中選挙区制

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中選挙区制(ちゅうせんきょくせい)は、一つの選挙区から複数人(おおむね3人から5人)を選出する選挙制度であり、1994年に廃止されるまで衆議院では大選挙区制非移譲式単記制が採用されていた。なお、「中選挙区制」とは日本独自の呼称である(後述)。

概説

一般に次の2つの時期に採用された日本の衆議院議員総選挙(以下「総選挙」)の大選挙区制非移譲式単記制の選挙制度が中選挙区制と呼ばれている。

  1. 1928年(昭和3年)の第16回総選挙から1942年(昭和17年)の第21回総選挙まで
  2. 1947年(昭和22年)の第23回総選挙から1993年(平成5年)の第40回総選挙まで

戦前の中選挙区制度では、厳格に定数が3から5と決まっており、1人区は存在しなかった。戦後の中選挙区制時代の総選挙では、議員定数是正による増減によって、2人区や6人区が少数の選挙区で存在していた。また暫定措置で奄美群島が本土復帰した際に1人区(事実上の小選挙区制)として奄美群島選挙区がおかれていた。しかし、大選挙区制と小選挙区制の中間の制度という意味から「中選挙区制」と呼ばれていた。

同じく複数の候補を制限連記によって選出する制度が採用された時期のうち、

  1. 1902年(明治35年)の第7回総選挙から1917年(大正6年)の第13回総選挙まで
  2. 1946年(昭和21年)の第22回総選挙

はともに大選挙区制と呼ばれ、中選挙区とはよばれていない。戦前の大選挙区制では6人以上の選挙区が29区も存在していた。また、

  1. 1920年(大正9年)の第14回総選挙1924年(大正13年)の第15回総選挙

においても単記投票の2人区および3人区が存在したが、このときの制度は小選挙区制と呼ばれ、中選挙区とはよばれていない。

導入および廃止の経緯

導入

第7回総選挙から行われた大選挙区非移譲式単記制は伊藤博文によって推進され、第2次山県内閣のときに成立した。第16回総選挙からの中選挙区単記制は、いわゆる普通選挙法によって制定された。(1)前者・後者ともに 林田亀太郎を考案者とする説がある。この説は、小選挙区制は多数代表のみの選出が行われることが問題であって、単記移譲式投票は性能が良いが複雑であり、しかも名簿式は無所属候補を排除するゆえに、さしあたってこの制度の導入を主張した[1]。(2)前者を一木喜徳郎考案に山県有朋が意図を乗せたとする説がある。一木は(1)同様に比例代表の趣旨を達すると説明したが[2]、山県の意図は台頭しつつあった政党勢力(民党)分断による藩閥勢力の超然内閣維持にあった[3]

廃止

戦前の大選挙区非移譲式単記制を廃止したのは、原敬であった。

戦後の中選挙区制(大選挙区非移譲式単記制)に関しては、1990年の第8次選挙制度審議会にて、政党中心主義をとなえ、小選挙区比例代表並立制の制定を当時の海部内閣に答申した[4]。1980年代後半から1990年代前半の政治改革論議において、中選挙区制では多数党となるために同じ選挙区で「同士討ち」をしなければならないため、金権選挙が横行する元凶であるなどと批判された。1993年第40回総選挙において選挙制度の改革が争点となり、自由民主党が下野し(55年体制の崩壊)、その後衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入された。

なお、参議院の選挙区選挙では2010年代現在でも一人区を除けば中選挙区制(大選挙区非移譲式単記制)で行われており、日本の国政選挙で完全に廃止されたわけでない。

復活論

ファイル:Two Major Parties in House of Representatives of Japan.png
衆議院議員総選挙における主要2政党の議席占有率(棒グラフ)と得票率(折れ線グラフ
1996年の総選挙から小選挙区比例代表並立制が導入され、その結果、第一党の議席占有率は得票率をはるかに超えることとなった。自民党は毎回、比例代表で3割弱から4割弱の票しか獲得できていないものの、2005年2012年2014年の総選挙では6割を超える議席を獲得している。また、2009年の総選挙では、民主党が6割超の議席を獲得して第1党となったが、比例代表における得票率は4割をわずかに超える程度にすぎなかった。

しかし、一人のみ当選する小選挙区制度では、一定以上の得票率で著しい議席占有率を得ることで大政党に偏って有利になることに加え、増加傾向にある無党派層の動向によって議席が極端に振れてしまうことで、長期的視点に立った政治ができない、といった批判が次第に高まることになった。実際に第44回総選挙2005年)、第45回総選挙2009年)、第46回総選挙2012年)、第47回総選挙2014年)、第48回総選挙2017年)と5回連続で、一つの政党が総得票率50パーセント未満の状態で小選挙区議席数の3分の2以上を占める結果となっている(右グラフも参照)。

こうした状況を踏まえ、2011年渡部恒三加藤紘一を世話人とする「衆院選挙制度の抜本改革を目指す議員連盟」が発足した。同連盟は中選挙区制(大選挙区非移譲式単記制)を復活を目指すものとされ[5]、この議員連盟の会合において、河野洋平衆議院議長は、かつて自民党総裁時代に野党党首として小選挙区比例代表並立制の導入に協力したことについて「率直に不明をわびる気持ちだ。状況認識が正しくなかった」と発言した[6]。また、小選挙区比例代表並立制は妥協の産物であり、細川護熙と同様[7]、当時から中選挙区制限連記制を支持していたという[8]小選挙区比例代表並立制の採決の際の造反議員を処分した日本社会党(現・社会民主党)は、2006年に処分された議員の名誉回復をおこなった。

このほか、新党改革次世代の党などの小規模な政党が中選挙区非移譲式制限連記制の復活を主張している[9]園田博之武村正義野中広務は、政党内での共倒れを防ぎ、政党同士が政権を争える案として、2名の制限連記式の中選挙区制の導入を主張している[10][11]公明党は、自自公連立の際に中選挙区制復活論を主張したが[12][13]、政権下野後は比例代表を重視した選挙制度を主張した[14][15]

東京都知事で元参議院議員舛添要一がツイートで①小選挙区制は危険すぎる[16]②一人しか当選できないので、政策はそっちのけで風に乗る[17]③自由な言論・政治活動は蝕まれている[18]と指摘、 中選挙区制復活を考えた。

政治的帰結

戦後長らく続いた中選挙区制では、約130の選挙区から500人を超える議員を選出するため、単独過半数の獲得を狙う政党は1選挙区あたり平均2人以上の候補者を擁立する必要がある。しかし、単記非移譲式投票で実施されたため、同一政党の候補者の同士討ちを避けられない。さらに、政権与党であった自民党は、高度に組織化された「中央集権」政党ではなく、「地方主権」的色彩が強かったため、支持者からの票を候補者間で均等に票割りすることは困難である。このため、同党の公認候補が選挙区に2人以上いると、特定の候補者のみに票が集中してしまうことがしばしばあった(ただし、大選挙区非移譲式完全連記制であれば同士討ちを解消することができる。小選挙区制同様に多数代表制に分類されるが、有権者に選択の余地を広げて一つの選挙区から複数代表を送ることができる点が小選挙区制に勝る)。

これについて、J・マーク・ラムザイヤーフランシス・ローゼンブルースは、中選挙区制がもたらす政治的帰結を論じている[19]。第1に、自民党候補者は党の看板を掲げるだけでは自党候補者との得票争いに勝てないので、自前の後援会組織を育成し、地元選挙民へのサービスに腐心する。第2に、自民党議員は党内派閥に帰属して再選のための支援を受ける。第3に、選挙区内での集票の棲み分けを図るために、政策分野についても棲み分けを行い、それぞれの議員が特定の業種に対して利益誘導を図る。さらに、利益誘導を行えるのは与党議員に限られるため、都市部への人口移動によって苦戦を強いられたものの、自民党は選挙で勝利を重ね、長期にわたって一党優位体制を維持することができた。

野党については、日本社会党は過半数の候補を立てたのは大選挙区制を含めて3度だけだったが、1960年代までは1選挙区で複数候補を擁立した例は多かった。しかし田中善一郎によれば、自民党候補者は当選回数を重ねるごとに強くなっていくのに対し、社会党候補者は当選回数と選挙の強さの相関がほとんどなく、党の看板に頼った選挙戦だったと結論づけている。さらに、社会党は1970年代以降、大部分の選挙区で単独擁立が常態となり、一方で自民党候補が選挙区内での棲み分けを進めたため、なおさら野党候補が割って入るのが困難になっていった。共産党、民社党、公明党といった他の野党も、一部例外を除いて1選挙区で複数候補を立てる力はなく、一党をもって過半数を狙える勢力には成長しなかった。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク