をラリーの世界に持ち込んできた。アウディ・クワトロはグラベル(未舗装路)・アイスバーンでは圧倒的な強さを見せつけ、ハンヌ・ミッコラミシェル・ムートンスティグ・ブロンクビストのドライブで快進撃を見せた。 特にミシェル・ムートンはこの年、ポルトガルラリーアクロポリスラリー、ブラジルラリーで3勝を挙げ、ドライバーズタイトルにもあと1歩という好成績を挙げた。 なお、モータースポーツの世界選手権で女性ドライバーとして優勝経験があるのは、現在においても彼女だけである。

この混沌とした移行期間を制したのは、マニュファクチャラーは4WD革命を引き起こしたアウディだったが、ドライバーはグループ4車両のオペル・アスコナ400を駆るヴァルター・ロールと、混走の年を象徴する結果となった。一方ランチアはいち早くグループB規定に合致させたランチア・ラリー037を投入した。

1983年

真の意味でのグループB元年である1983年シーズンは、ランチアはアウディに対抗すべくドライバーに前年の世界チャンピオンであるヴァルター・ロールのほか、マルク・アレンアッテリオ・ベッデガを起用し、アウディ・クワトロに挑んだ。1983年はアウディ・クワトロとランチア・ラリー037の一騎討ちとなる。この年、ランチアチームとアウディチームはそれぞれ5勝を挙げ、文字通り互角の戦いを見せるが、わずか2ポイント差でマニュファクチャラーズタイトルはランチアが手中にした。ドライバーズタイトルはアウディのハンヌ・ミッコラが獲得し、まさに互角のシーズンを締めくくった。

1984年

グループBの大きな転換期と言えるのが1984年シーズンだった。1983年-1984年のオフシーズンにランチアのエースドライバーであるヴァルター・ロールは、もはや後輪駆動では勝負にならないと判断し、ライバルのアウディに移籍して周囲を驚かせた。前年はアウディ・クワトロと互角の戦いを演じたランチア・ラリー037であったが、熟成の進んだアウディの前には勝負にならず、序盤はアウディの独擅場であった。この年、ランチア・ラリー037はわずかにフルターマック(競技区間のすべてが舗装されているラリー)のツール・ド・コルスの1勝にとどまる。

アウディは順調に勝ち星を積み上げ、この年のマニュファクチャラーズタイトル、スティグ・ブロンクビストのドライバーズタイトルをシーズン半ばにしてほぼ決めてしまう。ツール・ド・コルスには進化型のショートホイールベースを有するアウディ・スポーツ・クワトロを投入し、もはやアウディにはラリーの世界では敵無しと思われたが、ツール・ド・コルスには新たなエントラントが名を連ねていた。

プジョー1985年シーズンから完全参戦を目指して送り込んできたのは、革新的なレイアウトを有するプジョー・205ターボ16であった。外見こそは1983年に発表された市販車であるプジョー・205の形をしていたが、ターボで過給されたエンジンをリアミッドシップに横置きし、車体はセミパイプフレームとケブラー樹脂で構成され、駆動は4WDと、全く別物の怪物マシンであった。初参戦となったツール・ド・コルスは、水溜りに足をすくわれてリタイヤするまでトップを快走し、周囲を驚かせた。ドライバーに1981年の世界チャンピオンであるアリ・バタネンを起用したが、1984年シーズンは途中参戦ということもあり、データ収集のためのテスト参戦であった。しかし、バタネンは1000湖ラリーサンレモラリーRACラリーとシーズン後半を3連勝し、それまで圧倒的な強さを誇っていたアウディを全く寄せ付けなかった。

1985年

1985年は、前年後半に快進撃を見せたプジョーが圧倒的な強さを見せて、シーズンを制した年であり、同時にグループBの危険性が表面化し始めた年でもあった。この年、プジョー・205ターボ16は7勝を挙げて早々にチャンピオンシップを獲得し、ドライバーズタイトルも日産から移籍してきたティモ・サロネンが5勝を挙げて獲得。WRCを完全制覇した。

この年からワークスカーのエンジン出力が、従来の300馬力前後から450から600馬力前後までにパワーアップし、空力特性を上げるためのさまざまなエアロパーツが付加されるようになり、まさに戦闘機という形容がふさわしいいでたちとなっていく。1トンそこそこの車重に対し、450から600馬力のパワーを持ったモンスターマシンが、あらゆる条件のコースを轟音を響かせて疾走する様は、観客を熱狂の渦に巻き込んでいく。しかし、同時に速さのみを追求していったグループBカーは制御不能の領域に陥り、数々の悲劇を生み出すこととなる。

第5戦ツール・ド・コルスではアッテリオ・ベッデガの運転するランチア・ラリー037が立ち木に激突し、ベッテガが死亡。第8戦のアルゼンチンラリーではバタネンが直線でコントロールを失い大クラッシュ、再起不能ともいわれた瀕死の重傷を負ってしまう。相次ぐ重大事故が起きたにもかかわらず、グループBカーの危険性を指摘する声は表には出ず、熱狂的な観客たちの支持もあり、発展していくWRCの象徴としてグループBはさらに先鋭化していく。

この年の最終戦、RACラリーにはようやくホモロゲーションが認められたランチアが必勝を期してランチア・デルタS4を投入した。ツインチャージドエンジンをリアミッドシップに縦置きし、4輪を駆動する。プジョーが量販車に似た姿にすることを重要課題としていたのに対し、量販車とは名前以外ほとんど似てもいない、もはや勝つための装備が単に満載された異形のマシンであった。デビュー戦でデルタS4は圧倒的なパフォーマンスを見せ、ヘンリ・トイボネン、マルク・アレンのドライブで1-2フィニッシュを飾った。

1986年

前年最終戦で圧倒的な勝ち方を収めたランチア・デルタS4は、開幕戦のモンテカルロラリーでもヘンリ・トイヴォネンが勝利し、誰もが1986年はランチアの年であると確信した。しかし、プジョーも翌戦のスウェディッシュラリーではプジョー・205ターボ16を駆るユハ・カンクネンが制し、前年チャンピオンとしての粘りを見せる。序盤2戦は、両車全く譲らない互角の滑り出しで、シーズンはランチア対プジョーの一騎討ちとなった。

しかし、第3戦のポルトガルラリーでまたもやグループBカーが関係する惨事が発生する。地元からフォード・RS200にてワークス参戦していたヨアキム・サントスが、コース上の観客を避けようとして観客席に時速200キロメートルで突っ込み、死者3名(一説には4名)を含む40人以上の死傷者を出す大惨事を引き起こした。ベッテガの事故死、バタネンの重傷事故、そして大勢の観客を死傷させる大惨事という警鐘があったにもかかわらず、関係者は主催者側の観客整理規則のまずさに事態の責任を求め、グループBカーの性能の暴走を認めなかった。結局ポルトガルラリーは全マニュファクチャラーが競技から撤退し、残りの日程はプライベーターのみで争われる異常事態となった。

そして、第5戦のツール・ド・コルスで決定的な事故が発生する。初日からトップを独走していたトイヴォネンが緩い左コーナーにノーブレーキで突っ込みコースオフ、崖から転落した直後に爆発炎上。トイヴォネンはコ・ドライバーセルジオ・クレストとともに死亡した。ランチア・デルタS4はボディ下部に燃料タンクがあることと、マグネシウムホイールを装着していたことなどから、車両はスペースフレームとサスペンションを残して全焼するという凄惨さであった。このトイヴォネンとクレストの死により、グループBカーそのものが危険だという事実は誰の目から見ても明らかとなった。

トイヴォネン/クレスト組の死亡事故を受け、FISAは緊急に会議を招集し2日という異例のスピードで声明を発表、以後のグループBのホモロゲーション申請を受け付けないこと、1986年限りでグループBによるWRCは中止し1987年以降は下位カテゴリーであるグループAにて選手権を行うと決定。よってグループBは、わずか5年でWRCの主役の座を追われることとなった。

ランチアはエースドライバーのトイヴォネンを失ったためか開幕当初の勢いを失い、この年わずか3勝するにとどまり、6勝を挙げたプジョーにマニュファクチャラーズタイトルを奪われてしまう。一方、ドライバーズタイトルは、ランチアのマルク・アレンとプジョーのカンクネンが最終戦オリンパスラリーにまでもつれるほどの激戦を繰り広げ、1度はアレンが手中にした。しかし、第10戦のサンレモラリーでの決定(プジョー・205ターボ16のレギュレーション違反による失格)に対し、プジョー側が無効を主張し提訴をしていた。これに対するFISAの裁定は「プジョーの失格を無効にし、それに伴いサンレモのレース結果を無効とする」というものであった。かくして、最終戦後11日にしてアレンとカンクネンの順位は入れ替わり、カンクネンが初タイトルを獲得した。

1987年以降

選手権から締め出されたグループBカーではあるが、プライベーター達の抗議もあり、下位クラスの車両は選手権ポイント対象外ながら出走できた。グループB・クラス10のシトロエン・ヴィザ・ミルピストは1987年シーズンのヨーロッパ戦のほとんどに出走し、開幕戦モンテカルロでは総合7位という結果を残している。これらの低馬力の「スモール」グループBカー達は、ホモロゲーションが切れる1990年代初頭までプライベーターの手により主にヨーロッパのラリーで姿を見ることができた。一方、プジョー・205ターボ16はホイールベースなどの改造を施されパリ・ダカール・ラリーに参戦、バタネンとカンクネンの活躍で2勝を挙げた。

また、アメリカで行われるパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムに、参加車両に対する制限が無いアンリミテッドクラスが存在する為、現在でもプライベーターがかつてのグループBカーで参加している。かつてはワークス体制で出走したグループBカーも多く、プジョーやアウディなどが活躍した。

競技で使用できなくなった後は行方知れずになった車も多いが、ワークス(の母体となっているメーカー)で僅かに保管されている他、コレクターの手に渡り、ファンイベントでの展示やパフォーマンスなどに用いられている車両もある(中にはデルタS4等のように日本のナンバーを取得したものもある)。

グループBカーに残された逸話

軽量なものは1トンを切る車体で、強力なエンジン、強力なダウンフォースを生む空力性能を生かしてグラベルやターマックを疾走する様は、残された映像でも当時の激しい競争をうかがい知ることができる。その加速力は0-100km/h加速を1.7秒-2.5秒でこなすほどであったとされている。これは1,000馬力とも言われた当時のF1カーをも凌いだと言われる[1]なお、この加速性能はポルシェ・962Cヘネシー・ヴェノム1000の持つ1.7秒台という記録に並ぶ記録である。
1986年にヘンリ・トイヴォネンが、F1モナコGPが開催されるモンテカルロ市街地コースをランチア・デルタS4でエキシビジョン走行した際には、当時の予選グリッドで6位に相当するタイムを出したという逸話があるが、実際にはトイヴォネンが1982年にF1マシン(マーチ・821)に乗ってシルバーストン・サーキットで出したタイムが、デルタS4でモンテカルロで出されたと勘違いされたという誤解に過ぎない。

大型空力パーツを装着した軽量の車体に強力なエンジンを搭載した車両が公道を疾走する姿は『公道を走るF1』と形容された。

グループBの主な車種

参戦が少なかった車両・参戦しなかった車両

生産の用意はあった、または生産されたがホモロゲーション取得には至らなかった車両

  • オペル・カデット400(マンタ400の後継車として、カデットDをベースに開発。ベース車は横置きエンジンのFFだが、こちらは縦置きエンジンのFR)
  • オペル・カデットラリー4x4(カデットEをベースに、エンジンをフロントに搭載したまま縦置き化した4WDモデル)
  • ポルシェ・959(生産されたのは申請受付停止後であったためグループBのホモロゲーションは取得しておらず、ダカール・ラリーに参戦。またレース用改造を施した車両が961の名でIMSA-GTXクラスでル・マン24時間レースに参戦。)
  • 三菱・スタリオン4WDラリー(WRC未参戦だがプロトタイプクラスで参戦した)
  • トヨタ・222D(MR2ベースの4WD車。正式名称は不明。数台作られたが開発途中にグループSに変更、その後グループBが消滅したため公認も取れず実戦経験無し。)
  • アウディ・ミッドシップクワトロ(フロントエンジンであるこれまでのクワトロをミッドエンジンに改修、後年発覚するグループSマシンと並行しテストされていたが、実戦投入はされなかったテストベッド。)

脚注

  1. F1カーの低回転域のトルクは非常に薄く、停止状態からの加速性能は優れていなかった。なお現代の世界ラリークロス選手権のスーパーカークラスのマシンも、0-100を1.9秒と今のF1マシンと同等のタイムを記録する

関連項目