ボーローポイント

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テンプレート:Infobox Military Structure

ボーローポイント(ボーロー飛行場)は、第二次世界大戦中に沖縄本島西海岸、東シナ海に面した読谷村に建設されたアメリカ軍の施設。第二次世界大戦の終結後、1946年には飛行場としての機能は無くなり、アメリカ陸軍が管理する「FAC6021 ボーローポイント射撃場」の名称で射撃場や通信所などとして使われた。1972年時点での面積は4,816,000㎡[1]である。1977年までにその大部分が返還され、現在は農地やリゾートホテルなどがある。

歴史

ボーロー飛行場建設

ボーロー飛行場が建設された読谷村は1945年4月1日の沖縄戦において、アメリカ軍が最初の上陸地に選んだ場所の一つである。上陸したアメリカ軍は読谷村一帯をすぐさま占領下に置き、ボーロー飛行場を建設した。7月には第8空軍が配備され、B-29スーパーフォートレス爆撃機による日本本土爆撃の出撃拠点となるよう計画が進められた。 しかし8月に日本が降伏したため、計画された日本本土爆撃の作戦拠点として使われることは無かった。しかし、8月20日から翌年1946年1月5日までの間、第5空軍隷下の第7、第8戦術輸送飛行隊(第2戦術輸送航空群)がC-47スカイトレイン輸送機による輸送任務を行った。

ファイル:Okinawa airfields 1945.jpg
沖縄戦でアメリカ軍が運用した飛行場

ボーローポイント射撃場

その後、輸送機部隊は横田基地に移動となり、ボーロー飛行場は終戦によって余剰となった軍用品の集積所として使われた。戦車やトラック、重機、その他さまざまな軍用品が保管されていたが、これらの集積物の多くは最終的には朝鮮戦争の間に日本と韓国に送られた。 戦後、ボーロー飛行場は「ボーローポイント射撃場」の名称でアメリカ陸軍の管理施設となり、主に射撃演習場として使われた。また、区域北側の残波岬には1959年からMIM-14ナイキ・ハーキュリーズ地対空ミサイルが配備された[2]

返還後の跡地利用

1972年の本土復帰を経て、1974年から1977年の間に83%の面積が返還された。この時に区域東側の通信施設が残され瀬名波通信施設へと名称が変更になったが、2006年にマイクロウェーブ塔を残して全面返還となった[3]。 現在はサトウキビや花き等の農地の他、リゾートホテル(ホテル日航アリビラ、Royal Hotel 沖縄残波岬)、NHK大河ドラマ『琉球の風』オープンセットを活用したテーマパーク「琉球体験王国 むら咲むら」などの観光施設が建設された。

関連項目

参考文献

テンプレート:Air Force Historical Research Agency

  • Maurer, Maurer (1983). Air Force Combat Units Of World War II. Maxwell AFB, Alabama: Office of Air Force History.  ISBN 0-89201-092-4{{#invoke:check isxn|check_isbn|0-89201-092-4|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}。
  • 読谷バーチャル平和資料館「ボーローポイント射撃場」
  • 『沖縄の米軍基地関係資料』沖縄県総務部、1972年。

脚注

  1. 『沖縄の米軍基地関係資料』(沖縄県総務部、1972年)14頁
  2. 読谷バーチャル平和資料館”. 読谷村. . 2017閲覧.
  3. 沖縄県企画調整課 跡地利用事例『瀬名波通信施設』”. 沖縄県企画部企画調整課. . 2017閲覧.