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ボスニア・ヘルツェゴビナ

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ボスニア・ヘルツェゴビナ

Bosna i Hercegovina (ボスニア語、クロアチア語)
Босна и Херцеговина (セルビア語)
国の標語:なし

公用語 ボスニア語セルビア語クロアチア語
首都 サラエボ
最大の都市 サラエボ

面積

総計 51,129km2124位
水面積率 極僅か

人口

総計(2013年 3,531,000人(119位
人口密度 69人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2013年 264億[1]兌換マルク
GDP (MER)

合計(2013年 179億[1]ドル(110位
GDP (PPP)

合計(2013年371億[1]ドル(108位
1人あたり 9,563[1]ドル
独立
 - 日付
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国より
1992年3月1日[2]
通貨 兌換マルク (BAM)
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 BA / BIH
ccTLD .ba
国際電話番号 387

ボスニア・ヘルツェゴビナは、東ヨーロッパバルカン半島北西部に位置する共和制国家首都サラエボで、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦スルプスカ共和国のふたつの構成体からなる連邦国家でもある。

ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビアモンテネグロと接する。ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人クロアチア人セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。

国名

正式名称は、ボスニア語クロアチア語Bosna i Hercegovinaボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)、セルビア語Босна и Херцеговинаボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)。

公式の英語表記は、Bosnia and Herzegovina

日本語の表記は ボスニア・ヘルツェゴビナ、または ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

歴史

古代・中世

現在のボスニアヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族イリュリア人が住んでいたが、紀元前1世紀ローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世のころにはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、カトリック正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。

近世(オスマン帝国統治時代)

ファイル:Mostar Stari Most 2008 2.jpg
モスタルスタリ・モスト。ボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築のひとつ。

15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国のボスニア州English版(1580–1867、Bosnia Eyalet)やボスニア州English版(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。

近代(オーストリア=ハンガリー帝国統治時代)

19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島オーストリア・ハンガリー帝国ロシア帝国の勢力争いの場となる。1831年ボスニア蜂起English版(1831–1833)。1875年ヘルツェゴヴィナ蜂起English版が起きると、この反乱を口火としてモンテネグロ・オスマン戦争English版露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニアヘルツェゴビナサンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビア大セルビア主義や、汎スラヴ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約 によりオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。

第二次世界大戦

第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分はナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義者チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャをはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、第2回の会合はヤイツェで行われた。

社会主義時代

ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。

ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒(ムスリム)たちは多くの場面でセルビア人クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。

長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、サラエボはユーゴスラビアのロック・ポップスの一大拠点となった。一方、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

ファイル:Evstafiev-bosnia-cello.jpg
破壊された国立図書館でチェロを演奏するヴェドラン・スマイロヴィッチ1992年サラエボ)撮影、ミハイル・エフスタフィエフ

1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。1991年スロベニアクロアチアマケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアではクロアチア紛争が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んだ。

正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ(この3つの民族は互いに言語・文化の多くを同じくする一方、異なる宗教に属していた)。

1992年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。アリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領などの数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体はそれぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。

ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、ラドヴァン・カラジッチを大統領とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、マテ・ボバンの指導のもと、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、同国の軍としてクロアチア防衛評議会を設立し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。

2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。

1994年にはアメリカの主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結した。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後

デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態もたびたび起こっている。

2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮しSFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からはEUの部隊である欧州連合部隊 アルテア(EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。アルテアは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点で約2,200名となっている。

2013年10月1日から10月15日[3]に掛けて、独立後初の国勢調査が行われることになった(質問項目は主に誕生日、生まれた場所、職業、学歴など)。過去に2001年2011年にも実施しようとしたものの、民族間の対立に伴い実現しなかった。国勢調査の実施は今後のEU加盟や政策立案のために必要不可欠ではあるものの、民族構成によって政府の主要ポストや公務員の数を振り分ける[4]など国の根幹に関わるため、政治利用されるばかりか危うい民族バランスの均衡が崩れる可能性もはらんでいる。事実、この国勢調査を利用し、各勢力が自民族に有利に働くため、教会・モスクにいる聖職者を通じて働きかけと称した誘導を行うといった事態も見受けられた。また各民族が働きかけた不正行為も明らかになっており、ボシャニク人の数を不正に減らしたり、子供が27人がいると偽る行為、国外在住者に一時帰国を促すなどが見られた[5][6][7]。一方で、民族の色分けや少数民族差別(主にユダヤ人やロマ)を嫌った人々によるコスモポリタニズムの胎動がどこまで進行しているのかもポイントになっていた[6][7]。国勢調査の結果は11月10日まで行われる不正調査の報告と修正を経て、2014年1月に判明する予定だが、非公式速報値では、人口は370万~380万程度で、ボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%となった[8]

政治

国家元首

デイトン合意以降、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治は国際的監視の下に置かれている。3つの主要民族から1名ずつ選ばれた代表者によって構成される大統領評議会国家元首となる集団指導体制がとられている。大統領評議会の議長は8箇月ごとに輪番で交代し、議長は事実上のボスニア・ヘルツェゴビナの国家元首となる。

国際的監督

ボスニア・ヘルツェゴビナには、デイトン和平合意に基いて国際社会の監督機関として主要国の代表者からなる和平履行評議会(PIC)が設置され、同評議会の下に上級代表事務所(OHR)が置かれている(コソボにおける国際文民事務所(ICO)に相当)。上級代表事務所の長は上級代表(HR)であり、デイトン和平合意を実施するに際して必要と認められるときは、直接立法権、人事介入権を含む強力な内政介入権(「ボン・パワー」)を発動できる。

議会

ボスニア・ヘルツェゴビナ、および同国のそれぞれの構成体ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦およびスルプスカ共和国には、それぞれ独自の議会がおかれている。また、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する10のにも、それぞれ独自の議会が設けられている。

選挙

中央政府とボスニア連邦では、2000年に実施された国政選挙によって、紛争勃発後初めて社会民主党を中心とする非民族主義政権が誕生した。しかし、2002年10月の国政選挙では非民族主義政権が伸び悩み、大統領評議会員選挙では3名とも民族主義政党出身者が当選するなど、結果的に民族主義勢力が伸張した。現在、政党はすべて民族ごとに結成されており、それぞれが民族的利益を主張するため、国政運営上の障害となっている。

NATOおよびEUへの加盟構想

ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年5月22日に国連に加盟したが、その後の民族対立、内戦は悲惨であった。民族対立は完全に解消されたわけではないが、「欧州大西洋機構への統合」、即ち欧州連合(EU)及び北大西洋条約機構(NATO)加盟が民族を超えた共通の目的であり、ボスニア政府はこの目標に向かって国際社会の支援を得ながら諸改革に取り組んでいる。

2000年12月、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア連邦共和国との間で正式な外交関係を樹立した。また警察改革や公共放送法の採択で進展があったため、EUは2005年11月7日安定化・連合協定締結交渉の開始を承認した。なお、EU加盟は3民族の共通目標[9][7]とされており、ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗にもそれが現れている。

2016年2月、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はEUへの正式な加盟申請を行った。ベルギーブリュッセルにおいて、ボスニア・ヘルツェゴビナのドラガン・チョヴィッチ大統領評議会(幹部会)議長が、EU議長国オランダのクーンデルス外相に対して、申請の文書を手渡した。[10][11][12][13][14]

地方行政区分

1995年デイトン合意の定めにより、クロアチア人およびボシュニャク人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が主体のスルプスカ共和国という二つの構成体(Entitet)によって構成される。両者が権利を主張して合意に至らなかったブルチコについては、2000年の裁定によって独自の行政区「ブルチコ行政区」(Brčko distrikt)として、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の直轄地とされた。ブルチコは、憲法上はスルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の双方に属するとされているが、双方ともブルチコに対する実際の行政権は排除されており、事実上「第3の構成体」となっている。

ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦は、以下の10のから成っている[15]。それぞれの県の下には、最小の自治体であるオプシュティナが置かれている。

  1. ウナ=サナ県(Unsko-sanski kanton)
  2. ポサヴィナ県(Posavski kanton)
  3. トゥズラ県(Tuzlanski kanton)
  4. ゼニツァ=ドボイ県(Zeničko-dobojski kanton)
  5. ボスニア・ポドリニェ県(Bosansko-podrinjski kanton)
  6. 中央ボスニア県(Kanton Srednja Bosna)
  7. ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県(Hercegovačko-neretvanski kanton)
  8. 西ヘルツェゴビナ県(Zapadno-hercegovački kanton)
  9. サラエヴォ県(Kanton Sarajevo)
  10. 第十県(Kanton 10)

一方、スルプスカ共和国には県に相当する自治体はない。

オプシュティナはボスニア・ヘルツェゴビナで最小の自治体の単位であり、日本市町村イタリアコムーネドイツゲマインデなどにほぼ相当する。それぞれのオプシュティナは独自の議会と市長、閣僚を持っている。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には79、スルプスカ共和国には62のオプシュティナがある。

地理

ファイル:Bosnia and Herzegovina topographic map.svg
ボスニア・ヘルツェゴビナの地形

国土はおおよそ三角形の形をしている。歴史的に北中部はボスニア、南部はヘルツェゴビナと呼ばれてきた。

南部には海抜高度2,000mを超える山地が多い。アドリア海に沿ってディナル・アルプスDinaric Alps)が伸びており、国土の南西部は石灰岩によるカルスト地形で乾燥している。南西のネウム付近では、アドリア海に面して20キロメートル程の海岸線を持っているが、ネウム周辺に大きなはない。ボスニア・ヘルツェゴビナは、海に面した国としてはモナコに次いで世界で2番目に短い海岸線を持っている。

国土の南部、ヘルツェゴビナ地方をネレトヴァ川が貫き、クロアチア領を経てアドリア海へと注いでいる。また北部にはサヴァ川が流れ、クロアチアとの自然国境となっている。サヴァ川はその後セルビア領へと続き、ドナウ川に合流している。国土の北東にある、サヴァ川に面した町ブルチコは、ボスニア・ヘルツェゴビナの陸上交通とドナウ川の水上交通路を結ぶボスニア・ヘルツェゴビナ最大の港町である。サヴァ川の支流ボスナ川は、サラエボ近郊の山中から流れ出し、北に向けてゼニツァドボイボサンスキ・シャマツを経てサヴァ川に合流している。このほかにサヴァ川の支流としてウナ川ヴルバス川などがある。また、国土の東部にはドリナ川が流れ、セルビアとの国境となっている。

気候は、北部・ボスニアのサヴァ川流域を中心に大陸性気候、南部・ヘルツェゴビナのネレドバ川河口部が地中海性気候となっている。ボスニアは概して温暖だがは非常に寒く、一方のヘルツェゴビナ(特に石灰岩地帯)は10月~1月の冬場にかけてが多くが非常に暑い。

主要都市

ファイル:Bosnia and Hercegovina map.png
ボスニア・ヘルツェゴビナの地理
ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦
スルプスカ共和国
ブルチコ行政区

経済

2013年GDPは約179億ドルであり[1]日本鳥取県とほぼ同じ経済規模である[16]。同年の一人当たりのGDPは4,620ドルである[1]。経済的には、オスマン帝国の支配時代から農業に大きく依存する貧困な地域であり、ユーゴスラビアの成立後もマケドニア共和国に次ぐ経済後進共和国であった。穀物栽培に適当な土壌が多いことから、かつてはタバコザクロぶどうオリーブイチジクメロンなどの農作物が栽培され、主要なの飼育地でもあった。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の影響から、農耕地の多くが現在使用できなくなっている。

現在の主要産業は林業鉱業、繊維業などである。林業ではカヤブナなどが産出され、鉱業ではボスニア大理石・建築用の石材、及び石炭マンガン水銀など多様な鉱物が、ヘルツェゴビナではアスファルト褐炭がそれぞれ生産される。しかし、失業率は48%(2006年現在)とヨーロッパの中でもトップクラスであり、特に若年層の失業とインフォーマル経済による景気低迷が課題である。

1992年の独立後、ボスニア政府はユーゴスラビア・ディナールに代わる独自の通貨の導入を決定した。しかし、ボスニア内戦時にはボシュニャク人支配地域ではボスニア・ディナール、セルビア人支配地域ではユーゴスラビア・ディナール、クロアチア人支配地域ではクーナがそれぞれ使用され、統一通貨の実施は遅れた。1998年1月、ボスニア政府は新通貨として兌換マルクを発表した。

国民

民族

民族構成(ボスニア・ヘルツェゴビナ)
ボシュニャク人
  
48%
セルビア人
  
37%
クロアチア人
  
14%
ロマ
  
1%

住民はボシュニャク人が48%、クロアチア人が14%、セルビア人が37%などである。それぞれの民族の差異は主に宗教と歴史的経緯によるものであって、それ以外の言語・文化の面では3つの民族には大きな違いはない。それ以外の少数民族としては、ロマなどが住んでいる。

元々この地域には、ボシュニャク人セルビア人クロアチア人が概ね拮抗する割合で暮していた。その為、ユーゴスラビア連邦制を実施する際、他の5つの共和国は主要民族に基づいて樹立されたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナは地域を基礎として樹立された。

言語

言語は、公用語がボスニア語クロアチア語セルビア語である。それぞれボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の言語とされるが、これらの言語は19世紀から20世紀末にかけてセルビア・クロアチア語と呼ばれ、同一視されていた。多民族が混住するボスニア・ヘルツェゴビナでは、実際には、民族ごとに言語が異なることはなく、住民は民族の別に関わらず地域ごとの方言を話している。自らの話す言語に対する呼称の違いは、ほとんどの場合話者の民族自認に基づいている。セルビア語ボスニア語キリル文字ラテン文字クロアチア語ラテン文字を用いる。

宗教

ボシュニャク人の多くはイスラム教、クロアチア人の多くはキリスト教ローマ・カトリック)、セルビア人の多くはキリスト教(正教会)である。

メジュゴリエでは聖母の出現があったと主張されているが、バチカンはこれを公認しておらず、メジュゴリエの教会もローマ・カトリック教会に属するものではない。

文化

ボスニア・ヘルツェゴビナは比較的小さな国だが、オスマン帝国オーストリア=ハンガリー帝国などの大国の一部になった事や複数の民族が混同していることから、豊富で多大な文化を持っている。

トラヴニク出身のイヴォ・アンドリッチノーベル文学賞を受賞している。

世界遺産

ボスニア・ヘルツェゴビナ2つの世界遺産が登録されている。モスタルにあるスタリ・モスト(古い橋)の周辺と、ヴィシェグラードソコルル・メフメト・パシャ橋で、ともにボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築である。

祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日、2日 元日
5月1日、2日 メーデー

※ボスニア・ヘルツェゴビナでは国で統一した祝日の法律が存在しない。(イスラム教徒、セルビア人、クロアチア人の間で合意ができていないため。)

ギャラリー

関連項目

参考文献

  • 千田善 (2002年11月21日). なぜ戦争は終わらないか ユーゴ問題で民族・紛争・国際政治を考える. 日本: みすず書房. ISBN 4-622-07014-6. 
  • 久保慶一 (2003年10月10日). 引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題. 日本、東京: 有信堂高文社. ISBN 978-4-8420-5551-0. 
  • 佐原徹哉 (2008年3月20日). ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化. 日本、東京: 有志舎. ISBN 978-4-903426-12-9. 
  • 岩田昌征 (1999年8月20日). ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像―学者の冒険. 日本: 御茶の水書房. ISBN 978-4-275-01770-3. 

注・出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). . 2014閲覧.
  2. 公益財団法人国際金融情報センター - ボスニア・ヘルツェゴビナ (2012年5月15日)
  3. 本来は半年前に実施予定だったが、民族に関する質問方法をめぐって意見がまとまらなかった経緯がある。
  4. これまでは、独立前の1991年に旧ユーゴスラビア時代に行われた国勢調査を基に配分されていた。
  5. “ボスニア 内戦後初の国勢調査 対立再燃はらむ 民族構成の変化”. TOKYO Web (東京新聞). (2013年10月14日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2013101402000124.html . 2013閲覧. 
  6. 6.0 6.1 “ボスニア:紛争後初の国勢調査 「民族色分け」で揺れる”. 毎日.jp (毎日新聞). (2013年10月15日). http://mainichi.jp/select/news/20131016k0000m030010000c.html . 2013閲覧. 
  7. 7.0 7.1 7.2 “「民族色分け」に揺れるボスニア・ヘルツェゴビナ”. NHK ONLINE (日本放送協会). (2013年10月22日). http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2013/10/1022.html . 2013閲覧. 
  8. “EKSKLUZIVNO O REZULTATIMA POPISA: Bošnjaci 54%, Hrvati 11,5%, Srbi 32,5%, Ostali 2%!?”. doznajemo online magagine. (2013年10月30日). http://doznajemo.com/2013/10/30/httpwp-mep3cnyx-jbk-2/ . 2013閲覧. 
  9. 共通目標とされているが、これはボスニア内戦後、民族融和の進まない状況を考慮したEU側が働きかけたものである。
  10. 時事通信「ボスニア、EU加盟申請=独立宣言から24年」2016年2月15日
  11. NHK(日本放送協会)NEWS WEB「ボスニア・ヘルツェゴビナがEUへ加盟申請」2016年2月15日
  12. 中日新聞「ボスニア、EU加盟申請 旧ユーゴスラビア」2016年2月15日
  13. ロイター「EUがボスニアの加盟申請受理、長い道のりに一歩」2016年9月21日
  14. スプートニク日本「ボスニア・ヘルツェゴビナがEUへの加盟申請を提出」2016年2月15日
  15. ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦ではボスニア語、クロアチア語、セルビア語が憲法の定める公用語となっている。上記県名はボスニア語で書かれている。セルビア語での名称はボスニア語と同一であり、キリル文字を使って書かれる。また、クロアチア語での名称は「県」を「Kanton」ではなく「županija」とするなど、これとは若干異なっている
  16. 内閣府による県民経済計算 (PDF)

外部リンク

政府
日本政府
観光


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座標: 東経18度北緯44度 東経18度44; 18