丹羽長秀

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丹羽長秀
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文4年9月20日1535年10月16日
死没 天正13年4月16日1585年5月15日
主君 織田信長秀信豊臣秀吉
氏族 良岑姓丹羽氏(惟住贈姓、羽柴氏

丹羽 長秀(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名織田氏宿老。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀ともいう。羽柴越前守とも称した[1]

生涯

織田家臣時代

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丹羽長秀邸址(愛知県名古屋市西区児玉)

天文4年(1535年)9月20日、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は天文19年(1550年)から織田信長に仕えた。天文22年(1553年)、梅津表の合戦にて19歳で初陣。弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは信長方に付き、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにも今川義元の攻撃部隊には入っていないものの従軍はしている。

信長公記』などから斎藤龍興との美濃国における戦いで台頭したと考えられ、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江六角氏征伐で武功を挙げた(観音寺城の戦い)。

姉川の戦いの直後から信長は8ヶ月におよぶ近江佐和山城の包囲を続けていたが、元亀2年(1571年2月24日に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって長秀が佐和山城主となった[2]

若狭の支配

天正元年(1573年)9月、長秀は信長より若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。

若狭国内での当初の大まかな知行宛行は遠敷郡が長秀、三方郡が粟屋氏、大飯郡が逸見氏であり各領主は所領内に独立した支配権を持っていた。この頃の長秀の家臣として溝口秀勝長束正家建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、与力としては信長直臣となった若狭衆(武田元明粟屋勝久逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏及び旧臣)が他国への出兵時に長秀の指揮下として軍事編制に加えられた。更に軍事の他に若狭の治安維持や流通統制などの一国単位の取りまとめについても長秀が担っていた。

なお、大飯郡は逸見昌経の死によって、溝口秀勝が長秀家臣から信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受けた。本能寺の変に際して若狭では武田元明が明智方について没落したのに対し、粟屋・熊谷・山県・寺西の与力各氏は長秀の支配下に入り、家臣となった[3]

織田家の双璧

その後も長秀は高屋城の戦い長篠の戦い越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。さらに長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城普請の総奉行を務めるなど多大な功を挙げている。

天正9年(1581年)には、越中木舟城主の石黒成綱を信長の命令で近江で誅殺した。越中願海寺城主・寺崎盛永父子も、信長の命令で、長秀が城主をつとめる近江佐和山城で幽閉の後、切腹となった。同年の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという厚遇を与えられている。また天正伊賀の乱にも従軍しており、比自山城の戦いなどで戦っている。

家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後この位置に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた[4]

本能寺の変後

天正10年(1582年)6月、三好康長蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられる。また、上洛中の徳川家康が大坂方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていた。しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害した[5]。その後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討った。

変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった[6]。長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かった。また、本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復した[7]

清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。結果として、諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前敦賀郡南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大名となった。

天正13年(1585年)4月16日、積寸白(寄生虫病)のために死去した[8]享年51。跡目は嫡男の長重が継いだ。

『秀吉譜』によれば、長秀は平静「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず自刃した。火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきた。拳ぐらいの大きさで、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあった。秀吉が見て言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう」と、竹田法印に賜ったという。後年、これを読んだ平戸藩主・松浦静山は、この物を見たいと思っていると、寛政6年(1793年)初春、当代の竹田法印の門人で松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができた。すると、内箱の銘は『秀吉譜』と相違があり、それによれば久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に指し、虫を得て死去した。しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩いた。秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお死ななかった。竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだ。秀吉が功を賞してその虫を賜り、代々伝える家宝となったとあった。外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていた(内箱・外箱の銘は、天明7年(1787年)に竹田公豊が書いたものであった)。しかし、静山が借りたときには、本物は別の箱に収められて密封されていたため持って来なかったというので、年月を経て朽ちて壊れてしまい、人に見せることができなくなってしまったのだろうと静山は推測し、模型の模写を遺している[9]。これらによると、石亀に似て鳥のような嘴をもった怪物というのは、寸白の虫(ただし真田虫ではなく蛔虫)と見るのが妥当である[10]。証拠の品を家蔵する竹田譜の記事に信憑性が認められるからである。割腹して二日後に死亡したことから判断して、いわゆる切腹ではなかった[10]

人物

  • 長秀は信長の養女(信長の兄・織田信広の娘で姪)桂峯院を妻に迎え、嫡男の長重も信長の五女を娶っている。さらに、長秀は信長から「長」の字の偏諱を受け、親しい主従関係であった。2代に渡って信長の姻戚となった例は、他の家臣には一切無いところを見てもわかるように、長秀は信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるという逸話が残るほど、厚く信頼されていたことがうかがえる。
  • 織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があった。木綿(羽柴秀吉)は華美ではないが重宝であるのに対し、米五郎左は長秀を評したもので、非常に器用でどのような任務でもこなし、のように、上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない存在であるというような意味である[11]
  • 方面軍司令の地位こそ得られなかったが安土城の普請奉行などの畿内の行政の仕事をそつなくこなし、各方面の援軍として補給路の確保や現地の戦後処理において活躍をするなど行政と軍事両面で米五郎左の名に恥じない働きを続け、信長の信頼も変わらなかった。
  • 清洲会議でも織田家の今後を決める宿老の1人として参加しているが、この頃の長秀は決して秀吉と対等な立場ではなく、その勢力差は歴然としていた。それを裏付けるように、山崎の戦い後に毛利輝元が秀吉の1家臣である蜂須賀正勝と、立場上は織田家の重臣である長秀に送った戦勝祝いは贈答品の内容から、付けられた書状の中身まで一言一句同じもので、他大名からも「秀吉の家臣」という認識があったようである(蜂須賀文書、毛利家四代実録考証)。
  • 天正3年(1575年)7月、信長が家臣達への官位下賜と贈姓を上奏し、羽柴秀吉が筑前守、明智光秀が九州の名族である惟任(これとう)の姓を与えられた。この際、長秀にも同じく九州の名門である惟住(これずみ)の姓が与えられた。しかし、長秀はこれを一度「拙者は、生涯、五郎左のままで結構」と断っている。
  • 長秀は名刀「あざ丸」を所有していたことがあった。しかし、それを手に入れてからというものの長秀は眼病に悩まされるようになった。実はこの刀はかつて熱田神宮の神職でもあった織田方の武将である千秋季光の所有していたものであり、加納口の戦いで千秋が戦死した際に斎藤道三の家臣である陰山一景が「あざ丸」を鹵獲したものの、直後の織田方との戦いで陰山は両目を射抜かれてしまった、といういわくつきの刀剣であった。そこで長秀は周囲の人々の助言に従って熱田神宮へ「あざ丸」を奉納し、以降は眼病に悩まされなくなったという[12]
  • 武田家滅亡後、長秀は信長の計らいにより休暇を与えられ、堀秀政多賀常則とともに草津温泉で湯治したとされる。

子孫

長秀の子の生母は、長重と稲葉典通室が正室(深光院)、長正と青山宗勝室と古田重治室が堤教興の姉、高吉と長紹(長次)が杉若無心娘とされている。残りの子は不明だが、長紹と赤田堅室、粟屋勝久室は姓未詳の同母だという(『丹羽家譜』)。

  • 長秀の死後、後を継いだ長重は軍律違反があったとして秀吉から領国の大半と、長秀時代の有力家臣まで召し上げられている。これは秀吉による丹羽氏の勢力削減政策であったと言われている。その長重は関ヶ原の戦いで西軍に与して改易されたが、後に江戸崎藩主となり大名として復活を遂げた。その後の丹羽家は棚倉藩白河藩と転封され、長重の子・光重の代に陸奥二本松藩に転封となり、その後は代々二本松藩主として明治を迎えた。12代目の丹羽長国は男子に恵まれず、複数養子を迎えた中で宇和島伊達家から入った婿養子の長徳の子孫が跡を継いでおり、本家の男系は断絶している。
  • 三男の藤堂高吉は、当初羽柴秀吉の弟の秀長の養子[13]となったが、のち秀長家臣の藤堂高虎の養子となった。高吉は藤堂氏の分家・名張藤堂家の祖となり、この家系も明治時代を迎えた。
  • 四男の蜂屋直政蜂屋頼隆[14]の養子となったが、早世した。
  • 六男の長紹(長次)は幕府旗本として1,500石で仕えた。長次ののち長吉(長一?)-長守長道と続いていたが、本家である二本松藩第3代藩主の丹羽秀延は子に恵まれなかったため、長道の長男を養子とし秀延の妹をその妻とさせた。この養子が第4代藩主・高寛となった。旗本家は次男の長利が相続し、以降も継続した。
  • 稲葉典通室を通じて仁孝天皇の先祖に当たるため、その血筋は現在の皇室に繋がっている[15]
  • 格闘家の丹羽圭介、プロサッカー選手の丹羽大輝の兄弟は子孫の可能性が指摘されており[16]、特に大輝は末裔を自称するが真偽のほどは不明である[17]

家臣

長秀を題材とした作品

小説
映像作品

脚注

  1. 谷口 1995, p. 289.
  2. 『新修彦根市史 第1巻(通史編 古代・中世)}』彦根市史編集委員会、2007年1月
  3. 功刀俊宏「織田権力の若狭支配」(戦国史研究会編『織田権力の領域支配』2011年、岩田書院 、ISBN 978-4-87294-680-2 所収)
  4. 太閤記」には、元々「木下」姓だった豊臣秀吉が双方の字を取って「羽柴」の姓を信長に申請したという逸話があるが、真偽は不明。
  5. 信澄は信長の実弟・織田信行(信勝)の子(つまり信長の甥)。信長から才覚を買われ一門衆では実子と同格に扱われ、秘書的な役割を果たしていた。歴とした後継候補の1人であり、信澄は後継者争いにより殺害されたとする説もある。
  6. 谷口 2007, p. 80.
  7. 『新修彦根市史 第1巻(通史編 古代・中世)}』彦根市史編集委員会、2007年1月
  8. 宮本 1993, p. 168.
  9. 松浦静山 「丹羽長秀の腹中より出る虫の事幷図」『甲子夜話続篇』1、中村幸彦中野三敏、平凡社、1979年、76 - 79。
  10. 10.0 10.1 宮本 1993, p. 170.
  11. 祖田(1991)pp.215-216
  12. 『信長公記』
  13. 高吉の母とされる長秀側室の父・杉若無心は越前の戦国大名朝倉氏の遺臣と伝わるが、その後羽柴秀長に仕えている。
  14. 蜂屋頼隆の室は長秀の妹。
  15. 長秀-女(典通室)-一通知通恒通-女(勧修寺顕道室)-経逸婧子光格天皇典侍)-仁孝天皇
  16. 「丹羽長秀の血を引く男」万能DFの丹羽、初選出に“武者震い””. スポニチアネックス. 2015年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2015.8.2閲覧.
  17. エル・ゴラッソJリーグプレーヤーズガイド2017(スクワッド)、p97

参考文献

関連項目