チェチェン共和国

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テンプレート:基礎情報 ロシアの連邦構成主体 チェチェン共和国(チェチェンきょうわこく)は、北カフカース(北コーカサス)地方の北東部に位置するロシア連邦北カフカース連邦管区に属する共和国。設立は1991年で首都はグロズヌイ北カフカース先住民族のひとつのチェチェン人が住民の多数を占める。

ソビエト連邦解体後、ロシア連邦政府及びロシア連邦への残留を主張するチェチェン人勢力と、チェチェン・イチケリア共和国カフカース首長国を自称するチェチェンの独立を求める武装勢力との間で対立が続き、2度のチェチェン紛争と独立派のテロリズムが発生した歴史がある。現首相就任後は、治安は比較的安定している。

ロシアの憲法上ではロシア連邦を構成する連邦構成主体のひとつである。したがって、入出国手続などは無いのでロシア滞在査証で滞在可能である。日本からの移動手段は、モスクワからUTエア・アビエーションでグロズヌイへ飛行機移動となる。

国名

ロシア語による正式名称は、Чеченская Республика Российской Федерации(ラテン文字転写 : Chechenskaja Respublika Rossijskoj Federatsii; チェチェンスカヤ・リスプーブリカ・ラッスィースカイ・フェジェラーツィィ)で、ロシア連邦チェチェン共和国と訳される。

チェチェンスカヤはロシア語による民族名チェチェン(チェチェニエツ)の形容詞形で、国名は直訳すれば、「ロシア連邦のチェチェン人の共和国」となる。ただし、チェチェンは他称で、チェチェン語による自称はノフチー(Нохчий)である。

歴史

チェチェン共和国成立まで

18世紀ロシア帝国がカフカースへの南下を進めると、チェチェン人はロシアの支配に対して激しく抵抗を繰り広げたが、1859年にロシア帝国によって周辺地域とともに併合された(コーカサス戦争)。

ソビエト連邦の成立後、チェチェン・イングーシ自治共和国としてロシア・ソビエト社会主義連邦共和国の一部とされたが、第二次世界大戦中の1944年に、対独協力をおそれたヨシフ・スターリンによって、チェチェン人とイングーシ人約50万人はカザフスタンシベリアへ強制移住させられ多くが死亡した。彼らは1957年フルシチョフにより母国への帰還を許され、自治共和国が再建されるが連邦政府に対する不満は残った。

チェチェン共和国成立以降

チェチェン人たちが1990年11月にチェチェン・イングーシ自治共和国のソ連邦からの独立を宣言し、1991年5月にチェチェン・イングーシ共和国に改名し、10月に共和国と連邦政府の間でソ連邦からの独立は認めないまでも共和国をチェチェン共和国とイングーシ共和国に分割することで同意すると、翌11月に当選したばかりのチェチェン共和国初代大統領ジョハル・ドゥダエフがソ連邦からの独立とチェチェン・イチケリア共和国の建国を宣言した。ただしソ連邦はこれを認めなかった。

第一次チェチェン紛争

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首都グロズヌイ近郊に展開するロシア軍(1994年

1991年12月のソ連崩壊後のロシア連邦政府もチェチェン・イチケリア共和国の存在を拒絶し、1994年12月にロシア連邦大統領ボリス・エリツィンはチェチェンの連邦からの独立を阻止するため4万のロシア連邦軍を派遣し第一次チェチェン紛争に突入した。独立派はゲリラ戦で激しく戦い紛争は泥沼化したが、1995年2月にロシア軍がチェチェンの首都グロズヌイを制圧し、1996年4月にジョハル・ドゥダエフの殺害に成功すると、8月にエリツィンとチェチェンの武装勢力のリーダーの間で停戦が合意された。そして1997年5月にはハサヴユルト協定が調印され五年間の停戦が定められた。この紛争では10万人以上の一般市民の死者を出した。

第二次チェチェン紛争

停戦中の1999年8月7日に、カフカース圏における「大イスラム教国建設」を掲げるチェチェン独立派の最強硬派のシャミル・バサエフアミール・ハッターブが、和平協定を破り突如隣国のダゲスタン共和国へ侵攻。また、同月と翌9月にモスクワアパート連続爆破事件が発生した(ロシア諜報機関による自作自演の疑惑あり)。このため、首相ウラジミール・プーチンは強力な指揮の下ロシア軍をチェチェンへ進撃させ1999年9月に紛争は再開。1997年の和平協定は無効となった。プーチンはエリツィンの健康悪化により99年12月に大統領代行に就任し、2000年に大統領に正式に就任した。

この第二次チェチェン紛争でロシア軍は2000年に首都グロズヌイを再び制圧した。ロシアはアフマド・カディロフをチェチェン共和国の大統領につけてロシアへの残留を希望する親露派政権をつくらせ、独立派のチェチェン・イチケリア共和国を在野に追った。しかし以降もチェチェンの独立運動は続き、ロシア軍との内戦状態が続いた。ゲリラ化したチェチェン独立派勢力はアルカーイダ等の国外のイスラーム過激派勢力と結びついてテロリズムに走っているといわれており、紛争はさらなる泥沼化に進んだ。

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テロのターゲットとなったベスラン学校

独立派の関与したとされる事件は、犯行声明が出されているものだけでも2002年10月のモスクワにおけるドゥブロフカ劇場占拠事件、12月のグロズヌイの行政府ビル爆破事件、2003年6月のモスクワ野外コンサート会場爆破事件、2004年5月のカディロフ大統領暗殺事件、8月の旅客機同時ハイジャック事件、モスクワ地下鉄駅付近爆破事件、9月の北オセチア共和国ベスランにおけるベスラン学校占拠事件などがある。

これに対してプーチン政権は、2003年から2006年にかけて独立派のチェチェン・イチケリア共和国の第2代大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフと第3代アスラン・マスハドフと第4代アブドル・ハリムを殺害し、独立にむけた武装闘争に対しては徹底的に鎮圧する意思をいっそう明確にした。またロシア政府は2005年11月に共和国議会選挙を開催させ、「チェチェン紛争の政治的解決プロセスの総仕上げ」としてこの結果を評価した。これに対して正常化に向けた前進と評価する意見が存在する一方、独立派はロシアによる「翼賛選挙」であると強く反発している。

2006年6月には、イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致し、チェチェン共和国からのロシア部隊撤退などを同国政府に要求。その後、要求が受け入れられなかったため、外交官を殺害するという事件も発生する。

2007年に独立派によるモスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破テロがおきた。

2009年5月、ロシア政府はチェチェンでのテロ活動が沈静化したとして、「反テロ特別治安体制」を終了すると宣言し、ここに第二次チェチェン紛争が終結した。ロシア軍により20万人近くのチェチェン人が犠牲になり、4分の1のチェチェン人が死んだと言われている。長引くチェチェン紛争に対しては、ロシア国内からも様々な意見が出されている。「第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要であった。今回の戦争は、エリツィン大統領が自ら選んだ後継者として公に支持する、ウラジーミル・プーチン現首相が世論調査で順位を上げるために必要とされている」とアメリカ下院でエレーナ・ボンネル(反体制物理学者アンドレイ・サハロフ博士未亡人)は証言をした。

第二次チェチェン紛争終結後

第二次チェチェン紛争は終結したと言うものの、チェチェン国内ではテロに対する厳重な警戒体制が採られている。また、イスラーム過激派自体もチェチェンから近隣の共和国に拠点を移しただけと言われる。2009年11月に再びモスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破テロが、2010年3月にモスクワ地下鉄爆破テロが、2011年1月のドモジェドヴォ空港爆破事件が独立派武装勢力により引き起こされている。これらの事件では独立派武装勢力のカフカース首長国のアミールドク・ウマロフから犯行声明が出されている。ただし、ロシア政府はチェチェンとの関連を否定している。

近年ロシア政府は、力でテロを封じ込める方針から、経済振興によって地域を安定させる方針へと政策をシフトさせている。新たに連邦管区を設置し、大統領全権代表には企業出身の人物を就任させ、中央直轄で経済の底上げを計ろうとしている[1]。コーカサス研究の廣瀬陽子は、チェチェンは収束するどころか、深刻化していると指摘している[2]。一方、独立過激派はジョージアパンキシ渓谷ダゲスタン共和国イングーシ共和国へ活動の拠点を移していることでチェチェン内の治安は安定しつつあり、近年は大きなテロ事件は起きていない。

2013年ボストン爆弾テロ以降

ボストンマラソン爆弾テロ事件で、イスラーム過激主義の2人のチェチェン人が容疑者と認定されると、チェチェンへの関心は高まった。

ウラジーミル・プーチンはチェチェン人独立がイスラーム過激派によりもたらされているとして、ロシア連邦軍のテロ対策の正しさを強調した。

ウクライナ内戦

2014年より始まった2014年ウクライナ内戦にチェチェン人が多数親露派義勇軍として参戦していると報道された。[3] 現チェチェン共和国首長であるラムザン・カディロフカディロフツィと呼称される私兵をウクライナに派兵するような、支援は行っていないと否定している。

政治

チェチェン人はロシアに併合された後も抵抗運動を繰り返し、ソ連時代から長きにわたって弾圧を受け続けて来た。そのこともあり、反露感情は極めて高いと言われる。しかし近年では長引く紛争に国民が疲れ果てており、ロシアによる統治を受け入れ、地域の安定化を実現させようという気運の高まりも指摘されている。ロシアは巨額の復興資金をチェチェンに投入し懐柔を図っているが、近代化は必ずしも成功していない。

また現在では、独立派の指導者であった4人のチェチェン・イチケリア共和国大統領や、モスクワ劇場占拠事件やベスラン学校占拠事件等の多くのテロ事件で犯行声明を出していた過激派指導者のシャミル・バサエフ等、独立派の主要人物が軒並みロシア治安当局によって殺害されており、独立派の士気は相当低下しているとの見方も存在する。

第二次チェチェン紛争において、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は元独立派指導者のひとりであったチェチェン人、アフマド・カディロフらを指導者に立て、チェチェンの反独立派運動の抑え込みを目指している。2003年10月の大統領選挙で初当選したカディロフは、独立派を「テロ集団」とする連邦政府の方針を支持していたが、2004年5月9日、その独立派のテロにより暗殺された。2004年8月29日大統領選挙が行われ、アル・アルハノフが当選した。

2007年にはプーチン政権の強力な後押しを受けて、アフマド・カディロフの息子、ラムザン・カディロフが大統領に当選した。カディロフは、連邦政府と緊密な関係の下でチェチェンの経済発展や産業振興を推進する一方、復興資金の横領や自身の側近や一族に権力を独占させ、独裁的な手法によって反対派を弾圧してきたと批判される。

2009年7月には、チェチェンの女性人権活動家ナタリヤ・エステミロワрусский版English版(Natalya Estemirova)が何者かに拉致され、隣のイングーシ共和国で遺体となって発見される事件が起きている。地元の人権団体によれば、治安当局による拉致や拷問が頻繁に起きており、旧ソ連時代と比べても市民の政治的権利は後退していると主張している[4]

ロシアがチェチェンの独立を強く拒絶するのは、チェチェンの独立によって多民族国家で多くの民族共和国を抱えるロシア連邦の求心力が低下し、解体に向かうことに対する懸念が大きいからだと考えられる。また、チェチェンがカスピ海バクー油田から黒海沿岸のノヴォロシースクへと繋がる石油パイプラインの通り道にあることも、ロシアが独立運動に対し強硬な態度を取る一因であると言われている[5]

さらに、ロシアの独立派に対する強硬姿勢を批判するなど、独立派を間接的に支援してきた反露傾向の強い西側諸国との対立構造もあり、チェチェンの独立阻止はロシアにとっても絶対に譲れない一線となっている。

地理

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チェチェン南部の山岳
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チェチェン共和国の地図

黒海とカスピ海に挟まれた北カフカース(北コーカサス)地方に属し、カフカース山脈の北麓の斜面と平野に広がっている。

国土の東と北東はダゲスタン共和国に接し、西はイングーシ共和国および北オセチア共和国、北西はスタヴロポリ地方、南はジョージアに接する。

面積は17,300km2で日本の四国程の大きさ。国の北部をテレク川が東西に走り、テレク川から分岐したスンジャ川は首都グロズヌイを横切っている。南北を流れるアルグン川はグロズヌイの東部でスンジャ川に合流する。

行政区画

経済

二度にわたる紛争により、チェチェン経済は崩壊状態となった。内戦の影響でチェチェン産業のおよそ80%が喪失されたとされる。首都グロズヌイにおいては、大手石油企業ロスネフチの子会社であるグロズネフトガスが本格的に進出するなど、経済活動が復活しつつあり、高層ビルが建設されている。

現在のところ、再建の見込みがある唯一の産業は石油産業である。2003年の石油生産は1980年代の400万トンから下降しておよそ150万トンと見積もられる。ロシアの石油生産合計のおよそ0.6%を占めた。

ロシア政府は、3年間で2000億円規模の予算をつぎ込み、様々な形でチェチェン経済の再生に費やされたとしている。しかし、失業率は2011年3月比で40%以上である。[6]

チェチェン経済に関する問題はロシア連邦の経済に少なからず影響を及ぼしている。1990年代に発生したロシアの多くの金融犯罪は、チェチェン人の金融組織が関与しているともいわれる。彼らはロシアの米ドル金融政策に大きく関与し、偽ドル札が多く印刷された。密輸および密貿易はいまだ国内の重要な経済活動となっている。

チェチェン共和国内の医療技術向上、医療産業活性化のために、チェチェン共和国立がんセンターが日系の国際医療コーディネート企業 メディカルツーリズム・ジャパン株式会社 と国際医療交流などの医療開発協力に関わる提携調印を2016年9月26日に行なっている。メディカルツーリズムジャパン株式会社WEB

ロシア連邦以外の国際ビジネスとして中東諸国、中国が進出してきている。また、ドイツ系の建設企業も参入してきており、グロズヌイ市に400M越えのビルの建設を落札した実績が有る。

1万人以上収容可能なヨーロッパ最大のモスクがある。その影響もあり、中東諸国との交流が盛んである。

郊外では、スキー場建設が進んでおり、国内外の観光旅行者の集客に積極的である。

チェチェン共和国立がんセンターと地方独立行政法人大阪府立病院機構 大阪府立成人病センターと国際医療交流協定の調印を2016年11月11日に行っている。大阪府立成人病センターHP大阪府報道発表資料

住民

1989年に行われたチェチェン・イングーシ共和国の統計では、チェチェン人が956,879人、イングーシ人が237,438人で、269,000人のロシア人は人口の約23%で比較的少数派であった。その後、西部がイングーシ共和国として分立したためイングーシ人人口が大幅に減少し、内戦と社会不安でほとんどのロシア人は国内から退去した。1990年代の終わりにチェチェン共和国に残っていたロシア人は、約60,000人である。

ロシア連邦は一般に老齢化した人口構成を持つが、チェチェン共和国は例外的に最も若年層が多い人口構成を持つ。また1990年代の初めにはいくつかの地方で自然人口増加がみられ、それ以降連邦構成主体の中では極めて高い人口増加率を維持している。

言語

国内で使用される言語はチェチェン語ロシア語である。チェチェン語は、カフカース諸語のうちのナフ諸語、あるいは北東カフカース諸語と呼ばれるグループ(ナフ・バイナフ語族とも)に属し、イングーシ語と非常に近しい関係にある。

宗教

ほとんどのチェチェン人は、16世紀から18世紀に東のダゲスタンから伝わったイスラム教スンナ派を信仰している。しかし、民衆の間では厳格なスンナ派よりもイスラム主義と結びつきやすいイスラム神秘主義のひとつナクシュバンディー教団などの影響が強い。チェチェンへのイスラムの普及や、19世紀のロシアへの抵抗において重要な役割を果たしたのがこのような神秘主義教団であった。ただ、貧困や失業のために若者がワッハーブ派のような過激派組織と結びつく傾向もあるので、学校でイスラムの基礎を教えようという動きがある。

標準時

この地域は、モスクワ時間帯標準時を使用している。時差はUTC+3時間で、夏時間はない。(2011年3月までは、標準時がUTC+3で夏時間がUTC+4、同年3月から2014年10月までは通年UTC+4であった)

外部リンク

政府機関

NGO

  • チェチェン総合情報(「チェチェン側にかなり肩入れした内容」と評される[7]など、中立性に欠けるとの指摘もある。)

脚注

  1. NHKBS1 「きょうの世界」 2011年3月23日放送回より
  2. チェチェン紛争~日常と非日常の共存 pan-dora.co.jp, 2011年9月18日閲覧。
  3. Are there Chechen fighters in Ukraine?
  4. 同上
  5. 廣瀬陽子著『コーカサス 国際関係の十字路』2008, 集英社新書
  6. 同上
  7. 「ニュースがすぐにわかる世界地図」(2004年3月20日、小学館) ISBN 4-09-103142-0

テンプレート:ロシア連邦の地方区分