ブランデンブルク=プロイセン

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ブランデンブルクとプロイセンの歴史
ノルトマルク
先史 - 12世紀
プルーセン
先史 - 13世紀
ブランデンブルク辺境伯領
1157 - 1618 (1806)
ドイツ騎士団国
1224 - 1525
プロシア公領プロイセン公国
1525 - 1618 (1525 - 1701)
ポーランド王領プロシア
1466 - 1772
ブランデンブルク=プロイセン
1618 - 1701
プロイセン王国
1701 - 1772
プロイセン王国
1772 - 1918
プロイセン州
1918 - 1947
ブランデンブルク州
1947 - 1952 / 1990 - 現在
ヴァルミア県マズールィ県
1945 - 1999
ヴァルミア=マズールィ県
1999 -
カリーニングラード州
1946 -

ブランデンブルク=プロイセンドイツ語:Brandenburg-Preußen)は、ドイツポーランドホーエンツォレルン家による領邦国家連合。1618年にプロシア公領ブランデンブルク選帝侯領同君連合として成立した。

この国家連合はブランデンブルク選帝侯がプロシア公領を相続したことで成立した。1701年にプロイセン公が王に昇格すると、その他の地域もプロイセン王国の一部と見なされるようになり、ポーランド分割により主要な領土が地続きになるとその傾向は一層強くなった。しかし、ブランデンブルクなどの地域は依然として神聖ローマ帝国内にあり、形式上は同君連合であるため、ブランデンブルク=プロイセンという呼称は1701年以降も用いられる。1806年の神聖ローマ帝国解散により、名実ともにプロイセン王国として一つの国家となる。

歴史

1415年に神聖ローマ皇帝ジギスムントが、自ら兼ねていたブランデンブルク選帝侯位をニュルンベルク城伯であったフリードリヒ1世に授けて以来、ホーエンツォレルン家の宗家はこの選帝侯位を継承し、神聖ローマ帝国における有力な権利を享受していた。

一方のプロシア公領は、カトリック騎士修道会国家であったドイツ騎士団領が前身である。ホーエンツォレルン家の分家であるブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯家出身の騎士団総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクが、配下の騎士とともにプロテスタントに改宗し、ポーランド王の宗主下で騎士団領を世俗の領邦へと改めることが認められ、1525年に世襲の公領として成立した。

アルブレヒトが1568年に死去すると、鬱病を患っていたと言われる息子アルブレヒト・フリードリヒがプロシア公位を継承した。公領は、その従兄であるアンスバッハ辺境伯兼クルムバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒが1603年まで、次いで宗家のブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒが1608年まで摂政として治めた。

アルブレヒト・フリードリヒの娘アンナはヨアヒム・フリードリヒの息子ヨハン・ジギスムントと結婚し、ホーエンツォエルン家宗家にプロシア公領を継承する権利が譲渡された。ヨハン・ジギスムントはアルブレヒトの死去した1618年にプロシア公位を獲得した。しかし、プロシア公領は1657年までポーランド王の宗主下にとどまった。

ゲオルク・ヴィルヘルムの1619年から1640年までの治世の間に、ホーエンツォレルン家の領地は三十年戦争の被害を受けた。スウェーデンはゲオルク・ヴィルヘルムに同盟を強いて、ブランデンブルク=プロイセンの領土を事実上占領した。ゲオルクの後継者フリードリヒ・ヴィルヘルムはスウェーデンとの間に講和を締結した。また、スウェーデンはポメラニア公国を占領していたが、ブランデンブルク=プロイセンはポメラニアの幼公ボキスラフ14世が1637年に夭折すると、その継承権を得た。しかし、ボキスラフ14世はスウェーデンとシュテッティン同盟を結んでおり、帝国全体でも継承権が容認されず、ブランデンブルク=プロイセンとスウェーデンはその継承権を巡り、国境協定が結ばれた後も領有権を巡って争い続けることとなった。

その後、フリードリヒはネーデルランド連邦共和国との同盟を求めた。1648年のヴェストファーレン条約勢力均衡が重視された結果、フリードリヒはヒンターポンメルン公領(東部ポメラニア)、ハルバーシュタット司教領、ミンデン司教領を属領とし、マクデブルク大司教領の継承権を獲得するという漁夫の利を得た。正確なスウェーデンとブランデンブルクの国境はポメラニアに定められ、シュテッティン条約でほぼ確定した。1680年からはこれらの領域とカミン司教領はブランデンブルク=プロイセンに併合された。

スウェーデンがポーランドに宣戦し、ポーランドの大洪水時代といわれる内戦に介入すると、北方戦争が開始された。フリードリヒ・ヴィルヘルムはこの戦争につけこんだ。1657年、ブランデンブルク=プロイセンはヴェーラウ条約English版でポーランド王ヴワディスワフ4世からプロシア公領の完全な独立を獲得した(1660年のオリヴァ協定によって確定し、プロイセン公国となった)。条約ではポーランド王権下の権利としてホーエンツォレルン家の血筋が絶えたとき、プロイセン公国は合法的にポーランド領に復帰するとされた。この条項は、互いの国の統治変更で更新されるとされたが、1700年に期限切れになった。

1675年、ポーランド王ヤン3世ソビェスキフランスと密約を結び、ポーランドがプロシアを攻撃し、フランスはその間にオスマン帝国ポーランド=リトアニア共和国の領土の返還を求めるとした。オスマン帝国への敵対行為の結果、ポーランドはブランデンブルクか、フランスの敵対国オーストリアを攻撃するはずだった。しかしヤン3世は教皇に逆らい、ポーランドの上流貴族(マグナート)はオスマン帝国を大脅威として捉えており、ポーランドの有力者はベルリンやウィーンからの賄賂を受けていたために、この提案は破綻した[1]

フリードリヒ・ヴィルヘルムの治世の下で、ブランデンブルク=プロイセンは飛躍的に成長した。内政においてはポツダム勅令を発し、フォンテーヌブローの勅令によって追放されたフランスユグノーを受け入れたことで人口が増加し、高度な技術や文化がブランデンブルク=プロイセンに伝えられることとなった。また、オランダ侵略戦争に付随するスウェーデンとの戦争に勝利し、神聖ローマ帝国内における影響力を高めることに成功した。これらの事績によって、フリードリヒ・ヴィルヘルムは大選帝侯と称されるまでになり、ブランデンブルク=プロイセンの強大化の基礎を築いた立役者となった。

神聖ローマ帝国内ではボヘミア王国を除いて、王号の使用を認められた諸侯はいなかった。しかし、プロイセン公国は帝国の領域外にあった。そこで選帝侯フリードリヒ3世は、スペイン継承戦争でハプスブルク家を支援する見返りとして、皇帝レオポルト1世からプロイセンにおける王号の使用を認められ、1701年に「プロイセンの王」フリードリヒ1世として戴冠した。これはポーランドとの全てのつながりを断ち切ることを意味し、それを端的に示すものとして、フリードリヒ1世はポーランド語を流暢に喋る最後のプロイセン統治者となった。1773年、かつての公国は東プロイセン州に、ポーランド王領プロシア西プロイセン州に再編された。1815年、旧ブランデンブルク選帝侯領は、それ自体がプロイセン王国のブランデンブルク州に変わっていった。

脚注・参照

  1. History of Poland. 著Gieysztor, Alexander, Stefan Kieniewicz, Emanuel Rostworowski, Janusz Tazbir, Henryk Wereszycki。PWN. Warsaw, 1979. ISBN 83-01-00392-8

関連項目