不破関

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不破関のおよその位置を示した地図
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壬申の乱の時に大海人皇子が兜をかけたとされる兜掛石

不破関(ふわのせき)は、古代東山道関所の一つで、現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった。「不破の道」と呼ばれたこの地の東山道に、壬申の乱の翌年(673年)に関所として設置された。

東海道鈴鹿関北陸道愛発関(後には逢坂関)とともに三関と呼ばれ、壬申の乱の後からおよそ100年の間、治安維持のため畿内と東国との間の通行を厳重に監視した。三関から東は東国または関東と呼ばれた。

歴史

  • 672年に発生した壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)の命により美濃国多品治によって「不破の道」が閉鎖される。この近辺が激戦地となっている。
  • 673年天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を守る為に、不破関鈴鹿関愛発関の3つの関所が設置される。
  • 701年大宝元年)、大宝律令によって正式に定められる。
  • 789年(延暦8年)、天皇・太上天皇の死や病などを契機として三関が廃止される。しかし非常時に関の封鎖を命じる「固関」(こげん)の儀式が江戸時代まで続いた。徳川幕府により東山道中山道として整備されたころと推測される。その以前から関所の機能はなくなっていた。

現在の状況

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不破関資料館
  • 現在の岐阜県不破郡関ケ原町松尾が不破関の所在地である。岐阜県と関ケ原町の指定史跡[1][2]
  • 発掘の結果、藤古川揖斐川の支流である牧田川の支流の一つ)の左岸の自然の要害を利用した関所であり、北、東、南には土塁が設けられ、広さ12万m2に及ぶことが判明している。
  • 敷地の一角には不破関資料館が設置され、発掘された和同開珎や陶器が展示されている。

その他

  • 古くから和歌俳句などにも歌われている。
    • 「人住まぬ 不破の関屋の 板庇 あれにし後は ただ秋の風」(藤原良経
    • 「秋風や 藪の畠も 不破の関」(松尾芭蕉

などがある。

脚注

  1. 不破の関跡”. 岐阜市. . 2012閲覧.
  2. 関ケ原町の文化財”. 関ケ原町. . 2012閲覧.

関連項目

外部リンク

座標: 東経136度27分30秒北緯35.358969度 東経136.458461度35.358969; 136.458461