ゲルマン人

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ファイル:Europa Germanen 50 n Chr.svg
1世紀のゲルマニアスエビ人(おそらくケルト系が主)やヴァンダル人(おそらくスラヴ系が主)など、母語ゲルマン語派の言語かどうかが怪しまれている民族も含まれている。

ゲルマン人(ゲルマンじん、ドイツ語:Germanen)は、現在のドイツ北部・デンマークスカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を母語とする諸部族民族[1]先史時代歴史時代初めのゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人[1]、または古ゲルマン人と呼ぶ[2]。原始ゲルマン人は中世初期に再編されゲルマン民族となり[1]4世紀以降フン人の西進によって、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国して、フランクヴァンダル東ゴート西ゴートランゴバルドなどの新しい部族が形成された[2]

原始ゲルマン人は現在のデンマーク人スウェーデン人ノルウェー人アイスランド人アングロ・サクソン人オランダ人ドイツ人などの祖先となった[2]アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人サクソン人ジュート人フリース人がいた[3]

初出

ゲルマンという語が文献上最初にあらわれるのは前80年ころギリシアの歴史家ポセイドニオスの記録であり、前2世紀末におけるゲルマンの小部族キンブリ族Cimbriとテウトニ族Teutoniのガリア侵寇について書かれた[4]。なお、紀元前4世紀末にマッシリアのギリシア人航海者ピュテアスがノルウェーやユトランド半島の民族について書いているが、ゲルマンという呼称は使われていない[4]

ゲルマン人の社会と政治

ゲルマン人の記録として重要なのは、カエサルの紀元前50年頃の『ガリア戦記』やタキトゥスの紀元100年頃の『ゲルマニア』である[3]。 これらによれば、

  • ゲルマン人は定着農耕と牧畜を営んでいた[2]
  • 階層的には自由人、半自由人、奴隷に分かれ、自由人の上層部は政治的特権と豪族層を形成した[2]。彼らはローマ人達がキーウィタースと見做した政治単位に分かれ、それはさらにパーグス(村落共同体)に分かれていた[2]。キーウィタースの上にゲンス(部族)があったが、タキトゥスの時代にはこれは祭祀団体であった[2]世襲王制をとるキーウィタースと、民会で選出されるプリンケップスに統治されるキーウィタースとがあり、政治権力の集中化も相当進んでいた[2]

原住地

原住地紀元前2000年紀中葉にユトランド半島、北ドイツ、スカンジナビア半島の中南部といわれる[2]

紀元前1000年紀中葉ないし紀元前3世紀までには西はオランダからライン川下流域、東はヴィスワ川流域、ドナウ川北岸、ドニエプル川下流域まで広がり、北ゲルマン、西ゲルマン、東ゲルマンの3つのグループを形成した[2]

生物学的要素

「ゲルマン系」ないし「ゲルマン人」とは民族的な概念であるため、直接的に生物学的な特徴は関連しない。ゲルマン人の場合はいわゆる「北方人種白人」と結び付けられることが多いが、「ゲルマニア」と呼ばれた土地のうち、中部・南部ドイツはむしろアルプス人種東ヨーロッパ人種などの影響が指摘されており、遺伝子的にも北欧よりイタリアフランススペインなど南欧との親和性が強い。反面、北部ドイツの住人は北欧人と近く、特にバルト海に面する地域は極めて近似しているが、内陸部では東ヨーロッパとの近隣性は無視できない。

現在のゲルマン系民族のY染色体ハプログループハプログループI1 (Y染色体)ハプログループR1a (Y染色体)ハプログループR1b (Y染色体) に大別される。このうちゲルマン語派本来の担い手はR1bの下位系統R1b-U106と想定される。Iは欧州最古層のタイプであり、サブグループのI1が北欧で高頻度である。I1系統が金髪碧眼の発祥であると考えられ、ゲルマン人特有の外見的特徴をもたらした系統であると想定される。

諸部族

大部族のスエービーはエルベ川の下流域に生息し、のちに一つの集団はライン川上流のドイツ南西部マインツ付近に定住し、もう一つの集団はボヘミア平原に定住した[3]。カエサルとの戦争に敗北したアリオウィスト率いるスエービーの一部は、セムノーネースを中心としたアレマンネンに参加し、のちにフランク王国に併合された[3]。スエービーの名前はシュヴァーベンとして残っている[3]。別の一部はスペインでスエービー王国を作るが滅亡した[3]。スペイン語やフランス語ではドイツ人はAlemania、Allemagneというがこれはアレマン人に由来する[3]

南部のスエービーの主力部分はボヘミアへ移住し、6世紀頃までにマルコマンネン人が住んでいたドイツ南東部からオーストリアに移住し、バイエルンと呼ばれた[3]

ユトランド半島にいたキンブリーとテウトニーは紀元前100年頃にイタリアへ侵攻したが、ローマ軍に撃退された[3]。また、彼らはケルト系のボイイー地域へ移住した[3]。キンブリーとテウトニーの後裔にはアトゥアートゥキーがいる[3]

このほか、ハルーデース、マルコマンニー、トゥリボキー、ウァンギオネース、ネメーテースなどがいた[3]

紀元100年頃にはインガエウォネース、イスタエウォネース、ヘルミノネースの3つの種族に分かれていた[3]

  • インガエウォネース:北海沿岸。アングル、サクソン、フリージアンをふくむ。
  • イスタエウォネース:エルベ川流域。
  • ヘルミノネース:その他。

タキトゥスの時代から大移動までの300年の間連続性を保っていた部族は、

  • ワンディリイー(ヴァンダル
  • フリースィイー(フリージアン
  • スエービー
  • ランゴバルディー(ランゴバルド)
  • アングリイー(アングル)
  • エウドセース(ジュート)
  • マルコマンニー(マルコマンネン)
  • クァディー
  • ゴトーネース(ゴート)
  • ルギイー
  • スイーオネース(スウェーデン)

などである[3]

ゲルマン諸部族については『ベーオウルフ』『ウィードスィース』にも記録がある[3]

歴史

先史時代

ファイル:I1a europe.jpg
Y染色体ハプログループI1aの分布図。北欧イギリスバルト海沿岸部に広がっており、西欧では北部ドイツやフランス大西洋沿岸部より南にはあまり存在しない。

ゲルマン人は血統的には非印欧語系スカンディナヴィア原住民、球状アンフォラ文化の担い手など様々な混血である。ゲルマン語をもたらした集団の源流はヤムナ文化より分化し、バルカン半島、中央ヨーロッパを経由し、スカンディナヴィア半島南部にやってきた集団(ケルト語イタリック語の担い手と近縁)という説、戦斧文化の担い手でありバルト・スラブ語派に近縁という説、あるいはその混合であるとの説[5]がある。ゲルマン人は紀元前750年ごろから移動を始め、紀元前5世紀頃にゲルマン祖語が成立、その語西ゲルマン語群東ゲルマン語群北ゲルマン語群に分化した。

ゲルマン民族の大移動

ファイル:Germanic tribes (750BC-1AD).png
ゲルマン民族の大移動の推移;紀元前750年-1年[6]:
  • :移動前 紀元前750年
  • :紀元前500年
  • :紀元前250年
  • :1年

375年フン族に押されてゲルマン人の一派であるゴート族が南下し、ローマ帝国領を脅かしたことが大移動の始まりとされる。その後、多数のゲルマニア出身の民族が南下をくり返しローマ帝国領に侵入した。移動は侵略的であったり平和的に行われたりしたが、原因として他民族の圧迫や気候変動、それらに伴う経済構造の変化があげられている。

この後すぐに西ローマ帝国において西ローマ皇帝による支配体制が崩壊したため西方正帝廃止と民族大移動との関連性が考えられる。フン族の侵攻を食い止めたのがローマの支配を受け入れて傭兵となっていたゲルマン人であったように、帝政末期の西ローマ帝国が実質的にはゲルマン系将軍によって支えられていた実情や、西ローマ帝国のローマ人がギリシャ人(東ローマ帝国)の支配から逃れるためにゲルマン人の力を借りて西方正帝を廃止した事情なども考慮すると、今日におけるヨーロッパ世界の成立における意義は大きいと思われる。また、最近の研究では正帝廃止後の西欧における西ローマ帝国の連続性が注目されている。西ローマ帝国に発生したゲルマン王国の住人や王宮高官は、そのほとんどが皇帝統治時代からのローマ系住人のままであり、例外的にゲルマン化が進んだとされるフランク王国においてすら住民の8割はローマ人であった。フランク王国において宮廷人事に占めるローマ人の割合が半数を下回るようになるのは、8世紀末のカール大帝の時代になってからのことである。

ゴート人などの東側のゲルマン人は、ローマ人などに同化されたが、後発の西側のゲルマン人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。なお北方系ゲルマン人(ノルマン人)は大移動時代にはデーン人ユトランド半島まで進出した程度である。

この後も、ヨーロッパにはスラヴ人マジャール人ハンガリー人)といった民族が押し寄せ、現在のヨーロッパの諸民族が形成されていくことになる。

年表

ゲルマン部族の一覧

ゲルマン語派として分類される語派は東ゲルマン、北ゲルマン、西ゲルマンの三つに分類される。東ゲルマン語はすでに死滅している(ゲルマン語派参照)。

古代ギリシャ時代にはゲルマンという概念はそもそも存在せず、スキタイ諸族とケルト諸族に大別されていた。後のローマ時代には概ねオーデル・ヴィストゥラ諸族、ライン諸族、エルベ諸族、ジャトランド・デニッシュ諸族の四つに分類された。オーデル・ヴィストゥラ諸族は今日、東方ゲルマンと呼ばれるグループに相当し、タキトゥスによると、ここにはゲルマーニア人の言語と似ているが果たしてローマ人の知るゲルマーニア人と同種の言語として分類すべきか迷う部族もかなりいることを記しており、現代で言うところのスラヴ語派の古い言語を話していたと推定される部族がいたことを暗示している。残りの三族が西方ゲルマンと呼ばれるもので、移住せずにスカンディナヴィアに残った人々を北方ゲルマンとしている。またタキトゥスはバルト海沿岸部の諸民族が共通した文化を持つスエビ諸族であると主張したが、タキトゥスは「スエビ」が具体的にどのような共通文化を持つのか明言しておらず、実際に文化の連続性があったのか疑問が持たれている。歴史学者のアーサー・ポメロイは「(タキトゥスが)スエビとした複数の集団には全く共通性がない訳ではないが、それ以上に文化や言語で明確に異なる部分がある」と指摘しており、現代の歴史学および考古学ではバルト海沿岸部の住人は複数の民族に分かれるとする見解が一般的である。

古代から中世への過渡期には多数の蛮族がそれまで未開とされていた地域からローマへと侵入を開始した為、ローマ側の混乱や蛮族側の離合集散の中で一層に分類は乱れた。今日では明確にインド・イラン語派の集団と判明しているアラン人サルマタイ人の一部)がゲルマン人とされていた事がこれを物語っている。

東方ゲルマン

西方ゲルマン

北海

バルト海

エルベ川

ヴェーザー川・ライン川

フランク人の中核となり、一部はザクセン人に吸収された。

北方ゲルマン

ヴァイキングとして各地に進出した。

系統不明

  • スエビ人タキトゥスが存在を主張した集団。上述の通り、今日では適当な分類法ではないと考えられる(カッシウス・ディオは古くはケルト人であったと主張している)。
  • ロンバルド人(ランゴバルド人) ※ランゴバルド史では、今日のデンマークの北方、スカンディナヴィア半島から移住して来たと記されている。
  • ユート人(ジュート人) ※現在のデンマークからイギリスに移動し、アングロサクソン人と同化した。英国人とユダヤ人を同祖とみなす空想的な人々は、このユート人を、イスラエルの失われた10支族の末裔と考えた。スキタイ系との説もある。
    • アングロサクソン人に近縁として西方ゲルマンに含める場合が多いが、既にスウェーデン方面から来住していたデーン系に圧迫される過程で混血もみられたと考えられる。
  • フランク人 西方ゲルマンに分類されるが、厳密には民族ではない。
    • ウェーザー・ラインゲルマンの諸部族を主体とし、アングロサクソン近縁の北海ゲルマンなど他のゲルマン諸族、ラテン系ケルト系の在来住民、スキタイ人やアラン人サルマタイ)など様々な種族が参加した一種の連合政権であった。
    • 現在の大陸ゲルマン語(ドイツ語・オランダ語)の「フランク」諸方言も基本的にウェーザー・ラインゲルマン系ではあるが、低地方言(オランダ語)には北海ゲルマンの、高地方言(バイエルン州北部など)にはエルベゲルマンの要素が見られる。

歴史言語学で明らかになっていることであるが、ゲルマン祖語の成立(グリムの法則の普及時期)は古くとも紀元前5世紀以降で、ヤストルフ文化時代(紀元前7世紀〜紀元前1世紀)のうちのヤストルフ期(紀元前7世紀〜紀元前4世紀)の晩期あるいはリプドルフ期(前4世紀〜前150ごろ)の初期と考えられ、他のヨーロッパ諸言語の成立時期と比較するとかなり浅い。すなわちゲルマン語派の集団がローマ人と接触を始めた時代ではその語派の成立からほんの数世紀しか経っていない。そのためキンブリ・テウトニ戦争からマルコマンニ戦争の時代のゲルマン語派の諸部族は未だ主にゲルマーニア西北部一帯の狭い地域に留まっていたと考えられる。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 百科事典マイペディア平凡社
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 2.9 日本大百科全書(ニッポニカ)「ゲルマン人」平城照介
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 3.14 岩谷道夫「スエービーとアレマンネン」法政大学キャリアデザイン学部、2004
  4. 4.0 4.1 世界大百科事典 第2版平凡社
  5. Eupedia
  6. ペンギン世界歴史地図帳1988から引用

参考文献

  • 『ドイツ史』 木村靖二編、山川出版社〈新版世界各国史 13〉、2001-08。ISBN 978-4-634-41430-3。
  • 藤川隆男ほか 『白人とは何か? - ホワイトネス・スタディーズ入門』 藤川隆男編、刀水書房〈刀水歴史全書 73〉、2005-10。ISBN 978-4-88708-346-2。
  • 岩谷道夫「スエービーとアレマンネン」法政大学キャリアデザイン学部、2004

関連書籍

関連項目