一心寺

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一心寺
所在地 〒543-0062大阪府大阪市天王寺区逢阪二丁目8番69号
位置 北緯34度39分10.9秒
東経135度30分39.1秒
山号 坂松山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 文治元年(1185年
開基 法然(開山)
正式名 坂松山高岳院一心寺
別称 骨仏の寺
札所等 法然上人二十五霊跡 第七番
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一心寺(いっしんじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗であり、正式名称は坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、緑の多い広い境内を有している。法然上人二十五霊跡第七番札所。

沿革

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一心寺 山門と仁王像

1185年文治元年)の春、四天王寺別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」と称して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。1596年慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。

家康は、境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の寺額を贈った。大坂冬の陣・大坂夏の陣では徳川家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。この寺には大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった[1]。今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でている。

小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな山門も有名であったが、大阪大空襲ですべて焼失した。戦後伽藍の再建と10年毎の骨仏作りが徐々に進んだが、特に建築家でもある現長老(高口恭行)の作った鉄とコンクリートの斬新な山門1997年平成9年)完成。彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像や、日本画家・秋野不矩による天女像がある)や、庫裏・信徒会館である日想殿(1977年昭和52年)完成)など現代建築による施設も見所の一つである。

骨仏

盆の間だけの施餓鬼法要が年中無休でできる寺として知られ、また宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。1851年嘉永4年)に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、1887年明治20年)以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。

太平洋戦争期の大空襲で戦前の分は焼失したが、戦後1947年(昭和22年)から骨仏作りを再開(この際、空襲で焼失した戦前分の骨仏の残骸をかきあつめて第七期骨仏として完成)、現在も年中無休で年2万ほどの法要と納骨を受け入れ、10年分をあわせて骨仏が作られている。現在は第七期から第十三期(2007年(平成19年)開眼。1997年(平成9年)から2006年(平成18年)末まで)の骨仏が安置されている。

宇野浩二の小説にもしばしば骨仏が描かれている(『思ひ草』など参照)。

第七番御詠歌

阿弥陀仏というよりほかは津のくにの なにはのこともあしかりぬべし

劇場

隣接する東側、茶臼山の裏には「一心寺シアター倶楽」(事務局長:秋山シュン太郎)という劇場建築を持っており、小劇場演劇コンテンポラリーダンス落語などの舞台芸術を提供している。

南側にある「南会所」では、毎月3日間「一心寺門前浪曲寄席」が、毎月21日には「二十一日寄席」が、それぞれ開かれる。

ラジオ番組

ちょっといい話ABCラジオ、日曜8:00 - 8:10)

所在地

  • 〒543-0062 大阪府大阪市天王寺区逢阪二丁目8番69号

交通

参考

  • 「浪華一心寺史抄」
  • 「日想観図像縁起」

脚注

  1. 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」(小林計一郎編『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』KADOKAWA、2015年)155頁

外部リンク


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