ベルリンの壁

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ファイル:Berlin Wall 1961-11-20.jpg
東ドイツ当局により建設中のベルリンの壁。(1961年11月20日)
ファイル:Bundesarchiv Bild B 145 Bild-P061246.jpg
壁の前のブランデンブルク門。左側が東側で右側が西側である。(1961年)

ベルリンの壁(ベルリンのかべ、: Berliner Mauer)は、1961年から1989年まで西ベルリンの周囲を取り囲む形で建てられていた壁である。

第二次世界大戦後の1949年に東西ドイツが成立し、東西間の国境が閉鎖されたが、市内が東西に分割された首都ベルリンでは東西の往来が自由であった。しかし相次ぐ西側への人口流出が東ドイツに深刻な影響を及ぼしたことから、1961年8月13日に突然東ドイツ(ドイツ民主共和国)が東西ベルリン間の通行を全て遮断し、西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で隔離して、後にコンクリートの壁を作った。西ベルリンを東ドイツから隔離して西ベルリンを封鎖する壁であったが、実質的には東ドイツを外界から遮断し自国の体制を守る壁であった。

このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった[1]。そして1989年秋の東欧革命に伴う東ドイツ国内の混乱の中、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、その日の夜に壁の前に多くの東ベルリン市民が押しかけて国境検問所のゲートが開き、数万人の市民が西ベルリンに入った。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。

概要

ファイル:West-Berlin in Germany.svg
東西ドイツにおけるベルリンの位置
ベージュが西ドイツ、灰色が東ドイツ、赤い部分が西ベルリン
ファイル:Occupied Berlin.svg
4ヵ国に分割されたベルリン

1945年5月8日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線がドイツ無条件降伏により終わり、同年7月にベルリン郊外のポツダムでの会談でドイツの非軍事化・非ナチ化・民主化を主眼とする占領改革を進めることで合意された。このポツダム協定でドイツはアメリカ合衆国イギリスフランス・ソ連の戦勝4ヵ国により分割占領され、そして首都ベルリンもこの4ヵ国のそれぞれの管理地区に分割されることが決まった[2]。西ベルリンはアメリカイギリスフランスの、東ベルリンはソ連の管理地区となった。やがてアメリカとソ連が対立し、1948年6月24日にソ連が西ベルリンと西ドイツとの陸路を封鎖して「ベルリン封鎖」を行うと、アメリカが6月26日から「ベルリン大空輸」で対抗し、この西ベルリン市民への生活物資の空輸作戦の成功でソ連は翌1949年5月12日に封鎖を解除して「ベルリン封鎖」は失敗に終わった。

この決定的な米ソの対立で、社会主義陣営に属するドイツ民主共和国(東ドイツ)と、自由主義陣営に属するドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立した。この東西両陣営の冷戦時代に入ってから、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が後を絶たず、危機感を抱いたソ連と東ドイツは、1961年8月13日午前零時を期して、深夜に突然西ベルリンを包囲し、東西ベルリン間48キロを含む西ベルリンと東ドイツとが接する分割境界線155キロ余りの境界線の通行を一切遮断し、西ベルリン周囲の境界線から少し東ドイツ領内に入った地点に有刺鉄線を張り巡らせ、その後に巨大な壁を建設した。以後東ベルリン市民の西ベルリンへの通行は不可能となり、多くの家族が不意に引き裂かれ、友人・知人とも引き裂かれた。そしてこの後に壁を越えて越境しようとした者が、次々と射殺されるなどの悲劇が生まれた。

その28年後の1989年11月9日夕方、東ドイツ政府がそれまで認めていなかった、自国民の西側への旅行の規制緩和措置の発表の席で、不用意に「ベルリンの壁を含む全ての国境検問所から出国が認められる」とし、しかも記者の質問に答えて発効は「即刻です」と発表したことによって、多くのベルリン市民が壁の前に集まり国境検問所が緊迫した事態を生じて、混乱を避けるため夜遅くに検問所が市民の通過を認めて、ベルリンの壁は開放された。この11月9日の夜に突然ベルリンの壁が崩壊したことは世界を驚かせ、ドイツ民主共和国の崩壊に至った。

“ベルリンの壁=東西ドイツの国境の一部”と勘違いされることもあるが、これは誤り(後述)。ベルリンはドイツ帝国時代から全域が東側に所在し、同時に東ドイツの首都でもあり、「西ベルリン」のみが西ドイツの飛び地状態であった。

戦後

東西対立

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西ベルリンを囲むベルリンの壁 丸い記号は国境検問所

1701年にプロイセン王国の都となったベルリンは、1871年に誕生したドイツ帝国の首都となり、その後ヴァイマル共和国からナチス政権下の時代を経て1945年5月8日に第二次世界大戦が終了するまでドイツ国の首都であった[3][注 1]。6月5日に発された「ベルリン宣言」により、ドイツは戦勝4ヵ国の分割統治となり、ドイツ人にとってドイツ国内には政府も首都も無い状態であった。

ベルリンの分割占領

戦後のベルリンの管理について、米英ソによって分割占領されることは、大戦が終わる8カ月前の1944年9月12日に米英ソ間の協定で「『ベルリン地区』は当該最高司令官が指定する米英ソの武装軍隊により共同して占領される」と議定書第2条で定められたことであった。結局ソ連軍が先にベルリンに突入し、戦線はベルリンから西へ伸びたことで、ベルリンはソ連統治地区に囲まれた状態におかれ、首都ベルリン市内は、米英ソに仏が加わって4カ国の分割統治となった[4]

1945年6月14日付け電信で、アメリカのトルーマン大統領はソ連のスターリン書記長に、米軍のベルリンへの鉄路・陸路・空路の自由な使用を要請したが、6月16日付けの返電は「必要に応じて保障する」という曖昧な内容であった。6月29日に西側は

  1. 西側占領地域からベルリンとの間で、3つの高速道路の無制限使用権
  2. 指定された鉄道の3路線の使用権
  3. 3つの飛行場の無制限の航空路使用権

などを要求したが、ソ連軍最高司令官ゲオルギー・ジューコフ元帥は、1つの鉄道、1つの高速道路、1つの航空路、2つの飛行場の使用を認める、とした回答であった。

戦後ドイツの占領統治については、第二次世界大戦終了前の1944年11月14日付けの米英ソ間の協定で、各占領軍の政策によるのではなく、ドイツ管理理事会が指揮することになっていた。しかし実際は、各占領軍が自国の占領政策を展開し、各占領地域ではその最高司令官が最高決定権を持っており、独自に命令や法令を発することが出来たのである[5]

分割占領が決まっていたベルリンでは、ソ連が着々とソ連型の新しい秩序を作り上げつつあるところに、1945年7月4日に米英軍が、8月12日に仏軍がベルリンに進駐してきた。ドイツ降伏後2〜3カ月後で、ここでベルリンの新たな4ヵ国の占領統治が始まった。この占領統治は1990年まで45年間続くことになった。この間にソ連による占領政策が進められて、ベルリンの統治形態は、東西両陣営による占領政策が真っ向から対立することとなった[6]

ベルリン封鎖

この西側3ヵ国とソ連との間での占領政策の対立は、1947年から米ソ間で激しさを増し、1947年6月にアメリカが戦後ヨーロッパ経済の復興と再建を目的とした経済復興計画(マーシャルプラン)を発表して、1948年6月に新しい通貨ドイツマルクを導入する通貨改革を西側だけで実施した。これにソ連が反対してソ連統治地区での新通貨マルクを発行し、西ベルリンを封鎖する実力行使に出た[7]。1948年7月24日、ソ連は西ベルリンと西ドイツを繋ぐ全ての陸上交通を遮断した。この西ベルリンを封鎖したことで、西ベルリンと西ドイツを結ぶ道路網や鉄道網、給水、電気などの機能が遮断されて市民生活に深刻な影響を与えたが、アメリカは陸の孤島となった西ベルリンに大空輸作戦を敢行して援助物資を大量に送り、ソ連は目的を果たすことなく、10ヵ月後の1949年5月12日にベルリン封鎖を中止した(ベルリン封鎖)。

ソ連は西側諸国が西ドイツの建国と再軍備を目指していると見ていた。ソ連が西ベルリンを封鎖したのは西側の西ドイツ建国の計画を放棄させようとしたものであり、そして西側に西ベルリンを放棄させてソ連に政治的にも軍事的にも依存した東ドイツを建国しようとする意図の現れであった。東ドイツの心臓部に西側の拠点があることはソ連にとって都合が悪く、西側が西ベルリンを放棄することになれば西ドイツの人々も西側諸国に追随することに躊躇するだろうという読みもあった。しかしアメリカのトルーマン大統領はソ連の圧力に屈することがあってはならないと考えていた。また一方で全面戦争に発展しかねない対決は避けねばならないとも考えていた。結果的にベルリン封鎖はソ連にとってマイナスの効果しか生まなかった。西欧各国に自主防衛の強化を促し、また共同防衛体制の構築が急務となり、1949年4月に北大西洋条約[注 2]が締結された[8]

封鎖の間にベルリン市議会は東西に分裂し分断国家の歩みは既成事実化していった[9]

ベルリン封鎖が解除された直後の1949年5月23日にアメリカ・イギリス・フランス側占領統治地区がボンを暫定首都としてドイツ連邦共和国が成立し、同年10月7日にソ連側占領統治地区がドイツ民主共和国を成立させてベルリン東側が東ドイツの首都となった[10]

スターリン・ノート

ドイツの東西分裂後の1952年3月10日、後に「スターリン・ノート」と呼ばれるソ連からの覚書が西側3ヵ国の大使に当時ソ連外務次官だったグロムイコから手渡された。その内容は懸案になっていたポーランド西部国境(オーデル・ナイセ線)には触れずに、ドイツを再統一し、戦勝4ヵ国の米英仏ソの占領軍は撤退し、統一ドイツは独自の軍隊の創設を認める、その代わりに中立化するとした提案であった。このための平和条約を結ぶために米英仏ソの他にポーランド、チェコスロバキア、ベルギー、オランダ、他に対ドイツ戦に参加した諸国を参加国とするとして、その条約には7項目の政治的原則、領土、経済的原則、2項目の軍事的原則、そしてドイツと国際連合組織から成っていた。スターリンとしてはかなり譲歩したものであった[11]

翌日3月11日に西側陣営と西ドイツとで協議し、西ドイツのアデナウアー首相は中立化に反対し、西側の反応はソ連の妨害工作として否定的であった。これはこの当時西欧で協議していた欧州防衛共同体(EDC)構想で欧州統一軍に西ドイツの兵士を参加させる案が進められていることに対して、西ドイツの再軍備を阻む目的があったとされている。西ドイツ国内ではアデナウアー首相の絶対反対もあれば、検討に値するとする意見も与党内から出て、しかも野党社会民主党はこの覚書を再統一へ向けて建設的に活かそうとする意向であった[12]

この覚書はアメリカにとって最も真意がつかみにくい文書として後に議論が絶えなかった。3月25日にアメリカはこの覚書の回答を送り、この中で国連委員会での管理下でのドイツ全土の自由選挙を提案した。これに対し4月9日にソ連は4ヵ国の管理下での自由選挙の実施を提案してきた。この自由選挙を拒否しなかったことはソ連の大きな譲歩であった。5月13日に西側3ヵ国はこの4ヵ国の管理下での自由選挙は同意できない旨回答した。その理由は4ヵ国が裁判官にもなり党派を代表することにもなるので避けなければならないというものであった。そして5月24日にソ連は業を煮やしてドイツ問題の協議を進展させたいとしながら、西ドイツの再軍備と欧州防衛共同体(EDC)への参加に強い非難をしている。この3日後に欧州防衛共同体条約が調印されて、このスターリン・ノートは文書でのやり取りで終わった。アデナウアーはソ連のドイツ中立化の狙いは欧州のソ連圏への組み込みだと判断し、最初からスターリン・ノートをソ連の牽制だとして受け入れる意志は全く無かった[13]

ベルリンへの通行問題

封鎖が収まっても、ベルリンの緊張状態は変わらなかった。とりわけ最初にソ連と他の米英仏とで食い違っていたベルリンへの通行に関する問題は未解決のままであった。西ドイツから西ベルリンへ行くには東ドイツ領内の高速道路を通り抜けるか、西ドイツ国内の飛行場から米英仏の航空便を利用するしか選択肢はなく、西ドイツ独自に動くことは出来なかった。ソ連による西側への交通妨害はベルリン封鎖後も変わらず1952年8月2日にベルリンへの高速道路通行料に多額の道路税を課して9月20日に東西間の貿易協定の締結によって、この問題は解決された。1952年5月27日に西ドイツが欧州防衛共同体に加盟すると、西ベルリンへの交通は完全に遮断され、同時に東西ベルリン間及び東ドイツとの電話回線も全部絶たれた[注 3]。同日に西側は声明を発表してベルリンに対する攻撃は西側連合国に対する直接の攻撃とみなす旨を発表した。この間には米軍の病院機がミグ機に妨害され、1953年に入ってから英軍機がエルベ川上空でミグ機に撃墜されている[14]。この問題は1961年夏のベルリンの壁の建設時に、アメリカのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ首相との間で暗黙の了解で安定化し、1971年9月3日の4ヵ国協定で法的な保障を得ている[15]

ベルリン暴動

東ドイツの首都となったベルリンにおいて、アメリカ・イギリス・フランスの占領地域である西ベルリンは、周囲を全て東ドイツに囲まれて「赤い海に浮かぶ自由の島」となり、「自由世界のショーウィンドー」とも呼ばれた。東ドイツ建国以降も東西ベルリンは自由に往来が可能であり、東ドイツの体制に不満を持つ人々の西ベルリンへの逃亡が相次いだ。やがて東ドイツのドイツ社会主義統一党の一党支配に基づく社会主義体制に不満をもつ市民の不満が高まり、1953年6月17日に東ベルリンで暴動が起こりソ連軍の介入で鎮圧された(ベルリン暴動)。この時には年間で30万人を超す東ドイツの人々が越境して西へ逃れた[16][注 4]

フルシチョフの非武装自由都市化宣言

1958年11月27日、ソ連のフルシチョフ首相が西ベルリンを半年以内に非武装の自由都市にする通告を行った。これは西ベルリンを東西ドイツのどちらにも属さず、どちらからも干渉を受けない地域にすることを述べたうえで、6カ月以内に東ドイツとの間に米英仏ソの4ヵ国とで協定を結ぶ、それが出来ない場合は米英仏ソの4ヵ国がベルリン問題に関して持っている契約及び権利は失効する、とした。

これは「戦後の4ヵ国協定(ポツダム協定)をことごとく反古にして、ベルリンに関する協定は守っているがそれを悪用して、承認もしていない東ドイツの領空領内を通って西ベルリンとの交通・通信に使用している。しかも西ドイツをNATO(北大西洋条約機構)に加盟させドイツ統一を妨げている。このような異常な憂慮すべき状態を解決するために西ベルリンを如何なる国の干渉も受けない自由都市にすること、西側軍隊は半年以内に撤退する、その合意が無ければ、東ドイツは独立国家として陸路、水路、空路の全てに関わる一切の権利を行使する、そして以後ベルリンに関する問題について米英仏との接触は一切終結する」ということが提案理由であった[17]

フルシチョフが西ベルリンの変則的な状況を打開する決意をしたのは、専門知識や熟練技術を持つ人材が西へ流出し東ドイツの経済が逼迫している状況が続き、比較的貧困な地域の真ん中に繁栄した孤島がある限り、東ドイツがソ連の安定した同盟国にはなり得ないと判断したからであった。そしてアメリカがベルリン問題で核戦争のリスクを冒すことは無いだろうと読んで、最大限ソ連が妥協したとしてベルリンを国連監視下で非軍事化することを狙っていた[18]

翌11月29日に西ドイツの有力紙フランクフルター・アルゲマイネ紙は「ソ連、西ベルリンのダンチヒ化を希望」との見出しで報じた[注 5]。ドイツの歴史家ハンス=ペーター・シュヴァルツは「この1958年の最後通牒から1963年までの期間は、全ての外交に第三次世界大戦の影がさしていた」としている。フルシチョフの通告に対して西ベルリン市長ヴィリー・ブラントはその日のうちに拒否の声明を出した[19]。12月14日にパリで米英仏及び西ドイツの各外相が集まり、これに西ベルリン市長も加わって討議し、16日にNATO理事会での協議を経て、ソ連の非難には法的根拠がない(ベルリンに対する取り決めはポツダム宣言以前の1945年2月6日に発効されたものである)として自由都市化を拒絶するものであった[20]。そして12月31日に占領軍としての権利を断念する気はないと回答している[21]。翌1959年2月にフルシチョフは西側軍隊の6ヵ月以内の撤兵期限を延期し、その後9月にアメリカを訪問しアイゼンハワー大統領と会談して期限を再度保留し、ベルリンの将来的地位とドイツ問題と軍縮について1960年5月にパリで予定されている米英仏ソ4ヵ国首脳会談で協議することで米ソ間で合意した。しかしこのパリ会談は直前に起きたU2型機事件で失敗に終わった[22]

3年後の1961年6月、ウイーンでの米ソ頂上会談で、フルシチョフは就任早々のケネディ大統領にベルリン問題を再度蒸し返して、東ドイツと戦勝4カ国との平和条約締結を要求し、応じなければソ連が単独で東ドイツとの平和条約を締結してベルリンへの通行管理権を委譲し、その際に西ベルリンから西側軍隊が撤退しなければ戦争となる、と半ば脅しに近い強い姿勢を見せた。しかし、ケネディは第二次大戦で勝ち得た西側のベルリンに関する権利・義務の保持を要求して譲らず、この会談は物別れに終わった[23]ウィーン会談)。

このフルシチョフの強硬な姿勢は、東ドイツのウルブリヒト社会主義統一党第一書記からベルリン問題の解決を求められてのものだったが、実態は東ドイツの建国以降、西側への市民の大量逃亡が収まらず、この1961年夏までに約274万人が西へ逃れ、しかも若者や技師・熟練労働者、医師の多くが含まれて、東ドイツの存亡に関わる危機的状況があったことがその要因であった[24]

西ドイツの経済成長で、東西ドイツの格差は広がっていた。1960年の国民所得は西ドイツが東ドイツの2倍になった。西ドイツでは、1000人につき車67台を持っているが、東ドイツでは1000人につき8台しか持っていない。東から西への人口流出総数は1959年が14万人で、1960年に18万5000人に達した。1日当たり500人が西へ移ったことになった[25]

ベルリン問題への西側各国のスタンス

後にニクソン大統領の時代に、国家安全保障担当特別補佐官そして国務長官を務めて米中外交の立役者となったヘンリー・キッシンジャーは、著書「外交」の中で、西ドイツのアデナウアー首相はフルシチョフとの交渉に一切希望を持っていなかった、と述べている。アデナウアーは自国の将来において、アメリカとドイツの利益は不可分である、として大西洋同盟に参加し、西側同盟国はドイツ統一を東西外交の課題とすることで自由選挙に基づくドイツ統一でなければならないと考えていた[26]

しかしイギリスとアメリカは違っていた。イギリスはドイツ統一に現実性を認めず、かつての敵国の首都ベルリンを巡って戦争の危険を冒すことには躊躇していた[27]マクミラン首相は戦争を望まなかったし、第二次大戦の敵であったドイツ人のための戦争などは論外であり、ドイツ再統一に反対であることを隠そうとはしなかった[28]

アメリカは、この時期に米ソ関係でデタントが進み、フルシチョフが平和共存路線をとる中で、ベルリンのために戦争の危険を冒す意図はなく、アイゼンハワー大統領はヨーロッパで地上戦を戦うことはないであろうと公言していたし、ダレス国務長官は「2つの国家による連邦制度は受け入れ可能である」とほのめかし、それを聞いたアデナウアーは激怒し連邦制は全く受け入れられないと譲らなかった。1958年11月の最後通牒の時にアイゼンハワーはダレスに、東西ベルリンとそのアクセス権が国連の管理下に置かれるのであれば自分は自由都市の考え方を受け入れることは可能だと電話での会話で述べていた[29]。アイゼンハワー政権の国家安全保障担当補佐官ゴードン・グレイは、アイゼンハワーはベルリンの地位を変えようという意思を持っていたことを、後に述べている[30]。ただしアイゼンハワーの戦略は封じ込めの原則から導かれており、ソ連が西側に挑むことになれば当然どこでもソ連と戦う姿勢であることに変わりはない。あくまで現状維持に重心を置いていた。アイゼンハワーはフルシチョフの言動は脅しであると見通して、戦略兵器全般でソ連が劣勢であることも気づいていた。後任のケネディ大統領もこの現状維持からベルリンでの些細な危険を冒すことを躊躇していた。西ベルリンへのアクセス権やドイツ統一のためにアメリカ兵を失う危険を冒すことが如何に愚かなことであるかを考えていた[31]。この期間、米英と西ドイツ・フランスとの間では対ソ関係でズレが生じていた。

フランスはドゴール大統領が誕生して第五共和制がスタートした時であったが、ドゴールは一貫して米英の大西洋同盟を嫌い、かつての侵略国であった西ドイツとの間で仏独協調を重視し、かつソ連との交渉は一切妥協してはならないとして非妥協的態度を貫き、戦争の危険性は主に西側の優柔不断さにあると明言していた[32]。しかしこの時期はアルジェリア戦争が終結を迎えたがフランス国内は世論の左右分裂で苦しんでいた時期であり、フランスからみるとベルリン危機は考え得る最も不都合な時期に到来した問題でもあった[33]

当時のベルリン

ベルリンは全域が東ドイツの中に存在し、西ドイツとは完全に離れていた[注 6]。西ドイツ領内から東ドイツ領内に130キロ入った所に西ベルリンがあった。

東ドイツ内の都市になったベルリンはすでに終戦後から東西に分断されていた。これはポツダム協定でベルリンも戦勝4ヵ国の管理地区に分割すると定められたことで起こった複雑な経過である。国家としての分断は1949年で、東ベルリンはそのまま「東ドイツ領」となり、西ベルリンは「連合軍管理区域」として東ドイツ内に孤立した状態で、周囲を東ドイツの領土に囲まれていた。東ベルリンはドイツ民主共和国の首都となったが西ベルリンは「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の市民が暮らす、アメリカ・イギリス・フランス3か国による占領地域」となり西ドイツ領とはならなかった。そのためドイツ連邦共和国の航空会社であるルフトハンザの西ベルリンの空港への乗り入れが禁止となるなどの制限はあったが、事実上はドイツ連邦共和国が実効支配する飛び地であった。

東ドイツと西ドイツの間の移動は国境封鎖により不可能となったが、ベルリンにおいては東西の間の移動は自由で、東ベルリンに住む市民が西ベルリンに通勤することも、あるいはその逆のケースもあり、1961年8月12日までその状態は続いた。

西ベルリンと西ドイツとの間の往来は、指定された高速道路アウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)、および空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが、西ベルリンに入れる航空機はアメリカ・イギリス・フランスのものに限られた。また、東西ベルリン間は往来が可能で、通行可能な道路が数十あったほかに地下鉄(Uバーン)や高速鉄道(Sバーン)などは両方を通って普通に運行されており、1950年代には東に住んで西に出勤する者や西に住んで東に出勤する者が数万人にのぼっていた。このうち東から西の職場へ行っている者が約63000人で、逆に西から東の職場に行っている者が約10000人であり、この時代は西のマルクのヤミ値が東の4倍だったため、西で稼いで東に暮らすと生活は楽であった。仲間たちからは羨ましがられ、そして妬まれた。それ以外の一般的な往来も多く、1日当たり約50万人が東西境界線を通過していたといわれる[34]。東ベルリンの市民は西側で開催される文化イベントやスポーツイベントにも参加していた[35]

1952年に東西ドイツの間の国境線が完全に閉鎖されたために、それまでは西ベルリン経由の難民は全体の4割に満たなかったのが、その後は6割から7割は東ベルリンから西ベルリン経由となり、まさに西への脱出口となった[36]

東ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所NATOフォネティックコードで、AアルファBブラボーCチャーリーと呼ばれた。特に、Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られ、やがて建設した時も崩壊した時も歴史の舞台となった。

東から西へ

戦後東西ベルリンの往来は自由であったため、毎年15万から30万人の東ドイツ国民が西ドイツに大量流出し、その多くは西ベルリン経由であった。1949年から1961年までの13年間に273万9千人が東ドイツから西ドイツへ流出したとされ、これは東ドイツの人口の約15%にあたる[37]。特に医師や技術者・熟練技術者の頭脳流出は、東ドイツ経済に打撃を与え、しかも25歳以下の若者が多かった[38]。これは当時の東ドイツの人口の6人に1人の割合であり、戦後の1945年から1948年までにソ連占領地区から西側3ヵ国占領地区へ逃れた人を含めれば300万人に達したと見られている[39]

東西ドイツの建国以降、東から西への移動のペースは上下していて、1949年は週2000人以上を数え、1950年には週4000人に跳ね上がり、51年と52年はやや減少したがベルリン暴動が起こった1953年には週6000人のペースに達した。54年は4000人に落ちて、その後55年、56年、57年と週5000人のペースとなり、1958年は週4000人、1959年は週3000人で年間総数は143,917人でそのうち90,862人が西ベルリンを経由し、残りは東ドイツから西ドイツに渡っていた。1960年に入ると週4000人のペースで特に5月の月間総数は16,500人に上り、年間総数は199,188人、そのうち152,291人が西ベルリンを経由していた[40][注 7]

ウイーン会談が終わって1961年6月末には、半年間の総数が103,159人で週4000人のペースだが、このうちの49.6%は25歳以下の若者であった[41]。そして7月第2週に流出は8000人に上り、第3週は9000人、第4週はやや減って8000人だが、7月のわずか1カ月の総数は30,415人で25歳以下は51.4%に上った。そして8月に入って8月2日だけで1322人で週1万人に達した[42]

この間の東ドイツから西ドイツへの難民総数の推移の公式の数字は以下の通りである[43]

難民総数 西ベルリン経由 25歳以下の割合
1949-1951年 492,681 193,227 データなし
1952年 182,393 118,300 データなし
1953年 331,390 305,737 48.7%
1954年 184,198 104,399 49.1%
1955年 252,870 153,697 49.1%
1956年 279,189 156,377 49.0%
1957年 261,622 129,579 52.2%
1958年 204,092 119,552 48.2%
1959年 143,917 90,862 48.3%
1960年 199,188 152,291 48.8%
1961年 207,026 150,481 49.2%
(壁建設以前) (155,402) (125,053)
(壁建設以後) (51,624) (25,428)

この1961年の時点で、東ドイツの人口は約1700万人で、西ドイツの人口は約6000万人であった[44]

東側の動き

東ドイツの焦燥

こうした中で1961年初頭に、それまでに東西ベルリンの交通遮断を求めていた東ドイツのウルブリヒト第一書記は、ソ連のフルシチョフ首相宛てに書簡を送り、米英仏の西ベルリン占領権を終わらせること、西側軍隊の削減そして撤退、西側のラジオ局とスパイ機関の撤去、米英仏そしてソ連が管理する郵便サービスから航空管制までの国家的機能の東ドイツへの移譲を要求した。とりわけ西ドイツから西ベルリンへの全航空アクセスの管理権を強く要求した。この全航空アクセスの管理権を東ドイツが持てば、西ベルリンから西ドイツへの飛行便を全て止めることができ、人口流出問題の解決どころか、西ベルリンを締め上げ、自由な西側都市としての力を削ぐことが可能となる。ウルブリヒトはそう考えていた[45]。ウルブリヒトはまた党政治局会議で「難民の流出を基本的に阻止する」計画の策定を目的とした作業部会を設置することも年初に決めていた。この作業部会の中心メンバーがカール・マロン内相、エーリッヒ・ミールケ国家保安相、そしてエーリッヒ・ホーネッカー党書記であった[46](後にウルブリヒトの後任として第一書記に就任する)。この「難民流出阻止」のための策が東西ベルリン間の通行遮断であり、壁を建設することであった。実はこの計画そのものは、9年前の1952年にウルブリヒトは当時のスターリンに同様の解決策を示し、これを進める許可を求めたことがあった[47]。またこの1961年3月のワルシャワ条約機構諸国会議の時にウルブリヒトは東西ベルリンの国境線の封鎖を提案している。この時はソ連が棄権し、他の5ヵ国は異常な手段による威信の喪失を惧れて反対し、否決されていた[48][注 8]

しかし西側から東ドイツを守るため、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設される方向で東ドイツは動き始めた。実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより東ドイツを外界から遮断する壁であり、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが「ベルリンの壁」である。そしてそれは国境線の境目に建てられたのではなく、東側に入った所に建てられた。このことは壁そのものに対して西側からは何も出来ないことを意味していた。あとはフルシチョフの決断を待つだけであった。

ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著書「壁の道」の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁の建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした[49]。壁の建設について、当時のウルブリヒト国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連のフルシチョフに東西ベルリンの交通遮断を求めていた。ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めたが、フルシチョフは1961年6月のウィーンでのジョン・F・ケネディ米大統領との会談まで待つよう返答していた[注 9]

ウイーン会談

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フルシチョフ首相(左)とケネディ大統領(右)(1961年6月3日)

1961年6月4日、ケネディとフルシチョフとの米ソ頂上会談の2日目にベルリン問題が討議された。前日はキューバ問題や東西関係全般についての討議をして、概して両者とも主張は平行線ではあったが激しいものではなかった。しかしベルリン問題に入ってから、ここでフルシチョフは、西ベルリンを統治しているアメリカイギリスフランス西ドイツを加えた西側4ヶ国とソ連は、東ドイツ平和条約を結んで、第二次世界大戦の戦後処理を終えるべきだと主張し、「ベルリンの地位を変更する平和条約を結ぶことで大統領と合意したいと思う。それが出来なければソ連単独で条約を結び、これまでの戦後の約束を全て反故にするつもりだ。以後は西ベルリンは自由都市となる。そこにはアメリカ軍は留まるがソ連軍も入る。国連軍や中立国軍が駐留することも賛成する用意がある。」と語った。ケネディは「西欧はアメリカの国家的安全のためには不可欠なものです。西ベルリンを語ることは西欧を語っているのです。なぜアメリカが不可欠な関係を持ち長く存在している場所から去るように求めるのか、理解するのが困難だ。戦争によって勝ち得た権利を放棄することをアメリカは決して同意しない。」と主張した。するとフルシチョフは激しく反発して「この行動がアメリカの利益に反するとは全く理解に苦しむ発言です。ベルリンにおける自国の利益を保護しなければならないというアメリカの論理は到底理解できないし、ソ連が受け入れることはありません。世界の如何なる力を持ってしても我々が平和条約に向けて前進することは誰も止めることは出来ません。」と語り、ここで平和条約を結んだ後の西ベルリンの状態についてフルシチョフは「ソ連と東ドイツで平和条約が為されれば、ナチスドイツ降伏の際に連合国間で取り決めたベルリン占領権や通行権は失効する、つまり、各国の軍隊はベルリンから撤退せねばならない」と説いた。これに対して、ケネディは「ベルリンを見捨てればアメリカは信用を失う」と主張し、激しい応酬となった。フルシチョフは「ソ連は平和条約を結びます。ドイツ民主共和国の主権は尊重されます。その主権に対するいかなる侵害もソ連によって公然たる侵略行為と見なし、しかるべき結果を招きます。」と半ば戦争を招くことになると公言してケネディを驚かせた。結局ケネディは引き下がらず、フルシチョフは「ソ連は今年中に単独でも東ドイツと平和条約を締結する。」と告げ、あるいは「条約に至らなくても東ドイツと暫定的協定を結び、そして戦争状態が終結すれば、(東ドイツ領土である)西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為になる。」と続けた。さらに「侵略を阻止するためには戦争も辞さない」と捲し立てた。しかしケネディは、フルシチョフの要求を完全に突き返し、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると告げ、物別れのままこのウイーン会談は終わった[50]

ソ連の袋小路

ケネディとの会談でフルシチョフは、アメリカが東ドイツを国家承認し、平和条約を結ぶするよう求めたが、ケネディは拒否した。そしてそれならばソ連は単独で東ドイツと平和条約を結び、その結果西ベルリンの占領統治は終わり、東ドイツに返還しなければならないと主張した。

しかしこれは結局ソ連にとって自らの手を縛ることになった。西ベルリンに西側3ヵ国が軍隊を置き、東ベルリンにソ連軍が存在する状況で、東ドイツに管理権を譲ったところでそもそも東ベルリンに東ドイツ軍は入っていない状態であり、東ドイツには何もできない。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設はアメリカ軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。

後にフルシチョフはベルリンの壁について、ウルブリヒトの強い要望で自分が決めたとして、ウィーンでのケネディとの不満足な交渉の結果として、このベルリン問題の解決策として考え出したものだ、としている。しかし壁の建設にフルシチョフは苦悩していた。これが社会主義の世界的評判にとって打撃であることを彼は十分認識していた。しかし東から西へ大量の人口流出に対策を早急に打たなければ東ドイツ経済が完全に崩壊するのは目に見えていたとして、それに対する方策は空路の遮断か壁の建設の二つで、空路の遮断はアメリカとの深刻な紛争を引き起こし戦争になるかも知れず、そんなリスクを冒すことは出来なかった、と述べている[51]

フルシチョフは行動を起こして共産主義の評判を落とすか、行動しないで西方の最前線の崩壊を早めるか、二つに一つを選ばざるを得なかった。東ドイツ経済を急速に改善する方法は無かった。かくも圧倒的な西ドイツの物質的優位を前にして、難民の流出を抑え東ドイツの崩壊を食い止めることなど、どだい無理で、封じ込めるしか選択肢は無かったのである[52]

ウイーン会談が成果なしに終わった結果、フルシチョフはウルブリヒト第一書記にベルリンの交通遮断を認めた。しかしケネディに激しい口調で半年以内にソ連は平和条約を東ドイツと結ぶと詰め寄ったフルシチョフだったが、わずか4カ月後の10月にこの平和条約案は撤回している。東ドイツへの影響力を保持するには現状のままでベルリン問題へのソ連の主導権を確保することが得策であることに気づいたからであった。やがてソ連が主導権を握る地域とアメリカが主導権を握る地域を明確に分けて、お互いが干渉しない暗黙の了解が成立し、ベルリンの壁を建設し通行を遮断したことで、ベルリン問題はその後に固定化し、逆に状況は安定化に向かうことになる。

ウルブリヒトの壁発言

6月15日にウルブリヒトは西側記者との会見に臨んだ。この時点ではまだ壁建設の了解をソ連から取り付けていなかったが、ウイーン会談の結果を聞いてウルブリヒトは壁建設に進めると確信していた。そしてこの日の記者会見で、東ドイツはブランデンブルク門の脇に国境を設けるのかという質問に対して「そうした壁建設の計画があるとは承知していない。我が国の建設労働者は住宅建設に忙しく、誰も壁の建設など考えていない。」と答えた。国境のことを聞かれて思わず壁について答えてしまったのである。しかし記者たちはそのことに気づかず、その後の展開を誰も予測していなかった[53]

翌月に壁の建設の了解をソ連から得たことで、ウルブリヒトは向後にソ連と平和条約を結び、ソ連の後押しで西ベルリンの「解放」に進めると考えた。

アメリカの動き

ウイーン会談でフルシチョフのベルリン問題についての言及に苦しめられたケネディ大統領は、その後ベルリンに差し迫った状況が訪れようとしていることを予感していた。トルーマン政権の国務長官でケネディ政権では外交顧問であったアチソンは、最も強硬な対応策を主張し、核戦争も辞さずとして国家非常事態宣言と戦時のような動員をかけるよう文書で大統領に提出した。しかしアーサー・シュレジンジャー特別補佐官は、この年の4月に行ったキューバのカストロ政権の転覆工作が準備段階で政治問題を過小評価して、軍事的及び作戦的な諸問題に注意を集中しすぎた結果失敗したピッグス湾事件の過ちを喚起して、2人のスタッフをホワイトハウスに入れて、アチソン案とは全く違う案の策定に掛かった。(この2人のスタッフの1人がヘンリー・キッシンジャーであった)この間は政権内部で強硬派と柔軟派との議論が沸騰していた[54]。シュレジンジャーにとって国家非常事態宣言のもとでの戦時動員というアチソンの案は、この危機を引返せないところまで押しやるリスクを含んでいることを危惧していた。それがピッグス湾事件の教訓であった。7月7日にケネディに文書を提出した。それはシュレジンジャーと2人のスタッフ(新進気鋭の学者エイブラム・チェイズとヘンリー・キッシンジャー)で作成したもので、アチソンの意見は最後の手段を検討しているが、危機が深まるまで交渉はせず、同盟国との協調もなく、軍事行動は述べてもその政治的目的は述べておらず、核戦争に踏み切る大義名分を練り上げることが不可欠であると書き入れた。それはアチソンの影響力を削ぐためであった[55][注 10]

7月8日にハイアニスポートのヨット「マーリン号」の中で、ケネディ・ラスク・マクナマラとテーラー軍事顧問が話し合った際には、ケネディは国務長官に声を荒らげて国務省の緩慢な対応に激怒していた。ケネディはこの時に国防長官にベルリンで衝突した場合の核を使用しない抗戦方法についての計画案の提出を命じ、核戦争への突入を避けるためにフルシチョフと語り合う時間を与える練り上げられたものでなければならないと述べた。このハイアニスポートのヨットでの会議から7月25日の大統領声明までの17日間の間に、アチソンの強硬な提案が少しずつ削ぎ落されていった[56]

この後に7月13日と19日に国家安全保障会議が開かれた。とりわけ19日の会議ではアチソンとマクナマラとの間で意見の応酬が交わされて、結局アチソンの国家非常事態宣言と予備兵力の招集などの全面的動員の案は見送られた。そして7月25日にケネディはテレビ演説に立った。

「西ベルリンはコミュニストの海に浮かぶ自由の小島です。西ベルリンは鉄のカーテンの裏側の希望への灯です。・・我々は西ベルリンの自由な人々を、我々の権利を、彼らの安全を維持しなければなりません。」と決意を表明して、国家非常事態の宣言ではなく、32億4700万ドルの国防費追加要請、陸軍兵力を87万5000人から100万人に増員、海・空軍の実践部隊の増員、そのための徴兵を3倍に増やし予備兵力を招集[57]し、ワルシャワ条約機構諸国に対する経済制裁を課すことを述べて、年内までに対ベルリンへの空輸能力を高め、ヨーロッパへの配備に6個師団を追加することも発表した[58]

この大統領の演説において、マスメディアは全く気がつかなかったことだが、ケネディは「西ベルリン」、「ベルリン」という語句を区別して使用していた。「西ベルリン」という単語を17回使用した。ベルリンの西部に手を付けない限り、ベルリンの東部は構わない、というメッセージに読めるものであった。この演説の前日に演説草稿文を読んだCIA高官ジェームズ・オドネルは、西ベルリンの安全保障ばかり繰り返しているとしてスピーチライターのセオドア・ソレンセンに文句を言っていた。ベルリンは理論上は4ヵ国の管理下にあるのだが、ケネディはソ連に東ベルリンでのフリーハンドを与えると伝えているようなものであった[59]

これより前に6月のウイーン会談で、アメリカ側の政府高官は首脳2人の会議録を読んで驚いていた。アイゼンハワー大統領まではヨーロッパが東西に分裂している現実についてのコメントは控えていたが、ケネディ大統領は分割されている現実を積極的に受け入れて、分割を受容可能で永続的なものと認め、しかも「世界に生起し勢力均衡に影響を与える変化は、米ソ両国が威信をかけた条約上の誓約に関わりの無い形で起こることが決定的に重要である。」とフルシチョフに語っていた。これはワルシャワ条約機構加盟国など東側に属する国にはアメリカの干渉はあり得ないことを示唆していることになるのである[60]

そして8月初め、ケネディは冷静にフルシチョフの言葉を振り返って、ウオルト・ロストウ補佐官に語っていた。「フルシチョフは東ドイツを失いかけている。東ドイツを失えば東欧全体を失うことになる。だから難民流出を止めるために何か手を打つだろう。たぶん壁を築くことになるだろう。我々はそれを阻止できない。だが西ベルリンを守ることは出来る。しかし東ベルリンを塞がせないために行動することは出来ない。」[61]

ケネディはフルシチョフがウイーン会談で突き付けた最後通牒を拒否し、西ベルリンについて、西側軍隊の駐留、自由な通行、自由な政治状況の保持の3点を要求したが、これはアメリカの関心が西ベルリンの現状維持に限られることを示すシグナルに他ならなかった[62]

ベルリンの壁の建設

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ベルリンの壁

1961年7月6日にフルシチョフがウルブリヒトに、「東西ベルリンの境界閉鎖」の決定を伝えた[63]。8月3日にフルシチョフとウルブリヒトはモスクワで細目の詰めを行った。この時にソ連と東ドイツとの平和条約を結ぶ件については、壁の建設が終わってからとして、フルシチョフは「西ベルリンと西ドイツを結ぶ地上ルートも航空ルートも妨害する如何なる行動を取ることを望まない。」と述べて、ウルブリヒトは「難民流出に比べれば二次的な問題だ。」として同意した。また実行に当たっては全ての作戦が厳密に東ベルリンの内側で行わなければならないとして、「1ミリでもはみ出してはならない」と釘を刺した。そして8月12日(土曜日)から13日(日曜日)にかけての夜間に実行することで決まった[64]。2日後の8月5日のワルシャワ条約機構首脳会談最終日に、フルシチョフは「東西ドイツ間に存在する国境と同程度に浸透不能な境界を設置する。」として「ベルリン市内の境界を含むドイツ民主共和国の国境に西側諸国の国境に存在するものと同程度の管理を実行する。」と述べると、これを加盟諸国は異論なく受け入れ、自国の軍隊をソ連軍支援のために移動させることに同意した。しかし東ドイツへの経済的保証については加盟各国は西側とも貿易関係があったため、西側の経済的報復を恐れて同意には至らず、フルシチョフは憤然とした。そして加盟国からなぜアメリカの軍事的反応をもっと心配しないのだ、との声があり、フルシチョフは「ケネディはライト級だ。」と答えた[65]。この時、ベルリンで西へ逃れる難民の数は週1万人に達し、1日で2000人を超す日もあった[66]

実は、この時にフルシチョフは6月3〜4日のケネディとのウイーン首脳会談でのケネディの言動やその後の7月25日の演説を検討しながら、感触としてケネディのスタンスは、ソ連や東ドイツがどのような行動を取ろうと、それがソ連圏内に限定される限り、そして西ベルリンへのアクセス権を妨害しない限りアメリカは干渉しないというもの、と考えていた[67]

8月4日に東ベルリンを管理するソ連軍政官は東ベルリンに住みながら西ベルリンに働きに出て行く人々に対して、氏名を登録して家賃と光熱費を東側通貨のドイツマルクで支払うように命じた。この週末の難民流出者は3268人に上った[68]

ウルブリヒトは東ベルリンに戻り、境界閉鎖そして壁の建設の準備の仕上げに入った。総指揮は党書記エーリッヒ・ホーネッカーであった。

8月8日、流出者総数は1741人。その翌日8月9日は1926人だった。

8月10日、イワン・コーネフ元帥が東ドイツ駐留ソ連軍の総司令官として派遣された。前任者はそのまま総司令官代理となった。第二次大戦でのソ連邦英雄であり、ワルシャワ条約機構の初代司令官であり、フルシチョフが見込んでの派遣であった[69]。この日の流出者総数は1709人に上り、翌日の11日は1532人だった。東ドイツ内務省の統計で秘密にされているデータがあった。人民警察内部でも越境亡命者が後を絶たなかった。1959年で55人、1960年で61人、1961年はこの8月までで40人の流出が記録されている[70]

8月11日、東ドイツ人民議会はある決議を採択した。ベルリンにおける報復主義的状況に対処するために東ドイツがとろうとする如何なる手段をも承認する、とした決議であった[71]。この時に議員は全てその具体的内容は知らず、また知ろうともしなかった。実際、壁の建設について、それが行われることを事前に知っていたのは軍のトップと社会主義統一党(SED)のウルブリヒト第一書記周辺だけで、政治局委員でも国家保安局(シュタージ)幹部でも知らされていなかった。それほどに機密保持が厳重であったがために、西側各国及び情報機関も感知できず、アメリカCIAが東側に配置した諜報員からの情報でも壁の建設は全く入っていなかった。この間は西側情報機関は、東側が現状への打開策を打ち出すことは十分予想はしていたが、それがどんな内容なのかは予測出来なかった。まして壁の建設は想像してもまず不可能という判断で思いも寄らなかった。西ドイツ連邦情報局には少なくとも複数の情報から、ソ連がウルブリヒトの裁量に任せて何かの行動に出ること、そして地区境界線を封鎖されそうであること、柵を築くのに適した軽量な資材が蓄えられていること、作業の開始が分からないこと等の情報は入っていた。その情報は少数の党幹部だけが知っていた[72]

東ベルリンに支局を置いた唯一の西側通信社であるロイター通信のアダム・ケレット=ロング記者は、たまたまこの人民議会の謎めいた決議について、党の宣伝担当責任者であったホルスト・ジンダーマン(後に東ドイツ首相となる)に聞くと、「この週末にベルリンを離れることを、私はしない」という答えが返ってきた。彼はそれから市内を取材して駅での警官の多さを見てから、事務所に戻り、「東ドイツは西ベルリンへの難民流出に関して、この週末に行動に出るだろう」という記事を世界中の新聞社に配信した[73][注 11]

国境封鎖そして有刺鉄線

8月12日は土曜日でいつもの休日であった。マリーエンフェルデ難民収容所はこの日も多くの難民が押し寄せ、その数は最終的に2662人になった。西ベルリンの映画館は東ベルリン市民でも東の通貨で観ることができ、「ベン・ハー」「荒馬と女」「老人と海」「誰が為に鐘は鳴る」「第三の男」「西部戦線異状なし」が上映されて満員であった。東西の境界線近くのツインマー通りでは「子供祭り」が開催されて、東西ベルリンの全地区から子供たちが集まり、ゲーム遊びに興じ、お菓子を一杯もらって、子供の歓声に沸いていた。西側諸国の軍幹部の中にはゴルフに行った人もいた。この日、西ベルリン市長ウィリー・ブラントは社会民主党(SPD)の党首でもあり、9月に総選挙が行われるのでその選挙遊説でバイエルン州ニュールンベルクに出かけ、アデナウアー連邦共和国首相は同じようにリューベックに遊説に出ていた[74]

そして夜になってブラント市長は遊説先のニュールンベルクから夜行列車でキールに向かった[75]オリンピックスタジアムに近い将校専用クラブではこの夜にダンスパーティーが開かれ西側外交団や軍関係者が参加していた[76]

午後4時に政治局会議が開かれて、ウルブリヒト第一書記から説明があり、討議はなく、したがって異議は無かった。会議後ウルブリヒトは指令書に署名しホーネッカーに執行を命じた。それからウルブリヒトは目立たないように、ベルリン郊外の迎賓館に行き、政府高官を集めた園遊会を夕方開いた。そして夜10時に参集した高官を一同に集めて、ウルブリヒトは「東西ベルリン間は今から3時間以内に閉鎖される。東ドイツ保安部隊にこの行動を私は命じた。まだ開いたままの境界を今後適切な管理のもとに置くための行動である。」として「ついては、この命令書に閣僚諸君は署名してもらいたい。」と語った。酒で酔いが回った閣僚はいっぺんに酔いが冷めた。この時まで何も知らされていなかったのである[77]

数十台のトラックが数百のコンクリート柱を東ベルリンのパンコウ地区の警察営舎の備蓄場に集めていた。東ベルリン郊外のホーエンシェーンハウゼンの国家保安省の広大な敷地に東ドイツから数百人の警察官が集まっていた。彼らは事前に角材4本を組み合わせた木製の妨害物を作った。これに釘や留め金を打ち込み、有刺鉄線を張るのである。そして国境線に有刺鉄線を張り、コンクリート柱を立てて第一の障壁を仕上げるのを援助するのが、国境警察隊、予備警察隊、警察学校生徒、そして労働者階級戦闘団(武装労働者集団あるいは工場戦闘民兵・武装民兵隊とも呼ばれる)である。これらが第一の防衛線である。そして正規軍が第二の防衛線を形成する。緊急事態が発生した場合は直ちに前進して最前線部隊を支援する。これは1945年7月に結んだ4ヵ国協定に明らかに違反していた。東ドイツ軍は4ヵ国の許可がないと東ベルリンには入れないのであった。そしてソ連軍が後方の第三の包囲線として位置し、東ドイツ軍が総崩れになった場合は進出することになっていた[78]

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有刺鉄線の周囲を警護する労働者階級戦闘団(1961年8月13日)

8月13日午前1時、東ドイツ警察隊本部は二つの指令を発した。1時5分にブランデンブルク門に国境警察隊が現れた。1時11分にロイター通信のアダム・ケレット=ロング記者のオフィスのテレプリンターがあわただしく動き始めた。いつもは終わって静かな時間のはずが、記者が送られてきた文章を読むとそれはワルシャワ条約機構加盟諸国の声明で「西ベルリン全領域の周囲に確実な保護手段と効果的管理を構築する」ものであった。急ぎ車を走らせてブランデンブルク門に向かったが、途中で警官に止められて「境界は閉鎖されました」と伝えられた。すぐにそこを離れて支局に戻り、「東西の境界線は本日、日付が改まると同時に閉ざされた」と世界中に配信した[79]。この時に東ドイツ政府は東西ベルリン間の68の道すべてを遮断し、有刺鉄線で、最初の「壁」の建設を開始し始めていた。午前1時30分、東ドイツ当局は全ての公的輸送を停止した。東西ベルリンを結ぶフリードリッヒ通り駅では西ベルリンから来た全列車の乗客の降車を許さず、各駅で列車の線路を破壊して有刺鉄線を張り拡げていった[80]。その時に西側3ヵ国の兵はまだ寝入ったままであった。

イギリス特使団政治顧問バーナード・レドウィッジは、将校専用クラブのパーティーから遅くに帰宅して寝る準備に入った時に、英軍憲兵隊から電話で列車の深夜運行の中止、通信の遮断、検問所での道路封鎖の報告を受けた。急ぎスタジアム近くのオフィスに出向き、ロンドンに電話しそして至急電を送った。これが最初の正式な通知であった。レドヴィッジは、この作戦にそれほど驚かなかった。「絶対に何かあるとは感じていたが誰も推測出来なかった。情報源からは報告は無かった」と後年のインタビューで答えていた[81]

西ベルリン駐在のアメリカ公使アラン・ライトナーは、午前2時に境界閉鎖の第一報を受け、部下のスマイサーに東ベルリンで「何かが起きている。」と伝えて様子を見に行くように指示した。この時には米英仏の外交官たちはお互いに電話をかけまくり、情報収集に努めていた。スマイサーは同僚のトリンカとともに車でポツダム広場から東ベルリンに入ることが許可されて、約1時間東側を回りブランデンブルク門から西ベルリンに戻った。スマイサーの目撃情報からライトナーはソ連軍がこの作戦に直接役割を果たしていないことでアメリカにとって軍事的脅威でないと考える一方で、東ドイツの軍隊を東ベルリンに入れることを禁止している4ヵ国協定に違反していることも念頭に置いた。午前11時にラスク国務長官に最初の詳細な報告を打電した。「東ベルリン住民が西ベルリンへ入ることは妨げられた」「東の経済的損失と社会主義陣営の威信を失う難民流出に対処する措置である」と述べて、夜に次の電報を打電した時にはソ連軍の動きにも言及し、直接の介入は無いがかなりの規模で動員したことは東ドイツ軍の信頼度について疑念を持っていることも付記し、また西側の軍関係者及び文民公務員は東へ自由に出入りしていることも付け加えた[82]

ほぼ午前2時すぎから各地区に配置した労働者階級戦闘団から準備完了の連絡が相次ぎ、午前3時に警察本部は内務省への第1回目の報告を行い、その後1時間ごとに報告を続けた。3時25分にUPI通信が速報を配信した[83]。午前4時、ブラント市長の乗った列車はキールに向かっていたが途中のハノーファーに到着後に連絡が入り、急ぎハノーファーで降りてタクシーに乗り空港に向かった。午前4時30分にアデナウアー首相は首都ボン近くの自宅で就寝中に起こされて状況を知らされた[注 12]。ブラント市長が急ぎ西ベルリンに向かったのに対しアデナウアー首相は西ベルリンにすぐに行くことはなかった。フランスのドゴール大統領はパリ南のコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーゼの別荘でいつものように週末の休暇でやはり就寝中にクーヴ・ド・ミュルヴィル外相から電話で事態を知らされた。ドゴールはその時に「これで、ベルリン問題に片が付く」と語ったといわれる[84]

この頃にアメリカのスマイサーとトリンカは偵察を続けフリードリッヒ通り駅に到着した。まだ深夜であったが数十人の乗客(女性・子供・老人ら)がプラットホームに上がろうとして警官に押し戻されて、トリンカは後に「これが最後のチャンスと思ったのだろう。全ておしまいだと悟り、涙を流していた。」と語っている。1日遅かったことを誰もが悟り、怒ることもできず、皆泣いていた。このフリードリッヒ通り駅の構内に1961年8月12日付けで党中央委員会からのこのような命令書が張り出されていた[85]

東ベルリンと西ドイツ間の長距離列車は時刻表通り運行するが、当駅ではプラットホームAの発着とする。

ベルリンの東西を運行する都市鉄道の以下の路線は運行を停止する。
(該当路線リスト省略)
都市鉄道は今後も当駅と西ベルリン間を連絡するが列車はプラットホームBの発着とする。
東ベルリン側郊外からの列車は当駅を終点としプラットホームCの発着とする。

この命令書にはその他に地下鉄の閉鎖駅が列挙され、西側からの路線の通る東側の地下鉄駅は列車が停止しないことも明らかにしていた。そしてここには記されていなかったが、これ以降西へ乗車できるのは警察からの正式な証書を持つ人だけとなり、プラットホームAとBはやがて閉鎖された。この駅から西へ向かって運行が再開されたのは1989年になってからである[86]。この日に都市鉄道の8路線、地下鉄の4路線が交通不能となり、都市鉄道の48駅の全てで地区間交通が廃止され、東ベルリンの33駅のうち13駅が営業停止となった[87]

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-88574-0004, Berlin, Mauerbau, Bauarbeiten.jpg
チェックポイント・チャーリーで有刺鉄線からコンクリートの壁を建設(1961年)
ファイル:Bundesarchiv Bild 183-87665-0002, Berlin, Mauerbau, Checkpoint Charlie.jpg
バスの乗客に許可証の提示を求める東ドイツ警備兵(1961年8月)

東ベルリンは大騒ぎで人が動きトラックが動き回り、空気ドリルが道路を堀削していた。警察本部は電話が鳴り響き、各地区警察には命令が飛び交った。午前5時30分にはポツダムに駐屯する工兵小隊が建設作業に駆り出された[88]。実際国境線近くの作業に駆り出された国境警察隊、予備警察隊、警察学校生徒、そして労働者階級戦闘団などは事前には一切知らされず、深夜になってから命令が出されて、動員されているのがほとんどであった。

エーリッヒ・ホーネッカーはずっと境界沿いを車で走り細かい指示を出しながら作戦の進行状況を確認していた。午前4時頃にはほぼ作戦の重要な部分が達成されていることに満足して執務室に戻った。午前6時頃には全指揮官から任務は支持された通り実行されたとの報告を受けた。朝の6時までに東西ベルリン間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は午後1時までにほぼ建設が完了した。ホーネッカーはウルブリヒトに最終報告を済ませて帰宅した。

この夜のうちにまだ境界線が強化されていない地域から数百人の市民が西へ脱出した。湖水や運河を渡った者、友人である西ベルリン市民の車のトランクや座席の下に隠れた者、自分のナンバープレートを西の友人のプレートに替えて越境した者などで、難民脱出のハッチはこの夜に閉ざされた。1961年8月13日にマリーエンフェルデ難民収容所に来た者は150名だった。しかし実際の越境者の数は不明である[89]

これで東西ベルリン間の48キロを含む西ベルリンを囲む環状155キロに渡る有刺鉄線が僅か一夜で完成した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。その境界線は東西に193本の主要道路及び脇道を横切っており、それまで81カ所の検問所があって通行可能であったが、その内69カ所がこの日に有刺鉄線によって封鎖され、12カ所に限定された[90]

東ドイツは建設当時、この壁を「近代的な西部国境」と呼び、「平和の包囲線」とも呼ばれていた。そして翌年8月に壁建設1周年記念行事を準備していた時に、この壁の正式名称の検討を始め、党政治局に設置された情宣委員会と中央委員会書記アルベルト・ノイデンが名称を「防疫線(コルドン・サニテル)」とする案がいったんは通ったが、再度検討することとなり、西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであるとして、「対ファシズム防壁 (Antifaschistischer Schutzwall) 」と呼ぶことに決定した[91]。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。

ブラント市長の苦悩

午前5時にハノーファーで夜行列車から急遽降りて、空港から飛行機で西ベルリンに戻ったブラントは、すぐに壁の建設現場に駆けつけた。「それまで何度かの危機でも頭はさめていたのだが、今度ばかりは冷静、沈着でいられなかった。」「何千、何万という家族が引き裂かれ、ばらばらにされていくのを見て、怒り、絶望する以外にはなかった。」と後に自伝で述べている[92]。そしてブラントの目に映ったもう一つの冷たい現実があった。アメリカの冷静な態度であった。西ベルリン駐留のアメリカ軍は国防総省にも国務省にもホワイトハウスにも報告はしていた。しかし伝えられてきたのは「収拾がつかないような反応が起こらないようにせよ。」であった。休暇先からボンに戻ったモスクワ駐在西独大使のクロルは「西側諸国の受け身の態度に西ドイツの失望は大きかった。ベルリン市民は見捨てられたと感じていた。」と語っている。8月13日に、西ドイツも西ベルリンも連合国側の冷静さに驚かされていた。8月16日付けの西ドイツの大衆紙「ビルト」は一面トップで「西側、何もせず」という見出しを出した。西側は口頭での抗議しかなかった[93]。後に有名になったこのビルト紙の見出しは「東側は行動を起こす・・西側は何をするか・・西側は何もせず・・ケネディは沈黙する・・マクミランは狩りに行く・・アデナウアーはブラントを罵る」であった[94]

壁を作った東側への怒り、何の手も打たない西側諸国とりわけアメリカへの失望、さらに西ドイツ政府への幻滅、アデナウアーはベルリンに来ず、15日の選挙演説でブラントの過去を取り上げて個人攻撃をする始末であった。アデナウアー首相は西ドイツ首相として首都ボンに留まり、すぐにベルリンに赴くことはせず、過度に慎重な姿勢に終始した。それどころか、ボンに駐在するソ連大使スミルノフに会い、「西ドイツは状況を危険に曝すような如何なる手段も取らない」と述べ、またタカ派で有名であったシュトラウス国防相でさえ、国民に冷静さを呼び掛けていた[95]

8月16日に市庁舎前の広場で25万人の市民が集まって抗議集会が開かれ、ブラントは抗議の演説した[96]。しかしまかり間違えば、市民の怒りは連合国側へ向けられることも十分に予測される事態に苦渋に満ちたものであった。ここで「ソ連の愛玩犬ウルブリヒトはわずかな自由裁量権を得て、不正義の体制を強化した。我々は東側の同胞の重荷を背負うことは出来ません。しかしこの絶望的な時間において彼らと共に立ち上がる決意のあることを示すことでのみ、彼らを援助出来る。」としてアメリカに対して「ベルリンは言葉以上のものを期待します。政治的行動に期待しています。」と述べた。ブラントはケネディに書簡を送ったことも明らかにした[97]

ソ連の安堵

ソ連は東ドイツ軍の後方の第三陣として布陣して、大量の軍事的動員を行うことで、アメリカ軍などの西側への強いメッセージを送った。アメリカ軍が介入してきた場合の代価がどれほどのものになるか、明確に伝えたのであった。東ドイツ駐留ソ連軍総司令官のイワン・コーネフ元帥は、若干の危惧を持っていた。東ドイツ軍及び警察部隊の忠誠がどこまで信用できるのか、西側諸国の軍隊が前進してきたら彼らはどう反応するのか不安を感じざるを得なかった。しかし西側の軍隊は動かなかった[98]

そしてモスクワではフルシチョフが有頂天になっていた。米英仏を出し抜いたことで、最初は安堵しそれから歓喜の情に浸り込んでいった。東ドイツとの平和条約の締結によって得られると思っていたそれ以上のものを得たと感じていた。そしてフルシチョフはさらに突き進んだ。しばらく米ソ間で行っていなかった核実験の再開をアメリカよりも早く行った[99]

アメリカの沈黙

アメリカなど西側諸国はベルリンをめぐる一連の出来事に対して最初から慎重な態度であった[100]。それはこの動きが全て東側の領土内でのことで、ケネディが7月25日の声明で示した3つの条件の侵害はなく、全て向こう側のことであったことがその理由だった。それはまた西側も望んでいたことでもあった。不思議なことに実はアデナウアーも同様だった。

8月13日(日曜日)午前10時(ベルリン時間午後4時)にラスク国務長官とコーラー国務副長官が国務省に着いた。ラスクは「東ドイツとソ連が自国内でしたことだから戦争と平和の問題には直結しない。」と考え、「壁は彼らの防衛手段だ。また西ベルリンの位置とそこを包囲する軍事力の差を考えると自滅に追い込まれると予想され、道理に合わない。」と後に述べている。そして現地がソ連に対して抗議声明を出すことを禁じていた[101]。1945年7月7日に米英仏ソの4ヵ国で、ベルリンではお互いの部隊が制限を受けることなく行動できることを同意していた。ベルリン封鎖の後に1949年6月20日にも4ヵ国協定によって再度確認していた。従ってケネディは、この協定に基づいて東ドイツ部隊によって作られた壁を解体せよとアメリカ軍に命令する権利を持っていた。そもそもベルリンで東ドイツ軍が行動する権利はないのであった。しかし西側は動かなかった[102]。この日にハイアニスポートで休暇中だったケネディとラスクが電話で打合せして抗議声明の内容を決めたが、この4ヵ国協定を引き合いに出しているものの予想の範囲内でしかなかった。ラスクはその日の午後に大リーグの試合セネタース対ヤンキースを見に野球場に行った。アーサー・シュレンジャー補佐官はその後の著書の中で「東ドイツの出血を止めることで、壁はベルリンに対するソ連の最大の関心を鎮めた。」と述べている[103]。これはソ連勢力圏内の一現象に過ぎない、下手に介入するとか、脅迫じみた言動をすることは、危険すぎると考えていた。

8月14日にハイアニスポートからワシントンに戻ったケネディは午前にモスクワから戻ったトンプソン大使と会い、午後にラスク国務長官と会談した。ベルリン駐在のライトナー公使から何度もメッセージが届き、西ベルリン市民の士気が急激に低下している旨の内容であった[104]。西ベルリンに居住する西側3ヵ国の軍関係者及び家族などの軍属並びに外交官などは従来通り東ベルリンへの通行は妨げられず、3カ所のチェックポイントを通って東ベルリンと往来は出来た。また西ドイツから西ベルリンへの陸路、そして空路もそのままで、西ベルリンに関する西側の権利を侵害することは無かった。

そして16日にブラントからの書簡を受け取ったケネディであったが、アデナウアー首相を飛び越えて一つの都市の市長からアメリカ大統領に書簡を送ったこと自体にケネディは怒っていた。しかし西ベルリンではアメリカが裏切ろうとしているという疑念が広まっているという報告を受けて、自分は一貫してクレムリンに立ち向かっていることをベルリン市民にも、ソ連人にも、そして国内のアメリカ人にも示すことが重要である認識に至り、何らかの行動に出ることを決意した[105]

イギリスのマクミラン首相は趣味の狩猟に出かけてスコットランドに滞在し第一報が入ってもそこに留まった。マクミランには状況は改善したと見えていた。これでドイツの分断は固定化し、ベルリン問題は安定化し、ベルリン危機は緩和された。つまりすべて目的は達せられたと考えていた[106]

西ベルリンへの軍隊派遣

8月18日、ケネディはジョンソン副大統領とクレイ将軍[注 13]をボンに派遣し、副大統領と将軍はそこから翌19日に西ベルリンに飛び、西ベルリン市民は二人を熱狂的な歓迎で出迎えた。ジョンソンは市庁舎前の広場で「今日、新しい危機において、あなた方の勇気は自由を愛する全ての人々に希望をもたらします。」「この都市の存続と未来を、我々アメリカは我々の先祖が独立宣言で誓ったもの、それと同じく我々の生命、財産、神聖な名誉に懸けて誓うものです。」と述べた。この言葉は13日の国境封鎖以来、意気消沈していたベルリン市民を勇気づけ、涙する者もいた。そして西ドイツから陸路アウトバーンで東ドイツを通過してアメリカ陸軍の精鋭部隊が西ベルリンに向かっていることもこの時にベルリン市民に伝えた[107]

8月20日に米軍第八歩兵師団第一戦隊約1600人が西ベルリン駐留部隊を増強するため、ベルリン市民の歓呼の中で西ベルリンに到着した。この精鋭部隊を東ドイツを通って西ベルリンに派遣すること自体がソ連との武力抗争を引き起こしかねない危険を伴うものと危惧する幹部もいたが、ケネディは西ベルリンを徹底的に防衛する決意を示すために実行した。そしてこの結果は西ベルリンへのアクセス権の確保が確かなものであることも裏付けられたが、西ベルリン市民にとってはアメリカが旗幟を鮮明にしたことだけで十分であった[108]

チェックポイント・チャーリーの対決

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チェックポイント・チャーリーでの米軍の戦車。前方にライトナー公使が乗ったフォルクスワーゲンが停車している(1961年10月22日)。

1961年8月13日に起こったベルリンの壁の建設は、もう一方のアメリカの静観で終わった。しかし10月に入ってただ1つの境界検問所となったチェックポイント・チャーリーで起こった事態は、後に「米ソの最初で最後の直接武力対決の舞台」と言われた[109]

1961年10月に東西境界線で東側警備隊から西側の文民公務員に対し身分証明書の提示を求められるようになった。この対応は4ヵ国協定に違反し、ソ連もマリノフスキー国防相が東ドイツはソ連の許可なしに境界線において何も変更してはならない、と通達を出していた。西側から見ても明らかにウルブリヒト第一書記の意向でそのように変更されていた。この原因は、10月17日のソ連共産党第22回大会でフルシチョフ首相がウルブリヒトに事前に何の相談もなく年末までに東ドイツとの平和条約を結ぶとの主張を取り下げたことで、怒ったウルブリヒトは東ベルリンでの境界線での入国審査の厳格という管理強化に出たのであった。ウルブリヒトは西ベルリンの孤立化と住民の士気を阻喪させる一方で、東ベルリンでの支配を強化し8月の壁建設の勝利を確実なものにするためには、何としても平和条約が必要と考えていた。しかしフルシチョフは聞かなかったために強気に実力行使に出たのだが、8月の壁建設とは違って相手を読み間違えていた[110]

10月22日に、西ベルリン駐在のアメリカ公使のアラン・ライトナーとドロシー夫人は東ベルリンでのチェコスロバキアの実験的劇団の公演を見るため、チェックポイント・チャーリーを通過した際に身分証明書の提示を要求されて拒否した[注 14]。「ソ連の代表を呼べ」と警備隊と押し問答の末に、ドロシー夫人を下してから、強行手段で車を動かして「我々の往来する権利を証明する」ために車を検問所の東側に入れたりした[注 15]。そこへ武装した米兵と4両の戦車が現れて、戦車は後方のままで米兵が援護しながら、アラン・ライトナーは警備兵と対峙した[111]。やがてソ連軍政治顧問代理ラザレフ大佐が到着し、東ドイツの振る舞いに陳謝したが、一方で武装米兵のソ連管理地域への侵入について憤然と抗議した。深夜になる頃には双方冷静に収まって、ライトナーの車は引き返した。この22日のライトナーの行動はすぐに新聞などで話題になったが、報告を受けたケネディは「ライトナーをあそこに駐在させているのは、東ベルリンへ観劇に行くためではない。」と苛立っていた[112]。しかもこの行動にはケネディが送ったクレイ将軍の意図が働いていたことにラスク国務長官は苦り切っていた。しかし、ラスクはクレイにアメリカ側の武装及び非武装での護衛付きで境界線での探り行動をすることを許可した[113]

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対峙する米ソの戦車(1961年10月27日)

10月25日、アメリカ軍憲兵隊の士官2人が民間人の服装をして公用車のナンバープレートを付けた車で、検問所を訪れた。警備隊は旗を振って合図して停車すると車は引き返し、今度は護衛を伴って現れて検問所を訪れた。再び引き返すと今度はアメリカ軍の戦車が現れて検問所を訪れた[注 16]。こうした繰り返しの示威行動で自国の権利の保持をアメリカは主張した。翌26日も同じことをした[114]。そして10月27日も同じような行動で、戦車を見せて文民公務員の車を兵士が護衛して東ベルリンに送り込んだ。そして午後4時45分に米軍戦車に基地に戻るよう命令が下り、戦車を撤収させた時に、突然ソ連のT34戦車(国籍マークがはずされてあったので最初は東ドイツの戦車かも知れないと思ったという)が現れた。慌てて撤収した戦車を反転させて、午後6時頃にチェックポイント・チャーリーの東西に米ソの戦車が睨み合う形になった[注 17]。この状況を現場に取材中に西側記者は目撃して、ワシントンポスト紙の記者は「世界最大の強国である二つの大国の軍隊が、史上初めて直接の敵対的対決で向かい合った。」と書いた[115]

第二次大戦では同盟国として米ソは同じ戦場にいたが、冷戦となって対立する中で初めてお互いの戦車と兵隊が向き合って対峙することとなった。通りには米軍M48パットン戦車が4両、さらに400メートル後方に4両を待機させている。この他に5両の兵員輸送車と5台のジープ。兵隊は防弾チョッキを着け、着剣したライフルを携えている。ベルリン駐在の米軍は全将兵6500人が警戒態勢に入った。仏軍は3000人の兵士全員を兵舎に待機させ、英軍はブランデンブルク門近く550メートルほどの地点に対戦車砲を配備し、武装パトロール隊を有刺鉄線によるバリケードの間際まで進出させた[116]。クレイ将軍は、もし東側がこの行動に対してフリードリッヒ通りを全面的遮断で対抗してきた場合はベルリンの壁の一部を破壊する実力行使に出る旨を国務省宛てに送っていた。これにはNATO軍最高司令官ノースタッドとベルリン駐在米軍司令官ワトソンも承認していた。しかしラスク国務長官は撤退命令を出した。ラスクは今回の行動は「ベルリンに入る権利は強硬手段に訴えるほどの決定的権益ではない。壁の構築を容認したのも同じ理由からである。我々はこの事実をお互い率直に受け入れなければならない。」としてこれ以上の行動を認めなかった[117]

ケネディの苛立ち

その間も奇妙なことにお互いに動員させた戦車は等しい数で向かい合った。相手が10両出せば10両に増やし、12両出せば同じ12両にして、ついには同じ20両で対峙した。しかしケネディはリスクを冒すことは消極的であった。チェックポイント・チャーリーのような小さな検問所でのトラブルに関わっている余裕は無かった。

この時期は彼にとって、政権内で意見が分かれ、ベルリン問題についてもドゴールともアデナウアーとも意見を異にして同盟国間での調整に苦しんでいた時期であった。ベルリンの壁が建設されてから、すぐにラスク国務長官とグロムイコ外相とが会談したことで、ドゴールはソ連の一方的な行動と脅迫をやめない限り一切の交渉は無駄であり、ベルリン問題で協議してもソ連に一層の譲歩を迫られるだけとして批判した。そしてアデナウアーは西ドイツの自由選挙に基づくドイツ統一政策とは違って、二つのドイツを認める方向にアメリカが向かっているとし、また直近に明らかになった西欧諸国への通常戦力の増強というアメリカの方針についても、核戦力の増強による抑止力を重視する立場からいざとなれば核兵器を使用するという決意をソ連に示さないとソ連を勢いづかせるだけである、とケネディを批判していた[118]

一方フルシチョフはまだソ連共産党大会の期間で、壁の建設でのケネディのシグナルからアメリカがこれ以上の行動に出ることは無いと確信していた。コーネフ元帥の報告を聞いて、「戦争なんて起こる訳はない。」と語った[119]。そしてソ連軍戦車の撤退をアメリカより先に行うようにコーネフに支持した。ケネディとフルシチョフの間で水面下での交渉があったのである。10月28日、朝10時30分にソ連軍戦車がチェックポイント・チャーリーから引き揚げ始めた。30分後に米軍戦車も撤退を開始した[120]。20時間近くの睨み合いであった。撤退と同時にラスク国務長官はベルリンに電報を送り、これまでの武装護衛あるいは兵士の警護による境界線通過の試みの中止、文民公務員の当分の間東側への通行を禁止、軍人が通過する場合は全員が公用車で制服着用の義務付けを厳格に守るように指示した。そして「当該地点においてこれ以上の行動はしない。」と念を押した。これで8月にベルリンにケネディが送り込んだクレイ将軍はやがてベルリンを去った[121]。彼は大統領に直接話が出来る代理人の立場で送り込まれたが、実際は単独行動でケネディを悩ませることが多かった。

ベルリン駐在のアメリカ外交官リチャード・スマイサーは後に「壁は東ドイツを強化ないし救済するためのもので、チェックポイント・チャーリーでの事件はある意味でゲームだった。クレイは戦車隊が到着してすぐにそれを察知し、様子を見ることにしょう、と言った。実際戦車が対峙していても緊迫した空気は無かったし、双方とも発砲する気は無かった。この事件で第三次世界大戦を始めようとは思っていなかったし、ロシアもそのつもりは無かった。」と語っている[122]

フルシチョフの失敗

ヘンリー・キッシンジャーはその著書「外交」の中で、このベルリン問題について、「フルシチョフが東ドイツとの平和条約を断念し、ベルリンの壁の成功が個別の平和条約を不要にしたと宣言したことで、ベルリン危機は終わった。」と述べた。そして「危機を通じて序盤に鮮やかな動きを見せた後に、相手が進退窮まって投了するのを待つチェスの棋士のように振る舞った。しかし外交記録を読むと、交渉で数多の選択肢が示されて論じられ暗示されているのにそれを少しも利用しなかったことは理解しがたいことだ。」「結局フルシチョフは自分が何度も最終期限を設定しながら何もせず、西側同盟国を交渉に巻き込ませた数々の選択肢についても何もしなかった。3年間の最後通牒と血も凍る脅迫(1958年の自由都市宣言と1961年ウイーン会談におけるケネディへの最後通牒)の後でフルシチョフの成功はベルリンの壁を作ったことだが、これは結局、ソ連のベルリン政策の失敗を象徴するものとなった。」「フルシチョフは自ら作り出した絡み合った罠に自らはまり込んでしまった。」としてベルリン危機は翌年秋に起こったキューバ危機とともに冷戦の転換点となったとのべている[123]。この壁建設は結局1958年の最後通牒から大きく後退し、西側に対決するものでなく、東ドイツ人の利益に対立するものであった。そしてこの時は西側は知らなかったが、東側陣営での中ソ対立で中国との関係が悪化していたことが一定程度西側への態度を軟化させていた、とも見られている[124]

この1年後の1962年10月に、キューバにソ連が密かに核ミサイル基地を建設しようとしていたことを発見したアメリカはキューバを海上封鎖してソ連にミサイル基地撤去を迫り、核戦争の一歩手前まで行ったがうまく回避しソ連のミサイル基地撤去を勝ち取った。

ケネディ大統領の訪問

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ベルリン市民の前で演説するケネディ(1963年6月26日)
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ケネディの演説を聞くために市庁舎前に集まった30万人のベルリン市民(1963年6月26日)

1963年6月26日にケネディ大統領は最初で最後となった西ベルリンを訪問した。ベルリンの壁建設時は苦境に立たされたケネディであったが、翌年10月のキューバ危機で、フルシチョフと対決して勝利を得て、その後この6月10日にアメリカン大学での「平和のための戦略」演説でソ連との直接交渉を始めたばかりであった。この時期には西ベルリン市民のケネディへの人気は高まっていた。

この日、市内のパレードでアデナウアー首相とブラント市長とともに100万人の市民の歓呼に答え、ベルリンの壁近くの市庁舎前広場で30万人のベルリン市民を前に演説した。ベルリンの壁が築かれてまだ西ドイツも西ベルリンも複雑な状況ではあったが、この頃になると次第に状況は安定化に向かっていた。そして自由を守り切った西ベルリンの守護者としてケネディは、ここで次の一句から述べた。

2000年前、最も誇り高き言葉は「Civis romanus sum(キウィス・ロマーヌス・スム、私はローマ市民だ)」であった。今日この自由な世界で誇り高き言葉は「Ich bin ein Berliner (イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー、私はベルリン市民だ)」である。

そして共産主義を激しく批判して、最後にまたドイツ語で締めくくった。

このベルリンの壁は共産主義の失敗を最も如実に示している。……自由世界と共産世界の差異が分からないという者が多数いる。彼らはベルリンに来てみるがいい。……共産主義は未来の波であるという人もいる。彼らはベルリンに来てみるがいい。……欧州でも他の地域でも共産主義者と協力できるという人がいる。彼らはベルリンに来てみるがいい。……共産主義は悪い制度だが経済的進歩をもたらすという人も少数はいる。Lass'sie nach Berlin Kommen(彼らはベルリンに来てみるがいい)[注 18]……民主主義は不完全ではあるが、自国民を囲い込んでおくために壁を建設したことは未だ嘗て一度もありません。……自由になる、必ずその日はやって来ますが、その時20年以上も最前線に西ベルリン市民がいたという事実を静かに噛みしめるでしょう。どこに住んでいようと世界中のすべての自由を求める者は皆、ベルリン市民である。だからこそ私はこの言葉に誇りを持っています。Ich bin ein Berliner[注 19]……

この言葉はアメリカの西ベルリンに対する決意の強さを表すものとしてソ連に対する強いメッセージとなった。それは西ベルリンを守ったという自負と、貧しい東から豊かな西へ逃亡しないようにしたのがこの壁であることの勝利の表明であった[125]。1961年8月の時点では見せなかった憤激を露わに共産主義を非難し、そしてこの時にケネディは大統領就任後に初めてドイツ再統一の権利について「これはドイツ人が戦後18年の行動を通じて勝ち得た権利であり、私はベルリンが、ドイツ国民が、そしてヨーロッパ大陸がいつの日か統一されるであろうことを確信するものである。」と述べた。ケネディはこの演説でドイツとベルリンに関するアメリカの政策を新しい決意のもとに変えて、ベルリンを守るべき場所とし、以後アメリカ大統領はベルリンで引き下がることは無かった[126]

この演説は多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることとなり[注 20]、やがてこの演説は神話の一部となった[127]。この広場で行った演説は彼の政治活動のなかで最も成功したものだった[128][注 21]。そしてケネディ暗殺後にこの広場はジョン・F・ケネディ広場と改名された[129]

その後

ファイル:Structure of Berlin Wall.svg
壁と無人地帯の構造

壁の総延長は155kmに達した[注 22]。1961年8月13日からほぼ1年で体積7,874m3のブロックから長さ約12キロの壁が建設された。その場所はベルリンでも最も複雑に入り組んだ中心部であった。西ベルリンを囲む残り137.5キロは田園地帯・牧草地帯・森林地帯・湖沼が多く、巻いた有刺鉄線の仕切りが二列に並べられた。この二列は間隔が70m開いた部分もあれば、地形や東西の住居の接近如何によってかなり狭まった部分もあった。やがて監視塔が設置され、拡張されて無人地帯となった。この無人地帯の総面積は49,000m2から55,000m2に及び、ほぼ1つの町の総面積に等しいものであった[130]

後に壁は数度作り変えられ、第一世代、第二世代、第三世代と呼ばれて、1976年に第四世代と呼ばれる改造が行われて1980年代に入って完成の域に達したとされている[131]。この最終段階の壁は高密度の鉄筋コンクリート製で頑丈なものであった[132]。映像などを通じて広く知られている西ベルリンに面した壁に加え、東ドイツ側にもう一枚同様のコンクリート壁があった。その2枚の壁の間は数十メートル無人地帯となっており、東ドイツ当局の監視のもと壁を越えようとするものがいればすぐに分かるようになっていた。

すなわち、西ベルリンは二重の壁で囲まれていたのである。東側から見ると、最初の壁が後背壁と呼ばれ、次に金網の柵(アラームつき)、道路(国境警備隊パトロールのため)、柵と道路の間に一定間隔の監視塔(東西ベルリン間48キロの区間だけで302カ所)、柔らかい土のベルト地帯(警備隊でも入れず常に均されて無数の照明に照らされている)、段差(車での突破を防ぐため)、そして西側との国境線近くの壁となる[133]

壁の高さは3m60cmから4m20cmまでで、一番上に大きな筒状の物を縦に割って被せてあり、乗り越えようとしても絶対に摑まる所が無く引っ掛ける所も無い状態であった。一番東側の壁から西側の壁までの距離は60mを超え、警備隊員と番犬以外は全く無人地帯で隠れることが出来ない恐ろしいほど殺伐として光景の一帯であった[134][注 23]

東から西への亡命

東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。そのうち4万人が国境の厳重な見張りをすり抜けて越境した者で、その中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者であるが、その大部分はまだ壁の国境管理が甘かった1964年までの数字である[135]。東ドイツ側の国境超えの「逃亡未遂」に関する刑事訴訟の手続きは1958年から1960年までで約2万1300件、1961年から1965年までで約4万5400件であった。そして1979年から1988年までの「逃亡未遂」の有罪判決は約1万8000件であった[136]。これはベルリン以外の東西ドイツ国境での逃亡未遂も含めての数であり、ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決受けて、平均4年の禁固刑であった。そして逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあった。

壁が破壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は、運よく西へ逃れた人以外は東ドイツ国境警備隊により逮捕されるか、射殺されるか、あるいは途中で力尽きて溺死か落下死であった。国境が遮断されて有刺鉄線が張り巡らされたが、ある所では道路の真ん中に、あるいは運河が、また橋の真ん中が国境線であった。ベルナウ通り[注 24]では道路は西側で、面している建物は東側に入り、そこの建物の住民は部屋は東ベルリンで窓から外は西ベルリンであった。状況がよく分からない建物の住民にとっては戸惑うだけであったが、状況が緊迫していることを感知した人は早くに窓から逃げ出して西へ逃れたが、状況がよく理解できない人(特に老人)はこの日まで建物にいつも通り住んでいた。壁建設からほぼ1週間後の8月19日に東ドイツ政府は突然ベルナウ通りの住民およそ2000人に対して強制退去命令を出した。この時、追い詰められた住民が窓から西へ飛び降り始めた。ベルナウ通り1番地の建物の2階に住んでいたルドルフ・ウルバン(47歳)は、当局がドアと窓をレンガで塞ぐ作業を始めたため2階の窓からロープを伝って降りようとして、警察が自室に入ってきたことで慌ててロープから手を放し、3mの高さから落下し、その後病院で死亡した。これがベルリンの壁での最初の犠牲者とされている[137]。同じように8月22日にイーダ・ジークマン(58歳)がベルナウ通り48番地の4階からマットレスを落としその後に飛び降りたが失敗して死亡した[138]。8月24日には壁の付近で最初に射殺された犠牲者がでた。ギュンター・リトフィン(24歳)は、もともと東側に住んで西側で働き、ゆくゆくは西側へ移る予定であったが壁建設で西へ行けなくなったことから、この日に水路で泳ぎながら西岸を目指し、約25m手前の地点で撃たれ水中に沈んだ[139][注 25]

9月25日にベルナウ通り34番地の3階からオルガ・ゼーグラー(60歳)が西ベルリン消防隊が拡げた毛布の上に落ちたが負傷し死亡した。からくも助かった例としてはフリーダ・シュルツ(77歳)が窓から下の毛布に飛び降りようとして、部屋の中に入ってきた東ベルリン側の人間と警官に両手を引っ張り上げられて、それを下から見ていた西ベルリン側の人間が彼女の両足首を2人がかりで引っ張り、彼女の上下で東西の人間が引っ張りあう異常な状況となった(この光景はその時にフィルム撮影されている)。やがて彼女は消防隊が張った毛布の上に落下し、救助された。この場面は丁度この現場を通りがかったアメリカ特使団のヘムシング広報官が目撃して「非常に感動的な光景だった」と後に述べ、その時のフィルムはニュース映画に使われて有名な話となった[140]。また4階から夫婦と6歳の男の子が消防隊の毛布めがけて飛び降り、6歳の子は無傷だったが母親は内臓破裂の重傷で父親は脊椎を痛めた。後にこの父親は「もしも同じ状況になっても私はまた飛び降りるでしょう」と語った。ベルリン市街で全く信じられない光景が繰り広げられていたのである[141]

この9月27日までにベルナウ通りの2000人の住民は全て強制退去させられて、全ての窓はレンガで塞がれ、廃屋となり、やがて爆破され、更地となった。

東ドイツ政府は9月半ばまでに東ベルリン市民2665人を政治犯罪で連行した[142]。この政治犯の連行は、別に6000人以上が逮捕されその内3100人が刑務所に数年入れられたとする説がある[143]。 しかし壁を作っても、命を賭しても東から西へ逃れようと東ベルリン市民は必死で西への脱出口を探していた。ある者は川や運河を泳いで脱出しようとしたが、多くは途中で見つかり、撃たれ傷つき溺死した。

壁を超えて

  • 1961年8月20日、まだ有刺鉄線だけで検問所の国境管理もまだ整っていない時に、東ベルリンのある女性が西ベルリンへ移った。西から東へはまだ行ける時期で、東から西へは禁じられていたのだが、西に住む彼女の姉が西側の警察に身分証明書を紛失したと虚偽の申告をして姉の身分証明書をもう1枚発行してもらい、それを東に住む妹に渡して、姉妹なので顔が似ているため写真で誤魔化せて西ベルリンの住民として検問所を通ったのであった。これは発覚すれば懲役刑は免れないものであったが、しかし3日後に両親と姉の元から東へ戻った。夫のもとを離れるわけにはいかなかったのである。彼女が再び西へ行けたのは16年後の1977年で母親の葬儀であった。しかし2年後の父親の葬儀には東ドイツ政府からの参列の許可が下りず、次に西へ行けたのはそれから10年後の1987年で姉の55歳の誕生日のためであり、それは特別な許可であった。そして次に西へ行けたのは壁が崩壊した後であった[144]
  • 1961年9月9日夜に、若い夫婦が夜中に1歳半の子供をバスタブに乗せてロープで引っ張りハーフェル川を泳いで渡り、西へ逃れた[145]
  • 1961年11月初旬、西側の若い男性が東側に住む19歳の婚約者を、車のトランクに隠して、検問所の係官が車を調べようとした時にアクセルをふかし、木の柵を突き破り(1961年秋当時の検問所はまだ不完全であった)6発の銃弾を受けながら無事に逃げて通過した[146]
  • 1961年11月7日のロシア革命記念日に、ソ連軍の軍用車が西ベルリンの中にあるソ連軍戦勝記念碑に向かって検問所を検査なしで通過した際に、その後を28歳の技師とその妻が乗った車が花輪を捧げるようにしてルーフに括り付けて車列に紛れ込み、全くノーチェックで無事通過した[147]
  • 1961年暮れに8両編成の列車の運転士が計画して、もう1人が線路のポイントスイッチを切り替えて、東側から西側につづく線路に進入して有刺鉄線を引き倒してすぐ西側の野原に停車した。この時に男性8人、女性10人、子供7人がそのまま西へ逃れ、事情を知らない他の乗客は東へ戻った[148][注 26]
  • 1962年5月に19歳から81歳までの男性7人と女性5人がトンネルを40m掘って西へ逃れた。16日間でバケツ4000杯分の土を運び出していた[149][注 27]
  • 1962年9月14日から15日にかけて29人がおよそ135メートルの地下トンネルを通って西ベルリンへ亡命。トンネル29として知られ、このトンネルを原作にしてフィクションのテレビ映画「トンネル」が作られた。
  • 1963年春に西ベルリンに留学中であったオーストリア人の若者が東ベルリンに住む女性と婚約して、外国への出国申請をしたが受理されず、チェツクポイント・チャーリーを強行突破する決意をして、たまたま事前に東側に入る時に、別の車が誤って遮断機のバーにぶつかり、ボンネットがその下に潜り込んだ場面を目撃した。そこで調べてバーの高さが地面から90cmであることに着目して、彼はレンタカー店に行ってオースティン・ヒーレー・スプライトを借りた。この車はフロントガラスを取り除けば90cm以内に収まる高さであった。そして東側で婚約者を後部座席に隠し、母親をトランクに隠して、検問所に入り、2つあるバーの東側は普通に通り、車両検査に行くように指示を受けた直後に猛然とアクセルを踏んで西側のバーの下をくぐり抜けた[150]
  • 1964年頃には壁が強固なものとなり、検問所も厳重な警戒で1年前のような強行突破が難しくなると、国境警備隊員のスキをつく方法が増えた。この年に超小型車バブルカーを運転して西から東へ行き、東から西へ戻る時に、エンジンとリアホイールの上に人1人が横たわれる隙間を作り、1人を運び出す方法で9人が西へ逃れた。排気量245CCで三輪車のBMW・イセッタで2人乗りで座席が狭く、警備隊員も座席の後ろを確認することがないので、ヒーターとフィルターを取り出し、ガソリンタンクを引き出してキャニスターを入れると、後部にあるエンジンとリアホイールの上に隙間が出来るのであった[151]

そして壁が極めて乗り超えがたいものになった頃から、壁を越えようとする人は減り、ほぼ1964年には沈静化した[152]

トンネル57

1964年10月に、トンネルを掘って57人が西へ逃れた。計画したのは西側の冒険家で工科大学の学生も含めて組織的に行われ、西からトンネルを掘り、東側では西の連絡員が手引きした大掛かりな脱出作戦であった。場所はベルナウ通りを挟んで西側の1軒のパン屋の地下室から3m下へ掘り、そこから145m進んで、ベルナウ通りの向こう側のある家の裏庭の今にも倒壊しそうな屋外トイレまで半年をかけて掘った。穴の縦はおおよそ70cmで、掘り出した土は西側のパン屋の部屋に積み上げていった。この作戦を「トーキョー作戦」と彼らの間では呼ばれた。この10月に第18回東京オリンピックが開催されることによったものである。1人は入口の見張りとして東側に合法的に入り東側の国境警備隊の動きを見張った。そして西側の連絡員が暗号電報を使って連絡を取り合い、越境を希望する者を探し、トンネルの入口付近の家に案内し、西側から双眼鏡で監視して尾行されていないことを確認してから無線で東側の家の中にいる者に連絡してドアを開けて家の中に入れた(この時の合言葉はトーキョーであった)。そして裏庭から屋外トイレに行き、便器を取り外して下のトンネルに入り、およそ11分から30分かけて西側のパン屋の地下室に達した。時間がかかったのは途中で水が深くなって息をするのが難しい地点があったことと、トンネルに入った人々は一様に恐ろしさに震え、泣き出す女性もいて、無遊状態になって足取りが覚束ない人もいたからであった。それだけに脱出した後は激しい感情の波が押し寄せたとされている。こうして10月3日(土)に28人、4日(日)に29人が西ベルリンに逃れた。内訳は男性23人、女性31人、子供3人であった。しかし10月5日(月)朝にシュタージに発見されて、裏庭で撃ち合いとなり東側兵士が1人撃たれて死亡したが、西側の4人はトンネル入口のトイレから下へ通じ、そのまま西へ戻ることが出来た。この直後に東ドイツ政府は東西間の境界付近の保安活動は国家保安省(シュタージ)のみで行うことを決めた。この作戦行動は後に助かった57人から「トンネル57」として最も有名なトンネル脱出劇となった。東京オリンピックの開会式は5日後の10月10日(土)である[153]

フラッグ・パトロール

東ベルリン市民にとって西ベルリンに行くことは1961年8月13日から命懸けであったが、西側3ヵ国の軍関係者は8月13日以降も東ベルリンに行くことは可能であり、61年10月のチェックポイントチャーリーでのトラブルなど、多少のイザコザはあったが、戦後の4ヵ国協定で米英仏ソの4ヵ国はベルリンの東西を往来することは認められていた。そしてお互いに車に自国の旗を立てて、他国の占領管理地区をパトロールすることも認められていた。アメリカ軍は1日おきに昼間と夜間に4〜5台が東ベルリンをパトロールしていた。これはソ連占領地域に出入りする権利を持つことを誇示し、その権利を行使することを示していた[154]

1964年頃に、1つの出来事がチェックポイント・チャーリーで起こった。アメリカ軍歩兵師団のビル・ベンツ少尉が乗った車(オペル)がこのフラッグ・パトロールをして西側に戻るためチェックポイント・チャーリーを通過しようとした時に、そこにソ連軍下士官が大勢いて、1人の士官が近づき「車を降りろ」と言った。そこで「降りろ」「降りない」の押し問答の末に、その士官は車の後方に回り、車体を蹴り始めたので、しびれを切らして急発進して木の柵のバーをはじき飛ばして西側に戻った。急いで司令部に行ってこのことを報告しようとした時に、司令部(このとき高いビルに設置されているカメラからチェックポイント・チャーリーの模様は映像として中継されていた)にいた警部が「お見せしたいものがある」として別の場所に案内された。そこにはベンツ少尉が乗った車(オペル)と全くそっくりな車があった。色もナンバーも同じ(ナンバープレートに若干の単語の順番に誤りがあった)であった[155]

実は東ベルリンを走行中に東側市民で越境を望む人々が、常に同じ車でパトロールしていることに着目して、自力で同じ車を作り、同じような軍服を用意し、自分たち3人がそれを着て座席に座り、トランク内にそれ以上の人数が隠れて、本物の車が戻る前にチェックポイント・チャーリーを全くノーチェックで通過したのであった[156]

ベルリンの壁の死者

1962年8月17日にペーター・フェヒター(18歳)がチェックポイント・チャーリーのすぐ近くで越境しようとして撃たれた。一緒に行動した友人は壁を飛び越えたが、彼は撃たれて壁の東側に落ちた。その時はまだ彼は虫の息であったが生きていた。西側からは警官やアメリカ兵や報道陣が押し掛けたが、壁の向こう側に横たわった彼を救い出すことは出来ず、西側からは壁の上の鉄条網から救急箱を投げ入れるのが精一杯であった。そして東側は西側との衝突を恐れて監視所から動かず、その狭間で彼は断末魔の末、息絶えた。撃たれてから45分が経過していた。この一部始終を目撃した人は多く、西ベルリンでは激しい抗議行動が起こった。彼はベルリンの壁の最も有名な犠牲者となった。37年後の1999年にベルリン市はこの場所にペーター・フェヒターの記念碑を除幕している[157]

エドガー・ヴォルフルムは著書『ベルリンの壁』で「今日までベルリンの壁における犠牲者の正確な人数については確実な情報がない。」と述べている。しかし「ベルリンの壁の傍で亡くなった者は122人から200人」として「壁倒壊までに東ドイツから逃れようとして(ベルリン以外を含めて)死んだ人は1200人以上に上る」と推測している[158]

クリストファー・ヒルトンは著書「ベルリンの壁の物語」で、氏名が明確な死亡者について、その越境の行動と死亡に至る状況について克明に記して、氏名不詳の者も含めて165人の被害者の状況を述べているが、その彼も「壁の犠牲者に関しての決定的な情報は得られないかもしれない。」と述べている。彼は1991年にドイツで発行された「Opfer der Mauer(壁の犠牲者)」から多くの情報を得たとしているが、しかしこの文書は東ドイツの事件に関する機密扱いであった公式報告書を用いて調査されたものであるが完全ではないとしている。ある文書では172名の死亡者の一覧があったが、ヒルトンは「全てが亡命を目指していたとは言い難い」として「28年間に亡命を試みて死亡した者の一部は西側に報告されず東側にも記録に残っていない可能性がある」また「誰にも知られずに溺死した者がいた可能性がある」「越境しようとして泳いだが誰にも気付かれず遺体となったが発見もされなかったことが考えられる」と述べている[159]。そして「私は全員の氏名を余さず記し、それぞれに人間らしい逸話を盛り込みたかったが、日付と簡単な説明だけを記すだけで精一杯であった。彼らの多くは無縁仏として埋葬あるいは火葬された」と語った[160]

1990年から2005年にかけてベルリンの壁で越境者を射殺した狙撃兵の裁判の訴訟文書によって解明が進んだとされて[161]、「死亡者数は合計192名」であったり、「少なくとも136名」[注 28]、「200人以上」[162]、「射殺されたは238名」[163]、「500人以上の人々が厳重に監視された境界で逃亡を試みて命を落とした」[164]、「壁を越えようとして射殺された人は700人を超えると言われている」[165]、「東西ドイツ及びベルリンの境界で命を落とした者は全体で943人にのぼる」[166]などの諸説があり、1961年から63年までの壁建設の初期の期間で把握していない部分があるとしている。

1989年2月6日クリス・ギュフロイ(20歳)の射殺を最後に犠牲者は出なくなった。ただしクリストファー・ヒルトンは、この後の3月3日に気球に乗って西へ飛んだヴィンフリート・フロイデンベルク(33歳)が西で落下して死亡したこと、4月16日に18歳前後と思われる氏名不詳の男性が溺死したことも追記している[167]

国境警備隊

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鉄条網を飛び越えるコンラート・シューマンの写真をもとにしたグラフィティ

ドイツ民主共和国国境警備隊に従事する兵士の中からも、亡命者が続出し、ベルリンの壁建設直後の6週間で85人が逃亡した[168]。1961年8月15日に人民軍兵士コンラート・シューマンはルピン通りとベルナウ通りが交わる地点の国境線で逃亡を企てる者を阻止する任務についていたが、反対側の西側の多くの人々が見ている前で有刺鉄線を飛び越えて西へ逃れた。この兵士が有刺鉄線を飛び越えた瞬間の写真はその後『自由への飛翔』として有名なものとなった[169]

1968年時点では、総勢8,000人で、ベルリン市民でなく西ドイツに親類がいない者が、「ベルリンの壁」担当の警備兵となっていた[170]。12時間勤務であり、2人1組で行動することが求められていた[170]。銃撃により逃亡を阻止するばかりでなく、逃亡を試みる者から銃撃されることもあり、勤務中に射殺された警備兵は16人であったが[170]、その半数は逃亡を図った警備兵の犯行であった[170]

政治犯買取り

東西間の通行が遮断されて、越境が危険を伴うことから、1963年頃から西への逃亡援助が営利事業と化し「逃亡援助を生業とする連中」が牛耳るようになって、西ドイツ側の態度も変わったと言われる。そしてその後に東ドイツ政府と西ドイツ政府との間で裏取引が1964年頃から制度化され、東ドイツ政府の『人道的措置』によって東の刑務所に拘置された政治犯を西ドイツに送ることが可能となった[注 29]

その人数は1963年から1989年までに男女33,755人に上り、また家族結合の名目で約25万人以上とされている。西ドイツはその見返りに約35億ドイツマルクを支払った[171]。1人について、その人物の教育水準・刑期の長さ・重要度に応じてまちまちの代金が交渉で決められて[172]、40,000ドイツマルクから95,847ドイツマルクになったと言われる[173]。これは見方を変えれば『人身売買』であり、東ドイツにとっては好ましくない市民や反体制分子を追放できて、しかも同時に利益を得るうま味のある『特別ビジネス』であった[174][注 30]

年金生活者の西送り

1964年11月に東ドイツ政府は年金受給者に対し、訪問あるいは滞在のために西側へ行くことを許可した[175]。これで満65歳になって東ドイツ政府に移民申請をすれば、無条件で西ドイツに移住できた。これは当時の東ドイツにおける年金支給開始年齢であり、たとえ移住であれ65歳以上の人口が減れば年金を払う必要がないため政府は歳出をそれだけ削れ、お金だけかかる人間を厄介払いできるという東ドイツにとって実に都合のいい理由が背景にあった。他にもアルコール中毒患者や精神病患者も厄介払いとして東ドイツは簡単に西へ送っていた[176]。1961年から1988年までに383,181人が西側へ行き、その大半が年金受給者であった[177][注 31]

西ベルリン市民の東側への一時訪問

壁建設直後は、射殺や溺死などの犠牲者が相次ぎ、壁付近は緊張に包まれて、西ベルリン市民の抗議や反発は収まらず、西側市民の東側への通行は不可能であった。しかしようやく沈静化に向かった1963年12月に7回に及ぶ予備会談の末、東ドイツとベルリン市との間で「ベルリン通行証協定」[注 32]が締結されて、1963年12月19日から1964年1月4日までの17日間、一時的に西側市民が東側を訪れることが可能となった[178]。これは東側に親戚がいることが証明された家族のみの限定であったが、クリスマスの期間に一時的に壁を通過して東側の親戚の家を訪ねて再会を喜びあうことが出来た。この時に西側市民の73万人以上[注 33]が、雪の中で最長12時間から15時間待たされながら東へ行った。それはつつましく、ひそやかな再会で、別れの時は耐え難いものであった[179]。この協定は翌1964年も結ばれて、1964年10月30日から11月12日まで、12月19日から1965年1月3日まで、そして復活祭から聖霊降臨祭までのそれぞれ14日間であった[180]。やがて1967年になって通行証協定が改められて規則が緩和された[181]。しかし東側市民が西へ行くことは出来なかった。ただ親の葬儀に参列することは申請して認められることもあるが、認められない場合もあった。後には誕生日のお祝い訪問も認められるようにはなったが、40歳・50歳・60歳の区切りでの許可であり、これも許可が下りない場合もある恣意的な運用であった[182]

これ以後次第に西側から東側への訪問は手続きを済ませば簡単に出来るようになった。しかし東側に入るときにはビザとパスポートを持ち、西側の印刷物の持ち込みは不可で、また東西マルクを1対1で交換させられ、しかも交換額を記した紙片の携帯が義務づけられた。この東ドイツマルクを使おうとしても、東ドイツには買う物が少なく、物価が安いので使い切れないし、レストランで食べるにしても食べるほどのご馳走は無かった。そして西側へ帰る際に、残った東ドイツマルクは交換されずに没収された。(東側は東ドイツの銀行に預け次の訪問時に引き出せる旨の説明であったが、その際の引き出しの手続きがややこしくて、誰も本気にはしていなかった)また東ドイツ政府は、東ベルリンの他の街を訪問する場合にも、どの街に入る時にも強制両替を行い、残った金額を没収していた。東ドイツはここで外貨を稼いでいたのである。しかも残りのお金を没収された後には、東側で買ったもの全てを書類に書き入れなくてはならなかった。この申請に不備があると後で面倒なことになった[183]

東ドイツは西ドイツからの入国に際しては、親戚訪問、ビジネス、東側団体主催の催し物への参加などだけを認め、外国人には認められた市内見物とかオペラ観劇は西ドイツからの入国者には認めなかった。そして1年間で合計30日以内という制限があった[184]

ベルリンの壁崩壊へ

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彩られたベルリンの壁の西側(1986年

壁は東側からは幅100mの無人地帯のため立ち入ることができなかったが、西側からは接近することができたため、壁の西側では壁の建設を非難し撤去を求める政治的な落書きが出現するようになった。やがてさまざまなメッセージや色鮮やかなストリートアートが壁の西側を彩った。

1985年にソビエト連邦共産党書記長にゴルバチョフが就任し、それまでの閉塞状況であったソ連にペレストロイカ(改革)を推し進めて、この動きはやがて東ヨーロッパ諸国、とりわけ80年代初めから国内で連帯運動が起こったポーランドとハンガリーに波及し、1988年にポーランドでは非共産党政権が誕生し、ハンガリーでも社会主義労働者党の改革派が政権を担った。これが1989年になると、他の東ヨーロッパ諸国にも大きな影響を及ぼした(東欧革命参照)。

1989年5月2日、既に民主化を進めていたハンガリーネーメト首相がオーストリアとの国境にある鉄のカーテンと呼ばれる国境柵の鉄条網を撤去するとハンガリー経由での国外出国に希望を持った東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪ね、そこに滞留する事態となった。

8月19日汎ヨーロッパ・ピクニックが欧州議員オットー・フォン・ハプスブルクの主催でこれにハンガリー政府の改革派の後援により、ハンガリーとオーストリアの国境付近のショプロンで開催された。これは、秘密裡にハンガリーが東ドイツ市民をオーストリアに越境させることを企図したイベントであった。そしてこの集会のさなかに東ドイツ市民661人がオーストリアへの越境に成功した。その後もオーストリア経由で出国が出来ると考えた東ドイツ市民がオーストリアと国境を接するハンガリーとチェコ・スロバキアに殺到した。8月25日、ハンガリーのネーメト首相は密かに西ドイツを訪れてコール首相と会談し、東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させる決断をしたことを明らかにした。やがて西ドイツ側の受け入れ準備が整った9月11日にはハンガリー政府は正式に東ドイツとの協定を破棄して東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた[185]。9月30日には、チェコスロバキアのプラハの西ドイツ大使館に集まっていた東ドイツ市民4000人の前に西ドイツのゲンシャー外相が現れて西ドイツへの出国が可能となったことを伝え、月末までに約3万人が出国した。

もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり、東ドイツ国内でもデモ活動が活発化していた。

こうした国民の大量出国やライプツィヒ月曜デモ等で東ドイツ国内は混乱していたにもかかわらず、最高指導者のエーリッヒ・ホーネッカー社会主義統一党書記長は改革には背を向け続けていた。しかし10月7日の東ドイツ建国40周年記念式典のために東ベルリンを訪問したミハイル・ゴルバチョフがその際行われたドイツ社会主義統一党幹部達との会合で自らの進めるペレストロイカについて演説をしたのに対し[186]、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて党幹部達を見渡すと、舌打ちをし[187]、ゴルバチョフが改革を行おうとしないホーネッカーを否定したことが他の党幹部達の目にも明らかになった。これを機にエゴン・クレンツ(政治局員・治安問題担当書記・国家評議会副議長)やギュンター・シャボフスキー(政治局員・社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記)ら党幹部達はホーネッカーの退陣工作に乗り出した[188]。10月17日、政治局会議でシュトフ首相が提議したホーネッカーの書記長解任動議が可決し、ホーネッカーは失脚し、後継者となったのはクレンツであった。

11月9日

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1989-1109-030, Berlin, Schabowski auf Pressekonferenz.jpg
「旅行許可に関する出国規制緩和」を発表するシャボフスキー(1989年11月9日)
ファイル:Berlin die Mauer.jpg
壁が撤去された後の路面に残された刻銘
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ほとんど全ての壁は崩壊後に散り散りになった
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ホーネッカーとブレジネフが接吻して挨拶する有名な写真のモチーフと、東ドイツの国民車トラバント(手前)(ベルリンの壁跡の落書き)

1989年11月9日、この日エゴン・クレンツ率いる社会主義統一党中央委員会総会で翌日から施行予定の出国規制を緩和するための新しい政令案を決定した。その日の夕方、クレンツ政権の広報担当者シャボフスキーは、この規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。シャボフスキーは、中央委員会の討議には出席しておらず、クレンツからも細かい説明もなく、また中央委員会で攻撃に曝されていたことで、クレンツ政権内部の混乱がその原因とされる(ベルリンの壁崩壊)。

この記者会見を各国メディア及び東ドイツ国営テレビ局などがこれを報道し、同日夜には東ベルリン市民が東西ベルリン間の7カ所の国境検問所に殺到した。旅行自由化の政令は実際は査証発給要件を大幅に緩和する法律であり越境にはあくまで査証が必要であったが、殺到した市民への対応に困った国境検問所の国境警備隊の現場指揮官は、政府からの指示もなく、11月9日午後10時45分に止む無く国境ゲートを開放した。査証の確認なども実行されず、ベルリンの壁はこの時に崩壊した。

11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊された。のちに東ドイツによって壁はほぼすべてが撤去された。ただし歴史的な意味のある建造物のため、一部は記念碑として残されている。

ベルリンの壁崩壊により東西両ドイツの国境は事実上なくなり、翌1990年10月3日、東西ドイツは統一した。

文化財保存

ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一、更に冷戦の終結にいたりベルリンの壁は名実ともにその存在意義を失った。その一方、ベルリンの壁は米ソ冷戦の象徴的遺跡としての保存の声が高まりシュプレー川沿いの約1.3kmの壁(イースト・サイド・ギャラリーDeutsch版)は残された。この部分には「ベルリンの壁建設」にインスピレーションを得た24の国の芸術家118人による壁画が描かれた部分であり、その中には「ホーネッカーブレジネフの熱いキス」を描いた戯画も含まれている。

文化財として保存が決まったものの、経年による劣化と観光客の落書きとその場しのぎの上塗りによる補修で保存は危機的状況に陥った。2000年には寄付によって壁の北側は修復され、2008年に残りの補修には250万ユーロの寄付が必要と試算された。2009年には残る部分の修復に着手している。

その他、ベルリン中央部のニーダーキルヒナー通りDeutsch版沿いの一帯(ゲシュタポ本部や国家保安本部があったあたり)には、再統一後に「テロのトポグラフィーDeutsch版」という博物館が建てられ、この部分に沿って建っていたベルリンの壁も残されている。さらに記念品としてライン川畔のコブレンツに白い壁を2枚移設し、また日本には宮古島市上野うえのドイツ文化村に2枚移設している。この時に地下を含む構造が明らかになり、地下のL字型の下のコンクリートが東ベルリン側が数倍長いのは、地下から(=塀の下を掘り返して)の逃亡を防ぐためだったと見られている。

狙撃裁判

ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一が実現した後に、ベルリンの壁について、国境警備隊による越境者への狙撃及び射殺に対してどのように扱うかは喫緊の課題であった。壁崩壊の翌年1990年には国境警備兵に対する裁判手続きが進められていった。東ドイツの狙撃兵は東ドイツ国内法にては訴追は出来ない。罪を犯したことにはならない。道義的概念は持ち込めるのか。事後に成立した法に基づく訴追は遡及効禁止と齟齬を及ぼすのか。法が正義に反する場合は実定法に対して正義と道義が優先されるのか。射殺命令を執行した狙撃兵と射殺命令を出した上官との罪の上下は・・・などドイツ国内で様々な議論がなされた。この後にドイツの裁判所はベルリンの壁の死者と射殺命令に関する審理にほぼ15年を費やした[189]

ドイツ連邦議会は1992年に「ドイツにおけるドイツ社会主義統一党独裁の歴史と帰結の批判的総括」を行うための調査委員会を設置した。そして2年後に社会主義統一党独裁のほぼ全局面を明らかにする15,000ページ余りの調査報告書を公表し、この中で東ドイツで行われた国家犯罪や人権侵害など負の遺産についての真相究明、責任や罪の承認、浄化や和解、補償と賠償、そして裁判などが述べられていた。これらには独裁の犠牲者を悼み、犯行者を処罰することも含まれていた[190]

かつてナチス時代の暴力犯罪に対して、法が正義に反する場合に実定法よりも正義と道義性が優先されるのか、といった論争があったが、狙撃兵裁判でもその論争は再燃した[191]。そして越境する者に対して射殺命令をいつ、誰が発したかも焦点となり、1961年夏のベルリンの壁建設の9日後に社会主義統一党政治局が発砲命令を出したと言われるが[192]、それが明確な文書としては残っておらず、当時のブラント西ベルリン市長が東ドイツの国境警備兵に「自分と同じ国の人間を撃つな」と訴えた時に、ウルブリヒト第一書記は「国境を侵す者には、武器を用いてもその行動を慎むように命じなければならない」と語っていた[193]

その射殺命令およびその実行に関して、東ドイツの最高指導者と政権幹部、国境警備隊幹部、現場の兵士に対して、1990年10月からドイツ再統一後のドイツ連邦共和国の裁判所で裁判が行われ、裁判所は社会主義統一党中央委員会政治局から狙撃兵に至るまで途切れることなく責任の連鎖が存在することは確認した。そしてその際に、社会主義統一党指導部は市民の生命を保護し身体無傷性を守る義務を負っていたとして「民主共和国市民の人格と人権は不可侵である」としたドイツ民主共和国憲法と国際人権協定をその字義どおりに解釈した[194]

このドイツ民主共和国の不正を理由として始められた捜査手続きの総数は壁の射殺事件以外も含めて約10万件に達すると見られ、この総数に対しての有罪判決はおよそ133分の1の数であった。この内に両独国境での強行犯罪については総計244件の訴追があり、466人が告発されて385人に判決が下され、無罪110人で、275人の有罪が確定した[195]。刑の量定は連隊司令官、国境警備隊長、政治局員まで地位に順じて重くなった。しかし大半の被告は執行猶予付の判決で、命令権者の20人は執行猶予の付かない自由刑の有罪判決であった。これらの不正行為と見なしたものの捜査と裁判が最終的な処理が終えたのは壁崩壊から16年が過ぎた2005年であった[196]

ドイツ社会主義統一党幹部

  • ヴァルター・ウルブリヒト …壁建設時の社会主義統一党第一書記(後に書記長)。1973年死去。
    • 戦後の東ドイツの最高指導者。1971年に引退。ベルリンの壁の構築の提唱者であり、実行者であり、そして最高責任者であった。壁建設後に武器の使用を躊躇わず、射殺命令を出したと言われている。壁崩壊時は既に死去していたので、訴追はされなかった。
  • エーリッヒ・ホーネッカー…壁建設時は党書記。1976年より1989年10月まで社会主義統一党書記長。
    • 壁建設の陣頭指揮に当たり、壁を越境しようとする者に対して射殺命令を出したとされて、統一後に49件の殺人罪によって起訴されたが、1993年に刑事裁判が免除され、翌年逃亡先のチリで没した。
  • ヴィリー・シュトフ…内務相、国防相、閣僚評議会議長(首相)、国家評議会議長(元首)などを歴任。1976年10月から1989年11月まで閣僚評議会議長(首相)。
    • 1991年にベルリンの壁関連の殺人罪で逮捕されたが、翌年8月に健康上の理由で釈放され、最終的に審理停止となる。
  • エーリッヒ・ミールケ…1957年から1989年11月まで国家保安相。
    • 1993年に射殺命令の責任者として起訴され、別件の警官殺害の件で懲役6年の判決であったが、1995年に釈放され、2000年に死去する。
  • ハインツ・ケスラー…空軍司令官、参謀総長、国防次官を経て、1985年から1989年まで国防相。
    • 1993年に懲役7年6ヵ月の有罪判決を受け、1998年に出所した。
  • ギュンター・シャボフスキー…壁崩壊時の党広報担当者。社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記(ベルリン支部長)。
    • 1997年8月にベルリンの壁での3人の殺害の件で懲役3年半の判決を受けた。しかしシャボフスキーが無実の人間が殺害されたことに対して責任を認めたことが考慮され収監期間1年ほどで釈放された[197]
  • エゴン・クレンツ…壁崩壊時の社会主義統一党書記長。
    • 1999年に懲役6年半の判決を受けた。党幹部としての責任(治安問題担当書記を兼務していた)を問われたが、ベルリンの壁犠牲者には遺憾の意を表している。シュパンダウ刑務所で1999年から2003年まで4年間の収監であり、昼間は刑務所外で働くことができるという半自由刑の扱いとなった。ただし、有罪判決が出た後にヨーロッパ裁判所に抗告し、その際にベルリンの壁の死者は東ドイツ政府の責任ではなく冷戦の犠牲者であると主張した。
  • ギュンター・クライバー…壁崩壊時の社会主義統一党経済専門委員
    • 懲役3年の有罪判決であった。
  • クラウス=ディーター・バウムガーテン…壁崩壊時の国境警備隊隊長
    • 懲役6年半の有罪判決であった。

国境警備隊兵士

壁で越境しようとした市民を射殺したと訴追された警備隊兵士からは、「的を外して撃った」との主張がなされることもあったが、多くは射殺命令を実行したと認定された。しかしその兵士に対して、最終的には、執行猶予付きの有罪判決の場合がほとんどであった[197]。「殺意なき殺人」として処理されている[197]。また1997年のエゴン・クレンツの裁判で、裁判官は「国境警備隊は国境の安全に責任を負っていた。警備兵に下された射殺命令は実際にはイデオロギー上のものであった」と裁定している[198]

1961年8月24日に壁付近で川を泳いで最初に銃の犠牲者となったギュンター・リトフィンの事件では、彼を撃った兵士は1997年に裁判で禁固18カ月の有罪判決であったが執行猶予がついた。「やや軽度の重大事犯」にあたる故殺と見なされた[199]

1962年8月17日に壁を越えようとして撃たれ、東側に落下してしばらく虫の息だが生きていたけれど東西両側から救助されず、1時間後にその場で失血死したペーター・フェヒターの事件では、1997年3月に元国境警備兵2人が殺人罪で訴追された。裁判長はどちらが彼を撃ったのか判断できないとして、裁判時には61歳であったロルフ・フリードリッヒに21カ月、エーリッヒ・シュライバーに20カ月、それぞれ執行猶予のついた有罪判決であった。しかし裁判長はフェヒターの失血死について警備兵のどちらにも責任がないとしたが、起こった事実は容認しがたいと明言した。ペーターの父は傷心で精神を病み1968年に亡くなり、母も精神を病み1991年まで生きたが壁崩壊についてはっきり理解することが出来なかった。姉ギーゼラは「弟はドイツからドイツへ行こうとしただけで撃たれた、そして誰も助けようとはしなかった。」と泣いた。後日、ロルフ・フリードリッヒは「本当に申し訳ない。フィヒターに謝罪したい。」と語っていた[200]

1989年2月6日にベルリンの壁で最後に射殺されたクリス・ギュフロイの事件では、1991年9月に国境警備兵4名が告発され、法廷で命令遵守を訴えたが人道に対する罪で、致命傷を与えた銃弾を放ったインゴ・ハインリッヒは3年半の懲役の判決が下りるものの、1994年に減刑されて2年の保護観察となった。同僚のアンドレアス・キューンパストは懲役2年に執行猶予が付いた。当初東ドイツはこの壁で死者が出た事実を否定する方針であったが世界中から非難されて認めざる得なかった。クリスの母カーリン・ギュフロイはシュタージにいつか息子を殺した罪に問われるだろうと言い放ったが、鼻でせせら笑われるだけだったという。この裁判では結局発砲を命じた側は罪に問われなかった[201]

なおこのギュフロイの死去に関して東ドイツ政府は新聞に家族からの死亡広告を出すことを許可し(壁の死者で許可されたケースはそれまで無かった)、葬儀が2月23日に行われ約120人が参列した。それまで葬儀どころか遺体を家族に引き渡すことも、あるいは壁で死んだことも連絡しないケースが多く、壁が崩壊してから壁で射殺されたことを家族が知ったことが多かった。また一緒に越境しようとして国境警備隊に逮捕されたクリスティアン・ガウディアンは裁判で懲役3年を言い渡されたが、西ドイツが身代金を支払い、彼の身柄を引き取った[202]

エピソード

  • 壁の建設と同時に西ベルリン市民のおよそ1万人が、東側の別荘や畑へ行くことが不可能となった。彼らはその土地の所有者であり、不動産の所有権の証書は保管していたが、やがてそれらは何の役にも立たない紙くずとなった[203]
  • 東西ドイツの国境付近で、同じ町、同じ村で東西が分断された自治体は多い。メドラロイトもその一つであり、村の中を国境線が引かれ「リトル・ベルリン」と呼ばれた[注 34]
  • ベルリンの壁の存在は「越えられない物」「変えられない物」の象徴に例えられた。
  • 壁崩壊後2枚の壁が沖縄県宮古島市上野(旧上野村)のテーマパーク「うえのドイツ文化村」に寄贈された他には、長崎県西彼杵郡時津町日本ビソー長崎事業所に東ドイツ政府より譲られた壁の一部が展示されている。
  • 破壊された壁の破片は土産品として一般に販売されたりもして出回ったが、壁の原料であるコンクリートには大量のアスベストが含まれており破片の取扱いには注意が要された。そして流通した中には墓石等を砕いただけの偽物の存在もあったと言う。
  • 2009年行われた世論調査によると旧西ドイツ出身者が旧東ドイツ復興のため税金が上がったこと、旧東ドイツ出身者たちは旧西ドイツとの所得格差に不満を持ち7人に1人はベルリンの壁の復活を望んでいるという結果が出た[204]

参考文献

  • 本村実和子 著「ドイツ再統一 分断から統一まで」リーベル出版 1993年
  • フレデリック・ケンペ著 宮下嶺夫訳「ベルリン危機1961〜ケネディとフルシチョフの冷戦〜」上下巻 白水社 2014年
  • 三浦元博・山崎博康 著『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P82
  • 石田勇治 編著「図説ドイツの歴史」 河出書房新社 2007年
  • マンフレッド・マイ著 小杉寸次 訳「50のドラマで知る ドイツの歴史 〜祖国統一への道〜」ミネルバ書房 2013年
  • クリストファー・ヒルトン著 鈴木主税 訳「ベルリンの壁の物語」上下巻 原書房 2007年
  • 永井清彦 著「現代史ベルリン」朝日選書 1984年
  • ヘンリー・キッシンジャー著 岡崎久彦 監訳「外交」下巻 日本経済新聞社 1996年
  • ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラー著 後藤俊明ほか訳 「自由と統一への長い道 II 〜ドイツ近現代史 1933-1990年〜」昭和堂 2008年
  • マイケルL・ドックリル、マイケルF・ホプキンズ共著 伊藤裕子 訳「冷戦 1945-1991」岩波書店 2009年
  • 川口マーン恵美 著「ベルリン物語〜都市の記憶をたどる〜」平凡社新書 2010年
  • エドガー・ヴォルウルム著 飯田収治・木村明夫・村上亮 訳「ベルリンの壁〜ドイツ分断の歴史〜」 洛北出版 2012年

脚注

注釈

  1. 『ベルリンは、ドイツ帝国当時からドイツ国時代を経て、1945年5月8日にナチスドイツが降伏するまでドイツの首都であり続けていた』という表現は誤りである。ドイツ帝国もヴァイマル共和国もナチスドイツも正式の国名はドイツ国であり、「ドイツ帝国からドイツ国を経て」ということではない。ドイツ国参照
  2. NATO(北大西洋条約機構)の基になった条約で、前年1948年3月にイギリス・フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクがブリュッセルで条約を結んで相互防衛の行動を約束し、このブリュッセル条約締結国に加えて、アメリカ・カナダ・デンマーク・アイスランド・イタリア・ポルトガル・ノルウエーの各国が相互防衛を規定した条約である。1952年にギリシャとトルコ、1955年には西ドイツが加わった。「冷戦 1945-1991」61-62P参照
  3. 西ベルリンへの交通遮断はその後に収まったが、以降もたびたび遮断と事態収束を繰り返している。しかし電話回線の切断はそのまま続行されて、20年後の1972年まで切断されたままであった。
  4. 西ドイツはこの事件への抗議の意を込めて、ブランデンブルク門から西に延びる通りを「6月17日通り」と改名した。東側は、ウンター・デン・リンデン通りと呼ばれ、現在でも同じである。
  5. ダンチヒ(現在のポーランド領グダニスク)は、かつてプロイセン領内にあったがポーランドの海の玄関口であり、第一次世界大戦後にポーランドが独立を回復してドイツとポーランドの狭間となった際はどちらの国にも属さない自由都市ダンチヒとして存在した時代があったが、西ベルリンからは西ベルリンの東ドイツ化にしか見えなかった
  6. 時として「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁はその境界線の一部」と思われがちだが、これは誤解である。
  7. ケネディ大統領が壁建設の報告を受けた時に、すぐに対応すべき緊急事態とは感じなかった。それは東ドイツ建国以降12年間に西への脱出の十分な時間的余裕がありながら、西へ向かわなかった東ベルリン市民がいる、という事実が彼の脳裏を離れなかったからと言われている。この事実に西ベルリン問題を危険に曝すことは出来ないとケネディは判断していた。
  8. この情報は当時は伏せられて西側には伝わらず、5年後の1966年8月に西ドイツ誌シュピーゲルが伝えて初めて分かったことであった。
  9. ウルブリヒトがこの時に強気に出たのは事実だが、フルシチョフがその要請に屈したとか、待つように求めたという言説は当時の東西冷戦時代の時代環境を理解すればあり得ない話である。これはベルリンに関する4ヵ国協定が存在する限り、東ドイツは何も出来ず、ソ連は米英仏3ヵ国との緊張関係の中でベルリンと関わっていて、一触即発で戦争状態も想定される状態の中で、むしろ東ドイツの動きを抑える立場であった。主導権は東ドイツが崩壊するまでソ連が握っていた。
  10. キッシンジャーは、この時に別に文書をケネディに提出していた。その文書では、モスクワに対する強硬な意見をキッシンジャーも持っているが、外交を一切無視するようなアチソンの提言を無謀と断じた。そしてベルリン問題に対するケネディのスタンスに対しての警告を誤解の余地の無い内容で表現した。フルシチョフのベルリン自由都市構想(1958年)に対する中途半端さ、自由選挙に基づくドイツ統一を空想的と見なす考え方、アデナウアー首相を毛嫌いしていること、ベルリン問題についての関心不足が大西洋同盟に危機を生み出し、その結果アメリカの安全上の利益を害する恐れがあり、西側諸国に深刻な影響を与えることなどを述べて「政策に関する如何なる考察も西側はベルリンで敗北などしていられないという前提から出発しなければならない」「大統領は西ベルリン市民の希望と勇気を維持するために、彼らに我々の信念が確実で実体的な証しを与えるべきだ」とした。しかし結局自分の意見が真剣に取り上げられることはない、と感じてこの年の10月にホワイトハウスのスタッフを辞任した。フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 22-25P キッシンジャーがホワイトハウスに国家安全保障担当特別補佐官として戻ってきたのは、それから8年後のニクソン政権になってからである。
  11. 彼がこのレポートを出してすぐに西ベルリン支局から編集者が訪れたが、彼はその根拠を示せぬまま、東ベルリンで息をひそめながら注意深く周囲を観察していた。
  12. アデナウアーは、この日が日曜日であったので、いつものように朝にミサに行っている。
  13. ルシアス・クレイ。1948年に西ベルリンが東側に封鎖された時に、大空輸作戦で西ベルリンを守った功労者である。土田宏 著「ケネディ 神話と実話」159P 参照
  14. この時にライトナー夫妻が乗った車は、公用車の黒のシボレーではなく、夫人名義の私用車フォルクスワーゲン・ビートルであった。ベルリン駐在のアメリカ外交官で当時広報官であったヘムシングは後に、黒のシボレーに乗って行けば、このようなことにはならなかっただろうと語っている。私用車に公使自身が運転していたことが、警備隊に不審に思われたことで、この時の警備隊の対応は規則に従ったものであった。クリストファー・ヒル著「ベルリンの壁の物語」上巻 270P参照
  15. この時に検問所の東側地域へ60〜90メートルは入っていたとヘムシング広報官は語っている。
  16. クリストファー・ヒル著「ベルリンの壁の物語」上巻では、このような著述であり、たんに押したり引いたりしたのか、あるいはアメリカの公用車や軍用車が通過する際に護衛する米兵や戦車を見せつけて通過すれば引き上げるやり方であったのかは不明である。22日のライトナーの車も検問所付近だけの行動なのか、あるいは完全に東側に入って、フリードリッヒ通りを通り抜けてウンター・デン・リンデンからブランデンブルク門の近くまで行って戻ったとフレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻では述べており、これも不明である。クリストファー・ヒル著「ベルリンの壁の物語」では、著者のヒル自身が当事者が既に亡くなっていることと他から聞いた話が多く、伝聞なので自ら再構成したと断っている。「ベルリンの壁の物語」は2007年発行で、フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」は2014年発行である。
  17. これはフレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」での著述だが、クリストファー・ヒル著「ベルリンの壁の物語」では、27日午後3時ごろにソ連軍の戦車が轟音を響き渡らせてフリードリッヒ通りをやって来て、境界で停止した、アメリカ軍士官が「何てことだ、ロシアではないか。」と素早く自軍の戦車隊を配置につかせて戦車同士が検問所を挟んで睨み合う形になった、と述べている。クリストファー・ヒル著「ベルリンの壁の物語」上巻 280P
  18. ここで、ケネディはドイツ語で語っている。これはドイツ到着後にRIAS放送ディレクターのロバート・ロックナーとアデナウアー首相の通訳ハインツ・ヴェーバーから教わり、耳で聞いた通りにカードに書き込んでいた。そしてIch bin ein Berlinerも同じカードに書き込んでいた。フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」 下巻 278-279P 参照
  19. よくこの言葉は不定冠詞einを入れたので「私はドーナッツ菓子です」と言っているようなものだ、という指摘をして間違ったドイツ語だったという説を唱える向きがあるが、RIAS放送ディレクターとアデナウアー首相の通訳の2人と事前に話し合って、einを抜かすと「私はベルリン生まれである」という意味になって、かえって聴衆を混乱させるとして、この言い方になったという。聞いていた30万人の西ベルリン市民がその意味するところを理解したからこそ熱狂し、その表現に言語学的疑問を感じた者はいなかった。フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」 下巻 279P 参照
  20. 「ヒトラーもビスマルクもどの皇帝も王も、これほど多くの人々の熱狂に歓迎されたことはない」とワルター・H・ネルソンは著書「ベルリン子たち」で書いている。そしてこの時の迎える側のブラント西ベルリン市長は後に「これほどの歓喜の声に包まれた客人はベルリン史上に例があるまい」と自伝に書いている。永井清彦 著「現代史ベルリン」190-192P参照
  21. その日の夜、大統領専用機でベルリンを後にアイルランドに向かった際に、機内でケネディはセオドア・ソレンセンに「われわれの人生で今日みたいな日は二度とないだろう」と語った。「ベルリン危機1961」 フレデリック・ケンプ著 280P
  22. 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」では155kmとしているが、エドガー・ヴォルフルム 著「ベルリンの壁」では 160kmとしている。
  23. なお一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号ケーブルで、一部で言われたような高圧電流を流した剥き出しの金属線ではなかったとされている。また1970年には仕掛けケーブルに触れると散弾を発射する対人地雷、自動発砲装置Deutsch版クレイモア地雷と原理において同じ)も設けられたが、被害者に大きな苦痛を与えると非難されたため1984年に撤去された。
  24. あるいは「ベルナウアー通り」と表記する文献もある。
  25. 36年後の1997年の「狙撃兵裁判」でリトフィンを射殺した警備兵は禁固1年6カ月の有罪判決を受けたが執行猶予付きであった。
  26. この派手な逃亡劇はその後映画化されている。
  27. トンネルを掘って脱出したエピソードは、他にも後述の57人が脱出した成功例があるが、しかし発見されて射殺されたり、上が崩れて生き埋めになって死亡する例もある。中にはすぐ近くで同じようにトンネルを掘っていて、それをお互いが知らずに地盤が沈下して発覚して西から親類を救出するために来ていた男性が射殺される悲劇も生まれている。
  28. 2009年8月にドイツ政府の委託で壁記念センターと現代史研究センターとが4年がかりで壁の死者について調査した結果を発表した。その発表では、1961年から1989年までにベルリンの壁を乗り越えようとして死亡した者は少なくとも136名に達したとしている。2009年11月8日にNHKはニュースで放送している。平田達治 著「ベルリン・歴史の旅〜都市空間に刻まれた変容の歴史〜」260P参照 大阪大学出版会 2010年
  29. 【政治犯の一人当たりの買取価格は9万5,847マルク1977年以降。壁崩壊時のレートで約700万円)で、西ドイツは離散家族も含めて25万人を買い取り、計35億マルクを東ドイツに支払った。吉田一郎著「世界飛び地大全」(社会評論社)参照】という言説は、単純計算で人数に誤りがあり、正確性を欠いている。
  30. 正式には「ドイツ民主共和国政府及びベルリン参事会間の議定書」と呼ばれ、東西ドイツ間の協定ではない。東側が従来から西ベルリンは西ドイツと別個の政治単位であると主張していたためである。このため西ドイツ政府(アデナウアー政権)はこの通行証協定は東側の主張を認めるものであるとの懸念を隠せなかったが、ブラント市長は人道的措置であることを強調した。実際には、交渉の当事者である西ベルリン市から協定交渉の妥結をボンの西ドイツ政府に伝え、西ドイツ政府が閣議で了承した後にブラント市長宛てに通告してから協定を結ぶものであった。本村実和子 著『ドイツ再統一〜分断から統一まで〜』70-71P参照
  31. 本村実和子 著『ドイツ再統一』では西ベルリン市民の半数に近い延べ120万人が東ベルリンに入ったという。
  32. 同一都市内に壁が建設された都市は、このベルリン以外にはメドラロイトだけであった。という言説があるが、正しくはメドラロイトは村であり、都市ではない。

出典

  1. 杉本稔 著「現代ヨーロッパ政治史」102P 北樹出版 2007年発行
  2. マンフレッド・マイ著「50のドラマで知る ドイツの歴史〜祖国統一の道〜」325P参照
  3. 本村実和子 著「ドイツ再統一」47P参照
  4. 本村実和子 著「ドイツ再統一」48P参照
  5. 本村実和子 著「ドイツ再統一」48-49P参照
  6. 本村実和子 著「ドイツ再統一」50P参照
  7. 石田勇治 編著「図説ドイツの歴史」89P参照
  8. マイケルL・ドックリル、マイケルF・ホプキンズ共著 「冷戦 1945-1991」59-62P参照
  9. 石田勇治 著「20世紀ドイツ史」73-74P参照
  10. 石田勇治 編著「図説ドイツの歴史」90P参照
  11. 本村実和子 著「ドイツ再統一」102P参照
  12. 本村実和子 著「ドイツ再統一」104P参照
  13. 本村実和子 著「ドイツ再統一」104-105P参照
  14. 本村実和子 著「ドイツ再統一」58-59P参照
  15. 本村実和子 著「ドイツ再統一」66P参照
  16. 石田勇治 編著「図説ドイツの歴史」100P参照
  17. 本村実和子 著『ドイツ再統一』62P参照
  18. マイケルL・ドックリル、マイケルF・ホプキンズ共著「冷戦 1945-1991」100-102P参照
  19. 永井清彦 著「現代史ベルリン」149-153P
  20. 本村実和子 著「ドイツ再統一」62-63P参照
  21. 永井清彦 著「現代史ベルリン」149-153P
  22. マイケルL・ドックリル、マイケルF・ホプキンズ共著「冷戦 1945-1991」102P参照
  23. 石田勇治 編著「図説ドイツの歴史」96P参照
  24. 石田勇治 編著「図説ドイツの歴史」99P参照
  25. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」上巻169P参照
  26. ヘンリー・キッシンジャー 著「外交」下巻 183-184P
  27. ヘンリー・キッシンジャー 著「外交」下巻 184-185P
  28. エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」68P
  29. ヘンリー・キッシンジャー 著「外交」下巻 190-193P
  30. ヘンリー・キッシンジャー 著「外交」下巻 196P
  31. ヘンリー・キッシンジャー 著「外交」下巻 199-200P
  32. ヘンリー・キッシンジャー 著「外交」下巻 187-189P
  33. エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」68P
  34. 永井清彦「現代史ベルリン」160P
  35. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 175P
  36. 永井清彦「現代史ベルリン」161P
  37. 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」195p参照
  38. 石田勇治 編著「図説ドイツの歴史」99P参照
  39. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」上巻 21P
  40. クリストファー・ヒルトン著 鈴木主税 訳「ベルリンの壁の物語」上巻 18-22P参照
  41. クリストファー・ヒルトン著 鈴木主税 訳「ベルリンの壁の物語」上巻 31P参照
  42. クリストファー・ヒルトン著「 ベルリンの壁の物語」上巻 31-36P参照
  43. 永井清彦「現代史ベルリン」161P参照 ≪「Klaus horn : Die Berlin Krise 1958-61 Europaisch Verlagsanstalt , Furankfurt≫などから引用し著者が作成したものである。
  44. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」上巻 21P
  45. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」上巻166-167P参照
  46. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」上巻145P参照
  47. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻12P参照
  48. 永井清彦著「現代史ベルリン」157P
  49. 読売新聞2011年8月14日 国際6面
  50. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」上巻 330-346P
  51. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 13P
  52. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 58-59P
  53. エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」61-62P参照
  54. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」上巻 383P 、下巻 15〜23P
  55. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 17-22P
  56. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 27-30P
  57. 本村実和子 著「ドイツ再統一」64P参照
  58. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 30-37P
  59. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 37〜38P
  60. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」上巻 311P 318〜319P
  61. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 42P
  62. 石田勇治 編著「図説ドイツの歴史」96P参照
  63. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 12P
  64. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 43-44P
  65. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 45-47P
  66. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 58P
  67. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 44-45P
  68. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 39-40P参照
  69. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 59P
  70. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 42-43P参照
  71. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 62-63P
  72. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 52-57P参照
  73. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 63-64P
  74. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 68-71P
  75. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 55P参照
  76. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 85P参照
  77. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 79-80P
  78. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 55-56P
  79. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 83-84P
  80. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 56P
  81. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 85-86P参照
  82. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 86-89P
  83. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 87-89P参照
  84. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 91P 96P参照
  85. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 96-97P参照
  86. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 98P参照
  87. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 175-176P参照
  88. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 103P参照
  89. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 177P参照
  90. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 176P参照
  91. エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」124-125P
  92. 永井清彦 著「現代史ベルリン」163P
  93. 永井清彦 著「現代史ベルリン」163-166P
  94. エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」70P
  95. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻112P
  96. 永井清彦 著「現代史ベルリン」167P
  97. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 116-117P
  98. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 96-97P
  99. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 123-126P
  100. マンフレッド・マイ著「50のドラマで知るドイツの歴史〜祖国統一への道〜」356P参照
  101. クリストファー・ヒル著「ベルリンの壁の物語」上巻 137-138P参照
  102. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 94-95P
  103. 永井清彦 著「現代史ベルリン」168P
  104. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 191-192P参照
  105. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 117-120P
  106. エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」71P
  107. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 127-130P
  108. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 132-134P
  109. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 210P
  110. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 212-213P
  111. クリストファー・ヒル著「ベルリンの壁の物語」上巻 268-276P参照
  112. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 216-220P参照
  113. フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 235-236P参照
  114. クリストファー・ヒル著「ベルリンの壁の物語」277P
  115. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻 237-239P
  116. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻 243P
  117. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻 245-247P
  118. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻 226-229P 231-234P参照
  119. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻 248-249P参照
  120. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻 253-254P参照
  121. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻 252-253P参照
  122. クリストファー・ヒル著「ベルリンの壁の物語」上巻 281-283P
  123. ヘンリー・キッシンジャー著 「外交」下巻 208-210P 参照
  124. H・A・ヴィンクラー著「自由と統一への長い道 II 〜ドイツ近現代史 1933-1990年〜」199P 参照
  125. 土田宏 著「ケネディ 神話と実像」166P
  126. フレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」 下巻 279-280P
  127. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 338P参照
  128. ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』231P参照
  129. 永井清彦 著「現代史ベルリン」196P
  130. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 202P
  131. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 221P
  132. 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」216-217P
  133. 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」216-217P
  134. 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」217-218P
  135. エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」104P
  136. エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」105P
  137. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 236P
  138. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 255P
  139. エドガー・ヴォルフルム著『ベルリンの壁』32-33P参照
  140. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 262-263P
  141. 川口マーン恵美「ベルリン物語」211-213P参照
  142. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 259P
  143. エドガー・ヴォルフルム著『ベルリンの壁』38P参照
  144. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 246-247P
  145. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 259P
  146. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 291P
  147. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 291-292P
  148. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 293P
  149. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 297-298P
  150. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 334-336P
  151. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 25P
  152. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 253-254P
  153. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 17-24P参照
  154. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 8-9P参照
  155. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 9-10P参照
  156. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 10-11P参照
  157. 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」214-215P エドガー・ヴォルフルム著『ベルリンの壁』102-104P クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 311-323P 参照
  158. エドガー・ヴォルフルム著『ベルリンの壁』37P参照
  159. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 237P
  160. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 159P
  161. エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」111P
  162. アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン〜記憶の場所を辿る旅〜」145P
  163. ヴィクター・セベスチェン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」364P
  164. グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 260P
  165. 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」215P
  166. H・A・ヴィンクラー著「自由と統一への長い道 II 〜ドイツ近現代史 1933-1990年〜」490P参照
  167. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 157-158P
  168. YouTube - 3-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~
  169. エドガー・ヴォルフルム著『ベルリンの壁』38P参照 及びフレデリック・ケンペ著「ベルリン危機1961」下巻 106-110P参照
  170. 170.0 170.1 170.2 170.3 YouTube - 4-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~
  171. 本村実和子 著「ドイツ再統一」115P参照。
  172. エドガー・ヴォルウルム著「ベルリンの壁」117-118P参照
  173. 本村実和子 著「ドイツ再統一」115P参照。
  174. エドガー・ヴォルウルム著「ベルリンの壁」118-119P参照
  175. クリストファー・ヒルトン 著「ベルリンの壁の物語」下巻 24P参照
  176. 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」206P参照
  177. クリストファー・ヒルトン 著「ベルリンの壁の物語」下巻 24P参照
  178. 本村実和子 著『ドイツ再統一』70-71P参照
  179. クリストファー・ヒルトン 著「ベルリンの壁の物語」下巻 8P参照
  180. 本村実和子 著『ドイツ再統一』70-71P参照
  181. クリストファー・ヒルトン 著「ベルリンの壁の物語」下巻 8P参照
  182. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 247P参照
  183. 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」203-205P参照
  184. 川口マーン恵美 著「ベルリン物語」205P参照
  185. 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P82
  186. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P8
  187. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P9
  188. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P15
  189. エドガー・ヴォルフルム著『ベルリンの壁』227-230P参照
  190. エドガー・ヴォルフルム著『ベルリンの壁』227-229P参照
  191. エドガー・ヴォルフルム著『ベルリンの壁』231P参照
  192. エドガー・ヴォルウルム著 「ベルリンの壁」31P参照
  193. エドガー・ヴォルウルム著 「ベルリンの壁」31-32P参照
  194. エドガー・ヴォルウルム著「ベルリンの壁」233P参照
  195. エドガー・ヴォルウルム著 「ベルリンの壁」234P参照
  196. エドガー・ヴォルウルム著 「ベルリンの壁」233P参照
  197. 197.0 197.1 197.2 YouTube - 6-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~
  198. クリストファー・ヒルトン著 「ベルリンの壁の物語」下巻 335P
  199. エドガー・ヴォルウルム著 「ベルリンの壁」33P参照
  200. クリストファー・ヒルトン著 「ベルリンの壁の物語」下巻 335-337P参照
  201. クリストファー・ヒルトン著 「ベルリンの壁の物語」下巻 332-334P参照
  202. クリストファー・ヒルトン著 「ベルリンの壁の物語」下巻 155-156P参照
  203. クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」上巻 204p
  204. ドイツ人の7人に1人、「ベルリンの壁」の復活望む=調査 | 世界のこぼれ話 | Reuters

関連項目

外部リンク