ジェームズ・キャラハン

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カーディフのキャラハン男爵レナード・ジェームズ・キャラハン(Leonard James Callaghan, Baron Callaghan of Cardiff、1912年3月27日 - 2005年3月26日)は、イギリス政治家。1976年から1979年まで、首相として労働党政権を率いた。労働党の「巨人」と称されたほか、「サニー・ジム」「ビッグ・ジム」の愛称があった。

生涯

生い立ち

1912年イングランド南部のポーツマス生まれ。父親を早くに亡くしたため、中学校を卒業後、16歳で税務署職員として働き始める。すぐに組合活動を始め、24歳で全国税務職員組合の副書記長となる。その後、1946年に労働党から下院議員に立候補し、当選した。運輸政務次官時代は、鉄道国有化に関わる。

ウィルソン政権時代

1963年、労働党党首のヒュー・ゲイツケルが急死すると、右派の一部の支持を得て党首選挙に立候補する。結果は最下位に終わったが、1964年ウィルソン内閣が発足すると、大蔵大臣として閣僚入りした。ここでキャラハンは国際収支赤字に苦しむポンドの防衛に対応することとなるが、これに失敗、ポンド売りが殺到してしまう。

内務大臣を経て、1974年には外務大臣に就任する。ここでイギリスの欧州共同体(EEC)残留問題に対応する。閣内は残留賛成派と反対派で真っ二つに割れたが、キャラハンやウィルソン首相は残留賛成派であった。結果的にこの問題は、下院投票、国民投票を経てEEC残留が決定する。ウィルソン首相は1976年3月16日、突然辞任を発表する。

なお、首相就任前にGreat Offices of State と呼ばれる3ポスト(蔵相・内相・外相)を経験したのは、20世紀ではキャラハンが初めてであった。

首相就任

ウィルソン辞任後の党首選挙には、キャラハンを含め6人が立候補する乱戦となったが、第2回投票、決選投票を経て4月5日、キャラハンが新しい首相に任命された。

首相在任中は、いわゆる「英国病」により、イギリス経済は不振を極めストライキや、インフレーションにより社会不安が増大した。また、労働党は党内抗争により左右両派が激しく対立し、キャラハンは、行政サービスの低下に対して、有効な対策を打ち出すことができなかった(不満の冬も参照)。

1979年3月28日、野党がキャラハンに対する不信任案を提出するが、これが311対310の1票差で可決してしまう[1]。労働党は5月3日の総選挙に大敗を喫し、「鉄の女」マーガレット・サッチャーが率いる保守党との政権交代を余儀なくされた。以後、労働党は1997年トニー・ブレア政権成立まで長らく政権から離れることとなる。

退任後

1987年一代貴族(男爵)となった。晩年は、各国の元首脳らによる「OBサミット」に参加、核廃絶活動などに参加した。2005年3月15日に夫人を亡くし、11日後の3月26日、イングランド南部イースト・サセックスの自宅で死去した。92歳没。

脚注

  1. James Callaghan”. Number10.gov.uk. 2009年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2009閲覧.
先代:
ハロルド・ウィルソン
イギリス労働党党首
1976年 – 1980年
次代:
マイケル・フット
先代:
ハロルド・ウィルソン
イギリスの首相
1976年 – 1979年
次代:
マーガレット・サッチャー

テンプレート:イギリスの外務大臣