ロシア革命

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Russkaya revolyutsiya; Russian Revolution

帝政時代末期のロシアに起った人民革命。「血の日曜日」事件を契機に始った 1905年の革命を第1次革命,帝政を打倒し,社会主義政権を樹立するにいたった 17年の二月革命十月革命を第2次革命と称すことが多い。

19世紀中葉クリミア戦争に敗れたロシアは,農奴解放を中心とする上からの「改革」により国の資本主義化をはかったが,急激な工業化は種々の矛盾を生み,また国民の圧倒的部分を占める農民も雇役制度のもとで地主への新たな従属関係に苦しんだ。このような状況のもとでナロードニキらの革命運動も激化し,やがてマルクス主義者らの活動も始った。 20世紀は 1890年代の空前の工業発展に対する反動=恐慌で幕をあけた。すでに帝国主義段階に達していたロシア資本主義の矛盾は,日露戦争中の 1905年に第1次革命として爆発する。首都ペテルブルグの騒擾は全国に拡大し,5月イワノボ=ボズネセンスクのゼネストでは最初の労働者代表ソビエトが組織され,6月には黒海艦隊の戦艦『ポチョムキン』号の反乱も起った。他方政府は日本との講和を急ぐ一方,8月ブルイギン国会設置令を発布して国会の招集を約したが,国民の不満は収まらず,10月には全国的規模のゼネストが起るにいたった。ここにいたって政府はより大幅な譲歩を決意し,10月 30日「十月宣言」を発布した。革命はその後も高揚を続けるが,十月宣言を歓迎するブルジョアジーが戦線を離れたため,やがて,12月のモスクワ武装蜂起の敗北を最後に退潮していった。 12年頃から再び高揚しはじめた革命運動は,第1次世界大戦勃発後の愛国的熱狂によって一時下火になったが,長引く戦争は国民生活を破壊し,ツァーリズムのもつ矛盾を一挙に爆発させた。

17年3月首都に革命が起り,300年にわたるロマノフ朝支配は終った (旧暦では2月,それゆえ二月革命という) 。政権を握ったのは自由主義的ブルジョアジーを中心とする臨時政府であったが,労働者,兵士らはおもにメンシェビキと社会革命党 (エス・エル) が指導するソビエトに結集し,臨時政府を条件付きで支持した。

4月初め帰国したレーニンは「四月テーゼ」を打出し,臨時政府打倒,全権力のソビエトによる奪取を呼びかけた。臨時政府打倒を主張する革命派ソビエトは漸次勢力を増し,7月には武装デモを敢行。これは政府の弾圧を受けて失敗し,一時レーニンらは地下に潜伏した。しかし9月 L.G.コルニーロフ将軍の反革命反乱が失敗するや,各地のソビエトは急速に革命化し,11月6~7日ボルシェビキは政権を奪取,レーニンを首班とする労農政府を組織した (旧暦では 10月 24~25日,それゆえ十月革命という) 。世界最初の社会主義政権の誕生である。