ナチス左派

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テンプレート:ナチズム ナチス左派(ナチスさは)とは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)で社会主義を強調していた党内左派グループを指す。また、グレゴール・シュトラッサーらの主張はシュトラッサー主義ドイツ語: Strasserismus, Straßerismus)と呼ばれることもある。

概要

左派の領袖としてはグレゴール・シュトラッサーオットー・シュトラッサーのシュトラッサー兄弟が知られる。彼らは1923年のミュンヘン一揆アドルフ・ヒトラーが入獄した後、主に北ドイツでナチ党系の組織を率いた。「国家社会主義通信」など独自の機関誌を発行していた彼らの主張は社会主義的側面が強く、ドイツ共産党が提案したドイツ帝国構成諸国旧君主の財産接収Deutsch版法案にも賛成していた。このためミュンヘンを中心とするナチ党右派、ヘルマン・エッサーユリウス・シュトライヒャーらと強く対立した。出獄してきたヒトラーは1926年のバンベルク会議でシュトラッサーらの主張を否定し、党内における指導者原理を確立させた。その後グレゴールやその秘書ヨーゼフ・ゲッベルスを懐柔する一方で、オットーは離党を余儀なくされた。オットーは後に黒色戦線と呼ばれる組織を立ち上げ、左派的な国家社会主義を主張し続けた。

全てを宣伝に帰するミュンヘン・ナチのアジテーション方式に飽き足らぬ左派は、ナチスの理念を求めナチスの運動にイデオロギー性をもたせようとした。曖昧なままに放置された25カ条綱領をはっきりさせ、ミュンヘン・ナチの反ユダヤ主義一辺倒に代わって、共和制の主張、身分制秩序、反西欧資本主義からする親ソ外交路線などと共に、社会主義を全面に押し出した。彼らが何よりもミュンヘン・ナチに抱いた疑念は、その経済政策実行の真面目さと熱意だった。社会主義者をもって自認する彼らには、これは黙視できなかった。グレゴール・シュトラッサーによれば、「我々は社会主義者であり、経済的弱者の搾取や不当な賃金支払いや責任と業績によらずに財産と金による非道徳的な人間を評価する今日の資本主義体制の敵であり宿敵なるが故に、我々はこの体制を是が非でも絶滅する決心を固めるに至った!我々は、非の打ち所がなく、しかも現体制よりも優れた働き手を有する、より良き、より正当で、より道徳的な体制を代置させなければならない!」とのことであった。

ヒトラーの権威が党内で不動のものとなると、バンベルク会議後の左派の勢力は減退し、1932年にクルト・フォン・シュライヒャー首相がナチ党左派を取り込もうとしたが失敗し、グレゴールが離党を余儀なくされた際にも追随者はほとんど出なかった。

左派の出身者としてはグレゴールの秘書を務めていたゲッベルスとハインリヒ・ヒムラー、人民法廷の裁判官ローラント・フライスラーらが知られている。ヒムラーには離党して養鶏農家を始めようか迷い、シュトラッサーに相談していたエピソードがある。またエルンスト・レームらの突撃隊幹部も左派に近く、政権獲得後には「第二革命」を唱えていた。

1934年長いナイフの夜事件により、レーム、グレゴール・シュトラッサーら象徴的人物が粛清され、左派は党内での影響力を完全に失った。しかしナチス・ドイツで強い影響を持ったゲッベルスやヒムラーなどの思想にも左派の影響は強く残っていた。

ドイツ革命の十四のテーゼ

オットー・シュトラッサーはバンベルク会議の決定後も、革命意欲を封じ込めることはなく、ドイツ革命のための反ブルジョア的姿勢を示し、「ジロンド」のヒトラーに対して自らの「ジャコバン」性を強調した。 1929年8月1日、彼は「NS書簡」に新生ドイツのための「ドイツ革命の十四のテーゼ(Die 14 Thesen Deutschen Revolution)」を発表して自分の基本的立場を綱領的に要約した。

関連作品

粛清直前のシュトラッサーが、同じく危うい立場のレームに共闘を持ちかけるフィクション

関連項目

参考文献

  • 八田恭昌『ヴァイマルの反逆者たち』世界思想社、1981年 ISBN 978-4790701972
  • 千坂恭二『思想としてのファシズム』(彩流社。2015年)ISBN 978-4-7791-2143-2

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