バチカン

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バチカン市国
Status Civitatis Vaticanae(ラテン語)
Stato della Città del Vaticano(イタリア語)
国の標語:無し
公用語 ラテン語[1]
首都 無し(都市国家)
最大の都市 同上

面積

総計 0.44km2244位
水面積率 極僅か

人口

総計(2014年 819人(196位
人口密度 1865人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(xxxx年 xxx,xxxユーロ (€)
GDP (MER)

合計(xxxx年 xxx,xxxドル(???位
GDP (PPP)

合計(xxxx年xxx,xxxドル(???位
1人あたり xxxドル
独立

ラテラノ条約締結1929年2月11日
ラテラノ条約批准1929年6月7日
通貨 ユーロ (€) (EUR) [2][3]
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 VA / VAT
ccTLD .va
国際電話番号 379

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バチカン市国(バチカンしこく、ラテン語: Status Civitatis Vaticanaeイタリア語: Stato della Città del Vaticano)、通称バチカンは、ヨーロッパにある国家で、国土面積は世界最小である(ただし、国際連合加盟国のみの場合はモナコになる)。ヴァチカンバティカンヴァティカンとも表記される。

なお、経済指標はイタリアに統合される。

概要

バチカンはローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。バチカンの統治者教皇である。ローマ法王庁の責任者は国務長官(Cardinal Secretary of State, 通常は枢機卿)、実際の統治はバチカン市国行政庁長官兼バチカン市国委員会委員長(Governor of Vatican City and President of the Pontifical Commission for Vatican City State 通常は枢機卿)が務めている。教皇は2013年3月13日に選出されたアルゼンチン出身のフランシスコが務めている。国務長官はイタリア人のピエトロ・パロリンitaliano版English版Latina版枢機卿、行政庁長官兼市国委員長はイタリア出身のジュゼッペ・ベルテッロEnglish版italiano版Latina版枢機卿が務めている。

宗教国家であることから、国籍は聖職に就いている間にかぎり与えられる(「#国民と国籍」節で後述)。

バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためである。

公用語ラテン語であり公式文書に用いられる。ただし、通常の業務においてはイタリア語が話されている。また、外交用語としてフランス語が用いられている。また、警護に当たるスイス人衛兵達の共通語はドイツ語である。この他、日常業務ではスペイン語ポルトガル語英語も常用されている。

歴史

バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。約3000年前には「ネクロポリス」(古代の死者の街)として埋葬地として使用され、その後もローマ人の共同墓地として使用されていた[1]326年コンスタンティヌス1世によって聖ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。

教皇領

やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、752年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。教皇は当初はバチカンではなく、ローマ市内にあるラテラノ宮殿に4世紀から1000年にわたって居住していたものの、1309年から1377年アヴィニョン捕囚時代にラテラノ宮殿が2度の火災によって荒廃したため、ローマに帰還した教皇はサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に一時居住した後、現在のバチカン内に教皇宮殿を建設しここに移り、以後バチカンが教皇の座所となった。1506年には2代目である現サン・ピエトロ大聖堂が着工し、1626年に竣工した。教皇は19世紀中盤までイタリア半島中部に広大な教皇領を保持していたものの、イタリア統一運動の活発化に伴い1860年イタリア王国が成立すると法王領北部は接収されたため、ローマ教皇庁とイタリア王国政府が関係を断絶した。この時点では法王領南部のローマ市およびラティウム地方は教皇の手に残っていた。

バチカンの囚人

1870年普仏戦争の勃発によって教皇領の守備に当たっていたフランス軍が撤退すると、イタリア軍が残存教皇領もすべて接収し、バチカンはイタリア領となった。翌1871年にはイタリア政府は法王にバチカンおよびラテラノ宮殿の領有を認めたものの、教皇ピウス9世はこれを拒否し、「バチカンの囚人English版」(1870年 - 1929年)と称してバチカンに引きこもった。この教皇庁とイタリア政府の対立はローマ問題と呼ばれ、以後50年以上にわたって両者間の断絶を引き起こした。

バチカン市国

このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とバチカンの間で折衝が続けられたが、1929年2月11日になってようやく教皇ピウス11世の全権代理ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、3つのラテラノ条約が締結された。条約は教皇庁が法王領の権利を放棄するかわりに、バチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持され、「教皇との和解」を実現したムッソリーニの独裁体制はより強固なものとなった。

1984年になると再び政教条約が締結され、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位などのいくつかの点が、信教の自由を考慮して修正された。

政治

法的にはバチカンの政体は非世襲の首長公選制であるとみなされる。首長である教皇の権威はバチカン市国のみならず聖座全体におよぶものである。法王は80歳未満の枢機卿たちの選挙コンクラーヴェ)によって選ばれる。教会法において教皇に必要な資格は、男性カトリック信徒であるということだけであるが、実質上は80歳未満の枢機卿たちの互選になっている。

「バチカン市国」と「ローマ教皇庁」は同義のようだが微妙に同義でない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁長官 (Governatorato dello Stato della Città del Vaticano) が存在するが、教皇庁の実質的な責任者は国務長官がつとめている。国務長官 (Cardinal Secretary of State) はバチカン市国の外交部門の最高責任者でもある。立法権は教皇の任命によるバチカン市国委員会 (Pontifical Commission for Vatican City State) が持っている。委員会のメンバーの任期は5年となっている。しかし使徒座空位が発生するとカメルレンゴと首席枢機卿以外の省庁の長官や評議会の議長は自動的に(一旦)解職される。新しい教皇がコンクラーヴェで選ばれるまでの間はカメルレンゴを長とした枢機卿団がバチカンを管理する。そして新しい法王が選ばれると、新教皇は使徒座空位前に務めていた各長官・議長に対して当面の間職務を続けるよう命じ、業務が再開されることとなる。もちろん新教皇が長官・議長だった場合は就いていたポストに後任が割り当てられることとなる。直近の例は2005年のベネディクト16世の選出時で、彼が教理省長官に就いていたため、後任がほどなく選ばれている。

軍事・警察

バチカン市国は、一切の軍事力は保持していない。警察力永世中立国であるスイスからの傭兵である「市国警備員(スイス人衛兵)」が担当している。

なお、イタリアからの入国、イタリアへの出国は自由。国境線もガードレール風の柵があるだけで、国境検問所の類いは一切(よって出入国管理体制も)ない。

国内は、公開の区域に限り入場は自由で、イメージとしては街中にある教会堂とその敷地に近い。そのため、各国から首脳貴賓が参列した2005年の教皇ヨハネ・パウロ2世の葬儀では、国境の外側を取り囲むイタリア側が警備を行ったことで、事実上国内警備につながった。

法王の衛兵として、スイス人衛兵が常駐している(2007年現在110人)。1505年1月22日に教皇ユリウス2世により創設され、1527年、ローマがカール5世神聖ローマ皇帝軍に侵攻された際(ローマ略奪)、身を犠牲にしてクレメンス7世の避難を助けた。現在はスイス国内でカトリック教会からの推薦を受けたカトリック信徒の男性が選ばれている。

その制服は、一説にはミケランジェロのデザインとも言われるが、1914年に制定されたものである。その派手なデザインは、伝統的なスイス傭兵というよりも、むしろランツクネヒトを彷彿とさせる。スイス人衛兵たちは一応武器の携行はしているものの、本質的に儀仗兵である。1981年ヨハネ・パウロ2世が襲撃された事件以来、教皇が公の場に出て行く時、スイス人衛兵たちは催涙スプレーを常時携行するようになったという。

かつては、スイス人衛兵だけでなく、教皇騎馬衛兵宮殿衛兵といわれる衛兵隊が存在していたが、形式的なものになっていたためパウロ6世によって1970年に廃止された。

サン・ピエトロ広場と大聖堂。撮影者はイタリアを背にして国境線の真上に立ち、バチカンの方を向いている

日本語での名称について

日本の外務省は、ローマ教皇を国家元首とする独立国家をバチカン市国と呼び、その聖俗両面の総称をバチカンとしている[2]

日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は、1981年ヨハネ・パウロ2世の来日時に、それまで混用されてきた「教皇」と「法王」の呼称を統一するため、世俗の君主のイメージの強い「王」という字を含む「法王」でなく「教皇」への統一を定めた。以降、日本のカトリック教会の公式な表記では「法王」でなく「教皇」が用いられている。このとき、東京にある「ローマ法王庁大使館」においてもこれにあわせて「法王庁」から「教皇庁」への名称変更を行おうとしたが、日本国政府から「日本における各国公館の名称変更は、クーデターなどによる国名変更時など、特別な場合以外は認められない」として認められず、「ローマ法王庁大使館」の名称のまま現在へ至っている。(官報や外務省の公文書でも「ローマ法王」の語が用いられているため、これが日本国政府の用いる公式名称であるとみなされる。)このような経緯もあって、現在においてもマスメディアでは依然として「教皇」と「法王」の呼称が混用されている。

2018年2月9日、衆議院予算委員会山内康一がこの件で質問を行っている。事前に通告されたのを受けて外務省が当事者である駐日大使館及びバチカン本国へ問い合わせを行ったところ、いずれも名称変更(=「教皇」への訳語統一)を求めていないと回答されたという。しかし河野太郎外務大臣は2015年に表記変更を行ったジョージアの例を上げつつ、要望があれば対応することを表明した[3]

国際関係

ファイル:Holy See relations.svg
バチカン市国と外交関係を有する国
ファイル:Dmitry Medvedev in the Vatican City 3 December 2009-1.jpg
2009年、バチカンを訪問するロシアのメドベージェフ大統領(当時)。
ファイル:Pope Francis Visits the United States Capitol (22153720701).jpg
2015年、アメリカ合衆国議会で演説する教皇フランシスコ。

バチカン市国が成立した1929年以降、国際法上の主権国家となったことにあわせてバチカンの外交使節が各国に派遣され、同時に各国の外交使節を受け入れるようになった。2011年現在、バチカンは174カ国と国際連合およびマルタ騎士団特命全権大使を受け入れており、179の国と地域に大使あるいは外交使節を派遣している[2]

日本がバチカンと正式な外交関係を樹立したのは1942年で、このとき相互に公使館を設置したが、戦後一旦引き上げて1952年に再設置した。日本は1958年にバチカン市国日本公使館を大使館に格上げし(バチカンが東京のローマ法王庁公使館を大使館に格上げしたのは1966年[4]現在に至っている。日本国大使館(正式名称:在バチカン日本国大使館)は狭いバチカン市国内では土地が取れないため、隣国イタリア・ローマにおかれている(バチカンと外交関係を有する国のうち約100カ国は兼轄であり、「常駐」大使を派遣しているのは日本を含めて80カ国弱である)。なお、東京にあるバチカン大使館の正式名称は「ローマ法王庁大使館(イタリア語: Nunzio apostolico in Giappone)」である。(日本とバチカン市国の関係English版も参照)

イギリスとは、ヘンリー8世の離婚問題、国王至上法によってイギリス国教会が設立されてからローマ教皇がイギリス王を破門するかたちで断絶が続いていた。以来、イギリス国王とローマ教皇は没交渉であったが1914年に交渉が回復した。バチカン市国が建国され、主権国家として外交関係が樹立されたのは1982年のヨハネ・パウロ2世のイギリス司牧の旅以降である。2010年にはベネディクト16世が国賓としてイギリスを訪問。その答礼として2014年にエリザベス2世、エジンバラ公フィリップがバチカンを訪問した。しかしベネディクト16世の頃は、彼の超保守的な思想やカトリック聖職者の性的虐待問題でイギリス国民が、次のフランシスコのときは彼がアルゼンチン出身であること、フォークランド諸島紛争を抱えるイギリス政府が、態度を硬化させている。

ロシア連邦とは、ロシア革命以降外交関係を持っていなかったが、ソビエト社会主義共和国連邦崩壊後、外交関係再設定への動きが進み、2009年12月3日に大統領ドミートリー・メドヴェージェフが、バチカン市国を訪問して教皇ベネディクト16世と会談を行い、国交が樹立された。翌年の2010年には正式に大使が交換されている。ウラジーミル・プーチンは大統領・首相として通算4度バチカンを訪れ、時の教皇と会談している。

キューバは1935年に国交を樹立してから、キューバ革命後も国交断絶しなかった唯一の共産主義国である[5]

バチカンと中華民国1942年より外交関係を有している。中華民国が中国本土を実効支配していた時代には、北京市に大使館を置いていたが、中国大陸において中華民国の実効支配地域が無くなったため、1951年にこれを撤退させざるを得なくなった。その後、中華民国の実効支配地域である台湾台北市に大使館を移転し、その後も外交関係を維持している。

2011年現在、バチカンと外交関係が樹立されていない国は16カ国である。主な国家としては、共産主義国家中華人民共和国(中国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ベトナムミャンマーラオスと、イスラム国家サウジアラビアオマーンアフガニスタンソマリアモーリタニアブルネイなどがある(ただし同じイスラム国家でもアラブ首長国連邦イラン、王制のヨルダンなどとは外交関係がある)。

共産主義国として、宗教の存在を否定する中華人民共和国[6]とは、信教の自由がなく[7]、教会を政府の管理下に置き続ける上[8]、キリスト教関係者を逮捕、追放するなど弾圧を続けていること[9]を理由に、1949年10月1日の中華人民共和国の建国以来、国交を持っていない[10]

国交はないものの、バチカンと中華人民共和国は「司教の任命権」の問題など多くの困難な問題を抱えながらも、外交関係の再設定を目指して水面下での協議を続けてきた。例えば1979年には、中華民国台北市派遣の外交官レベルを臨時代理大使に格下げし、中華人民共和国との関係改善への意欲を見せている。香港カトリック香港教区は、1997年香港返還後もローマ教皇庁の直轄教区である。2015年9月28日には、教皇フランシスコ自らが中国政府との接触を認めており[11]、バチカンの国務長官ピエトロ・パロリンitaliano版English版Latina版は中国との国交樹立の意向を明言している[12]

イスラム教国教とする中東絶対王制諸国も、アッラーフ以外は神と認めない(神は形がないとする教えの為に、その代理物を作って礼拝する、いわゆる偶像崇拝も許さない)ために、バチカンとの国交はない。。ある時期、バチカンからの「教皇使節」(Apostolic delegate)が満州国に派遣されていたのは事実だが(このとき、日本のマスコミが「バチカンが満州国を承認」と喧伝した[13])、「教皇使節」は現地のカトリック信徒のために派遣されるもので、外交的な意味を持たない。その証拠に教皇使節の派遣を管轄するのはバチカンにおいて宗教業務を担当する福音宣教省であって、外交を司る総理省ではない。現代でもミャンマー、ベトナムなどのように、バチカンと外交関係を樹立していないにも関わらず、教皇使節が派遣されている国々がある[14]

国際連合には、長らく「恒久的オブザーバー」という形式で代表を派遣していたが、2004年7月に、投票以外の全ての権利を持った代表となった。投票権を行使しないのは、政治的中立を維持するためであり、当時の国連バチカン代表であったセレスティーノ・ミリオーレEnglish版italiano版大司教も「投票権を持たないことは、私たち自身の選択です」と語っている。

地理

国土

ファイル:Vatican City map EN.png
バチカンの詳細地図

バチカン市国はローマの北西部に位置するバチカンの丘の上、テベレ川の右岸にある。その国境はすべてイタリアと接しており、かつて教皇を外部の攻撃から守るために築かれたバチカンの城壁に沿ってしかれている。面積は約0.44km2と、国際的な承認を受ける独立国としては世界最小で、東京ディズニーランド (約0.52km2) よりも小さく、中国北京の天安門広場(約0.40km2)と同じくらいであり、皇居(約1.15km2)のおよそ8分の3。その狭い領土の中にサン・ピエトロ大聖堂バチカン宮殿バチカン美術館サン・ピエトロ広場などが肩を並べている。

またラテラノ条約の取り決めに従って、国外のいくつかの区域(イタリア・ローマ南東約20kmにあるカステル・ガンドルフォの教皇別荘であるガンドルフォ城サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂などの大バジリカ、教皇庁事務所など)でもバチカンの主権が認められている[15]バチカンの行政区画も参照)。

これらの中にはバチカン放送の建物も含まれているが、短波ラジオ送信所は国外のイタリア・ローマ郊外にあり、その敷地内にはバチカンの治外法権が認められている。

外国人観光客が入れる場所は、サン・ピエトロ広場、サン・ピエトロ大聖堂、バチカン博物館周辺のみで、その他の場所は外国一般人立入禁止区域となっている。

サン・ピエトロ大聖堂の展望台からバチカン庭園の全景を望む。

気候

バチカン市国の気候はローマの気候と同じで、地中海性気候の区域に属している。5月から9月は乾季にあたって少雨高温であり、10月から5月は雨季で冬は冷え込む。以下、ローマの気候図を示す。

ローマの平均気温
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C (°F) 11.8(53) 13.0(55) 15.2(59) 18.1(65) 22.9(73) 27.0(81) 30.4(87) 30.3(87) 26.8(80) 21.8(71) 16.3(61) 12.6(55)
平均最低気温 °C (°F) 2.7(37) 3.5(38) 5.0(41) 7.5(46) 11.1(52) 14.7(58) 17.4(63) 17.5(64) 14.8(59) 10.8(51) 6.8(44) 3.9(39)

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経済

国家予算

バチカンの「国家予算」は2003年のデータで歳入が約277億円で歳出290億円となっている。主な産業として出版業、モザイク製作などがある。バチカンは国家というにはあまりに特殊な存在であり、(下記にある「宗教活動協会」の投資運用は除き)利益追求の産業活動は行っていないため、歳入は「聖ペトロの献金」(Peter's Pence) として知られる世界中のカトリック信徒からの募金切手の販売、バチカン美術館の入場料収入、出版物の販売などによるものである。

宗教活動協会

第二次世界大戦中の1942年に、ピウス12世によってそれまでの「宗務委員会」から改組され設立された、バチカンの国家財政管理を行う組織である「宗教事業協会」(Instituto per le Opere di Religioni/ IOR、「バチカン銀行」とも呼ばれる)が、各国の民間の投資銀行を通じて投資運用し資金調達を行っている。上記の「国家予算」には、「宗教事業協会」の投資運用による利益は入っていない。

1980年代前半までは、宗教事業協会の投資運用と資金調達を行う主力行としての業務はイタリア国立労働銀行の子会社のアンブロシアーノ銀行が行っていたが、1982年に、同協会のポール・マルチンクス大司教と、「教皇の銀行家」と呼ばれていた、アンブロシアーノ銀行のロベルト・カルヴィ頭取のもとで起こった、マフィアや極右秘密結社であるロッジP2が絡んだ、多額の使途不明金と資金洗浄に関わった不祥事の影響を受け、同行が破綻し、カルヴィ頭取などの複数の関係者が暗殺されて以降は、ロスチャイルド銀行とハンブローズ銀行などが行っている。また、この事件は、アメリカ映画ゴッドファーザー PART III」でも取り扱われている。

不正行為の疑い

宗教事業協会は度々マネーロンダリングなどの違法な取引にかかわったと指摘されており、近年も2009年11月と2010年9月の2度に渡り、宗教事業協会とエットーレ・ゴティテデスキ総裁がマネーロンダリングに関係したとの報告を受けたイタリアの司法当局が捜査を行い、捜査の過程で2300万ユーロの資産が押収されている[16]

2013年5月22日、独立機関の聖座財務情報監視局は、2012年の金融取引において6件のマネーロンダリングの疑いがあると発表した[17]。2013年6月28日には、現金4千万ユーロ(約52億円)を無申告でスイスからイタリアに運ぼうとしたとして、スカラーノ司祭がイタリア警察に逮捕された。2013年7月1日には、幹部2人が辞任に追い込まれた[18]

その他

バチカン職員の給与水準は、イタリア・ローマの平均給与よりもやや良いといわれている。独自通貨をつくらないため、以前はリラが用いられていたが、イタリアがユーロに通貨を変更した2002年1月1日以降、バチカンでもユーロが流通するようになった。なお、バチカン発行のユーロ通貨は、ユーロ圏ならどこでも使用することが可能であるが、切手は国内専用で、バチカン国内で他国の切手は使えない。

交通・通信手段

ファイル:St peters vat distance.jpg
イタリア・ローマ市の「和解の道」からバチカン中心部を望む。

かつては、バチカンを取り囲むように古い住宅がごみごみと立ち並んでいたが、1920年代にイタリアの実権を握ったベニート・ムッソリーニは、ラテラノ条約によるカトリック教会との和解を世界にアピールしようと、サン・ピエトロ大聖堂正面の家屋を大胆に撤去し、広い街路を敷いた。これが「和解の道 (Via della Conciliazione)」といわれる、バチカン市国前のメインストリートである。

空港はないが、中型ヘリコプターが発着可能なヘリポートが一つある。鉄道は、イタリアのサンピエトロ駅から分岐してバチカン駅へ向かう863メートル(うち国内は227メートル)の鉄道路線がある。現在は定期旅客列車は走っておらず、たまに貨物列車が入線するのみで、旅客輸送は行っていない。この鉄道路線はイタリア国内分も含めてバチカン国有のものであるが、列車の運行はイタリア国鉄が代行している[19]

郵便局電話局が一つある。イタリア・ローマ市民たちは、国際郵便を出す場合、地元の郵便ポストからイタリア郵便を通すより、少し歩いてでも国境を越境して、バチカン市国の郵便ポストに投函するほうが、格段に早く確実に郵便物が郵便受けに到着することを知っている[20][21]。この場合当然に、イタリア発行の切手は通用せず、バチカン市国発行の切手を貼付する必要がある。

ローマ教皇庁が所有する自動車は「SCV」というナンバーがつく。この3文字の意味は「Stato della Città del Vaticano(バチカン市国)」の略である。

国民と国籍

バチカンの人口は832人(2011年7月推定値)[22]であり、彼らはバチカンの城壁内で生活している。バチカン市民のほとんどはカトリックの修道者であり、枢機卿司祭などの聖職者と、叙階されていない修道士・修道女がいる。教皇庁で働く、修道者以外の一般職員は3000人にものぼるが、彼らのほとんどは市国外(すなわちイタリア)に居住し、そこから通勤している。またスイス人衛兵もバチカン市民である。衛兵の宿舎は市国内にあるが、市国外(すなわちイタリア)に住居を持って通勤している衛兵もいる。

聖座の外交官や各省庁の官職にある者は、教皇庁の公用の必要がある場合に、バチカン市国のパスポートを取得することができる。いわゆる外交パスポートに相当するものは、青色の表紙をしている。なお、一般のバチカン市国住民には市国パスポートは発給されない。イタリアとの間の移動、イタリアなどシェンゲン協定国間の移動にはパスポートは不要であるため、欧州連合内は自由に移動できる。

2003年末の時点で、バチカンの「居住権」(いわゆる「市民権」あるいは「国籍」)を保持する者は552名に及ぶ。そのうち61人が枢機卿、346名が司教司祭などの聖職者である。101名がスイス人衛兵、44人が一般の職員である。全ての者がバチカンの居住権と併せて、従来の国籍も保持している(二重国籍)。

バチカン居住権は聖職者も含め、基本的にバチカンで職務についている期間に限って与えられる。教皇庁の職員の多数を占めるイタリア人職員たちには外交業務などにおいて特に必要がないかぎり、居住権は与えられない。また、バチカンの市民権は上記のように職務に対応する特殊な地位であるため、たとえバチカン市国内で出生しても出生地主義による国籍の取得はできない。

バチカン市庁における女性職員は600人程度で、信徒であることが必須であるが初の女性職員は1934年に採用されたドイツ・フランクフルト出身の異教徒ヘルミーネ・シュパイアー(ユダヤ教徒)であった。

文化

バチカン市国は、国家自体が世界文化遺産の宝庫である。サン・ピエトロ大聖堂システィーナ礼拝堂など、ボッティチェッリベルニーニミケランジェロといった美術史上の巨匠たちが存分に腕をふるった作品で満ちあふれている。またバチカン美術館とバチカン文書資料館には歴史上の貴重なコレクションが大量に納められている。バチカンは1984年に世界遺産に登録された(バチカン市国 (世界遺産)を参照のこと)。

バチカンに定住している人々は、カトリック教会の聖職者国家という性格上男性がほとんどである。わずかな女性たちが職員として教皇庁で働くために二つの女子修道会が支部を置いている。バチカンで働く聖職者たちは枢機卿などの高位聖職者を除けばほとんどが修道会員である。

バチカンは聖地であるため、服装規定がある。特に女性は、観光客であっても、聖堂内に入るときなどに服装に気をつかうこと(ノースリーブの服なら上からなにかを羽織る、半ズボン禁止など)が求められる。

バチカンは巡礼者のみならず全世界から訪れる観光客でいつもにぎわっている。教皇は世界から訪れる信徒のために毎週日曜日には彼らの前でミサを執り行い、平日にも信徒と共に行う信心業や謁見(通常は毎週水曜)を行っている。復活祭などの特別な祝日にはサン・ピエトロ広場に姿を見せて世界に挨拶を送るのがならわしとなっている。

祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日(神の母聖マリアの祭日)
1月6日 主の公現(祭日)
2月11日 ラテラノ条約締結記念日
3月19日 聖ヨセフ(祭日)
3月-4月 復活の主日(祭日) 移動祝日
5月1日 労働者聖ヨセフ(記念日)
5月 主の昇天(祭日) 移動祝日
6月 キリストの聖体(祭日) 移動祝日
6月29日 ペトロ・聖パウロ(祭日)
8月15日 聖母の被昇天(祭日)
11月1日 諸聖人の日(祭日)
12月8日 無原罪の聖マリア(祭日)
12月24日 - 12月25日 主の降誕(祭日)
12月31日 年越し

バチカンが舞台になった作品

参照:

メディア

新聞として「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」紙がある。これは教皇庁の公式紙であり、イタリア語版が日刊で、英語版、スペイン語版、フランス語版、ドイツ語版、ポルトガル語版が週刊で、ポーランド語版が月刊で発行されている。さらに公式ウェブサイト、ラジオ局、衛星テレビ局がある。

ツイッター

バチカンのニュースサービス等がそれぞれ専用アカウントを保持している。

2012年12月4日、ベネディクト16世が自身のTwitterアカウント「@Pontifex」を開設したが、2013年2月28日の教皇の退位と同時に閉鎖されることになった。しかし実態としてはツイート全削除(別途アーカイブは残される)の上でユーザー情報の書き換えが行われたのみでアカウント自体は存置され、使徒座空位を表わす「傘と天国の鍵の紋章」と「Sede Vacante」の表示のある状態となり、3月13日にコンクラーヴェでフランシスコが新教皇に就任すると、「三重冠と天国の鍵の紋章」に戻り「我らフランキスクス(フランシスコ)を得たり」("Habemus Papam Franciscum") とのラテン語のツイートがなされ[23][24]、その後フランシスコが使用することとしたためリニューアルされた。すなわち、「@Pontifex」のアカウントは「教皇専用」であるのみで、代が変わっても同一アカウントをそのまま用い続けることが示された。「@Pontifex」を使うかどうかは、時の教皇の意向次第となるという。

脚注

  1. 徳安茂『なぜローマ法王は世界を動かせるのか』PHP研究所、第1版第1刷、2017年3月1日。28-29頁。ISBN 978-4-569-83268-5。
  2. 2.0 2.1 バチカン 基礎データ 外務省
  3. 衆議院会議録情報 第196回国会 予算委員会 第9号”. kokkai.ndl.go.jp. . 2018閲覧.
  4. NUNTIATURA APOSTOLICA IN IAPONIA ERIGITUR
  5. “キューバ見つめて バチカン、50年の外交努力”. (2014年12月24日). http://www.christiantoday.co.jp/articles/14895/20141224/cuba-vatican-50-pope-francis.htm . 2014閲覧. 
  6. “中国が初の政党白書 一党独裁の正当性強調”. 47ニュース. 共同通信 (共同通信社). (2007年11月15日). http://www.47news.jp/CN/200711/CN2007111501000289.html . 2013年12月23日閲覧. 
  7. “「中国政府は言論・宗教を抑圧」 米国が中国人権報告書発表”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2009年10月17日). オリジナル2009年10月25日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091025075008/http://sankei.jp.msn.com/world/america/091017/amr0910171912007-n1.htm 
  8. “政府の教会統制策、バチカンの許可なく司祭叙階 - 中国”. AFPBB News (クリエイティヴ・リンク). (2006年5月3日). http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2053086/526712 
  9. Restriction and Suppression of Religious Freedom in China ボイス・オブ・アメリカ2006年5月17日
  10. “バチカンとの国交樹立を妨げるもの - 中国”. AFPBB News (クリエイティヴ・リンク). (2006年3月26日). http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2039872/431452?pageID=2 
  11. “中国と協議 関係改善へ 法王、訪中の意向”. 毎日新聞. (2015年10月18日). http://mainichi.jp/articles/20151018/ddm/007/030/055000c . 2016閲覧. 
  12. “Vatican Sec of State hopes for improved diplomatic relations with China”. バチカン放送. (2016年8月27日). http://en.radiovaticana.va/news/2016/08/27/vatican_sec_of_state_hopes_for_improved_relations_with_china/1254058 . 2016閲覧. 
  13. 時事新報1934年4月22日付など
  14. 上野景文『バチカンの聖と俗』、かまくら春秋社、2011、pp91-92
  15. 「ビジュアルシリーズ 世界再発見1 フランス・南ヨーロッパ」p114 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷
  16. “バチカン銀行の資金押収 「闇」の解明なるか”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2010年9月22日). オリジナル2010年9月25日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100925072035/http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100922/erp1009221931006-n1.htm . 2011閲覧. 
  17. “バチカン、金融取引で資金洗浄か 監視局、6件を認定”. 朝日新聞. (2013年5月26日). http://www.asahi.com/international/update/0526/TKY201305250396.html . 2013-5-26閲覧. 
  18. “バチカン銀行幹部を事実上の更迭 法王が経営透明化本腰”. 朝日新聞. (2013年7月2日). http://www.asahi.com/international/update/0702/TKY201307020020.html . 2013-8-21閲覧. 
  19. バチカン市国国鉄 変わりダネ国際列車
  20. デノーラ砂和子 (2008年10月31日). “天使が配達?!絵葉書送るならバチカン郵便局”. all about. https://allabout.co.jp/gm/gc/78028/2/ . 2017閲覧. バチカンの郵便ポストに手紙を投函するときは、うっかりイタリアの切手を貼らないように注意しましょう。
  21. 辻田希世子 (2002年4月1日). “劣悪イタリア郵便事情の改善に 日本人が立ち上がった!”. Cafeglobe.com. カフェグローブ・ドット・コム. 2002年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2011閲覧.
  22. CIA - The World Factbook -- Holy See (Vatican City)
  23. Argentina's Jorge Mario Bergoglio elected Pope Francis”. BBC (2013年3月14日). . 2017閲覧.
  24. Pope Francis, the pontiff of firsts, breaks with tradition”. CNN (2013年3月14日). . 2017閲覧.

参考文献

  • 上野景文、『バチカンの聖と俗 日本大使の1400日』、かまくら春秋社、2011年

関連項目

外部リンク

公式
日本政府
その他


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