ベルリン封鎖

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西ベルリンのテンペルホーフ空港に物資を空輸してきた輸送機を見上げるベルリン市民

ベルリン封鎖(ベルリンふうさ、ドイツ語: Berlin Blockade)は、第二次世界大戦終結後の1948年6月、ソビエト連邦政府西ベルリンに向かう全ての鉄道と道路を封鎖した事件である。冷戦初期を象徴する出来事である。

背景

分割統治

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連合国各国に分割占領されたドイツ
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ソ連占領地域内にある首都ベルリンは、別途4か国で分割占領された

第二次世界大戦の戦局が連合国軍に優勢になると、連合国では戦後処理に関する協議が開始された。1943年10月にはモスクワの3か国による戦後処理についての外相会談が行われ、ドイツの無条件降伏とナチ政権の潰滅、3か国による暫定分割統治、復興協議機関としてのFACの設立などが合意事項として決定され、テヘラン会談で具体的なガイドラインが定められた。

1944年1月の第一回FAC会議で、イギリスのクレメント・アトリー副首相からドイツ領土、および特別地域として扱われた首都ベルリンの共同統治案が出され、承認されたのち9月に調印される。1944年には共同統治機関として、軍政司令部や管理理事会が設立された。1945年に入ってフランスが解放されると、共同統治国にはフランスが加えられて4か国になった。

東西両陣営の対立

1945年4月30日、ドイツでは総統アドルフ・ヒトラー自殺し、5月にはドイツは連合国に無条件降伏した。先立ってソ連軍が占領状態に置いていたベルリンには各国の駐留軍が進駐するが、独ソ戦の賠償や自国の支配圏の拡大を望むソ連政府は、西側の進駐を妨害するなど非協力的で、西ベルリン地域ではソ連の秘密工作や不法行為も起こっていた。東ベルリンはソ連、西ベルリンは米英仏の3か国が統治し、実質的に2分割された。西ベルリンの周囲は全てソ連統治下のため飛地状態となった。

賠償問題などを巡り、7月のポツダム会談を最後に米ソ両国が相互不信となると、共同統治は米英仏の西側諸国と、それに対するソ連との間における対立を生じ、ベルリン市内の東西境界地域は緊張することになった。ドイツの新政府樹立がフランスの拒絶で頓挫すると、アメリカは世界政策として共産主義勢力の封じ込め(トルーマン・ドクトリン)を掲げ、1947年6月にはジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパへの経済支援(マーシャル・プラン)を発表し、イギリスとフランス(そして西ドイツ)などによる親米国家群による対ソ共同戦線を構想した。これにソ連のヨシフ・スターリンは、共産主義国家の連帯組織としてコミンフォルムを結成して対抗した。

封鎖

封鎖開始

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西側占領地域と西ベルリンを結ぶ航空路

1948年になると、分割占領された首都の全体をどこが支配するのかを巡って対立が起こった。さらにソ連はドイツとの戦争で甚大な被害が出ていたため取れるものは全てとるという方針をとったことから、早期復興を目指す西側3か国と対立した(当初はフランスもドイツに早期の賠償を課す方針だったが、ソ連への対抗上米英と同調せざるを得なくなった)。そのような対立の中、ソ連は西ベルリンへの交通制限を西側へ通達した。

4月1日に、ソ連軍政当局は西ベルリンへ向かう人員や貨物について検問を強行し、西ベルリンへの物資搬入にも制限がかけられた。さらに、5月にソ連が6月24日に東側領域において通貨改革を実施することを宣言すると、すかさず西側も6月20日より西側領域でも通貨改革を実施すると公表した。この結果、マーシャルプランに保障される西側通貨(マルクB、ドイツマルク)が力を持つようになり、東側の通貨改革は失敗することとなった。

反発を強めたソ連側は、6月24日より西ベルリンへの陸路の完全封鎖を実施。西ドイツとの間を結んでいた4本の鉄道は閉鎖され、東ベルリンとの間を結んでいた地下鉄も運休し、エルベ川と運河を経由した船舶輸送も停止され、西ドイツとの間を結んでいた4本のアウトバーンも閉鎖され、国境の検問所にはバリケードが設置されて物流を完全に停止させた。東側占領地域からの西ベルリンへの電力供給も停止された。さらに政治宣伝を行い、西ベルリン市民の取り込みを図った。ソ連側は、物資不足に反発した西ベルリン市民により暴動やストライキが発生し、やがて社会主義革命が発生することを期待していた。そして、西側に西ベルリンの支配を放棄させることを狙っていた。

この状況でもソ連側は、西側占領地域及び西ドイツ国内から西ベルリンまでの航空路については封鎖しなかった。これは1946年2月の取り決めにより、西側からベルリンまでの3本の空路、通称「ベルリン回廊」は、西側諸国による自由な利用が認められていた上に、西ベルリンに居住する市民は200万人に上り、その生活を支えられるだけの物資を空輸だけで運べるとは到底考えられなかったことと、ソ連としても西側と全面的な対決に陥ることは避けたかったということが、空路の封鎖をしなかった理由として挙げられる。

「ベルリン大空輸」開始

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テンペルホーフ空港に着陸する輸送機
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テンペルホーフ空港で物資を降ろすC-47輸送機
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輸送機に搭載された牛乳

ソ連による完全封鎖の開始後、西ベルリンでは燃料や食糧だけでなく、石鹸トイレットペーパーなどの生活用品や、薬品までが短期間で欠乏し、市民生活が危機に陥ることが予想された。そこでアメリカやイギリスを中心とする西側は、アメリカ空軍カーチス・ルメイ戦略空軍司令官らが立案した物資の空輸作戦を実施することにした。アメリカの空輸作戦の名前は「糧食作戦」(オペレーション・ヴィットルズ Operation Vittles)とされた。一方イギリスの空輸作戦は「プレインフェア作戦」(Operation Plainfare) とされたが、イギリスの空輸部隊もアメリカ側の指揮の下で活動した。一般には「ベルリン大空輸」(Berlin Airlift) として知られる。

6月26日、ヴィースバーデンラインマインの両基地からC-47輸送機が45 tの物資をテンペルホーフ空港に輸送し、空輸作戦が開始された。C-47輸送機は100機以上がかき集められ、ベルリンまでの輸送任務に就いた。C-47より大型のC-54輸送機もアメリカ本土などから派遣された。イギリスはC-47と同型のダコタやアブロ ヨークなどを派遣した。7月に入ると、アメリカ空軍の軍航空輸送隊(MATS: Military Air Transport Service、後に軍事空輸軍団を経て航空機動軍団)のウィリアム・タナー少将 (William H. Tunner) が臨時空輸任務群(Airlift Task Force, Provisional、11月に第1空輸任務群 1st Airlift Task Forceに改編)の司令官に就任し、空輸作戦の指揮を執った。

6月30日にアメリカのマーシャル国務長官が「我々はベルリンを放棄するつもりはない。市民への食料、物資の補給は可能な限り実施されるだろう」と言明し、米英は西ベルリンを放棄せず、空輸作戦により市民生活を断固として支える決意を示した。

西ベルリンの市民が必要とする食料は1日あたり、小麦および小麦粉646 t、穀類125 t、肉・魚介類109 t、油脂類64 t、乾燥ポテト180 t、乾燥野菜144 t、砂糖85 t、コーヒー11 t、粉乳24 t、イースト3 t、塩38 t、チーズ10 tの合計約1,439 tと見積もられた。また、このほかに市内で消費する燃料の石炭やその他の生活必需品などが1日あたり約3,000 t必要であると見積もり、空輸の最低量は1日4,500 tと設定された。これを満たすために、C-54輸送機が続々と追加派遣され、ベルリン大空輸の主力となった。

空輸作戦に使用された航空機はC-54が中心となり、搭載量の少ないC-47は早期に撤退した。他にC-74C-82YC-97Aなどの大型の輸送機が少数のみ試験的に投入された。機数が少なかったためこれらの大型航空機は主力とはならなかったが、以降の輸送機の発展の方向性を示すことになった。

このほかにもイギリスが民間の航空会社からチャーターした輸送機を派遣したことから、アブロ ランカストリアンハンドレページ ホールトンショート ヒースビッカース ヴァイキングなどの雑多な輸送機が作戦に投入された。大量の物資を運ぶこれらの輸送機は、ベルリン市民から「ロジーネン・ボンバー」のニックネームで呼ばれた。

ベルリン大空輸に際しては、英米のほかにフランスも当初参加していた。しかしフランスは戦勝国とはいえ大戦中には長くドイツの占領を受けて、地上戦の被害も大きく、国自体が復興の途上にあった。このため輸送機の数を確保できなかったことやその参加機も事故で失われたことなどから、早期に作戦から外れた。これ以外にイギリス連邦オーストラリアニュージーランド南アフリカが乗務員を派遣している。

空輸体制の整備

空輸が開始されると、それに伴う支援体制の整備も進められた。輸送機自体の数もさることながら、それを飛ばす乗務員を訓練することも重要であった。アメリカ合衆国本土のモンタナ州グレートフォールズ空軍基地に、ベルリン回廊を想定した飛行訓練コースが開設され、ここで乗務員の訓練が開始された。乗務員は疲労の蓄積を避けるため45日で次の乗務員と交代するローテーション配備の体制が敷かれた。

また、アメリカ合衆国本土と西ドイツの航空基地を結ぶ航空路線が開設され、交代の乗務員の派遣や連絡任務に用いられた。輸送機のエンジンの整備と交換、燃料の手配、ベルリンへ輸送する物資の手配と貨物の保管・積み込み・積み降ろしなどのさまざまな業務について急速に支援体制が構築され、徐々にベルリンへの空輸量は増加していった。

ブラックフライデー

1948年8月13日金曜日、雨天のもとテンペルホーフに着陸したC-54がオーバーラン事故を起こして炎上した。続行していたC-54はこれを避けようとして滑走路上でタイヤをバーストさせてしまい、2機が滑走路上で動けなくなってしまった。混乱を回避するためにこの日の空輸作戦は中止され、飛行中の輸送機も全て引き返すことになった。この日は作戦の中の最悪の日として「ブラックフライデー」として記憶されることになった。こうした混乱の1つの原因には、急速にベルリンへの航空交通量が増大して、航空交通管制が追いついていないということがあった。

そこで、最適な航空交通管制業務の研究が行われた。その結果、3本のベルリンへの航空路のうち、南北の2本をベルリンへの往路に、中央の1本をベルリンからの復路に専用に割り当てることになった。輸送機は決められた時刻と高度を守って飛行することが求められ、ベルリンで1度でもアプローチに失敗すると、着陸のやり直しは許可されず、積荷を積んだまま西ドイツに引き返すことになっていた。また当時最新のレーダーによる着陸管制装置である着陸誘導管制 (GCA) の設備がベルリンの空港に装備され、24時間体制で3分間隔で飛来する輸送機を捌いた。

こうして輸送機、乗務員、地上支援体制、航空交通管制のシステムが完成し、ベルリンへの空輸量は9月には1日4,500 tを超えて、西ベルリン市民を支えられる最低水準を満たした。

妨害

ソ連側は空路を飛行する輸送機に戦闘機を近づけ威嚇した他、空路から外れそうになった輸送機に警告射撃を行うなどの執拗な妨害を試みた。航空路内で対空射撃訓練まで実施したこともあった。しかし協定が有効な以上、空路内を飛行していた輸送機を迎撃、および撃墜するなどの手段に出ることは、即座に突発的な軍事対決につながる恐れがあるために実行できなかった。

作戦期間中、1948年8月から1949年8月までの間にアメリカ空軍が記録した妨害行為の回数は733回に上った。また、いくつかの輸送機が事故を起こしたものの、空輸作戦は絶えることなく続けられた。

テーゲル空港の完成

西ベルリンにある空港は、テンペルホーフとガトウ (RAF Gatow) があったが、これだけでは輸送量が不足すると考えられた。そこでベルリン市民の協力の下、突貫工事でテーゲルに新しいテーゲル空港が建設され、12月7日に開港した。テーゲル空港はその後、ベルリン最大の空港として使用されている。

リトル・ヴィットルズ作戦

C-54のパイロットの1人、ゲイル・ハルバースン中尉 (Gail Halvorsen) は、戦災で多くのものを失い、甘いものに飢えているベルリンの子供たちにプレゼントを贈ろうとして、ベルリン到着直前の輸送機の操縦席の開く窓から、キャンディやチョコレートをハンカチで作ったパラシュートで落とす行為を個人的に始めた。これを繰り返したために次第にベルリンの子供たちが菓子を期待して集まるようになり、そして米軍の基地に感謝の手紙が送られるようになった。そこから新聞記者に話が知られ、アメリカ本国でこの行動が報道されると、アメリカ全土からベルリンの子供たちへ送る菓子とそれを落とすためのハンカチが基地に殺到することになった。そしてこれはついに部隊の公式の作戦となり、「オペレーション・リトル・ヴィットルズ」と名付けられて、大々的に行われることになった。

これは単に善意に基づく作戦というだけではなく、西ベルリンの市民生活を顧みずに大国の政治的な都合でベルリン封鎖を強行するソ連の非人道的な態度に対して、アメリカの善意を強く印象付けることになり、プロパガンダとしても絶大な効果があったと評価されている。

空輸作戦の成功

空輸体制が完成し、1949年1月になると月間輸送量は171,690 tに達し、1日平均で5,540 tとなった。これは、冬期に暖房のために燃料の石炭使用量が増えることを勘案しても、なお西ベルリン市民の生活を支えるに十分な量であった。

4月16日には1日のフライト回数1,398回、空輸量12,940 tに達し、作戦全期間中を通じて最大を記録して、「タナー少将のイースター・パレードの日」と称されるようになった。

こうして事前には不可能と思われていた、西ベルリン市民の必要とする物資を航空機のみで輸送するという試みは、成功したことが明白となった。ソ連が西ベルリン市民による社会主義革命を期待していたのとは裏腹に、英米両国による生活物資輸送における必死の努力はベルリン市民に英米との連帯感を高めさせることになり、封鎖前に頻発していたストライキが影を潜めるという結果をもたらした。

なお、この封鎖危機に際してアメリカ合衆国国防予備船隊からも18隻の船舶が現役復帰し、1970年まで使用され続けた[1]

封鎖解除

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ベルリン空輸記念碑。空輸作戦を記念したもので、3本の支柱は3本の飛行ルートを表す。テンペルホーフ空港脇にある[2]

空輸作戦の成功が明白となり、さすがのソ連もベルリン封鎖の失敗を認めざるを得なくなった。こうして1949年5月12日に封鎖は解除された。

ドイツでは、この空輸作戦を称し「ベルリンへの空の架け橋」(Berliner Luftbrücke) といった。テンペルホーフ空港の脇には「空の架け橋広場」(Platz der Luftbrücke) が造られ、空輸作戦の記念碑が建てられている。これと同様の記念碑は、輸送機の出発地となったラインマインにも造られた。

封鎖解除後も空輸作戦は西ベルリン市民の生活の安定のためにしばらく続けられ、公式には1949年9月30日に終了した。1948年6月26日からの総飛行回数は278,228回、空輸物資量は2,326,406 tに達した。空輸作戦で航空機の飛行した距離の総合計は、地球から太陽まで届くほどにもなった。

空輸作戦に要した費用は、当時の金額で約2億2400万ドルで、これは2008年の物価に換算すると約20億ドルほどになる。作戦期間中に17機のアメリカ軍機と8機のイギリス軍機が事故を起こし、アメリカ人31人、イギリス人40人を含む合計101人が亡くなった。

その後

冷戦状態はこの後も長引き、米英仏は統一ドイツ建設の試みをあきらめた。1949年5月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ建国されるが、東ドイツは自国民の西ベルリンへの脱走を防止するため、1961年8月13日に突如ベルリンの壁を建設した。

脚注

  1. 「2-2 NDRF/RRFの歴史」『米国海軍予備船隊制度に関する調査』シップ・アンド・オーシャン財団 1998年5月
  2. 熊谷徹 『観光コースでないベルリン ヨーロッパ現代史の十字路』 高文研、2009年。ISBN 978-4-87498-420-8。

参考文献

  • T.Matsuzaki「空軍史に名を残す壮大なミッション 200万人の命を支えた空の懸け橋 ベルリン大空輸」、『エアパワー・グラフィックス季刊版』、イカロス出版1994年、 pp.36 - 41。

関連項目