チェルノブイリ原子力発電所事故

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チェルノブイリ原子力発電所事故
場所 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
テンプレート:UASSR
キエフ州 プリピャチ
(現: ウクライナ キエフ州 プリピャチ)
座標
日付 1986年4月26日
午前1時23分 (UTC+3)
概要 チェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故
原因
死亡者 4,000人 (IAEA公式見解、異論有)
負傷者 不明
他の被害者 強制移住等:数十万人以上
損害 爆発チェルノブイリ原子力発電所4号炉
放棄チェルノブイリプリピャチ
他多数
対処 チェルノブイリ原子力発電所4号炉の石棺による封印
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チェルノブイリ原子力発電所の位置。左上囲み内の赤い印、キエフの北西。赤い部分はウクライナ、その北はベラルーシ
チェルノブイリ原子力発電所(中央付近)周辺の衛星画像。中央の黒い部分は冷却水用の池。その左上に発電所がある。1997年撮影
チェルノブイリ原子力発電所(中央奥)の遠景

チェルノブイリ原子力発電所事故(チェルノブイリげんしりょくはつでんしょじこ)は、1986年4月26日1時23分(モスクワ時間UTC+3)にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル7(深刻な事故)に分類され、世界で最大の原子力発電所事故の一つである。チェルノブイリ事故とも[1]

概要

当時、チェルノブイリ原子力発電所にはソ連が独自に設計開発した黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉 (RBMK) のRBMK-1000型を使用した4つの原子炉が稼働しており、そのうち4号炉が炉心溶融(俗にいう「メルトダウン」)ののち爆発し、放射性降下物ウクライナ白ロシアベラルーシ)・ロシアなどを汚染した、史上最悪の原子力事故とされた。

1991年のソ連崩壊以後は原子力発電所が領土内に立地しているウクライナに処理義務がある。2013年現在もなお、原発から半径30km以内の地域での居住が禁止されるとともに、原発から北東へ向かって約350kmの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度汚染地域が約100箇所にわたって点在し、ホットスポット内においては農業や畜産業などが全面的に禁止されており、また、その周辺でも制限されている地域がある。

事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、外部電源喪失を想定した非常用発電系統の実験[2]を行っていた。この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。爆発により、原子炉内の放射性物質[注釈 1]大気中に量にして推定10t前後、14エクサベクレルに及ぶ放射性物質が放出された[3]。これに関しては、広島市に投下された原子爆弾リトルボーイ)による放出量の約400倍とする国際原子力機関 (IAEA) による記録が残されている[4]#影響も参照)。

当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れこの事故を内外に公表せず、施設周辺住民の避難措置も取られなかったため、彼らは数日間、事実を知らぬまま通常の生活を送り、高線量の放射性物質を浴び被曝した[5][6]。しかし、翌4月27日スウェーデンフォルスマルク原子力発電所にてこの事故が原因の特定核種、高線量の放射性物質が検出され、近隣国からも同様の報告があったためスウェーデン当局が調査を開始、この調査結果について事実確認を受けたソ連は4月28日にその内容を認め、事故が世界中に発覚[7]。当初、フォルスマルク原発の技術者は、自原発所内からの漏洩も疑い、あるいは「核戦争」が起こったのではないかと考えた時期もあったという[8]

日本においても、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された[9]

爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。アメリカ軍事衛星からも、赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソ連当局は応急措置として次の作業を実行した。

  1. 火災の鎮火と、放射線の遮断のためにホウ素を混入させた砂5000tを直上からヘリコプターで4号炉に投下。
  2. 水蒸気爆発(2次爆発)を防ぐ[10] ため下部水槽(圧力抑制プール)の排水(後日、一部の溶融燃料の水槽到達を確認したが水蒸気爆発という規模の現象は起きなかった[11])。
  3. 減速材として炉心内への大量投入。(炉心にはほとんど到達しなかった。[12]
  4. 液体窒素を注入して周囲から冷却、炉心温度を低下させる。(注入したときにはすでに炉心から燃料が流出していた[13]。)

この策が功を奏したのか、一時制御不能に陥っていた炉心内の核燃料の活動も次第に落ち着き、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとの見解をソ連政府は発表している。

砂の投下作業に使用されたヘリコプターと乗員には特別な防護措置は施されず、砂は乗員が砂袋をキャビンから直接手で投下した。作業員は大量の放射線を直接浴びたものと思われるが不明。

下部水槽(サプレッション・プール)の排水は、放射性物質を多く含んだ水中へとソ連陸軍特殊部隊員数名が潜水し、手動でバルブを開栓し排水に成功した[14]

爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺(せきかん / せっかん)と呼ばれている。

事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、事故発生から1か月後までに原発から30km以内に居住する約11万6000人全てが移住したとソ連によって発表されている。しかし、生まれた地を離れるのを望まなかった老人などの一部の住民は、移住せずに生活を続けた。

放射性物質による汚染は、現場付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシロシアにも拡大した。

死者数

ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人ともいわれるが、事故の放射線被曝白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある[注釈 2]。事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある[15]

1986年8月のウィーンでプレスとオブザーバーなしで行われたIAEA非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者のヴァレリー・レガソフが当時放射線医学の根拠とされていた唯一のサンプル調査であった広島原爆での結果から、4万人が癌で死亡するという推計を発表した。しかし、広島での原爆から試算した理論上の数字に過ぎないとして会議では4,000人と結論され、この数字がIAEAの公式見解となった。ミハイル・ゴルバチョフはレガソフにIAEAに全てを報告するように命じていたが、彼が会場で行った説明は非常に細部まで踏み込んでおり、会場の全員にショックを与えたと回想している。結果的に、西側諸国は当事国による原発事故の評価を受け入れなかった。2005年9月にウィーンのIAEA本部でチェルノブイリ・フォーラムの主催で開催された国際会議においても4,000人という数字が踏襲され公式発表された[16]。報告書はベラルーシやウクライナの専門家、ベラルーシ政府などからの抗議を受け、表現を変えた修正版を出すことになった[17]

事故から20年後の2006年を迎え、癌死亡者数の見積もりは調査機関によっても変動し、世界保健機関 (WHO) はリクビダートルと呼ばれる事故処理の従事者と最汚染地域および避難住民を対象にした4,000件に、その他の汚染地域住民を対象にした5,000件を加えた9,000件との推計を発表した[18]。これはウクライナ、ロシア、ベラルーシの3カ国のみによる値で[19]、WHOのM. Repacholiによれば、前回4000件としたのは低汚染地域を含めてまで推定するのは科学的ではないと判断したためとしており、事実上の閾値を設けていたことが分かった[20]。WHOの国際がん研究機関 (IARC) は、ヨーロッパ諸国全体(40か国)の住民も含めて、1万6,000件との推計を示し[21][22]米国科学アカデミー傘下の米国学術研究会議 (National Research Council) による「電離放射線の生物学的影響」第7次報告書 (BEIR-VII)[23] に基づき全体の致死リスク係数を10%/Svから5.1%/Svに引き下げられたが、対象範囲を広げたために死亡予測数の増加となった[24]。WHOは、1959年にIAEAと世界保健総会決議 (World Health Assembly:WHA) においてWHA_12-40という協定に署名しており、IAEAの合意なしには核の健康被害についての研究結果等を発表できないとする批判もあり、核戦争防止国際医師会議のドイツ支部がまとめた報告書には、WHOの独立性と信頼性に対する疑問が呈示されている[25]

欧州緑の党による要請を受けて報告されたTORCH reportによると、事故による全世界の集団線量は約60万[人・Sv]、過剰癌死亡数を約3万から6万件と推定している[26]。環境団体グリーンピースは9万3,000件を推計し、さらに将来的には追加で14万件が加算されると予測している[27]。ロシア医科学アカデミーでは、21万2,000件という値を推計している[28]。2007年にはロシアのAlexey V. Yablokovらが英語に限らずロシア語などのスラブ系の諸言語の文献をまとめた総説の中で1986年から2004年の間で98万5000件を推計、2009年にはロシア語から英訳されてChernobyl: Consequences of the Catastrophe for People and the Environmentというタイトルで出版された[29]。ウクライナのチェルノブイリ連合 (NGO) は、現在までの事故による死亡者数を約73万4,000件と見積もっている[30]京都大学原子炉実験所今中哲二助教授の話によれば、チェルノブイリ事故の被曝の影響による全世界の癌死者数の見積りとして2万件から6万件が妥当なところとの見解を示しているが、たとえ直接の被曝を受けなくとも避難などに伴う心理面・物理面での間接的な健康被害への影響に対する責任が免責されるわけではないと指摘している[31]

ウクライナ国立科学アカデミー (National Academy of Sciences of Ukraine) のIvan Godlevskyらの調査によると、チェルノブイリ事故前のウクライナにおけるLugyny地区の平均寿命は75歳であったが、事故後、65歳にまで低下しており[32]、特に高齢者の死亡率が高まっていることが分かった。これは放射線およびストレスのかかる状況が長期化したことが大きな要因と見られる[33]。1991年に独立した当時のウクライナの人口は約5200万人だったが、2010年には約4500万人にまで減少している[34]

原因

事故発生時、4号炉では動作試験が行われていた。試験の内容はいわゆるストレステストで、外部電源が遮断された場合の非常用ディーゼル発電機起動完了に要する約40秒間、原子炉の蒸気タービンの惰性回転のみで各システムへの電力を充足できるか否かを確認するものであった。しかし、責任者の不適切な判断や、炉の特性による予期せぬ事態の発生により、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発した。

動作試験は原子炉熱出力を定格熱出力の20 - 30%程度に下げて行う予定であったが、炉心内部のキセノンオーバーライドおよびオペミスによって熱出力が定格の1%にまで下がってしまった。運転員は熱出力を回復するために、炉心内の制御棒を引き抜く操作を次々に行った。これにより熱出力は7%前後まで回復したが、反応度操作余裕(炉心の制御棒の数)が著しく少ない不安定な運転状態となった。これにより実験に支障が出ることを危惧した運転員らは、非常用炉心冷却装置 (ECCS) を含む重要な安全装置を全て解除したうえで、実験を開始した。実験開始直後、原子炉の熱出力が急激に上昇し始めたため、運転員は直ちに緊急停止操作(制御棒の挿入)を行ったが、この原子炉は特性上制御棒を挿入する際に一時的に出力が上がる設計(ポジティブ・スクラム[35])だったため原子炉内の蒸気圧が上昇し、緊急停止ボタン(AZ-5ボタン、起動するのに約5 - 8秒、スクラム完了にはさらに20秒程度かかる)を押した7秒後に爆発した。

この爆発事故においては、

  • 制御棒など根本的設計の欠陥。
  • 運転員への教育が不十分だった。
  • 特殊な運転を行ったために事態を予測できなかった。
  • 低出力では不安定な炉で低出力運転を続けた。
  • 実験が予定通りに行われなかったにもかかわらず強行した。
  • 実験のために安全装置をバイパスした。

など多くの複合的な要素が原因として挙げられる。学者らによる後の事故検証では、これらのいずれかが1つでも守られていれば、爆発事故、あるいは事故の波及を最小限に抑えることができた可能性が高かったともいわれている。

ソ連政府は当初、事故は運転員の操作ミスによるものと発表したが、事後の調査結果はこれを覆すものが多かった。重要な安全装置の操作が運転員の判断だけで行われたとは考えにくく、実験の指揮者の判断が大きかったものと推定される。これに原子炉の設計上の欠陥が後押しする格好となった。

事故から20年後の一部報道の中には、暴走中に「直下型地震」が発生したことが爆発につながったとするものもあるが、京都大学今中哲二は、他の1 - 3号炉に異常が無かったこと、付近の住民が地震についての証言をしていなかったことなどから、地震計に記録されているとされるその振動は、4号炉の爆発そのものによって引き起こされたものであると反論している。

4号炉は1983年12月21日に完成したが、その翌日の12月22日の原子力産業の記念日に合わせて4号炉を完工するために、耐熱材質を不燃性材質から可燃性材質へと変更して施工を強行したことも放射性物質の拡散拡大の原因のひとつに挙げられる。

2004年にイギリスBBCカナダヒストリー・テレビジョンEnglish版により製作された再現ドラマゼロ・アワー (2004年のTVシリーズ)English版シーズン1第1話「チェルノブイリの災害(Disaster at Chernobyl)」によると、実験当時の現場の技術責任者にはRBMK-1000型原子炉の特性について熟知している者が誰もいなかったとされている。所長のヴィクトル・ブリュハーノフрусский版火力発電所蒸気タービンの建設でこそ実績があったが、原子力発電所については経験が無く、4号炉建設当時には前述の材質変更を強行して記念日前の完工を達成し出世した人物であった。技師長のニコライ・フォーミンは原子力については通信教育で学んだのみで、実際の現場の指揮はフォーミンの部下で副技師長であったアナトリー・ディアトロフEnglish版に一任していた。そして事故当時の現場の最高責任者であったディアトロフも、原子力を独学で習得して技術畑を歩んできた苦学者ではあったものの、RBMK-1000の特性自体は理解しておらず、晩年のインタビュー映像では「(RBMK-1000型の)原子炉の特性を事前に知らされていれば、あのような実験は決して行わなかった。」と述懐する有様であった[36]

事故の経緯

4号炉は1986年4月25日に定期保守のためにシャットダウンすることが予定されていて、この時を利用して外部電源喪失時に4号炉のタービン発電機の慣性運転によって原子炉の主ポンプおよびECCS安全システム関連のポンプに十分な給電を行うことができるかどうかについての試験を行うことが決められた。

具体的には4号炉の出力を利用して蒸気タービンを回した後にこの蒸気系統を切り離し、前記主要ポンプ系のみの電力負荷に制限した場合にタービン自体の慣性力による有効な発電がどれほどの時間継続するかという試験であった。この試験に際しては、原子炉の出力は標準熱出力の3.2GWから、より安全な低い出力である700MWまで減らす計画になっていた。

「チェルノブイリの災害」によると、このような実験がチェルノブイリ原子力発電所にて計画された背景には、1981年にイスラエル航空宇宙軍によりイラクにて建設中であったオシラク原子炉への空爆(オペラ作戦)が行われ、同炉が破壊された事件が遠因であったとされている。フランス[注釈 3] の技術協力により建設中であった原子炉が戦闘により破壊されたという事実は当時のソ連核技術者にも衝撃を与え、RBMK-1000型をはじめとするソ連型原子炉でも実際に他国の軍事攻撃を受けた場合を想定した訓練を行う事で、攻撃により発電所の機能の一部が喪失した場合でも一定の安全性を担保する為のノウハウを蓄積しておく必要に迫られたのである。チェルノブイリで計画された実験には副技師長ディアトロフが特に強い執念を抱いて臨んでいたという[36]

実験を行うために、実験予定日の前日から運転員は炉の出力を予定通りの700MWに落として実験開始に備えていた。しかし中央の出力司令所からの給電指令が長時間にわたり延期され、当初の予定時刻を過ぎても実験を開始できなかった。

その間、原子炉の内部では中性子を吸収する性質が強いキセノンがどんどん溜まっていき、キセノンオーバーライド状態になって出力が自然に低下し始めた。運転員は低下した出力を無理に補うため、挿入されていた制御棒を引き抜かざるを得ず、出力が下がっては抜き、下がってはまた別の制御棒を抜き、を繰り返すことによって、延びに延びた実験開始の時点では制御棒のほとんどが抜かれていたといわれている。

制御棒をほとんど引き抜いていた状態から、実験に適したさらに低い出力にするために、今度はいくつかの制御棒が挿入された。しかし炉の出力は、局所制御系から平均制御系への運転モード切り替え操作時に目標値計算を忘れるというオペミス(日本の国会答弁によれば、出力10%以下でしか切り替えを行わない規則があったという[37])により予定外の30MW(3万キロワット)まで低下した[注釈 4]

この30MWという出力レベルは安全規則が許す限界に近かったにもかかわらず、原子炉を停止せずに実験を強行すること、しかも下がりすぎた出力を補うために本来の実験手順・要項の一部を省略した上に、予定出力の半分以下である200MWで実験を行うことを現場指揮者のディアトロフが独断で決めた。「チェルノブイリの災害」によると、操作員で事故当時のシフト班長であったアレクサンドル・アキーモフEnglish版は、同僚でもう一人の操作員であったレオニード・トゥプトノフと共に、ディアトロフにキセノンオーバーライド状態で異常な挙動を示している原子炉を一度完全に停止するよう進言したが、功を焦るディアトロフにより却下された。ディアトロフはRBMK-1000に潜む構造上の危険性に気付く事もなく、なぜ実験が「700MWで行う事」とされているのかの真意についても理解せず、党中央から指示された出力値を遙かに下回る低出力で実験を成功させれば、より自分の出世にとって利益となるであろうこと、出力が低い分には危険性は無いであろうという予断により、自説を押し通して実験を強行したともされている[36]。結果として過剰となったキセノン135の中性子吸収を克服するため、多くの制御棒が炉から引き抜かれ、安全規則が定める挿入済み制御棒本数下限の26本を下回ることになった。

実験の予備段階として、4月26日1時05分にタービン発電機によって動かされる冷却水ポンプが起動されたが、14分後の1時19分にはこれによって生成された水流が安全規則によって指定された流量を超えてしまう。水は中性子を吸収する減速材ゆえに増えすぎると(ボイド=泡が減ると)炉の出力を下げる働きをするので、出力を確保するためにさらに炉から手動で制御棒を引き抜かなければならなくなった(爆発直前の制御棒本数は計6本にまで減らされていた)。この際に再試験優先のため、万一のタービン停止時の炉心運転自動停止装置の回路をバイパスして無効化した。

このような不安定な炉心状態で、1時23分04秒に実験が始まった。

前述の措置により、原子炉各設備の不安定な状態は制御盤にはまったく表示されず、また知識不足も重なり、操作員たちは誰も危険に気付いていなかった。冷却水ポンプへの電気が止められ、そのポンプがタービン発電機の慣性回転のみで運転されると、炉心へ送られる冷却水の流量は減少した。タービンは炉心配管で蒸気量を増やしつつある(減速材である水を減らしつつある)原子炉から切り離された。

冷却材が温められるにつれて、冷却材配管中にボイドが増えて大きくなり始めた。チェルノブイリのRBMK黒鉛減速炉は設計上、大きな正のボイド係数を持っているが、それは減速材による中性子捕獲効果が万一減ると同時に原子炉出力は急速に増加し(減速材が減りすぎても逆に中性子は方々へ飛散してしまい核反応しにくくなる)、運転がより不安定で危険になることを意味する。さらにこの原子炉においては、制御棒の先に黒鉛ディスプレーサーという核反応促進装置(減速材の一種)が取り付けられており、これが挿入される間は反応が加速され、これが抜かれて水が浸入すると反応が抑制されるという、急激な変化をもたらす構造となっており、その上下寸法はコスト削減のために核燃料棒のリーチよりやや短くされていた[38][39]

1時23分40秒に操作員のアキーモフは「スクラム」(軽率にも引き抜かれていた手動制御棒を含むすべての制御棒の全挿入)を命令する「事故防衛」ボタンを押した。それが緊急処置として行われたのか、あるいはただ実験の一部として原子炉停止の型通りの方法(4号炉は通例通りの保守のために停止が予定されていた)として行われたのかは不明であるが、その予期しない速い出力増加を止めるための緊急対応として命じられたものだと一般には考えられている[1]。「チェルノブイリの災害」では今中の説に近い展開が描かれており、原子炉の直上で作業を行っていた炉心セクション部長のヴァレリー・ペレヴォチェンコが、鋼鉄製で1個350kgある燃料チャンネルの蓋が異常高圧で次々に跳ね上がるという、前代未聞の光景を目の当たりにして運転室に駆け込み、アキモフ達操作員に原子炉が爆発しかかっている事実を伝えた事により、「スクラム」の操作を行ったとしている[36]。他方、ディアトロフ副技師長は、自身の著書 [2] で次のように述べている:

01:23:40より前には、中央制御システムは……スクラムを正当化するようなパラメータ変動を記録していなかった。委員会……が大量の資料を集め分析したが、その報告で述べられた通り、なぜそのスクラムが指示されたかの理由は特定できなかった。その理由を探す必要などなかった。その原子炉はただ実験の一部として停止されたのだから。

制御棒挿入機構のスピードの遅さ(完了までに18 - 20秒)、黒鉛ディスプレーサーが通過することでの一時的な反応促進作用(ポジティブ・スクラムと呼ばれた)、減速材である冷却水が減少し配管内部がボイドおよび蒸気で満たされる、などによってこのスクラム操作はむしろ核反応を劇的に増やす結果になり、炉心内圧上昇は制御棒装置周辺設備の大規模な変形をもたらし操作不能となり、原子炉の反応を止める術を失った。なお黒鉛ディスプレーサーの事故発生寄与度については国際会議でも諸説分かれている[40]

1時23分47秒までに、原子炉出力は定格熱出力の10倍であるおよそ30GW(東京電力管内のピーク時総発電量の半分に相当)まで跳ね上がった。燃料棒は融けて飛び散り、構造上から核燃料が冷却水管の中にあるため瞬時に2000℃近い溶融燃料が冷却水と接触し、あたかも油をひいて熱したフライパンに水を投入した時のように、水は全て一瞬で蒸気化し容積が急膨張し水蒸気爆発を起こした[41]。一説では爆発は2度あり、ソ連の事故報告書によればこの2度目の爆発は、燃料棒被覆や原子炉の構造材に使用されていたジルカロイと水が高温で反応したことによって発生した水素による水素爆発である。これに対し京都大学の今中哲二は、冷却水を喪失した事によって反応度が増大し、即発臨界で大量のエネルギーが放出されたことによる爆発であると解釈した(即発臨界を「一種の核爆発」と表現しているが、これは核爆弾の爆発とは意味が異なる。核爆発をどう定義するかの言葉上の問題)[42]。この爆発による爆風が原子炉容器の500トンの天蓋を吹っ飛ばして斜めにしたため隙間が開いて炉心は大気開放状態となり(この時はまだ爆発とわからず必死で制御棒を操作していたという)、建屋の屋根にも穴が開いた。近隣の者による証言では発電所から赤く光る物体が次々と宙に舞い上がり、花火を見ているようだったという。吹き出す様は火山噴火のようで、一瞬の揺れは地震かと思った、との原子炉タービン建屋の作業員の証言もある。「チェルノブイリの災害」では、タービン建屋作業員の数少ない生き残りであるアレクサンドル・ユフチェンコの証言として、「激しい揺れとドアを吹き飛ばす程の衝撃波、その後に灰白色のもや(死の灰を含んだ粉塵)が周囲にたちこめた。建屋内の停電と助けを求める全身火傷の同僚作業員、そして本来そこにあったはずの施設が丸ごと吹き飛ばされ、建屋に開いた大穴からそこに見えるはずのない星空が広がっている光景を目の当たりにして、ただ事ではない事態が起こった事を認識した。」という主旨の再現映像が収録されている[注釈 5][43][36]

炉心大型化と、経費削減と、納期最優先の突貫工事[注釈 6] のために、4号炉は部分的な封じ込めだけで建設されていた(RBMK-1000チェルノブイリ原子力発電所も参照)。核兵器用のプルトニウム抽出原子炉の設計を転用した原子炉であることも一因であった。これも一因となり、蒸気爆発が一次圧力容器を破裂させ天蓋を吹っ飛ばした後、急速に流れ込んだ酸素と高温の核燃料が合わさって黒鉛減速材が火災を起こしたため、これが上空6000mもの気流に乗って世界各地へ飛散し、広範囲の汚染、および原発周辺地域の高汚染の要因になった。

論争

目撃証言と発電所の記録の間に矛盾があるために、現地時間1時22分30秒の後に起こった事態の正確なつながりについては、解釈が分かれている。

最も広く合意されている説明は上で記述した通りである[注釈 7] が、この理論によれば、最初の爆発は操作員のアキーモフが「スクラム」を命令した7秒後のおよそ1時23分47秒に起きたことになる。しかし、爆発がそのスクラムの前、あるいはすぐ直後に起きたと時々主張される(これはソビエト委員会の事故調査の作業途中での説明であった)。

この違いは重大である。なぜなら、もし原子炉がスクラムの数秒後に超臨界になったなら[注釈 8] 事故原因は制御棒の設計にあると見なされるのに対して、爆発がスクラムと同時に起こったのならば、責任は指揮者にあったことになるからである。

これについては、ソ連の原発の建設および運用体制に問題の一因があったといわれている。原発の設計と建設は中規模機械製作省が担当し、原発の運用は電力電化省が担い、それぞれが縦割りによって意思疎通がおろそかであったことと、前述の通り軍事用原子炉の設計を転用した民生用原子炉であるため前者は軍事機密秘匿を最重要視しており他省にあまり情報を教えたがらなかったため、たとえば制御棒を全部抜かないようになどとする運用安全規則は用意するものの「なぜそうするのか」といった技術的レクチャーは一切しなかったため、実際の運転業務を担う後者側はあまりに技術的知識がなかったというものである。実際、事故直後は両省の間で責任の押し付け合いがあったといい、結局は原子炉の欠陥設計を認めることでの経済的損失を鑑みて電力電化省側が折れたという[39]

1時23分39秒に揺れ(マグニチュード-2.5の地震に相当する規模)がチェルノブイリ周辺で記録されていた。この振動は4号炉の爆発(2回発生[注釈 9])によって起きたのか、あるいは全くの偶然の一致かもしれない。原子炉の致命的な破壊はこの地震によって引き起こされたとされる説も存在する[注釈 10]。その状況は「スクラム」ボタンが一度ならず押されたという事実によって複雑になっているが、実際にスクラムボタンを押した人物(アキーモフとトゥプトノフ)は放射線障害により事故の2週間後に死亡しているため、真相は不明である。ただこうした地震原因説については4号炉以外は無事である点などの疑問点が存在する。

事故発生直後の対応

行政当局の対応のまずさと適切な設備の欠如によって事故の規模は拡大した。

「チェルノブイリの災害」では、事故時に就寝中で事故の1時間後に現場に到着したブリュハーノフ所長は、現地の線量計が測定限界値3.6レントゲンを振り切っている状況を目の当たりにし、事の重大さについては掌握していたものの、共産党中央委員会の原子力発電部部長に電話にて事故の第一報を入れた際に、自らの保身から「事故が発生したが原子炉は無事である」と思わず虚偽の報告を行ってしまったとされている[36]

2011年の回想によれば、共産党中央委員会政治局会議(当時のソ連の最高意志決定機関)で原発担当大臣が書記長などに対し「大丈夫です」と述べたため対策が遅れた。真相は現地の関係者からの知らせによって分かったという[44]。 

4号原子炉建屋に設置された線量計のうち、2つの線量計は1,000レントゲン毎秒まで測定可能だったが、1つは爆発のために接近できず、もう1つは作動させた時に故障していてどちらも使用できず、それ以外の線量計は1ミリレントゲン毎秒までしか測定できないものだった。そのため、原子炉の操作員は原子炉建屋の大部分の放射線レベルが4レントゲン毎時(約1.1ミリレントゲン毎秒)より大きいことを確認できただけだったが、実際の線量レベルは、最も高い区域で20,000レントゲン毎時であった[注釈 11]。このような不完全な情報に基づき、アキモフ班長は原子炉が損なわれていないと判断した。このとき、建物周辺には黒鉛と核燃料の小片が横たわっていたが、原子炉破損の判断にはつながらなかった。また、現地時間4時30分までに持ち込まれたもう1つの線量計による測定値は、線量計の故障と判断された。原子炉に水を送り込もうと作業を続けたアキモフと操作員は、翌朝まで原子炉建屋に留まったが、いずれも保護具を着用しておらず、大部分は事故後3週間で放射線障害のため死亡した。

事故直後、消防士が消火活動のために到着したが、彼らは放射性物質による煙や残骸等がどれほど危険であるかを告げられてはいなかった。火災は5時までには消火したが、その間に多くの消防士が高い放射線量にさらされた。事故直後に原子炉建屋の上で消火作業を行い、急性放射線障害で死亡した消防士の一人であるウラジミール・プラビクEnglish版の場合は、余りにも強い放射線の為に本来茶色であった瞳の色が死亡時には青色に変わってしまったという[43]。事故を調査するために政府委員会が招集され、副首相のボリス・シチェルビナрусский版が4月26日の夜にチェルノブイリに到着したが、その時までに2人が死亡し、52人が入院していた。4月26日の夜(その爆発の24時間以上後)に、高いレベルの放射能と多人数の放射線被曝の十分な証拠に直面した委員会は原子炉の破損を認めなければならなくなり、プリピャチ(ウクライナ)の近くの都市からの退避を命令した。

大惨事の拡大を止めるために、ソ連政府は清掃作業にあたる労働者を現地に送り込んだ。(陸軍兵士とその他の労働者で構成された)多くの「解体作業者 (リクビダートル) 」が清掃スタッフとして送り込まれたが、大部分がその危険について何も知らされておらず、効果的な保護具は利用できなかった。というより、このような稼働中の原子炉が爆発し破壊される事態など想定されていなかったし、そもそもこれほどの高線量に対応した「地球の地表で活動するための」放射線防護具など、(現在に至るまで世界のどこにも)存在していなかった。特に危険と思われる場所を担当する軍部隊のみ、軍内部で急造した鉛入りの両かけエプロンを着用させたが、効果のほどは不明であった。放射性の残骸のうち最悪のものは原子炉の残骸の中に集められた。原子炉それ自身は事故の翌週にヘリコプターから投下された砂嚢(およそ5,000t)で覆われた。コンクリート製の石棺が、原子炉とその中身を封じ込めるために早急に建てられた。

しかし発表が遅かった。

直後の結果

4月25日から26日の夜、発電所内の2つの原子炉建屋には運転員や技術者など160名が勤務しており、建設現場では労働者300名余りがいたが、事故直後の爆発で原子炉建屋で勤務していた主循環ポンプオペレーターのヴァレリー・コデムチュクと、自動システム調整員のウラジミール・シャセノクの2名が死亡した。コデムチュクは建屋の崩壊に巻き込まれて行方知れずとなり、現在に至るまで遺体は回収できておらず、現地に建立された記念碑のモデルともなっている[45]。シャセノクは脊椎損傷、肋骨の開放骨折、全身の放射線熱傷により意識を回復することなく死亡した。26日の午前3時頃から運転員や消防士達の間に急性放射線障害により激しく嘔吐して動けなくなる者が続出した。

5月に入ると運転員のアキモフらを始め、消防士や技師達が次々に放射線障害で斃れていった。作業員の中で最初に急性放射線障害を発症し、5月21日に死亡したタービン技師のヴォロディームィル・サヴェンコフは遺体の放射能汚染が余りにも酷すぎた為、鉛製の棺で埋葬をしなければならない程であった[46]。即入院した203人のうち死亡したのは31人で、28人が急性放射線障害だった。彼らは事故を収束させるべく集まった消防と救急の隊員だったが、彼らには煙等からの放射線被曝がどれくらい危険であるかは知らされていなかった。

プリピャチの近くの町からの50,000人を含む合計135,000人が、この地域から避難させられた。

厚生当局は、次の70年にわたって、原子炉から放出された(情報源によって幅があるが、ヨウ素換算値[47] で)5 〜12EBq(Eはエクサ、1018)の放射能を持つ放射性物質を被曝した人の発癌率が2%増加するだろうと予測した。 この事故の結果、癌により10人が死亡した。

IAEAは1986年の分析では、操作員のオペミスを事故の主原因としていたが、1993年1月に、原子炉の設計仕様そのものに根本原因があると改訂した。

ソ連の科学者により、チェルノブイリ4号炉に装填された『二酸化ウラン燃料および核分裂生成物(燃料棒の総量)』を約190トンと推測されているが、このうち大気放出総量の評価は13 - 70%の範囲でばらつきがある。

チェルノブイリ事故による汚染は周辺の地方全体に均等に広がったわけではなく、その日の風向きや天候により不規則な散らばり方をした(これは日本の福島第一原発事故においても同じであり、火山灰や煙の拡散と同質。風で運ばれ、降雨で落ちる)。ソ連および西側各国の科学者からの報告書は、ベラルーシが旧ソ連全体に降りかかった汚染の約60%を受けたと述べている。しかし、北西ウクライナの一部でもあった、ブリャンスクの南にあるロシア連邦の広い地域も汚染された。

#概要も参照)この事故は当初、国内外問わず秘匿されていた。原発事故の発生に最初に気づいたのはスウェーデンで、4月27日にチェルノブイリ原発からおよそ1,100kmにあるスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所の労働者の衣服に放射性物質が付着していることが判明したのがきっかけだった。当初はフォルスマルク原発域内の事故かと騒動になったが、フィンランド政府からも同様の事例があったとスウェーデン政府が通報を受け詳細に当時の気象や風向きなどから発生源の特定調査を行った結果、西ソ連ベラルーシ付近で大きな原子力災害が起こっている疑いが強まり、これを追及されたソ連政府は自国で原発事故が発生したことを公表するに至った[7]

関係者の賞罰

操作員のシフト班長で、ディアトロフに炉の異常な挙動と実験の中止を進言し、制御棒の操作とスクラムの操作を行ったアキモフは事故の15日後の5月10日に死亡した。彼は最期まで「私は指示の通り全ての操作を正しく行った。何も間違ってはいなかったはずなのに」と言い続けていた。アキモフと共に操作に当たっていたトゥプトノフも5月14日に死亡した。彼ら二人をはじめ、事故直後から数ヶ月以内に殉職した運転員や建屋作業員には勇気の勲章 (ロシア)English版[注釈 12]十月革命勲章が授与された。事故直後に消火作業に従事したレオニード・ティラトニコフEnglish版やウラジミール・プラビクを筆頭とする生還・死亡した消防士達、あるいはリクビダートルの中でも特に危険なヘリコプターによる建屋への砂の投下作業に従事したパイロットのニコライ・アントシュキンEnglish版ミコラ・メルニクEnglish版などのソ連軍人達にはソ連邦英雄[注釈 13]レーニン勲章赤旗勲章といった栄誉称号が授与された。

一方、現場責任者であったブリュハーノフ所長、フォーミン技師長、ディアトロフ副技師長は、86年8月に全ての役職を剥奪されて失脚。安全規則違反で刑事裁判に掛けられ禁固10年を宣告、労働収容所English版に収監された。ブリュハーノフはこれに加えて権力濫用の廉で更に5年の刑期を追加されている。フォーミンは裁判前に精神衰弱を起こし自殺未遂を図った為、発狂として間もなく釈放された。残る2人はソ連崩壊により刑期の半分の約5年で釈放されたが、ディアトロフは5.5シーベルトの線量を浴びて晩年まで放射線障害に苦しみながら1995年に心不全により死去した。RBMK-1000型の設計者や党中央委員会の原子力政策関係者らの責任が追究される事はなく、ソ連政府は事故は飽くまでも彼ら3人の怠慢が招いた個人単位の犯罪であると断じたのである。3人は専門知識における過失は認めていたが、刑事責任については否認した。特にディアトロフは、著書を通じて事故の原因は現場作業員の知識の稚拙さよりも、プラントの設計上の欠陥、ソ連の閉鎖的な体制の方が要因として大である事を終生主張し続けた[48]。フォーミンの釈放後の消息は不明であるが、ブリュハーノフはソ連崩壊後にウクライナの国営企業であるウクライナ・エネルギー会社English版に技術者として再雇用され、2006年と2010年にロシア系メディアの事故当時の状況に関するインタビューに応じている[49][50]

この3名以外では4号炉管理責任者で事故翌日より終息作業に当たったアレクサンドル・P・コワレンコが安全規則違反で懲役3年、同じく事故翌日より終息作業に当たったシフト班長のボリス・ロゴーシキンが安全規則違反と職務怠慢で懲役7年、シニアエンジニアのユーリ・ラウシキンが職務怠慢で懲役2年を宣告されているが、3名はいずれも事故の責任について無罪を主張した[51][52]

影響

商用発電炉の歴史で、放射線による死者が出たのはこれが初めてだった。

2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によれば、ロシアの事故処理従事者86万人中5万5000人が既に死亡しており、ウクライナ国内(人口約5000万人)の国内被曝者総数342.7万人の内、作業員は86.9%が病気に罹っている。

また、周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。

IAEAの記録によると、この事故による放射性物質の放出とそれに伴う汚染は広島に投下された原爆(リトルボーイ)による汚染の約400倍と多いようでも[4]、20世紀中頃に繰り返されたすべての大気圏内核実験による汚染と単純比較した場合、その放射性物質の総量比率は100分 - 1,000分の1に過ぎないので、この事故は局地的災害の性質が濃いという考え方もあるが、

  • 世界各地に降下した放射性物質による各地の被害線量はそれぞれ異なる(爆心はどこか、風向きの延長線上か、など固有条件に左右される)
  • 高所爆発の核爆弾と、地上爆発の原発では汚染実態が異なる(爆弾の方が高所から遠方へ高速で飛散し、平方mあたりの被害が小さくなりやすい)
    • さらに、大気圏内で特に遮蔽物のない状態で爆発を起こした場合、基本的に大気圧の弱い上方へ向かってより強い爆風が起きる。この為、戦略型の核爆弾の場合は爆発力によって大半の核燃料は宇宙空間にまで押し上げられる。これは、広島の原爆投下の事後調査によって、破壊範囲に対して爆心地至近以外に核燃料がほとんど残留していなかったことで証明されている。
  • 核爆弾は少量の核の大半を瞬時に反応させ終えてしまうが、原発事故は大量の核のゆるやかな核反応つまり臨界が長く続く
  • 核爆弾は1発あたりの放射性物質の総量は数キログラムから数十キログラムと非常に少なく、原発は1カ所あたりの総量が非常に多い、

など、単純比較にはあまり意味がないともいえる[53]

国連科学委員会の「原子放射線の影響に関する国連科学委員会」(UNSCEAR-1993)によると1945年から60年代に行われた約500回の大気圏核爆発により拡散した放射性物質による集団積算線量は2230万人・Svと推定されている。対してチェルノブイリ事故による集団積算線量は60万人・Svと推定されており核爆発の約13回分(40分の1)に相当している[54]

国連科学委員会は2008年の報告で集団積算線量を以下のように推定している[55](1986-2005年の間の累計値)

  • 復旧作業者、53万人の集団積算線量は61200人・Sv、平均一人117mSv
  • 避難民、11万5千人、集団積算線量は3600人・Sv、平均一人31mSv
  • ベラルーシ、ロシア、ウクライナの汚染地区に住む住民、640万人、集団積算線量は58900人・Sv、平均一人9mSv

直後の影響

爆発時、炉心内部の放射性物質は量にして推定10t前後、14エクサベクレルに及ぶ放射性物質が放出され[56]北半球全域に拡散した。

食品汚染

事故直後半年以内で以下の例が報告されている[57]

  • リビア - 西欧から輸入される缶詰から放射性物質 (5/6)
  • レバノン - 東欧から密輸されてきた羊200頭が盲目と判明 (5/27)
  • イギリス - 羊からセシウム検出 事故現場から2000km超 (6/21)
  • フィリピン - オランダ製粉ミルクから放射性物質 (9/6)

日本での反応

事故直後の社会現象としては、例えば、日本では欧州産パスタの販売量が一時的に急減した。「放射線障害に効く」というデマが流れ、ヨード卵の価格が高騰した。日本では、この事故をきっかけに原子力発電そのものに対する一般市民の不安が急増した。このため、政府は、『日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きない』という説明を行った。広河隆一が直接現場を訪れて取材した。しかし、アメリカ型原発もメルトダウン事故を起こしていること、日本の東京電力東北電力中部電力北陸電力中国電力が採用しているGE製Mrak.I型原発の格納容器に欠点[注釈 14]があることがアメリカ本国で認識されていること、などは周知されず、最終的に福島第一原子力発電所事故を起こすことになる[注釈 15]

放射性物質の長期的動向

放射能の内訳の経時変化のグラフ。減衰の早い核種が消滅することにより最終的にはCs-137がほぼ唯一の放射線源となる。
セシウム137の濃度に基づく放射能汚染地域

事故の直後においては健康への影響は主に半減期8日の放射性ヨウ素によるものだった。今日では、半減期が約30年のストロンチウム90セシウム137による土壌汚染が問題になっている。最も高いレベルのセシウム137は土壌の表層にあり、それが植物、昆虫、キノコなどに吸収され、現地の食糧生産に入り込む。最近の試験(1997年頃)によると、この区域内の木の中のセシウム137のレベルは上がり続けている。汚染が地下の帯水層や、湖や池のような閉じた水系に移行しているといういくつかの証拠がある(2001年、Germenchuk)。雨や地下水による流去は無視できるほど小さいことが実証されているため、消滅の主な原因は、セシウム137がバリウム137へ自然崩壊したことによるものと予想されている。

労働者と解体作業者

事故後に復旧と清掃作業に従事した労働者は高い放射線線量の被曝を受けた。ほとんどの場合、これらの労働者は受けた放射線量を計測するための個人線量計を装着していなかった。それゆえ専門家は彼らの被曝線量を推定するしかなかった。線量計が使われていた場合でも、測定手順はまちまちだった。

一部の労働者たちは他の者よりも大量の放射線量を受けたと推定された。ソ連の推定によると、30万から60万人が炉から30kmの退避区域のクリーンアップに従事したのだが、その多くは事故から2年後にその区域に入った(解体作業者"liquidators"とは事故の処理と復旧作業のためにその区域に立ち入った労働者を言うが、その推定人数はまちまちである。例えば、世界保健機関 (WHO) は約80万人とし、ロシアは汚染区域で働いていなかった一部の人間も解体作業者としてリストに含めている)。事故から最初の1年で、この区域のクリーンアップ労働者は約21万1,000人と推定される。これら労働者は推定平均線量165ミリシーベルトを受けた。

避難

ソ連政府は事故から36時間後にチェルノブイリ周辺の区域から住民の避難を開始した。およそ1週間後の1986年5月までに、当該プラントから30km以内に居住する全ての人間(約11万6000人)が移転させられ、ゴーストタウンと化した。その他、当該プラントから半径350km以内でも、放射性物質により高濃度に汚染されたホットスポットと呼ばれる地域においては、農業の無期限での停止措置および住民の移転を推進する措置が取られ、結果としてさらに数十万人がホットスポット外に移転した。チェルノブイリから北東に約50キロの汚染が少ない地区にスラブチチという町を建設した。

ソ連の科学者の報告によると、28,000 km2が185kBq/m2を超えるセシウム137に汚染した。当時、約83万人がこの区域に住んでいた。約10,500 km2が555kBq/m2を越えるセシウム137に汚染した。このうち、ベラルーシに7,000 km2、ロシア連邦に2,000 km2、ウクライナに1,500 km2が属する。当時、約25万人がこの区域に住んでいた。これらの報告データは国際チェルノブイリプロジェクトにより裏付けられた。

健康被害

ファイル:Belarus radioactivity and thyroid cancer.png
事故後の隣国ベラルーシ国内における人口10万人あたりの甲状腺患者数の変化
黄色:成人(19 - 34歳)
青色:青年(15 - 18歳)
赤色:小児(0 - 14歳)[58][18]

民間人に対する長期的影響についての問題は、議論の余地が大きい。この事故で生活に影響が出た人の数は極めて多く、原発から半径30km圏内の住民約11万6000人が即時に強制避難、ついで線量ホットスポットである北西約100km圏内も避難対象となり、計40万人超が移住を余儀なくされた。また約60 - 80万人が事故後の処理に従事した(リクビダートル)。1991年 - 1995年の集計データでも約656.7万人の人々が汚染区域[注釈 16] に住み続けている[59]。その一方で、これらの人々の大部分は、比較的に低線量の被曝であると言われる。

汚染区域の子供は甲状腺に、最大で累積50グレイの高線量を被曝した。これは汚染された地産の牛乳を通じ、甲状腺に蓄積される性質を持ち、半減期の短いつまり単位時間あたりでは高線量である放射性ヨウ素を多量に摂取したためであり、また子供は身体および器官が小さいため、大人よりも累積線量が高くなるためでもある。IAEAの報告によると、「事故発生時に0歳から14歳だった子供で、1,800件の記録された甲状腺癌があったが、これは通常よりもはるかに多い」と記されている。発生した小児甲状腺癌は大型で活動的なタイプであり、早期に発見されていたら処置することができた。処置は外科手術と、転移に対するヨウ素131治療が必要である。

1995年、世界保健機関 (WHO) は、子供と若年層に発生した700件近い甲状腺癌をこの事故と関連付けた。10件の死亡が放射線に原因があるとした。しかし、検出される甲状腺癌が急速に増えているという事実は、そのうち少なくとも一部はスクリーニング過程によって作り出されたものであることを示唆している。放射線により誘起される甲状腺癌の典型的な潜伏期間は約10年であるのに対し、一部地域での小児甲状腺癌の増加は1987年から観測されている。しかし、この増加が事故と無関係なのか、あるいはその背後にあるメカニズムかは、まだ十分に解明されていないとIAEAは主張している。

資金不足、不十分な時系列的疫学調査、貧弱な通信設備、および多くの要因からなる緊急の公衆衛生問題により、旧ソ連では疫学的調査が遅々として進んでいない。適切に設計された疫学的調査よりも、スクリーニングに重点が置かれてきた。適切な科学インフラが不足しているため、国際的に疫学的調査を体系立てて行うことが遅れている。

ベラルーシ・ウクライナは、環境の回復、退避と再定住化、汚染されていない食料の開発と食料流通経路の開発、公衆衛生への対策などを行ってきたが、重過ぎる負担になっている。国際機関と外国政府は広範囲に渡る物流支援、人道支援を行ってきた。加えて、欧州委員会 (EC) と世界保健機関は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシでの疫学的調査基盤を強化し、あらゆる種類の疫学的調査の能力を向上させている。

住民は現在でも少なくとも半年に1回は定期的な健康診断を受けており、健康に不安を持っている。一部の人には、男性では頭髪が抜けたり、女性ではひげが濃くなったりといった症状を訴える人もいる。

癌の症例

いくつかの研究により、ベラルーシ、ウクライナ、およびロシアの子供での甲状腺癌の発生が増えていることが分かった[60][61][62]

国際連合人道問題調整事務所の立ち上げた「The United Nations and Chernobyl」によると、ウクライナでは350万人以上が事故の影響を受けており、その内の150万人が子供であった[63]。癌の症例数は19.5倍に増加し、甲状腺癌で54倍、甲状腺腫は44倍、甲状腺機能低下症は5.7倍、結節は55倍となった[64]

ベラルーシでは放射性降下物の70%が国土の四分の一に降り、50万人の子供を含む220万人が放射性降下物の影響を受けた[65]。ベラルーシ政府は15歳未満の子供の甲状腺癌の発生率が2001年には1990年の2000例から8,000-10,000例に急激に上昇したと推定している[66]

ロシアでは270万人が事故の影響を受け、1985年から2000年に汚染地域のカルーガで行われた検診では癌の症例が著しく増加しており、それぞれ、乳癌が121%、肺癌が58%、食道癌が112%、子宮癌が88%、リンパ腺と造血組織で59%の増加を示した[67]。ベラルーシとウクライナの汚染地域でも乳癌の増加は報告されている[68]

2011年、アメリカ国立衛生研究所の一機関であるアメリカ国立癌研究所による国際的な研究チームは、子供の被曝は、大人が被曝した場合に比べて甲状腺癌にかかるリスクが高く、さらに依然として甲状腺癌の発症リスクが減少傾向に転じていないことを報告した[69]

白血病

アメリカ国立癌研究所の調査結果によると、慢性被曝による癌リスクは日本の原爆被爆者が受けた急性被曝によるリスクに匹敵し、放射能汚染は、白血病全体のリスク増加に加え、チェルノブイリ事故前には放射能被曝との関連性が知られていなかった慢性リンパ性白血病に影響を及ぼしていることが分かった[70]

過去の被曝者の健康調査の結果、白血病は被曝から発病まで平均12年、固形癌については平均20 - 25年以上かかることが分かっている[71]。このことから、白血病および固形癌が通常に比べてどれだけ増加するのかは継続的な調査によって判明すると予想される。

自然界への影響

ファイル:Kiev-UkrainianNationalChernobylMuseum 15.jpg
ウクライナ国立チェルノブイリ博物館に展示されている犬の二殿体奇形標本[72]

第一回チェルノブイリ事故の生物学的、放射線医学的観点にかかる国際会議(1990年9月)でのソビエトの科学者による報告によると、当該プラントから10km区域での放射性降下物のレベルは4.81GBq/m2であった。大量の放射性降下物により枯死したいわゆるマツの「赤い森」が10km区域内のサイトのすぐ背後の地帯に広がっている。この森は事故後、極めて大量の放射性降下物により枯死して赤茶色に見える木々のためにそう名づけられた。事故後のクリーンアップ作業の中で、4 km2の森の大部分が埋め立てられた。赤い森のある場所は、世界で最も汚染された地域の一つである。

この地域の動植物に放射性降下物が長期的な悪影響をもたらしたかどうかは未だ分かっていない。動植物は人間に比べ、放射線耐性が大きく異なり、また幅広く差があるためである。この地域の一部の植物が突然変異しているという報告もあり、そのため、奇怪な姿に変異した多くの植物があるという「ふしぎの森」や「奇怪な森」についての根拠のない噂がいくつか生まれている。また、植物に限らず動物や昆虫の奇形化・巨大化も一部で起こった。

しかしながら、その場所から人間がいなくなったことが自然の復活をもたらしつつあるようで、たとえば事故後およそ20年後現地に入ったウクライナ系米国人ジャーナリストによれば、イノシシを主として、いくつかの希少な動植物が数を増やしているという[73]。テレビ番組「Life After People(人類滅亡後の世界)」では、人類滅亡後の地球の姿を想像するサンプルとして、チェルノブイリが取り上げられている[74]

事故後のチェルノブイリ

運転

チェルノブイリプラントのトラブルそのものは4号炉の惨劇で終わったわけではなかった。ウクライナ政府は、国内のエネルギー不足のため残った3つの原子炉を運転させ続けた。この時のウクライナ政府は財政難で新規の発電所の建設が困難であったため、チェルノブイリ原子力発電所をそのまま使わざるを得なかった。

1991年に2号炉で火災が発生し、政府当局は炉が修復不能なレベルまで損傷していると宣言して、電源系統から切り離した。1号炉は、ウクライナ政府とIAEAのような国際機関との間の取り引きの一部として、1996年11月に退役した。

2000年11月に当時のウクライナ大統領・レオニード・クチマ本人が公式式典で3号炉のスイッチを切り、こうして全プラントが運転停止した。

石棺

ファイル:Chernobylreactor 1.jpg
4号炉の石棺(2006年)

4号炉は事故直後、大量の作業員を投入し、「石棺」と呼ばれるコンクリートの建造物に覆われた。建設は6月に開始され、11月に完成した。耐用年数は30年とされており、老朽化への対策が望まれている。

事故後、放射能汚染により人が立ち入ることができなかったことから、原発事故の直撃を受けた職員の遺体が搬出されなかった。事故直後に無防備のまま炉の中に入った数名の作業者の行方が未だに判らず、現在も石棺の中に数名の職員の遺体が残っているものと考えられるが、彼らの遺体を搬出できるようになるまでには数世紀に及ぶ長い年月を要するとみられている。

石棺の中では放射性物質拡散防止のために特殊な薬剤が散布されているが、大半が外部に流出しているとみられている。

なお、『10日間で収束した』という曖昧な俗説が見受けられるが、実際は簡易的に線源放出量を下げる応急処置が功を奏するまでの期間に過ぎない。石棺の完成までは事故発生から7か月を要している。時系列的には、4月27日にホウ酸、石灰、鉛、粘土、砂など5000トンを炉内へ散布し放射線源放出量が1/3、5月1日までには1/6に低下。翌2日、核燃料の崩壊熱と制御棒黒鉛棒の火災熱により温度上昇し線量が再び増加、翌3日にはこの高温化した炉内と水分との接触を回避するためにサプレッションプールから水抜き作業を開始(再度水蒸気爆発の回避)、翌4日には放出線量が事故当日の半分にまで増加、翌5日には液体窒素注入を開始し急激な線量低下を達成した、という流れである[75]

将来の補修の必要性

石棺はこの場合効果的な封印手段ではなく、石棺の建設は応急処置である。大半は産業用ロボットを用いて遠隔操作で建設されたために老朽化が著しく、万が一崩壊した場合には放射性同位体の飛沫が飛散するリスクがある。より効果的な封印策について多くの計画が発案、議論されたが、これまでのところいずれも実行に移されていない。国内外から寄付された資金は建設契約の非効率的な分散や、杜撰な管理、または盗難に遭うなどして浪費される結果となった。

現在も年間4,000kL近い雨水が石棺の中に流れ込んでおり、原子炉内部を通って放射能を周辺の土壌へ拡散している。石棺の中の湿気により石棺のコンクリートや鉄筋が腐食し続けている。

その上事故当時原子炉の中にあった燃料のおよそ95%が未だ石棺の中に留まっており、その全放射能はおよそ1,800万キュリーにのぼる。この放射性物質は、炉心の残骸や塵、および溶岩状の「燃料含有物質 (FCM) 」からなる。このFCMは破損した原子炉建屋を伝って流れ、セラミック状に凝固している。単純に見積もっても、少なくとも4tの放射性物質が石棺内に留まっている。

シェルター構築計画

シェルター構築計画 (SIP) は、現在4号炉を覆っている石棺の上に、新安全閉じ込め設備 (NSC) と呼ばれる、石棺を覆うようにして滑らせる可動式のアーチを建設し、それを使用して石棺内にあるとされる放射性物質や汚染された瓦礫などを排除し、4号炉の中にある放射能をゼロにするという計画である[76][77][78][79][80]。放射能や水の汚染などの問題解決が期待されるが、建設に莫大な費用(推定コストは7億6800万ドル)や労力がかかるという問題がある。NSCの概念設計は、高い放射線場を避けるためシェルターから離れた場所で建設してから取り付ける方式をとる。NSCは史上最大級の可動式構造物になることが想定される。

チェルノブイリシェルター基金は1997年のデンバーG7サミットでシェルター構築計画に資金を提供するために設立された。

シェルターはベクテルバッテル記念研究所English版フランス電力公社によって管理される予定。

旧チェルノブイリ発電所のパノラマビュー(2013年6月) 左側からNSCの半分(リフト作業中)、4号機、3号機、2号機、1号機

NSCは最終的に全幅257m、全長162m、全高108m、総重量36,000トンで史上最大の可動式地上構造物となった。NSCは2016年11月14日までに完成し、同日から4号炉上にスライドさせる作業が開始された。建設現場から224本の油圧ジャッキを用いて60cmずつ動かして327mスライドさせるのに5日ほどかかる予定である[81]

訪問

2010年12月21日より、ウクライナ政府は正式にチェルノブイリ原子力発電所付近への立ち入りを許可した。本来は発電所から半径30km以内はそれまで立入禁止であった。ウクライナ政府が正式にこのような許可を発表したのは、現在は発電所付近の放射線レベルが低くなったためとの発表があったためである。キエフからはツアーが催行されている。無人の土地となった現地一帯は、野生動物の宝庫となっている。

大衆の認識の中のチェルノブイリ

チェルノブイリ事故は国際的な注目を集めた。その結果として「チェルノブイリ」は大衆の認識に多くの異なった姿で刻み込まれることとなった。

政治的余波

チェルノブイリ事故は明らかに大規模災害であったため、世界中のメディアの注目を集めた。原子力のリスクに対する大衆の認識は大幅に上がった。原子力推進側と反対側の団体が、大衆の意見を動かすために多くの努力を払った。死傷者の数、炉の安全性の評価、および他の炉でのリスク評価は、著者がどちらの立場に近いかによって大きく異なる。例えば、原子放射線の影響に関する国連科学委員会は、国際連合人道問題調整事務所の刊行物に関して、公に批判した。このように、この問題の真実を明らかにすることはかなり困難である。

実際の事故の原因、経過に関しては、ソ連首脳部に対しても、より現場に近い組織、人間が事実を隠蔽しようとする動きがあった。これは、スターリン体制以来の恐怖政治から、当事者が懲罰を恐れ自らの保身を第一に考えたためである。この体質に対して最高指導者のミハイル・ゴルバチョフはいらだち、グラスノスチ(情報公開)の徹底を指導した。事故は改革派としてのゴルバチョフのイメージに傷をつけることになった[82]

チェルノブイリと聖書

ファイル:ArtemisiaVulgaris.jpg
チョルノブイリ (Artemisia vulgaris)

「チェルノブイリ」が「ニガヨモギ」と翻訳されることがある事実から(この翻訳が正しいかどうかは議論の余地があるが)、英語圏キリスト教徒の間で、チェルノブイリ事故は聖書の中に記されているという都市伝説が生まれた[注釈 17]

この話の発祥(少なくとも西側に広まることになった最初の起源)は、ウクライナ語で「ニガヨモギ」を「チェルノブイリ」というのだという氏名不詳の「著名なロシア人作家」の主張を引用した、サージ・シュメマンEnglish版によるニューヨーク・タイムズ紙の記事だとされている。

この都市の名前は、ウクライナ語でニガヨモギの近縁種の mugwort (Artemisia vulgaris) を意味する「チョルノブイリ (чорнобиль / chornobilʹ) 」から来ている。この語は、「チョールヌイ(chornyi、黒い)」と「ブイリヤ(byllia、草の葉または茎)」を組み合わせたものであるから、直訳すれば「黒い草」、または「黒い茎」という意味になる。

黙示録』のニガヨモギは、Artemisia vulgaris でも Artemisia absinthium (現在のニガヨモギ)でもなく、Artemisia judaica だとする説が有力である。

また、キリスト教神学上の通説においてはこのような聖書解釈は一切なされていない。

チェルノブイリの首飾り

被曝児の喉に残っている赤い傷痕で、甲状腺癌摘出による手術跡を首飾りに見立てている。なお、甲状腺を摘出した場合、代謝を司る甲状腺ホルモンを体内で作ることができなくなるため、生涯甲状腺ホルモンの必要量を毎日経口摂取しなければならない。

チェルノブイリ・ウイルス

CIHコンピュータウイルスは多くのメディアにより「チェルノブイリ・ウイルス」という名前を付けられた。変種v1.2が毎年4月26日、すなわちチェルノブイリ事故の日に発症することにちなんでいる。しかし、これはウイルスの作成者の誕生日がたまたまその日だったというだけで、ただの偶然の一致である。

関連資料

書籍

インタビュー集

回想録

写真集

  • 広河隆一 『チェルノブイリと地球』(1996年、講談社)
  • 広河隆一 『チェルノブイリ 消えた 458 の村』(1999年日本図書センター
  • 広河隆一 『原発・核 2 チェルノブイリの悲劇』(1999年、日本図書センター)

作文集

  • チェルノブイリ支援運動・九州編 『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた〜子どもたちのチェルノブイリ〜』(1995年、梓書院)

小説

漫画

  • 三枝義浩 『チェルノブイリの少年たち』(1992年6月、講談社)
  • 原作:広河隆一、作画:三枝義浩 『危険な雨〜ひろがるチェルノブイリ事故の被害〜』(1993年4月、講談社) - 『AIDSエイズ〜少年はなぜ死んだか〜』に併録という形で出版。

映像作品(ドキュメンタリー)

残留放射能が多く存在し続けている現地周辺を撮影しているため、空中を飛び交う中性子が撮影用フィルムに衝突して感光し、無数の白い小さな点が一緒に撮影された作品が多い。

  • 『チェルノブイリ・クライシス 史上最悪の原発事故』(1987年) ※旧ソ連官製作品
  • 『チェルノブイリ・シンドローム その後の史上最悪の原発事故』(1987年) ※同上。
いずれも、石棺で閉じられる以前の4号炉を地上から撮影したドキュメンタリー映像。破壊された原子炉内部から撮影した映像も含まれている。なお、撮影スタッフは公開当時、既に全員が死亡していた。
  • 『チェルノブイリ原発事故 〜調査報告〜』(1990年NHK
  • 『チェルノブイリの真実』(1996年、講談社) ※広河隆一総監修・撮影
  • 『チェルノブイリ原発事故 その10年後』(1998年、スイスTSI制作、NHKBS1放映)
  • プロジェクトX〜挑戦者たち〜 『チェルノブイリの傷 奇跡のメス』(2004年、NHK)
  • ZERO HOURシリーズ 『チェルノブイリ原発事故』(2004年、ディスカバリーチャンネル[83]
  • NHKスペシャル 『汚された大地で 〜チェルノブイリ 20年後の真実〜』[84][85]
  • NHKシリーズ 飽くなき真実の追求 ドキュメンタリードラマ『チェルノブイリの真相 〜ある科学者の告白〜』
BBC/ディスカバリーチャンネル/プロジーベン (イギリス/アメリカ/ドイツ 2006年)原題:Chernobyl Nuclear Disaster

ドラマ映画

音楽作品

注釈

  1. 放出された主な放射性物質は、ヨウ素131ルテニウム103セシウム137などとされる。
  2. (詳しい議論はウィキペディアロシア語・英語版参照)
  3. 作中ではソ連製という説明がされているが、実際にソ連が建設に携わったのはオシラク原子炉ではなく、1968年に導入された5MW級研究用原子炉のIRT-2000型である。
  4. 黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉 (RBMK) では、通常運転している炉内では十分な中性子が発生しているため、キセノン135は中性子を吸収して、中性子を吸収しない核種キセノン136(安定核)に変化する。しかし出力を下げると中性子発生が減るためキセノン135が消滅せず蓄積して中性子捕獲率が上昇しすぎ、出力をより引き下げる方向に働くがこれを正の反応度フィードバックと言い、運転出力を不安定にする原因である。詳しくはキセノンオーバーライドの項目を参照されたい。軽水炉でもキセノン135は発生するが、ボイド効果ドップラー効果により補償されるので全体としては全領域で安定である。こちらについては自己制御性の項目を参照されたい。
  5. なお、ユフチェンコは推定4.1シーベルトの線量を浴び、一時は急性放射線障害で危篤状態となったが10回以上に渡る皮膚移植手術を経て奇跡的に生還している。
  6. 結局、この教訓は世界的に生かされなかった。福島第一原子力発電所も、似たような経緯(関西電力美浜原子力発電所よりも先に臨界・発電を開始したがっていた)の為、地震国日本の特性を無視したGE側の要求に東電側が折れて現立地に建設してしまったものだったが、東京電力は国内外からの指摘に対しても安全と言い張り、事故のその日まで運転を続けてしまった。
  7. ただし、IAEAのシナリオによる助言との説もある。
  8. 原文では臨界と書いてあるが文意が通らないので超臨界とした
  9. 一度目の地震動についてはソ連の複数の震度計に記録されているが、二度目は記録されていない。その理由は、外部リンク:「チェルノブイリ原発 隠されていた事実」参照
  10. ヨーロッパではイタリアを除いて地震の発生がほとんどなく、操作員も、深夜で就寝していた住民も、未経験の「地震により縦揺れ」を理解できなかった。原発直下、特に爆発を起こした4号炉の数百メートル下層には活断層があることが確認されている(外部リンク:「チェルノブイリ原発 隠されていた事実」参照)が、耐震設計は全く行われていなかった。
  11. 致死的な線量はおよそ「5時間以内に500レントゲン」である
  12. ソ連崩壊後はウクライナ政府より勇気の勲章 (ウクライナ)English版が追贈された。
  13. ソ連崩壊後はウクライナ政府よりウクライナ英雄English版が追贈された。
  14. 原子炉の熱容量に大して容積が小さく万一冷却機能を喪失した際に封じ込めきる余裕が無いことと、上部格納容器と圧力抑制室をつなぐ配管が強度的に難があること。1F-2ではここが損傷し放射能物質が放出されたとされている。
  15. 関西電力四国電力九州電力北海道電力で採用されているウェンティングハウス-三菱加圧水型原子炉(PWR)は格納容器の容量が充分に大きく、また放射能遮蔽対象は格納容器内に限定される。なお、TMI事故を起こしたバブコック&ウィルコックス型PWRは、やはり格納容器容積を小さくするため原子炉の位置に対して蒸気発生器の位置が低く、循環ポンプ停止の際のフェイルセーフ能力がない(WH型は蒸気発生器の位置を高くすることで、SBOなどで循環ポンプが停止しても一次冷却水が自然対流で最低限循環するようになっている)
  16. 集計上の汚染区域の定義は、1平方kmあたり1キュリー以上のセシウム137による汚染。
  17. 『黙示録』第8章に、ニガヨモギという名の燃える巨星が水源地に落ち、巨星が持つ毒に汚染された水を飲料とした多くの人が死んだという記述がある。

出典

  1. 1.0 1.1 チェルノブイリ事故の経過 今中 哲二
  2. 外部電力が絶たれたときを想定して余熱によるタービン発電して吸水ポンプを動かす実験
  3. 4月26日から10日間 全放出量は14EBq(1EBq=10^18Bq)(原子力百科事典 ATOMICA)
  4. 4.0 4.1 12. How does Chernobyl’s effect measure up to the atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki?
  5. 政府は周辺住民のパニックを避けるために、本来なら住民を避難させなければいけない程の深刻な事故なのにも関わらず、それを公表しませんでした
  6. Discovery Channel - Battle of Chernobyl
  7. 7.0 7.1 http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/9522cc95b6c61f7094f315eed776e2fd 発生から2日後に発覚したチェルノブイリ原発事故
  8. “Chernobyl haunts engineer who alerted world”. CNN Interactive World News (Cable News Network, Inc.). (1996年4月26日). http://www.cnn.com/WORLD/9604/26/chernobyl/230pm/index2.html . 2011閲覧. 
  9. 国土交通省気象研究所「1986年チェルノブイリ原子力発電所事故及び1997年動燃東海事故由来の放射性核種の輸送」
  10. 「この措置を講じなければ燃焼中の炉心がコンクリート壁面を貫通、下部水槽に達し残り3基の原子炉も巻き込み200万平方キロが吹き飛ぶ」当時の対策指揮者の1人ヴァレリー・レガソフ氏談)
  11. サプレッションプール下部まで落下した溶融燃料は軽石状になっているので水と接触したと考えられ、サプレッションプールの水抜きは役立っていない。
  12. 事故直後、ヘリコプターから炉心へホウ酸、石灰石、鉛、粘土や砂を大量に投下したが、大部分は炉心に到達せず、炉心からの放射性物質放出抑制にはほとんど役立っていない。
  13. 5月6日以降に液体窒素を炉心に注入したが溶融燃料は窒素注入までに原子炉下部から水平に東側に最大約50m移動した黒色セラミックスで、そのほぼ先端に象の足状に固化したと考えられ、この段階で液体窒素を注入しても役立っていない。
  14. [http://www.youtube.com/watch?v=b0-AWtxkrjE チェルノブイリ原発 隠されていた事実
  15. ベラルーシにおけるチェルノブイリ原発事故後の小児甲状腺ガンの現状
  16. “Chernobyl’s Legacy: Health, Environmental and Socio-economic Impacts and Recommendations to the Governments of Belarus, the Russian Federation and Ukraine”, The Chernobyl Forum, IAEA, (2005), http://www.iaea.org/Publications/Booklets/Chernobyl/chernobyl.pdf 
  17. 今中哲二 (2007-3), “チェルノブイリ事故による死者の数”, in 今中哲二, チェルノブイリ原発事故の実相解明への多角的アプローチ - 20 年を機会とする事故被害のまとめ -, トヨタ財団助成研究 共同研究報告書, pp. 77-81, http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/tyt2004/imanaka-2.pdf, "フォーラムとしては、昨年9月のウィーン会議で総死者 4000人という数字を発表して20周年に向けての先手を打ったつもりだったのだろうが、ベラルーシやウクライナの専門家やNGO、さらにはベラルーシ政府からも報告書への抗議を受け、ついには報告書修正版を出すに至っている(内容はほとんど変えず表現を柔らかくしたものになった)。" 
  18. 18.0 18.1 Elisabeth Cardis et al. (2006). “Cancer consequences of the Chernobyl accident: 20 years on”. Journal of Radiological Protection 26: 127–140. doi:10.1088/0952-4746/26/2/001. http://depts.washington.edu/epidem/Epi591/Spr09/Chernobyl%20Forum%20Article%20Cardis%20et%20al-1.pdf. 
  19. “原発事故の死者9000人も チェルノブイリでWHO”. 47NEWS(共同通信配信). (2006年4月14日). オリジナル2014年7月12日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140712023144/http://www.47news.jp/CN/200604/CN2006041401001646.html . 2011閲覧. 
  20. 金子正人 (2007), 解説 チェルノブイリ20周年の国際会議に出席して, (PDF), 日本原子力学会誌 49 (1): 24-28, http://www.aesj.or.jp/atomos/popular/kaisetsu200701.pdf, "WHOのM. Repacholiは,健康影響に関する報告は,peer reviewされたpaperのみを考慮したという。また,「フォーラム」が被ばく線量の多かった約60万人についての4,000人というがん死亡予測数を採用したのは,インド,イラン,ブラジルなどの自然放射線レベルの高い地域で過剰ながんが観察されていないので,自然放射線にわずか上乗せされる程度の被ばくしかない低汚染地域の人たちについてまで,過剰がん死亡を予測するのは科学的ではないためと説明された。" 
  21. E Cardis et al. (2006). “Estimates of the cancer burden in Europe from radioactive fallout from the Chernobyl accident”. International Journal of Cancer 119 (6): 1224–1235. doi:10.1002/ijc.22037. 
  22. “The Cancer Burden from Chernobyl in Europe” (プレスリリース), International Agency for Research on Cancer, (2006年4月20日), http://www.iarc.fr/en/media-centre/pr/2006/pr168.html . 2011-6-20閲覧., "Dr Elisabeth Cardis, Head of the IARC Radiation Group, provided greater detail: "By 2065 (i.e. in the eighty years following the accident), predictions based on these models indicate that about 16,000 cases3 of thyroid cancer and 25,000 cases of other cancers may be expected due to radiation from the accident and that about 16,000 deaths from these cancers may occur."" 
  23. Committee to Assess Health Risks from Exposure to Low Levels of Ionizing Radiation, National Research Council (2006). Health risks from exposure to low levels of ionizing radiation: BEIR VII Phase 2. National Academies Press. ISBN 978030909156 5. 
  24. チェルノブイリ事故の健康影響に関する報告書について”. 財団法人 電力中央研究所 原子力技術研究所 放射線安全研究センター. . 2011-6-20閲覧. “リスク係数を昨年公表されたアメリカ科学アカデミーのBEIR-VII報告書[5]に基づいて見直ししています(表2)。これにより、リスク係数は1996年論文[4]の10%/Svから5.1%/Svに下がりましたが、対象範囲を大きく広げた効果により全体として死亡予測数が大幅に増加しています。”
  25. Sebastian Pflugbeil, Henrik Paulitz, Angelika Claussen and Inge Schmitz-Feuerhak (2011-4), “Health Effects of Chernobyl 25 years after the reactor catastrophe”, CHERNOBYLCONGRESS.ORG, IPPNW and GFS Report, http://www.chernobylcongress.org/fileadmin/user_upload/pdfs/chernob_report_2011_en_web.pdf . 2011-6-20閲覧. 
  26. Ian Fairlie and David Sumner (2006年4月). “The Other Report on Chernobyl (TORCH)”. The Greens | EFA. . 2011-6-1閲覧. “Depending on the risk factor used (ie the risk of fatal cancer per person sievert), the TORCH Report estimates that the worldwide collective dose of 600,000 person sieverts will result in 30,000 to 60,000 excess cancer deaths, 7 to 15 times the figure release in the IAEA’s press statement.”
  27. “The Chernobyl Catastrophe - Consequences on Human Health”, Chernobyl death toll grossly underestimated, Greenpeace, (2006-4-18), http://www.greenpeace.org/raw/content/international/press/reports/chernobylhealthreport.pdf . 2011-6-17閲覧. 
  28. John Vidal (2011年4月1日). “Nuclear's green cheerleaders forget Chernobyl at our peril”. The Guardian. http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/apr/01/fukushima-chernobyl-risks-radiation . 2011-6-17閲覧.. "Using other data, the Russian Academy of Medical Sciences declared in 2006 that 212,000 people had died as a direct consequence of Chernobyl." 
  29. Alexey V. Yablokov, Vassily B. Nesterenko, and Alexey V. Nesterenko (2009). Chernobyl: Consequences of the Catastrophe for People and the Environment (Annals of the New York Academy of Sciences), paperback, Wiley-Blackwell. ISBN 978-1573317573. 
  30. Richard Balmforth (2011年3月15日). “Factbox: Key facts on Chernobyl nuclear accident”. Reuters. http://www.reuters.com/article/2011/03/15/us-nuclear-chernobyl-facts-idUSTRE72E42U20110315 . 2011-6-20閲覧.. "The Chernobyl Union of Ukraine, a non-government body, estimates the present death toll from the disaster at almost 734,000." 
  31. 今中哲二 (2007-3), チェルノブイリ原発事故:何がおきたのか, “proceedings原稿”, 第8回環境放射能研究会, http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/kek07-1.pdf . 2011-6-17閲覧., "筆者としては全世界で2万 - 6万件というのがチェルノブイリ事故によるガン死見積もりとして妥当なところかと考えている。チェルノブイリ事故による被害について指摘しておきたいのは、放射線被曝を直接の原因としない「間接的な死者」についてある。田舎暮らしをしてきた老人が、突然に都会に避難させられアパート暮らしを余儀なくされたなら「どんなに健康に悪いか」容易に想像されよう。また、移住によって職を失い、「アル中になって病気になった」例も数多いことだろう。こうした健康影響は、もちろん被曝影響ではないが、チェルノブイリ事故の影響であることは確かである。チェルノブイリ事故が人々にもたらした災厄全体を議論しようとするなら、こうした「間接的影響」を無視することはできない。" 
  32. Ivan Godlevsky and Oleg Nasvit (1999). “Dynamics of Health Status of Residents in the Lugyny District after the Accident at the ChNPS”, in 今中哲二: Recent Research Activities about the Chernobyl NPP Accident in Belarus, Ukraine and Russia. 京都大学 Res. Reactor Inst.: KURRI-KR-21, 149-157. “Average life-expectancy of the Lugyny district population before the accident at the Chernobyl NPS (1984, 1985) has been 75 years, after the accident (1990-1996) — 65 years.” 
  33. Ivan Godlevsky and Oleg Nasvit (1999). “Dynamics of Health Status of Residents in the Lugyny District after the Accident at the ChNPS”, in 今中哲二: Recent Research Activities about the Chernobyl NPP Accident in Belarus, Ukraine and Russia. 京都大学 Res. Reactor Inst.: KURRI-KR-21, 149-157. “The major factors are — the increased level of radiation and presence of permanent stress situations. Mechanisms of the effects of these factors are practically the same: their direct or indirect impact on the systems and organs impairs metabolism and circulation of blood, which results in dystrophiprocesses in organs and systems of the organism determining premature ageing and death.” 
  34. 安全基準を超えた「内部被曝」(要精密検査)すでに4766人、異常値を示した人1193人 隠された放射能汚染を暴く, “経済の死角”, 現代ビジネス(講談社), (2011-5-30), http://gendai.ismedia.jp/articles/-/6318?page=3 . 2011-6-20閲覧., "同国は、事故の5年後の1991年に旧ソ連からの独立を果たした。その当時の人口は約5200万人。ところが年々、人口が減り続け、2010年には約4500万人になってしまった。19年で700万人もの人口減、その減少率は13%にもなる。同国の平均寿命は、かつて75歳前後だったが、5 - 10年後には55歳ほどに低下する可能性があるという。そしていまだに、チェルノブイリ周辺では、障害を抱えて生まれる子どもたちが多いという(NHK BS世界のドキュメンタリー『永遠のチェルノブイリ』)。" 
  35. ●制御棒の構造上、黒鉛製の水排除棒が1.25メートル短いため、緊急停止ボタンを押して制御棒の一斉投入をすると中性子を良く吸収する水が押しだされるため、下部でかえって核反応が増える結果となる。この結果ボイドが 増して正のボイド効果のためますます核反応が進み、破局的な出力激増をまねいた。これを「ポジティブ・スクラム効果」という。
  36. 36.0 36.1 36.2 36.3 36.4 36.5 Disaster At Chernobyl - ディスカバリー・チャンネルYoutube
  37. 第109回国会 科学技術委員会 第4号 昭和六十二年九月一日
  38. チェルノブイリ原子力発電所事故の概要
  39. 39.0 39.1 NHK ETV特集『チェルノブイリ 8年目の真実』
  40. 4.1 事故の原因の一つにポジティブ・スクラム
  41. 広島型原爆の500発分という試算がある(日本経済新聞 2011年5月8日朝刊15面 青木慎一編集委員「ナゾかがく チェルノブイリはなぜ大爆発?」)
  42. 「技術と人間」2002年7月号原稿
  43. 43.0 43.1 Adam Higginbotham (2006年3月26日). “Adam Higginbotham: Chernobyl 20 years on World news The Observer”. London: Guardian. http://www.guardian.co.uk/world/2006/mar/26/nuclear.russia . 2010-3-22閲覧. 
  44. シェワルナゼ元ソ連外相(大震災 日本を立て直す 第3回 産経新聞)。「グラスノスチ(情報公開)」を掲げたゴルバチョフ書記長の時代である。
  45. History does not know the words 'too late' - Publications. Materials about: Pripyat, Chernobyl accident”. pripyat.com. 2010年8月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2013-7-10閲覧.
  46. [1]
  47. アーカイブされたコピー”. 2011年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2011年4月12日閲覧.
  48. Anatoly Dyatlov, "Chernobyl. How it happened" (in Russian)
  49. Бывший директор чернобыльской атомной электростанции виктор брюханов: "ночью, проезжая мимо четвертого блока, увидел, что верхнего строения над реактором… Нету!, Интервью с Виктором Брюхановым, «Факты», 28.04.2006.
  50. Нужна ли реабилитация бывшему директору ЧАЭС? Еженедельник «Взгляд», № 16 (150), 29 Апреля 2010 года
  51. “7/20/87 JUDGMENT AT CHERNOBYL”. Time.com. オリジナル2009年4月2日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090402150411/http://www.time.com/time/daily/chernobyl/870720.court.html . 2010閲覧. 
  52. Reuters (1987年7月30日). “Chernobyl Officials Are Sentenced to Labor Camp”. NYTimes.com. http://www.nytimes.com/1987/07/30/world/chernobyl-officials-are-sentenced-to-labor-camp.html?pagewanted=1 . 2010-3-22閲覧. 
  53. 参考:撒き散らされた量と被曝線量 一瀬昌嗣 神戸高専准教授
  54. 高度情報科学技術研究機構、「放射線源からの集団実効線量の推定」 閲覧 2011-07-02
  55. 国連科学委員会 UNSCEAR-2008 Annex C 38 頁、表-9、閲覧 2011-07-17
  56. チェルノブイリ事故による放射線影響と健康障害(原子力百科事典 ATOMICA)
  57. 広瀬隆 『ジキル博士のハイドを探せ』 ダイヤモンド社 1988年 図1
  58. Yuri E. Demidchik et al. (2007). “Childhood thyroid cancer in Belarus”. International Congress Series 1299: 32-38. doi:10.1016/j.ics.2006.09.005. 
  59. チェルノブイリ原発事故の汚染地域の住民数
  60. 菅谷昭、ユーリ・E・デミチク、エフゲニー・P・デミチク (1998). “第5章 個別の健康影響研究 20.ベラルーシにおけるチェルノブイリ原発事故後の小児甲状腺ガンの現状”, in 今中哲二: チェルノブイリ事故による放射能災害 国際共同研究報告書. 技術と人間. ISBN 4764501252. 
  61. Health Effects of the cherlnobyl Accident and Special Health Care Programmes
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  63. Office for the Coordination of Humanitarian Affairs, “Ukraine”, The United Nations and Chernobyl, http://www.un.org/ha/chernobyl/ukraine.html . 2011-6-20閲覧., "The Chernobyl accident in 1986 affected more than 3.5 million people, including 1.5 million children, and contaminated nearly 50,000 square kilometers of lands in northern Ukraine." 
  64. Office for the Coordination of Humanitarian Affairs, “Ukraine”, The United Nations and Chernobyl, http://www.un.org/ha/chernobyl/ukraine.html . 2011-6-20閲覧., "Examinations showed that a number of cases of cancer increased by 19.5 times, thyroid by 54 times, goiters by 44 times, hypothyroidism by 5.7 times, and nodal formation by 55 times." 
  65. Office for the Coordination of Humanitarian Affairs, “The Republic of Belarus”, The United Nations and Chernobyl, http://www.un.org/ha/chernobyl/belarus.html . 2011-6-20閲覧., "70 percent of the total radioactive fallout from the accident descended on nearly one-fourth of the country. The fallout affected more than 2.2 million people, including 500,000 children." 
  66. Office for the Coordination of Humanitarian Affairs, “The Republic of Belarus”, The United Nations and Chernobyl, http://www.un.org/ha/chernobyl/belarus.html . 2011-6-20閲覧., "The government of Belarus estimated that thyroid cancer rates in children under 15 years rose dramatically from 2,000 cases in 1990 to 8,000-10,000 in 2001." 
  67. Office for the Coordination of Humanitarian Affairs, “The Russian Federation”, The United Nations and Chernobyl, http://www.un.org/ha/chernobyl/russia.html . 2011-6-20閲覧., "Medical examinations in 1985-2000 in Kaluga, one of the contaminated regions, showed that cases of cancer significantly increased, including cancer of the breast by 121 percent, lungs 58 percent, esophagus 112 percent, uterus 88 percent, lymphatic and blood-forming tissues by 59 percent." 
  68. Eero Pukkala et al. (2006). “Breast cancer in Belarus and Ukraine after the Chernobyl accident”. International Journal of Cancer 119 (3): 651–658. doi:10.1002/ijc.21885. http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/ijc.21885/full. 
  69. チェルノブイリ事故以降、依然として続く高い癌発症リスク:チェルノブイリ原発事故当時18歳未満であった者を対象とするスクリーングに関するNIHの研究報告が発表された, “海外癌医療情報リファレンス”, 一般社団法人 日本癌医療翻訳アソシエイツ, (2011-3-17), http://www.cancerit.jp/2011-03-17/2513.html . 2011-6-18閲覧. 
  70. 2011/05/03号◆研究者に聴く「チェルノブイリ原子力災害25周年に際して、モーリーン・ハッチ医師と馬淵清彦医師に聴く」, “海外癌医療情報リファレンス”, 一般社団法人 日本癌医療翻訳アソシエイツ, (2011-5-18), http://www.cancerit.jp/2011-05-18/2712.html . 2011-6-18閲覧. 
  71. 「放射線 その利用とリスク」地人書館、エドワード・ポーチン著、中村尚司訳、昭和62年4月10日初版第1刷
  72. Chronic radiation exposure in the Rivne-Polissia region of Ukraine: implications for birth defects.
  73. Mary Mycio, Wormwood Forest: A Natural History of Chernobyl, Natl Academy Pr, Sep.2005, ISBN 9780309094306
  74. 人類滅亡後の地球はどうなるのかを描いた「Life After People」(Gigazine)
  75. ソ連政府はどのように収束させたのか――福島原発震災 チェルノブイリの教訓(3) ダイヤモンドオンライン社
  76. 【BBC】 チェルノブイリをすっぽり覆う 新シールド工事中
  77. ビデオグラフィック「チェルノブイリ原発の新シェルター」
  78. チェルノブイリ30年:「石棺」老朽化 新シェルター建設中
  79. チェルノブイリ原発、建造中の巨大シェルターが姿現す
  80. チェルノブイリ原発、新シェルター建設現場を公開
  81. Chernobyl arch moved into place in historic engineering feat”. World Nuclear News (2016年11月14日). . 2016閲覧.
  82. Richard Balmforth (2011年3月15日). “Factbox: Key facts on Chernobyl nuclear accident”. Reuters. http://www.reuters.com/article/2011/03/15/us-nuclear-chernobyl-facts-idUSTRE72E42U20110315 . 2011-6-20閲覧.. "The accident dented the image of reformist Soviet leader Mikhail Gorbachev who had earlier launched his 'glasnost' policies for greater openness in Soviet society." 
  83. 同作品公式HP
  84. NHKスペシャル 汚された大地で ~チェルノブイリ 20年後の真実~ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  85. NHKオンラインHP

関連項目

関連人物

外部リンク

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