コンゴ自由国

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ファイル:MutilatedChildrenFromCongo.jpg
手を切られたコンゴ人
マーク・トウェイン『レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護』p.40
ファイル:Congo leopold II cartoon.gif
手を切り落とされるコンゴ人を尻目にコンゴで儲けるレオポルド2世を批判したパンチの風刺画。

コンゴ自由国(コンゴじゆうこく、État indépendant du CongoKongo-Vrijstaat)は、かつてアフリカザイール川流域に存在した国である。国と称しているが、実態はベルギー国王レオポルド2世の私領地であった。植民地時代を経て、のちにコンゴ共和国(後のコンゴ民主共和国)として独立を果たす。

ベルギー国王レオポルド2世はスタンリーザイール川流域を探検させる。国王の支援のもとでの探検だったので、その成果は国王に帰属し、国王は1882年に「コンゴ国際協会」に委託支配させ、1885年ベルリン会議ではこの地域は公式に国王の私領地になった。それがコンゴ自由国である。

国王の私領となったコンゴ自由国では耕作地も全てが国王の所有となり、住民は象牙ゴムの採集を強制された。規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が容赦なく科され、前代未聞の圧制と搾取が行われていた。コンゴ自由国の自由国とは、「住民が自由な国」という意味ではなく、自由貿易の国という意味を当てこすった英語の俗称(Congo Free State)であり、公用語である仏語における正式国号はコンゴ独立国であった。

このコンゴ自由国の圧政に、各国から人道主義の立場に基づく非難が殺到した。特にイギリスは領事に実態の調査を行わせている。またジャーナリストのエドモンド・モレルが『赤いゴム』という著作で、手足を切り落とす過酷な刑罰の下でのゴム採集の実情を白日のもとにさらけ出した。

ここに来て国際社会の非難の声は益々高まり、国王の恣意的な暴政にベルギー政府も黙っていられなくなった。1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放すことになった。同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになった。

関連項目