コンコルド

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コンコルド

コンコルドフランス語: Concorde)は、イギリスフランスが共同開発した超音速旅客機英語: SST; supersonic transport)。2003年に全機が退役した。

概要

ファイル:ConcordePrototype.JPG
コンコルドのプロトタイプ機

イギリスBACフランスシュド・アビアシオンなどが共同で開発した超音速旅客機。初飛行は1969年3月1日。原型機4機を含め、20機が製造された。

高度5万5,000から6万フィートという、通常の旅客機の飛行高度の2倍もの高度を、マッハ2.0で飛行した。定期国際運航路線に就航した唯一の超音速民間旅客機でもあった。

開発当時は世界各国のフラッグ・キャリアから発注があったものの、ソニックブームなどの環境問題オイルショック、開発の遅滞やそれに伴う価格の高騰、また大量輸送と低コスト化の流れを受けてその多くがキャンセルとなった。最終的にはエールフランス英国海外航空を継いだブリティッシュ・エアウェイズの2社のみによる運行に留まる。

2000年7月25日に発生した墜落事故2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロによって、低迷していた航空需要下での収益性改善が望めなくなった事で、2003年5月にエールフランス、同年10月24日にブリティッシュ・エアウェイズが営業飛行を終了、2003年11月26日ヒースロー空港着陸をもって全機が退役した。超音速飛行を追求した美しいデザインや、ほぼ唯一の超音速旅客機だったこともあり、現在でも根強い人気を持つ。

歴史

開発

ファイル:11.12.67 Présentation officielle du Concorde (1967) - 53Fi1788.jpg
コンコルドの初公開式典(1967年11月12日)
ファイル:02.03.69 1er vol de Concorde (1969) - 53Fi1931 - cropped.jpg
コンコルドの初飛行(1969年3月2日)
ファイル:Sud-BAC Concorde, British Aircraft Corporation - Aerospatiale France AN1804818.jpg
ヒースロー国際空港をタクシングするコンコルドのプロトタイプ機(1972年)

1950年代後半のデハビランド・コメットボーイング707などの大型ジェット旅客機の就航に次いで、各国が超音速旅客機開発競争にしのぎを削る中、イギリスはブリストル223、フランスはシュド シュペル・カラベルなどの超音速旅客機の研究を独自に行っていた。

しかし開発予算の削減や営業上の競合を避けることから、1962年に英仏両国はそれまで独自に行っていた開発を共同で行う方針に転換した。イギリスからはBAC、フランスからはシュド・アビアシオンが開発に参加した。

開発の主導権や名称などについて2国間での対立はあったものの、その後開発が進み、エールフランス英国海外航空パンアメリカン航空日本航空カンタス航空エア・カナダなど世界各国のフラッグ・キャリアから100機を超える注文が舞い込み、1967年11月12日にはフランスのツールーズで原型機が公開された。

1969年3月2日に原型機が初飛行に成功、同年10月1日には音速の壁を突破した。同時にアメリカ合衆国でも超音速旅客機の開発が行われ、ボーイングロッキードマクドネル・ダグラスなどによる提案が行われた結果、より高速、大型で可変翼を備えたボーイング2707の開発が進んでおり、同じくパンアメリカン航空や日本航空などからの注文受けていたが、その後開発がキャンセルされた。

またソビエト連邦でも、同国初の超音速旅客機であるツポレフTu-144の開発が行われ、1968年12月31日に初飛行し、1971年7月1日には量産型が初飛行したが、アエロフロート航空以外に発注する航空会社はなかった。

1972年に入ると、プロトタイプ機が発注を受けた日本やアメリカ合衆国、メキシコをはじめとする世界各国の主要空港をテストを兼ねて飛行したが、その後ソニックブームオイルショックによる燃料費高騰などを受けて、多くの航空会社が発注をキャンセルした。

なお、テスト飛行を重ねた結果、テールコーンや超音速飛行時のコクピット部分のキャノピーなどの形状変更などの改良がなされている。

就航

1976年1月21日から定期的な運航を開始し、この日にエールフランスパリ-ダカール-リオデジャネイロ線に、ブリティッシュ・エアウェイズロンドン-バーレーン線に就航させ、間もなく他の路線にも就航させた。

定期運航路線

エールフランス

ブリティッシュ・エアウェイズ

フラグシップ機

エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズのわずか2社により、十数機が限られた路線に使用されていたのみだが、高い人気を博したため、2社ともに両社のイメージリーダー兼フラグシップ機として各種広告に使用した。

両社ともに1クラスのみの設定とされたが、在来機種のファーストクラスの上のクラスと位置付けられた。就航先のパリやロンドン、ニューヨークの空港内に専用のラウンジとゲートを備えたほか、これらの空港では、関係当局の協力を受けて発着時に最優先権を与えられた。

またコンコルド専用の資格を持った客室乗務員による、コンコルド専用の機内食メニューや飲み物の提供。コンコルドの乗客専用の各種ギブアウェイや機内販売品の提供など、他の機種にはない特別なサービスが提供された。さらに高い人気を受けて、1990年代後半には、21世紀に入っても継続使用できるように最新のアビオニクスの導入や個人テレビの装着をはじめとする様々な近代化改修を行うことも検討された。

商業的失敗

ファイル:Air France Concorde; F-BVFF@GVA;09.09.1995 (6083478845).jpg
エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズのコンコルド
ファイル:Queen Elizabeth II and Prince Philip disembark from a British Airways Concorde.jpg
アメリカ合衆国テキサス州訪問にブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを使用したイギリスのエリザベス2世女王とエディンバラ公夫妻(1991年5月20日)

一時は上記のとおり世界中から受注したもののキャンセルが相次ぎ、製造は最終的には英仏の航空会社向けの量産16機(これ以外に原型機が4機)のみが行われたに過ぎず、商業的には失敗に終わった。開発当時は「250機で採算ラインに乗る」ともいわれたが、採算ラインに乗ることはなく1976年11月2日に製造中止が決定された。キャンセルされた、または不人気だった理由には以下のようなものがある。

  • 通常よりも長い滑走距離を必要とすること、またその騒音およびソニックブームの影響を避けるために航路や乗り入れ先を選ぶコンコルドは、限られた航路に就航できたにすぎなかった。さらに「ソニックブームを発生させるため」との理由でアメリカをはじめとするいくつかの国では、超音速飛行を海上でしか認めなかった。また、アメリカジョン・F・ケネディ国際空港への離着陸が認められるまでにも、環境保護団体との裁判による決着を要した。
  • 飛行距離が短いことに加えて上記の諸事情から、大西洋は飛び越せても途中給油無しでは太平洋を越えられず、西ヨーロッパやアメリカ本土から日本香港などへの無着陸直行便という、当時需要が伸びていた極東路線への就航ができなかった。
  • 乗客の定員が100人と少なく、運賃は他機種のファーストクラスの約20%増し[1]と高額であったため、乗客はごく限られていた。経済的にも収益が上がらない上、オイルショックによる燃料価格の高騰がこれに拍車をかけた。
  • 旅客機による飛行が、エグゼクティブ層向けから運賃が安くなることで大衆化するにつれ、航空業界はボーイング747のように低コストでかつ大量輸送が可能な機体を重視するようになった。なおボーイング747は、コンコルドやボーイング2707の就航後は貨物機に改修されたり、団体客用のチャーター便専用機になることが予想されていた。

これらの理由により、最終的にエールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの2社のみによる運行にとどまった上、1980年代後半以降は、競争が激しいロンドン発バーレーン経由のシンガポール線や、亜音速機による無着陸飛行が可能なパリ発のダカール経由のリオデジャネイロ線が運休し、需要と収益性が高い大西洋横断路線への定期運行に集約された。

これらの定期便は、飛行時間短縮を望む裕福な顧客を中心に利用されたほか、余剰機材も団体客向けのチャーター便や、英仏両国の政府専用機としてチャーターされた。

墜落事故

2000年7月25日エールフランス機(Model No.101、登録番号F-BTSC)がパリシャルル・ド・ゴール国際空港を離陸時に、滑走路上に落ちていたコンチネンタル航空マクドネル・ダグラス DC-10型機から脱落した部品により主脚のタイヤが破裂し、タイヤ片が主翼下面に当たり燃料タンクを破損、直後に漏れ出た燃料に引火、そのまま炎上し墜落した。空港に隣接したホテルの敷地内に墜落したことから、地上で巻き込まれた犠牲者を含め113人が死亡するという大惨事になった。

小さなトラブルは頻繁にあったが、1969年の初飛行以来大規模な事故は初めてだった。エールフランスは即日、ブリティッシュ・エアウェイズもイギリスの航空当局がコンコルドの耐空証明を取り消すことが確実視されたことにより8月15日に、運航停止を決定した。

事故調査に続いて、燃料タンクのケブラー繊維の補強、耐パンク性を強化したミシュラン製のタイヤ、燃焼装置の隔離処理等の改修を受けた後、2001年11月7日に運航が再開された。

終焉

ファイル:Concorde on Bristol.jpg
ロンドン・ヒースロー空港からブリストルへのコンコルドの最終飛行(2003年11月26日)

しかし、超音速飛行を行うために燃費が悪く、メインテナンスコストも亜音速機に比べて高く、初就航から25年経ったこともあり航空機関士が必要なコックピットなど、旧式のシステムであるコンコルドの運航はコストがかかり、直前の9月11日に就航先のニューヨークで発生した同時多発テロで低迷していた航空需要下では収益性の改善は望み薄となった。この為運航の継続が議論された。

2003年4月10日、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスは同年10月をもってコンコルドの商用運航を停止することを発表した。エールフランス機は5月、ブリティッシュ・エアウェイズ機も2003年10月24日に最後の営業飛行を終え、後継機もなく超音速旅客機は姿を消した。以後、民間人が航空路線で超音速飛行を体験する事は不可能になった。なお、航空路線でなければ民間人向けに超音速戦闘機の体験飛行が行われているため、超音速飛行を体験すること自体は可能ではある。

一時はヴァージン・アトランティック航空が、普段から貶しているライバルでもあるブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを「1機1ポンドで買い取る」と表明した。ヴァージン・アトランティック航空はコンコルドを買い取る事に熱心だった模様で、機内販売グッズとしてヴァージン・アトランティック航空カラーリングのコンコルド模型を限定販売していた。しかし、これまでに莫大なコストをかけてコンコルドの運航とメインテナンスを行っていたブリティッシュ・エアウェイズは、この申し出を拒絶した。

英仏両国で就役していたコンコルド各機は、イギリスやフランス、アメリカをはじめとする世界各地の航空関連博物館に売却、寄贈され、今も往時の姿を示している。

一度実用化した超音速飛行の定期便の終焉は、ライト兄弟以降、初の航空技術の後退となった。しかしながら2011年6月20日、エアバスの親会社が2050年をめどに新たな音速を超える民間向け航空機を開発することを発表した。

名称

「コンコルド」という名称は、フランス語の「concorde」と英語の「concord」、両単語とも「協調」や「調和」を意味し、ローマ神話コンコルディアに由来している。しかしフランス側の強い希望により、フランス語式の最後にeの付く「concorde」表記が、フランス語のみならず英語にもおける両言語共通の正式スペリングとなった。ただし、英語圏での発音は、フランス語式の「concorde(コンコルド)」よりはむしろ、英語の「concord(コンコード)」の読みに近い。

なお、フランス語のconcordeは「調和」の意味では女性名詞だが、この航空機の意味では男性名詞である。

技術

ファイル:ConcordeFuselageSinsheim.jpg
胴体側面
非常に小さい窓が並ぶ

フライ・バイ・ワイヤを実用化した世界初の航空機である。主翼後縁の左右合計6枚のエレボンと上下分割式の2枚の方向舵の、合計8枚の操縦翼面のコントロールはコックピットからの電気信号により制御されている。

トリム制御用の燃料移送システムを備えた。超音速への加速時や超音速からの減速時には揚力中心の位置が変動する。このとき操縦翼面によってトリム制御を行うと空気抵抗を増加させてしまうため、コンコルドでは必要に応じて燃料を前部または後部のタンクに移送することで揚力中心に応じた機体重心の位置を制御した。このシステムにより、空気抵抗を増加させることなくトリム調節を可能にした。

コンコルドは超音速飛行での空気抵抗を小さくするために細長い機首を備えているが、これは離着陸時のパイロットの前下方視界を遮ってしまう。特に着陸時には、フラップがないことをカバーするため機首を大きく上に向けながら進入する。そのため着陸時には12.5度、離陸時には5度、機首が下方に折れ曲がるドループ・ノーズを採用した。これに加えバイザーが折れた機首内に格納され、パイロットの視界を確保する。試作機では17度下方に折れ曲がるようにされたが、これはパイロットを不安にさせた。キャノピーから前に何も見えないので、テストパイロットは断崖絶壁に立たされているような感覚を持ったという。そのため、12.5度に修正された。また緊急時用に減速用のパラシュート(ドラッグシュート)も備えられた。

なお、大きな迎え角は通常で考えると乗客にとっての乗り心地が悪い様に誤解されるが、実際に搭乗すると加速度があるため迎え角はあまり感じない。

アフターバーナー付きロールス・ロイス オリンパス593 Mk610ターボジェットエンジンと可変空気取り入れ口制御システムを採用した。アフターバーナーは離陸時と超音速への加速時に使用したが、超音速巡航時には使用しなかった。なお「アフターバーナー」という名称は、ゼネラル・エレクトリック登録商標であり、コンコルド用のオリンパス593エンジンを製造したロールス・ロイスは「リヒート」と呼んでいた。

吸気系統は注意深く設計され、超音速巡航時には推力の63%がインテーク系統で、29%が排気ノズルで、8%がエンジンに分布していた[2]。なお音速飛行時は機首先端の温度が120 ℃程になる上、マッハ2を超えた場合胴体は91 ℃になる。さらに熱による機体の膨張により、20cmほど全長が伸びる。

また、客席はエコノミークラス程度のピッチのものが横4列に並び、合計100席が設けられていた。なお機体と窓の熱膨張率が異なるため、前述の高温から窓を大きくできず、その実効面積ははがき程度の大きさである。マッハ2を超えた場合、機内側の窓も継続的に触るのが困難なほど加熱された。

仕様

寸法

  • 全長:61.66 m
  • 全幅:25.55 m
  • 高さ:12.19 m
  • 機体幅:2.88 m
  • 主翼面積:358.2 m2

エンジン

重量

飛行性能

  • 巡航速度:マッハ 2.04(約2,160km/h)
  • 最大航続距離:7,229 km
  • 離陸速度:400 km/h
  • 着陸速度:296 km/h

客室

  • 座席数:100席 スーパーソニッククラス(予約クラスコード - R)
    この予約クラスはコンコルドの運航が停止された後、しばらくどの航空会社でも前面に押し出して利用することはなかったが、以前ブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを共同運航していたシンガポール航空が、エアバスA380を導入した際に新規導入したクラス「シンガポール航空スイート」の予約クラスとして利用している。

製造機材一覧

コンコルド機体毎経歴(英文)参考

製造番号 製造型式 機体登録記号 使用用途 初飛行 履歴 現状
001 プロトタイプ F-WTSS 原型1号機 1969年3月2日 1973年の日食観測に使用 フランス ル・ブルジェ空港ル・ブルジェ航空宇宙博物館 展示
002 プロトタイプ G-BSST 原型2号機 1969年4月9日 イギリス製造初号機 イングランド ヨービルトン航空博物館 展示
01 Series100 G-AXDN 量産先行型1号機 1971年12月17日 1974年に最高速度Mach2.23を記録

1977年に引退後回航時、最短着陸距離1800m以下で成功

イングランド ダックスフォード航空博物館 展示
02 Series100 F-WTSA 量産先行型2号機 1973年1月10日 1973年初訪米時の帰路ワシントン-パリ間で3時間33分を記録 フランス パリ オルリー空港 展示
201 Series100 F-WTSB 量産型1号機 1973年12月6日 フランス トゥルーズ空港内博物館 展示
202 Series100 G-BBDG 量産型2号機 1974年2月13日 イングランド ブルックランズ博物館 シミュレーターと併設展示
203 Series101 F-BTSC(ex.F-WTSC) 量産型3号機 1975年1月31日 2000年7月25日

フランス パリ シャルル・ド・ゴール空港離陸後、墜落事故により喪失

204 Series102 G-BOAC 量産型4号機 1975年2月27日 一時米ブラニフ航空にリース(N81AC)

1985年に商業飛行で2,380km/hを記録

イングランド マンチェスター空港内航空公園 展示
205 Series101 F-BVFA 量産型5号機 1975年10月25日 一時米ブラニフ航空にリース(N94FA) アメリカ ワシントン スミソニアン国立航空宇宙博物館 展示
206 Series102 G-BOAA 量産型6号機 1975年11月5日 一時米ブラニフ航空にリース(N94AA)

1988年ニューヨーク-ロンドン間で2時間55分15秒を記録

スコットランド イースト・フォーチュン国立航空博物館 展示
207 Series101 F-BVFB 量産型7号機 1976年3月6日 一時米ブラニフ航空にリース(N94FB) ドイツ ジンスハイム自動車・技術博物館
Tu-144と併設展示、いずれも機内見学可能
208 Series102 G-BOAB 量産型8号機 1976年5月18日 一時米ブラニフ航空にリース(N94AB)

1984年ワシントン-ニース間の最長航続距離を記録

イングランド ロンドン ヒースロー空港 保管
209 Series101 F-BVFC 量産型9号機 1976年7月9日 一時米ブラニフ航空にリース(N94FC) フランス トゥルーズ空港 保管
210 Series102 G-BOAD 量産型10号機 1976年8月25日 一時シンガポール航空と共同運航機となり塗装を一部変更、

その後米ブラニフ航空にリース(N94AD)

アメリカ ニューヨーク イントレピッド海上航空宇宙博物館 展示
211 Series101 F-BVFD 量産型11号機 1977年2月10日 一時米ブラニフ航空にリース(N94FD)

1982年に引退

1994年に解体処分
212 Series102 G-BOAE 量産型12号機 1977年3月17日 一時米ブラニフ航空にリース(N94AE) バルバドス クライストチャーチ グラントレー・アダムス国際空港 展示
213 Series101 F-BTSD(ex.F-WJAM) 量産型13号機 1978年6月26日 一時米ブラニフ航空にリース(N94SD)

1996年に2週間限定でペプシコーラアドカラーに塗装

フランス ル・ブルジェ空港内航空宇宙博物館 展示
214 Series102 G-BOAG(ex.G-BFKW) 量産型14号機 1978年4月21日 アメリカ シアトル ボーイング・フィールド航空博物館 展示
215 Series101 F-BVFF(ex.F-WJAN) 量産型15号機 1978年12月26日 フランス シャルル・ド・ゴール空港 展示
216 Series102 G-BOAF(ex.G-BFKX) 量産型16号機 1979年4月20日 最終製造機 イングランド ブリストル フィルトン空港内博物館 展示

日本におけるコンコルド

ファイル:Concord kohaku.jpg
日本航空に3機の導入が予定されていた当時の想像模型(旧交通博物館所蔵)
ファイル:Concorde 1 94-9-5 kix.jpg
関西国際空港に飛来したエールフランスのコンコルド(1994年9月5日)

日本で唯一国際線を運航していたフラッグキャリアの日本航空も国際線向けに3機の導入を計画し、1965年に仮発注を行った。就航時を想定した2種類の塗装案も作成されてマスメディアに公開され、各種記念品も製作されるなど大々的な広報、広告活動が行われた。

この際に日本航空が展示用として銀座の模型店・天賞堂に発注した1/35スケールの大型模型が存在する。白地の胴体に赤と青のライン、尾翼には鶴丸マークという当時の日本航空旅客機の標準塗色に仕上げられたこの模型は1968年に完成して日本航空に納入された。なお同社はその後他の大手航空会社と同様にコンコルドの導入をキャンセルした。大型模型は同社より神田の旧交通博物館に寄贈されて長らく展示された(右の写真参照)。交通博物館閉館後は鉄道博物館に移管され、現在は2階のコレクションルームに保存されている。

1972年6月12日には羽田空港にもデモンストレーションのため飛来し、午前10時15分に羽田空港へ到着した時には航空機マニア約5,000名が見物に訪れた。

日本航空が多くの航空会社と同様に発注をキャンセルした上に、大陸間横断のような長距離飛行が不可能だったこともあり、エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの両社ともに日本への定期路線に就航させることはなかったが、その後も数回にわたりエールフランスのコンコルドが日本国内へ飛来した。

1979年6月27日には日本で初めての開催となる東京サミットに出席するフランスのヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の搭乗機として羽田空港に飛来した。また1990年には「'90長崎旅博覧会」のイベント(チャーター便)として長崎空港に飛来したほか、1994年には開港翌日の関西国際空港に飛来した。

  • 日本へ来たのは以下の5回で、デモフライトと、エールフランスの運航によるものである。
    • 1972年6月12日-6月15日 羽田空港へデモフライト(登録記号:G-BSST)
    • 1986年5月4日-5月7日 羽田空港 東京サミット エールフランスによるフランス大統領特別機として2機が来訪(登録記号:F-BVFAとF-BVFB)
    • 1989年2月23日-2月25日 羽田空港 エールフランスによる昭和天皇大喪の礼へのフランス大統領特別機(登録記号:F-BVFC)
    • 1990年9月2日-9月3日 長崎空港 エールフランスによるチャーター便(登録記号:F-BVFF)
    • 1994年9月5日 関西国際空港 エールフランスによるチャーター便(登録記号:F-BVFC)で開港記念によるメモリアルフライトである。関西空港展望ホールにはコンコルドの名を冠したレストランがある[3]

日本航空はコンコルドの導入はキャンセルしたが、2017年超音速旅客機の開発を行うブーム・テクノロジーEnglish版と資本提携し、20機の優先発注権を確保する予定があると発表した[4]

その他

ファイル:G-BOAF rudder damage.jpg
超音速飛行中にラダーが破損したブリティッシュ・エアウェイズのコンコルド(1989年)
  • ブリティッシュ・エアウェイズはヒースロー空港ターミナル5とジョン・F・ケネディ国際空港にコンコルド搭乗客専用の空港ラウンジ『コンコルド・ルーム』を用意していた。現在はファーストクラス専用ラウンジとして利用されている[5]
  • フランスの研究チームが1973年6月30日に西アフリカで見られた皆既日食の調査のため、001号機に観測窓などを追加した改造機を使用した。その際、添乗した科学調査団が機内から「UFOのようなもの」を撮影、フランス放送協会のテレビ放送でその写真が公開されたことがある[6]
  • フランク・プゥルセルC・M・シェーンベルク共同作曲の『夢の飛行(コンコルド)』という、コンコルドをテーマにした楽曲がある。フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラの演奏によるこの曲では、効果音としてエンジン音(左右方向に飛び去る音)が使われており、曲自体もこのエンジン音から始まる。
  • 単に速度の速いものや性能が高いがあまりにもコストも高く採算性の取れないもの、つまり費用対効果(コストの回収)のできないものや、失敗することを予測しつつもこれまでに投じた投資を無駄にしたくないという心理から計画を中止できずに更に失敗を重ねてしまう様子などに対して比喩的にコンコルドが使われることがある。コンコルド効果を参照。
  • 当時のコンコルド関係者からなる「Club Concorde」が、2019年までにコンコルドを復活させるというプロジェクトを行っているが、計画は難航している模様。

関連項目

参考文献

  • 遠藤欽作 『コンコルド: SST(超音速旅客機) 航空輸送時代の革命』 航空新聞社、1972年。
  • Wolfgang Tillmans 『Concorde (写真集)』。ISBN 3-88375-273-8。
  • 『超音速旅客機CONCORDE(AIRLINE旅客機形式シリーズ・スペシャル』 イカロス出版。ISBN 4-87149-515-9。
  • ブライアン・トラブショー 『コンコルド・プロジェクト~栄光と悲劇の怪鳥を支えた男たち』 小路浩史訳、原書房、2001年。ISBN 9784562034192。
  • 帆足孝治 『コンコルド狂想曲: 米、欧、ソ三つどもえの夢の跡‐超音速旅客機に明日はあるか』 イカロス出版、2008年。ISBN 9784863200104。

脚注

出典

  1. 「世界のエアライン」1979年 ブリティッシュ・エアウェイズ広告(表4)
  2. http://www.concordesst.com/powerplant.html
  3. 「レジェンド・オブ・コンコルド」
  4. 超音速旅客機導入へ提携 日航、優先発注権を確保 - 読んで見フォト - 産経フォト
  5. Firstラウンジ - ブリティッシュ・エアウェイズ
  6. 『コズモ別冊UFO写真集1』コズモ出版社、1974年10月20日発行(58-59ページ)。ORTFの放送画面を撮った掲載写真は当時のUPI-サンテレフォート提供のもの。

外部リンク