アフリカーナー

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アフリカーナー
Afrikaner
総人口
約340万人
居住地域
南アフリカ共和国の旗 南アフリカ 300万人
イギリスの旗 イギリス 100,000人[1]
ニュージーランドの旗 ニュージーランド 90,000人
ナミビアの旗 ナミビア 80,000人 - 183,000人 [2]
オーストラリアの旗 オーストラリア 40,000人 - 45,000人 [3]
オランダの旗 オランダ 25,000人[4]
カナダの旗 カナダ 15,000人
ベルギーの旗 ベルギー 12,500人
アルゼンチンの旗 アルゼンチン 11,879人[5]
ザンビアの旗 ザンビア 48,000人 [6]
言語
アフリカーンス英語
宗教
プロテスタントオランダ改革派教会カルヴァン派)、カトリック
関連する民族
オランダ人アングロアフリカン

アフリカーナーアフリカーンス語: Afrikaner)は、アフリカ南部に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスユグノードイツプロテスタント教徒など、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカに入植した人々が合流して形成された民族集団である。現在の南アフリカ共和国ナミビアに多く住んでいる。

言語はオランダ語を基礎にしてフランス語マレー語、現地の言語等を融合して形成されたゲルマン系言語であるアフリカーンス語母語とする。かつてはブール人(Boer)と呼ばれた(「ブール」〔Boer〕とはオランダ語およびアフリカーンス語で農民の意。"Boer"の英語読みに基づいてボーア人とも表記される)。主な宗教は改革派(カルヴァン派)に属するオランダ改革派教会である。

アパルトヘイト時代の厳密な定義では、オランダ系(同化したユグノーなども含まれる)であること、アフリカーンス語を第一言語とすること、オランダ改革派教会の信徒であること、この三つをみたすことが「アフリカーナー」の条件であった。

歴史

オランダ植民地時代(1652年 - 1795年)

17世紀半ばの1652年にオランダ人ヤン・ファン・リーベックらが補給港建設の為にアフリカ南部沿岸部へ入植し、ケープタウンを建設、オランダ東インド会社(VOC)によるケープ植民地が成立した。彼らがアフリカーナーの源流といえる。ケープ植民地総督シモン・ファン・デル・ステル1679年ステレンボッシュ市を築き、後のアフリカーナーの内陸部進出の拠点となった。このオランダ入植者の集団にはカトリックが主流のフランス王国で公民扱いされていなかった新教徒のユグノーなど、他のヨーロッパ諸国からのプロテスタント移民も合流する形で流入し、後に民族集団としてアフリカーナー(ブール人)と呼ばれることになる人々の前身が形成されていった。以上の理由より、アフリカーナーの出身国にはオランダ、フランス、ドイツの他、ベルギースカンディナヴィア諸国がある。この中でもフランス出身のユグノーは、現在もケープ地方に伝わるワイン南アフリカ共和国のワイン)製造の技術をもたらした[7]。また、こうして形成されたオランダ系集団は、インドネシアマレーシアインドスリランカモザンビークマダガスカルなどの出身のアジア系、アフリカ系の人々を奴隷として使役し、先住民サン人(当時の呼称ではブッシュマン)から家畜と土地を奪って従僕とした[8]

民族形成期(1795年 - 1910年)

19世紀のアフリカーナーの歴史はアフリカに勢力を伸ばしたイギリスとの対立が主要な矛盾となった。フランス革命戦争中の1795年にオランダ領だったケープ植民地がイギリスに占領され、1799年12月31日にオランダ東インド会社がオランダ本国を占領したフランスによって解散させられると、ケープ植民地で農業に従事していた植民者たちは帰る故国を失ってしまった[9]。また、イギリスによる占領以後、イギリスからの移民がアフリカ南部に流入し、とりわけ1820年にはイギリス政府からの補助金を得たイギリス人が多数入植した[10]。更に、イギリスによるケープ領有後、イギリス国内のキリスト教人道主義者による奴隷制度廃止運動の成果もあって、イギリスは1828年に第50法令でブッシュマンを始めとするカラードに白人と対等の権利を与え、1833年には奴隷廃止法を可決し、1834年12月1日にケープ植民地内の奴隷は解放された[11]。イギリス統治下で英語公用語となると、アフリカーナーは英語に不得手だったためにイギリス当局から二級市民扱いされた。

イギリスによる奴隷解放によって無償の労働力を奪われたアフリカーナーは、イギリス支配を嫌って1830年代から1840年代にかけてグレート・トレックと呼ばれる沿岸部から内陸部への再入植を行ない、ンデベレ人ズールー人などのバントゥー系民族の諸王国と戦いながら再入植先でナタール共和国トランスヴァール共和国1852年建国)、オレンジ自由国1854年建国)などのアフリカーナー共和国を建国した[12]。1835年から1840年にかけてグレート・トレックに旅立ったアフリカーナー6,000人は主にケープ植民地の中でも貧しい階層に属する小農民であり、カラード(混血者)の従僕約5,000人を伴った彼等は、少数ながらも1838年12月16日血の川の戦いズールー王国ディンガネ王を打ち破っている[13]オランダ語で「アフリカ人」を意味していた「アフリカーナー」と言う言葉は、18世紀には黒人奴隷を、19世紀前半にはイギリス人を含む白人一般を意味していたが、1870年代より進んだ『聖書』のアフリカーンス語訳を始めとして、文法書や雑誌などのアフリカーンス語の書物が出版されたことを経て、次第にケープ植民地に入植したアフリカーンス語を話す白人を指す言葉となっていった[14]。また、ポール・クルーガーを始めとするアフリカーナーはこの19世紀後半の時期に、オランダ改革派神学者アブラハム・カイパー新カルヴァン主義の「公共の恵み」説を発達させて、選民を自任し、奴隷制を神学的に肯定する理論を得た[15]

第二次ブール戦争(1899年-1902年)の最中、イギリス軍によって強制収容所に送られたアフリカーナーの女性と子供。

アフリカーナーが建国したトランスヴァール共和国とオレンジ自由国は二次に亘るブール戦争でイギリスと交戦し、1880年から1881年にかけての第一次ブール戦争ではイギリスを退けたが、1899年から1902年にかけての第二次ブール戦争の敗北で両国ともイギリスの支配下に置かれた。第二次ブール戦争の最中に、イギリスのホレイショ・ハーバート・キッチナー将軍はゲリラ戦術で抵抗するアフリカーナー12万人を強制収容所に送った。戦時中にイギリスが建設したアフリカーナー強制収容所は近代世界初の強制収容所であり、また、第二次ブール戦争で死亡したアフリカーナー34,000人の内、約65%が16歳以下の少年少女であった[16]。『マンチェスター・ガーディアン』紙特派員として第二次ブール戦争の取材に当たったイギリスのジョン・アトキンソン・ホブソンはこの経験から『帝国主義論』(1902年)を著し、ウラジーミル・レーニンの『資本主義の最高の段階としての帝国主義』(1917年)に理論的影響を与えた[17]。このブール戦争以後、アフリカーナーは反英感情を尖鋭化させていった[16]

南アフリカ共和国の白人(2009年の推計で国民の9.1%を占めている)は、イギリス系が19世紀末から現在に至るまでダイヤモンド鉱山経営によって経済面で主導的立場を担ってきたのに対し、アフリカーナーは基本的に農民として暮らす人が多かった。ドリス・レッシングの『草は歌っている』にて用いられる「プア・ホワイト」という言葉の使われ方は興味深い。当時の南ローデシア(現ジンバブエ)では、どれほど貧しくてもイギリス人のことは「プア・ホワイト」とは呼ばず、この語はあくまでアフリカーナーを指したという。これは、同じヨーロッパ系植民者の間にも差別感情が根強くあったことを示している。

南アフリカ連邦期(1910年-1961年)

1910年南アフリカ連邦成立後、アフリカーナーは政治面で主導的立場を次第に奪われたが、連邦時代56年間の首相7人の内6人はアフリカーナー出身であった[16]。南アフリカ連邦成立後、アフリカーナー社会はイギリスと協調してアフリカーナーの地位向上を図る「現実派」と、アフリカーナー中心の南アフリカの実現を図る「理想派」に分裂し、「理想派」は1913年に結成された国民党1918年に結成されたアフリカーナー兄弟同盟を中心にアフリカーナー・ナショナリズムを発達させ[18]、グレート・トレック中の血の川の戦いから100周年に当たる1938年には、グレート・トレックを再現する儀式として「オックス・トレック」が行われ、アフリカーナーとしてのアイデンティティが強化された[19]。また、1925年にはアフリカーンス語がそれまで英語と共に公用語だったオランダ語に替わって、南アフリカ連邦の公用語となっている[20]。アフリカーナー・ナショナリズムの担い手は、イギリス系白人と対抗関係の中で、アフリカーンス語を話す白人の文化的、経済的後進性を自覚した聖職者教師知識人実業家などであった[21]

南アフリカ連邦は第二次世界大戦では連合国側で参戦し、イギリス軍と共にフランス領マダガスカルを占領したり(マダガスカルの戦い)、北アフリカ戦線などで戦った。戦後の1948年にアフリカーナーを支持母体とする国民党が政権を握り、それ以後、名目的な「分離発展」をうたいながら、国際連合が「人類に対する犯罪」と呼んだアパルトヘイト(「分離」という意味のアフリカーンス語)制度を強力に推進していった。それは、経済面でイギリス系に対して劣位に置かれたアフリカーナーが政治、警察、軍隊といった公権力を奪回することでもあった。多数派であった黒人諸民族への恐怖をイギリス系と共通の利害として抱えていたアフリカーナー「理想派」も、イギリス系白人と協調してキリスト教西洋文明を黒人の民族解放運動共産主義から防衛することを選んだ[22]。1958年に連邦首相に就任したフェルウールトは熱烈なアフリカーナー・ナショナリストであると同時に共和主義者であり[23]、1961年に南アフリカはイギリス連邦から離脱し、イギリス国王立憲君主に戴く英連邦王国の一国から、共和制を採用する南アフリカ共和国となった。

南アフリカ共和国成立以後(1961年 - )

南アフリカ共和国のアパルトヘイト体制はイギリス人や他のヨーロッパ系白人をも最優遇する制度であり、少数民族である白人政権は、国外からの白人移民を奨励し、ポルトガル人などが流入した。他の人種は当初は参政権もなく、混血カラードインド系黒人の順に、職業、教育、結婚、居住などあらゆる面で法の下の不平等によって搾取された。最底辺に位置づけられた黒人は最後まで参政権もなく、土地条件の良くないバントゥースタン諸国に縛り付けられたり、或いは生まれた土地から強制的に立ち退きを余儀なくされたりした。脱植民地化が進む時代に逆行するアパルトヘイト体制は国際社会から問題視されていたが、この制度によって経済的に利益を得たのはこの時代に生きた南アフリカの白人だけではなく、豊かな鉱山資源を安価な黒人労働力で採掘できた日本を含む西側諸国資本と、それと結びついた関連企業も含まれていた。

政治的に白人至上主義を掲げ、それを実行した集団ではあるが、もちろん個々人には様々な考えをもつ人がいた。詩人/画家のブライテン・ブライテンバッハや作家のアンドレ・ブリンク弁護士にして南アフリカ共産党中央委員のブラム・フィッシャーのように、アパルトヘイトに真向から反対する人も少数ながらいた。ブライテンバッハやフィッシャーなどは国家反逆罪で何年も獄中にあった。また、ユージン・テレブランシュのようにアフリカーナー抵抗運動を率いてアパルトヘイト死守を掲げた人物もいた。アフリカーナー抵抗運動などの極右グループは「ブール人」だけの国をめざし、準軍事組織(私兵)として現在も活動を続けている。

近代の著名なアフリカーナー

脚註

参考文献

関連項目