パウロ三木

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パウロ三木
殉教者
生誕 永禄年間(1560年代[注 1]
日本、摂津国
死没 慶長元年12月19日1597年2月5日
日本、肥前国長崎
崇敬する教派 カトリック教会
列福日 1627年9月14日
列福場所 ローマ
列福決定者 ウルバヌス8世
列聖日 1862年6月8日
列聖場所 ローマ
列聖決定者 ピウス9世
記念日 2月5日

パウロ 三木(パウロ みき、1560年代[注 1] - 慶長元年12月19日1597年2月5日))は、安土桃山時代キリシタンイエズス会宣教師。当時の呼称では三木ポオロ殉教して265年後に日本二十六聖人の一人としてカトリック教会聖人となった。

生涯 

パウロは摂津国有馬郡)の生まれというが、但馬国阿波の徳島の出身というなど異説[3]もある。

父の三木半太夫は『三好記』によれば三好氏に従う戦国武将であったが、永禄11年(1568年)に上洛を果たした織田信長に随身し、功をあげて取り立てられた。[4]

同年、半太夫はキリスト教にも惹かれて洗礼を受けてハンディノを称し、自分の子供にも洗礼を受けさせ、洗礼名「パウロ」とされたのがこの人物である。

天正8年(1580年)、12歳の時、オルガンティノ師について、安土城下に造られた日本最初のセミナリヨ(小神学校)に第一期生として入学。2年後、本能寺の変後に城下が焼かれたため、有馬(高槻市)の学寮に移り、イエズス会員の手で教育を受け、幅広く諸学を治めた。

成績優秀だったパウロは、父が九州平定の戦いにおいて薩摩で戦死したと知って教会に身を捧げる覚悟をし、22歳の時にイエズス会に入会を許された。雄弁でならして多くの聴衆を集める優れた宣教師として活躍。教化させて入信させた者も多く、書を持って盛んに仏教徒の醜行を攻撃した。

文禄5年(1596年)10月、サン=フェリペ号事件が起こり、豊臣秀吉の命によって宣教師およびキリシタン信徒の名簿が作られ、監視されるようになった。12月11日、秀吉は奉行石田三成に命じてフランシスコ会のキリシタンを捕縛して誅殺するように命じた。パウロらは大阪ゼスイト派の宣教師宅で捕らえられた。三成はイエズス会派の者を除外するように主張したが、許されなかった。

捕縛された26人は、フィリピン外交使節と偽り禁制のキリスト教を布教したかどで長崎で磔刑に処すと宣告され、まず証拠として耳の一部を切断された後、京都、大阪、堺の市中を引き回され、陸路で長崎に送られ、慶長元年(1597年2月5日)、長崎の立山で処刑された。

ルイス・フロイスの記録によれば、パウロ三木は十字架の上で、押しかけた群衆に向かって「自分は罪状書きにあるようなフィリピン人でなく、れっきとした日本人である。私はキリスト教を信じたというだけで殺されるのである。この理由のゆえに私は命をささげることをいとわない。私はキリストの教えに従い、自分の処刑を命じた人(豊臣秀吉)と処刑にかかわったすべての人を許したい」と叫んだという。

1627年寛永4年)2月14日、教皇ウルバヌス8世によって列福され、1862年文久2年)6月8日に教皇ピウス9世によって列聖された。

今日、パウロ三木の名前は、聖イグナチオ教会の運営を託されたイエズス会の聖三木図書館にその名前を留めている。

脚注

注釈

  1. 1.0 1.1 永禄7年(1564年[1]、永禄7年(1564年)頃[2]もしくは永禄10年(1567年)頃。

出典

  1. 竹内誠・深井雅海編『日本近世人名辞典』においては阿波忌部姓の三木氏出身とする。なお、同書(吉川弘文館 2005年)995頁参照。
  2. ただしこの経緯にも異説がある。

参考文献

関連項目

外部リンク