上田重安

提供: miniwiki
移動先:案内検索
上田重安
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 永禄6年(1563年
死没 慶安3年5月1日1650年5月30日
主君 丹羽長秀長重豊臣秀吉秀頼
浅野幸長
紀州藩士→芸州藩
氏族 上田氏清和源氏 小笠原氏流

上田 重安(うえだ しげやす)、または上田 宗箇(うえだ そうこ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・茶人・造園家。通称は佐太郎、剃髪後に宗箇と名乗る。茶道上田宗箇流の流祖で、茶人・造園家として現在も残る業績を残した。また武将としても数々の戦で一番槍の功を立てた。

生涯

永禄6年(1563年)、尾張国愛知郡星崎(愛知県名古屋市南区星崎)に丹羽長秀の家臣・上田重元の子として生まれた。10歳の時に父・重元が死去すると、祖父・重氏に育てられた。

丹羽家、豊臣家直臣

元服後は丹羽氏の家臣として各地を転戦し、天正10年(1582年)6月の本能寺の変後の一連の騒乱では明智光秀への関与を疑われた津田信澄の首を挙げ、翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に越前国に1万石を与えられて大名となる。

豊臣秀吉によって長秀の子・丹羽長重が減封されると、秀吉の家臣となり、天正15年(1587年)の九州平定、同18年(1590年)の小田原征伐文禄元年(1592年)には朝鮮出兵に従軍。また、武功を重ねる傍ら古田重然に茶道を学ぶ。

杉原家次の娘で、秀吉の正室・寧々(高台院)の従姉妹にあたる、とくを正室に迎える。文禄3年7月29日1594年9月13日)に豊臣姓を賜り、従五位下・主水正に叙任される[1][2](『寛政重修諸家譜』は主水正とするが口宣案に主水助とある。しかしこれは誤りである。主水司には四等官のスケがそもそも存在しない[3]ため「主水助」という官職はありえない)。

蜂須賀家客将、浅野家直臣

しかし、慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗戦し、領地を没収されて摂津国に流遇し剃髪した。その後、蜂須賀家政に強く請われ、その客将となり、阿波国徳島に住んだ。この間に家政の依頼で徳島城表御殿庭園を作庭している。

その後、姻戚であった紀州藩主・浅野幸長の家臣となることで1万石を与えられ、徳川家康の許しも得て、還俗する。和歌山で浅野家に仕えている間に和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園を作庭している。大坂の陣にも徳川方として出陣し、樫井の戦いでは敵方の大将の1人である塙直之の首級を挙げるなど戦功を立て将軍徳川秀忠及び大御所家康から激賞された。元和5年(1619年)、浅野氏が和歌山藩から安芸広島藩に移封されると重安は佐伯郡小方村(現大竹市小方)に1万2,000石を与えられたため、江戸にも滞在したが国許にも下った。

以後は、茶道と造園を趣味として生活を送り、浅野家の別邸縮景園を作庭した他、請われて名古屋城二の丸庭園の作庭も担当した。また、1624年(寛永元年)2月に、浅野家家臣の亀田高綱が上田と衝突して浅野家から退去している[4]

晩年

数々の戦功により西軍に就いた罪を許された重安は徳川将軍家より出仕を促されたが、断る代わりに嫡男・重秀徳川家に出仕させた。重秀は近江野洲郡に知行を与えられ服部村に服部陣屋(服部城)を構えた。子孫は代々相続し、上級旗本として江戸幕府に仕えた。

次男・重政が広島藩浅野家の家老職を相続し、上田家は藩士として続いた。三男・可勝細川氏に仕えた。

慶安3年(1650年)5月30日、88歳で没した。

墓所

広島県廿日市市沖塩屋に墓所があり、松の木が1本植えられている。遺体は佐伯郡大野村(現廿日市市大野)の串山で荼毘に付せられた後、遺骨を砕いて大野瀬戸(広島湾厳島と本土の間の狭い海峡)に流し、遺髪を浜辺の松林に埋めて塚とした。そこに松を1本植えたものが墓所であり、墓石はない。初代の松は枯死したが、2004年(平成16年)に2代目が植えられた。

作品

脚注

  1. 村川浩平『日本近世武家政権論』ISBN 4823105281、37p
  2. 熊倉功夫 『小堀遠州茶友録』 中公文庫 [く-18-1] ISBN 978-4122049536、49p
  3. 和田英松所功 校訂『官職要解』 講談社学術文庫 621 ISBN 4061586211、127p
  4. 福田千鶴 『御家騒動 大名家を揺るがした権力闘争中公新書 1788 ISBN 4121017889、125p

関連項目

外部リンク