ブリティッシュコロンビア州

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ブリティッシュコロンビア州
: British Columbia
: Colombie-Britannique
ブリティッシュコロンビア州の旗 ブリティッシュコロンビア州の州章
州旗 州章

モットー: ラテン語:"Splendor Sine Occasu"
(英語:Splendour without diminishment)
ブリティッシュコロンビア州の位置

基本データ
州花 タイヘイヨウハナミズキ
州木 ウエスタンレッドシダー
州鳥 ステラーカケス
州都 ヴィクトリア
最大の都市 バンクーバー
州の公用語 英語
面積
 - 総計
 - 陸地
 - 水域(割合)
最高標高
(国内第5位)
944,735 km²
925,186 km²
19,549 km² (2.1%)
4,663 m
人口2006年
 - 総計
 - 人口密度
(国内第3位)
4,310,452
4.34 人/km²
GDP2005年
 - 州合計
 - 1人当たり
(国内第4位)
1,680億11万カナダドル
3万9,490カナダドル
連邦政府加入
 - 順番
 - 加入年月日

7番目
1871年7月20日
時間帯 【大部分のエリア】
太平洋標準時(PST、UTC-8
太平洋夏時間(PDT、UTC-7

【AB州との州境の一部分】
山岳部標準時(MST、UTC-7
山岳部夏時間(MDT、UTC-6
 夏時間を採用していない地区もある。

郵便コード
郵便番号
ISO 3166-2:CA
BC
V
CA-BC
公式サイト www.gov.bc.ca
行政
副総督 ジャネット・オースティン
Janet Austin
州首相 ジョン・ホーガン
John Horgan:新民主党)
カナダ議会
 -下院議席数
 -上院議席数

42
6

ブリティッシュコロンビア州英語: British Columbia [ˌbrɪtɪʃ kəˈlʌmbiə]フランス語: Colombie-Britannique)は、カナダのひとつ。太平洋に面したカナダ最西部に位置する。略してBCとも呼ばれる。

州名は1858年に、イギリスヴィクトリア女王によって命名された。[1]名前は現在のカナダとアメリカを流れるコロンビア川付近の一帯に広がっていたコロンビア地区から由来する。コロンビア地区は現在のカナダとアメリカにまたがっており、アメリカ領とイギリス領の区別をつけるために「British Columbia」(英領 コロンビア)とした。

北米大陸から海峡を隔てて西にあるバンクーバー島に州都ヴィクトリアがあるが、最大の都市は大陸本土のバンクーバーである。

内陸部は豊かな自然が多く残っていることから観光産業も盛んであり、ウィスラーなどのリゾート地も知られている。また、南部の地域には氷河もあり観光名所となっている。

母語話者(ブリティッシュコロンビア州) 2006
英語
  
71.5%
中国語
  
8.5%
パンジャーブ語
  
4.0%
ドイツ語
  
2.2%
フランス語
  
1.4%
人種構成(ブリティッシュコロンビア州) 2011
白人
  
67.3%
中国系
  
10.1%
南アジア系
  
7.2%
先住民
  
5.4%
フィリピン系
  
2.9%
黒人
  
0.8%
その他の有色人種
  
6.9%

歴史

主要記事:History of British Columbia

連邦に加盟するまで

ブリティッシュ・コロンビアには、多数のインディアン部族が先住し、現在もキャリア族などのディネ族チルコーティン族、ハイダ族リルエット (St'at'imcスクワミッシュ (Sḵwx̱wú7meshタギシュ族、トリンギット族など、30以上の言語を話す多くのインディアン民族が居住している。食料や木材、鉱物など天然資源が豊富であったため、ブリティッシュ・コロンビアの太平洋岸では社会が発達し、特にハイダ芸術のような芸術や政治の分野が発展した。トーテム・ポールポトラッチはもっともよく知られた文化であろう。彼らの文化であるポトラッチや捕鯨は、20世紀に入ってからカナダ政府によって禁止弾圧された。現在も捕鯨文化の再開を要求している部族は多い。

18世紀の中頃からヨーロッパからの探検家が主にラッコ毛皮貿易のために訪れるようになった。1778年ジェームズ・クック船長が欧州から北極海経由でアジアへ向かう北西航路を発見しようとこの地域へ到達し、ヌートカ・サウンド (Nootka Soundに到着。その後イギリス人の入植へと続くが、1513年以来スペインの太平洋岸支配宣言が続いており、イギリスとスペインがヌートカ・サウンドを巡り交戦。その後1794年ヌートカ条約 (Nootka Conventionが結ばれ、オレゴンから現在のブリティッシュ・コロンビア入植地の太平洋岸はイギリスに属することとなる。

その後は欧州との交易や開拓が進んだ。北西会社の3人のイギリス人、欧州人として初めて北米大陸を横断し太平洋に達したアレグザンダー・マッケンジー、この地域にいくつかの砦を建設したサイモン・フレーザー (Simon Fraserデイビッド・トンプソン (David Thompsonなどの探検家達が太平洋に注ぎ込むコロンビア川の河口を探索した。「ハドソン湾会社」がその後この地域を管理下におき、ビクトリア砦(Fort Victoria、現在のビクトリア)もその会社の業務を保護するために1843年に建設された。この当時、アメリカの「マニフェスト・デスティニー」---アメリカの領土拡張主義---が最も実際の脅威として考えられた。1846年オレゴン条約が調印され、ロッキー山脈以西の北米英領とアメリカ領の国境を北緯49度と定めた。

自治領への加盟

バンクーバー島は1849年、本土側は1858年にそれぞれイギリスの植民地となる。両者は1866年、ブリティッシュ・コロンビア植民地として統合される。1871年、「カナダ自治領」(Dominion of Canada)に加入しブリティッシュコロンビア州となる。1858年にフレーザー川下流岸に金鉱が発見され、ゴールドラッシュが始まった。ビクトリアも金を求める人であふれ、道路網の整備などが進んだ。その後の行政の失敗で発生した大きな負債を自治領政府が負担する形で、バンクーバー島植民地と本土側が統合し、自治領に加入することとなった。その際、自治領政府はモントリオールからの大陸横断鉄道を敷設することを公約とした。

その後の歴史的出来事

カナダ太平洋鉄道(CPR)の大陸横断鉄道が完成し、バンクーバー港と直結してからは、バンクーバーは太平洋岸での主要な都市となり、カナダの豊かな天然資源や工業製品の輸出基地となって現在まで発展した。

19世紀末から20世紀初頭にかけての白人入植者の増加に伴い、彼らによってインフルエンザ天然痘がインディアンの集落に持ち込まれ、これら伝染病は「集落単位で消滅する」規模で猛威をふるい、免疫を持たないインディアン社会に大打撃を与えた。彼らの死体は一つの穴に大雑把に放り込まれて埋められ、墓標すら立てられなかった。近年になり、部族の有志によって遺骨の家族への返還作業が少しずつ進められている。

20世紀に入ってから、多くの移民が世界各国からやってきた。この時点ではまだ人種差別も激しく、様々な人種差別事件が起こった。イギリス領として開拓してきた頃の無謀で不誠実、時には暴力による、インディアンとの交渉の過程に鑑みて、インディアンとの差別問題では現在でも論争が続いている。ブリティッシュコロンビア州はその後も地勢学的な関係からもアジアとの結びつきが強く、日本を含むアジアからの移民を多く受け入れていることもあり、アジア経済に後押しされての経済発展が続いている。日本をはじめとする国からの観光客も多く、観光産業が発展している。

1910年3月4日 ロジャーズパスで雪崩が発生し、その復旧作業中の移民労働者を再度雪崩が襲い、32人の日系移民が死亡し、バンクーバーに埋葬された。

地理

カナダ西部に位置し、太平洋とロッキー山脈に挟まれている。東はアルバータ州、北はユーコン準州ノースウエスト準州と接し、南は国境を隔ててアメリカのワシントン州アイダホ州モンタナ州と接する。また、州の北西部はアメリカのアラスカ州と接する。北部の2/3とロッキー山脈にはほとんど人が住んでいない。州の北西部にはタールタン高地が広がる。

州の南西部のバンクーバーや沿岸地帯は黒潮の影響で温帯に分類され降雨量が大きく、その他の地域は亜寒帯に分類される冷涼な気候である。しかし、南部山間地のオカナガン地方は半乾燥〜砂漠気候で所により夏の気温が40℃を超え、ワインの産地である。州の森林面積は6000万ヘクタール(総面積の3分の2に相当)。多様性に富んだ自然を持ち、生態系が非常に豊かである。

エリア別

BC州は以下、大きく6つのエリアに分かれている。

  • バンクーバー、コースト&マウンテン
  • バンクーバーアイランド、ビクトリア&ガルフ諸島
  • トンプソン・オカナガン
  • クートニー・ロッキーズ
  • カリブー・チルコーティン・コースト
  • ノーザン・ブリティッシュ・コロンビア
参照:ブリティッシュコロンビア州の地方行政区

主な都市

2006年現在、州内の都市圏人口、上位5都市。

リゾート地

政治

スポーツ

交通

州内の空港

鉄道

高速道路

関連項目

注・出典

  1. Ged Martin, "The Naming of British Columbia," Albion: A Quarterly Journal Concerned with British Studies, Vol. 10, No. 3 (Autumn, 1978), pp. 257–263 in JSTOR

外部リンク