佐々木道誉

提供: miniwiki
移動先:案内検索
佐々木導誉 / 佐々木高氏
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 永仁4年(1296年[1](異説として徳治元年(1306年[注釈 1]
死没 文中2年/応安6年8月25日1373年9月12日[2][3][4]
幕府 鎌倉幕府 御相供衆
室町幕府 引付頭人評定衆政所執事
若狭近江出雲上総飛騨摂津守護
主君 北条高時足利尊氏義詮義満
氏族 宇多源氏佐々木氏庶流京極氏

佐々木 道誉/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将守護大名若狭近江出雲上総飛騨摂津守護

一般的に佐々木佐渡判官入道佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。後者の道誉導誉とも)[注釈 2]法名であり、(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。

概要

初めは執権・北条高時に御相伴衆として仕えるが、のちに後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。

ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。

偏諱について

初めの主君である北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第14代執権)の北条高時より1字を受けて名乗った名前であり[注釈 3]、同様にして名乗った足利高氏[5](のちの足利尊氏)と同名である。

生涯

御相伴衆

永仁4年(1296年)、近江の地頭である佐々木氏の分家京極氏に生まれ、嘉元2年(1304年)に死んだ母方の叔父である佐々木貞宗の後を継いで家督を継承する。正和3年(1314年)に左衛門尉元亨2年(1322年)には検非違使となる。検非違使の役目を務めて京都に滞在していたと考えられており、後醍醐天皇の行幸に随行している。鎌倉幕府では執権北条高時御相供衆として仕え、高時が出家した際には共に出家して導誉と号した。

倒幕

元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、を脱出して笠置山に拠った元弘の乱では幕府が編成した鎮圧軍に従軍し、主に京都において事後処理を担当している。捕らえられた後醍醐天皇は廃され、供奉する阿野廉子千種忠顕らが隠岐島へ配流された際には道中警護などを務める。

後醍醐配流後も河内楠木正成らは反幕府活動を続けて幕府軍と戦い、北条氏下野足利高氏(後の尊氏)らを討伐に派遣するが、導誉は鎌倉の北条氏討伐を決意した高氏と密約して連携行動を取ったともされ、軍事的行動に参加した形跡は無いが、元弘3年(1333年5月9日、近江番場で東国へ退却中の北条仲時の軍勢を阻み、蓮華寺で一族432人と共に自刃させた。その際光厳天皇花園上皇を捕らえ、天皇から三種の神器を強奪している。同族の佐々木清高は仲時と共に殉じ、六角時信は導誉の仲介で尊氏に降伏している。

足利尊氏、上野新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、入京した後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、時信や塩冶高貞ら他の一族と共に雑訴決断所の奉行人となる。

南朝との戦い

尊氏が政権に参加せず、武士層の支持を集められなかった新政に対しては各地で反乱が起こった。建武2年(1335年)には、信濃において高時の遺児である北条時行らを擁立した中先代の乱が起こり、尊氏の弟の足利直義が守る鎌倉を攻めて占領した時行勢の討伐に向かう尊氏に導誉も従軍している。時行勢を駆逐して鎌倉を奪還した尊氏は独自に恩賞の分配を行うなどの行動をはじめ、導誉も上総や相模の領地を与えられている。

後醍醐天皇は鎌倉の尊氏に対して上洛を求めるが、新田義貞との対立などもありこれに従わず、遂には義貞に尊氏・直義に対する追討を命じた綸旨が発せられる。しかし、建武政権に対して武家政権を樹立することを躊躇する尊氏に導誉は積極的な反旗を勧めていたともされる。足利方として駿河国での手越河原の戦いに参加するが新田義貞に敗れ、弟の貞満らが戦死した。道誉自身は義貞に降伏し、以降新田勢として従軍して足利方と争うが、箱根・竹ノ下の戦いの最中に新田軍を裏切り足利方に復帰、この裏切りにより新田軍は全軍崩壊し敗走した[6]。道誉を加えた足利方は新田軍を追い京都へ入り占拠するが、奥州から下った北畠顕家らに敗れた足利軍は京都を追われ、兵庫から九州へと逃れた。この時導誉は近江に滞在して九州下向には従っていないともされる。

九州から再び東上した足利軍は湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破して京都へ入り、比叡山に逃れた後醍醐天皇・義貞らと戦った。導誉は東から援軍として来た信濃守護小笠原貞宗と共に比叡山包囲に当たっている。やがて尊氏の尽力で光明天皇が即位して北朝が成立、尊氏は征夷大将軍に任じられて室町幕府を樹立し、後醍醐天皇らは吉野へ逃れて南朝を成立させる。

足利政権の立役者

導誉は若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任した。延元2年/建武4年(1337年)、勝楽寺(現滋賀県甲良町)に城を築き、以降没するまで本拠地とした。

興国元年/暦応3年(1340年10月6日には長男の秀綱と共に白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ちし、山門宗徒が処罰を求めて強訴すると朝廷内部でもこれに同情して幕府に対して導誉を出羽に、秀綱を陸奥配流するように命じた。ところが、幕府では朝廷の命令を拒絶、結果的に導誉父子は上総に配流される。この配流の行列は若衆数百人を従え道中宿所に着くたびに傾城を弄び、さらには比叡山の神獣である猿の皮を腰あてにするというありさまであり、導誉の山門への敵意、蔑視の程が窺える[注釈 4]

羽下徳彦によれば、上総は建武年間に尊氏の執事高師直が守護を務め、正平年間に導誉と共に流された秀綱が守護を務めているが、導誉配流期の守護については記録に残っていない。このため、佐々木氏による上総守護の上限が正平年間以前であったことも考えられ、実は導誉父子は流刑と銘打って自分の領国に帰されただけであった可能性があるという。森茂暁は山門に悩まされる尊氏・直義兄弟の暗黙の了解のもとで、山門に大打撃を与えることを目的にした狼藉であると推察しており、いずれにせよ尊氏兄弟には導誉を罰するつもりなど毛頭無かったものと推察される。事実、翌年には何事もなかったかのように幕政に復帰している。

幕府においては導誉は引付頭人、評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行っている。また、正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いなど南朝との戦いにも従軍しているが、帰還途中に南朝に奇襲を受け、次男の秀宗が戦死している。

室町幕府の政務は当初もっぱら弟の直義が主導したが、南朝との戦いにより戦時体制を主導する高師直の勢威が高まり、直義・師直の関係の悪化や尊氏の庶子直冬への憎悪と嫡男義詮への偏愛等が複雑に絡み合い、正平5年/観応元年(1350年)からの観応年間には観応の擾乱と呼ばれる内部抗争が発生する。導誉は当初師直派であり、擾乱が尊氏と直義の兄弟喧嘩に発展してからは尊氏側に属したが、南朝に属し尊氏を撃破した直義派が台頭すると、翌正平6年/観応2年(1351年7月28日、尊氏・義詮父子から謀反の疑いで播磨赤松則祐と共に討伐命令を受ける。これは陰謀であり、尊氏は導誉を討つためと称して京都から近江へ出兵、義詮は則祐討伐のため播磨へ出陣したが、これは事実上京都を包囲する構えであり、父子で京都に残った直義を東西から討ち取る手筈で、事態を悟った直義は逃亡した[注釈 5]

以後も尊氏に従軍、尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言する。尊氏がこれを受けた結果正平一統が成立し直義は失脚、急逝する。また、12月1日には義詮から佐々木一族を軍事的に統率する権利を与えられた。これは惣領の六角氏頼が観応の擾乱で直義に付いたがその後出家した事態に対応するため、導誉を惣領格にして佐々木氏をまとめる狙いがあった。ただし、氏頼は後に復帰、六角氏は以後も幕府から佐々木惣領家として認められているため、一時的な対策だったとされる。

正平一統は正平7年/文和元年(1352年)に北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇らが南朝に奪われて破綻すると、3月の八幡の戦いで義詮に従い南朝から京都を奪還、6月に公家の勧修寺経顕を通して交渉、後光厳天皇を擁立して天皇の祖母西園寺寧子践祚の儀を行うよう説得して実現させ、北朝再建と将軍権力の強化に尽力する。しかし、山名時氏師義父子と所領問題で対立したため、翌正平8年/文和2年(1353年)6月に時氏と南朝の軍勢が京都を陥落、京都から北へ落ち延びた後光厳天皇と義詮を守って秀綱が戦死している。

武家権勢導誉法師

正平13年/延文3年(1358年)に尊氏が薨去し、2代将軍義詮時代の政権においては政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停する。

この頃、導誉は義詮の絶大な支持のもと執事(後の管領)の任免権を握り事実上の幕府の最高実力者として君臨する[注釈 6]仁木義長細川清氏の執事職をめぐる争いでは清氏を支持し執事に据えるが、確執が発生すると清氏をあっさりと廃し将軍親裁の政治を復活させる。正平17年/貞治元年(1362年)には縁戚関係のもと友好的な関係を築いた斯波高経を執事に推薦するが、将軍家と同等の家格であると自負する高経は執事職への就任を拒んだ。このため婿である高経の3男氏頼を推薦するが、高経はこれに対抗し溺愛する4男義将を推薦し結果として義将が管領に就任する(斯波足利家による執事就任拒否によりこのころ執事が管領に職名を変えた)。義将はこのときまだ13歳であり、事実上高経が政権をとった。

このように一時導誉は高経の下風に立ち、京極佐々木家内の内紛から発生した3男の高秀による家臣筆頭の吉田厳覚暗殺事件についても高経につけこまれる[注釈 7]。更には高経から任された五条橋の建築が遅延した為、高経自身がこれを自分で素早く建築してしまうという出来事が発生し、導誉は高経に面目を潰され高経との関係は決定的に悪化する。

そこで導誉はまず高経が将軍の邸で開催する花見に目をつけた。導誉はその花見の日にぶつける形で原野で盛大な花見の会を開いた。それは京都中の芸能人が根こそぎ集められ、香が焚かれ「世に類無き遊」と謳われるほどのものだった。こうして高経に意趣返しをした導誉は今度は高経の追い落としを図る。高経の高圧的な政治は守護層の反発を招いており、導誉はこうした守護をとりまとめると義詮に讒言し、正平21年/貞治5年(1366年)に高経は失脚した(貞治の変)。また、南朝とのパイプを持ち和睦交渉に尽力するも成果を出せなかった。

正平22年/貞治6年(1367年)に幕府が関東統治のために鎌倉に設置した鎌倉公方足利基氏が卒去すると、鎌倉へ赴いて基氏の子氏満への引継ぎの事後処理を務める。同年に導誉の推薦を得た細川頼之が管領に就任、翌正平23年/応安元年(1368年)に高秀が出雲守護に就任していることから、隠居したと考えられている。

文中2年/応安6年(1373年)に卒去、享年78。戒名は勝楽寺殿徳翁導誉。

墓所は京極氏の菩提寺である滋賀県米原市清滝の徳源院、滋賀県甲良町の勝楽寺。

人物

導誉は南北朝時代の社会的風潮であるばさらを好んだとされ、古典『太平記』においては下克上的風潮には批判的であるが、失脚した細川清氏が南朝の楠木正儀らと京都を占拠した際には、自邸に火をかけずに立花を飾り、宴の支度をさせたことや、幕府内で対立していた斯波高経の花見の誘いを無視し、大原野(京都市西京区)で大宴会を催したことなど導誉の華美な行動が記されている。

また、連歌などの文芸や立花茶道香道、さらに近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、幕政においても公家との交渉を務めていることなどから文化的素養を持った人物であると考えられている。連歌師の救済関白二条良基が撰した『菟玖波集』には数多くの作品が入集している。和歌については一首勅撰集に入ったものが伝えられるのみで文芸についてはもっぱら連歌に関心があったことが窺える。

山門とは妙法院焼き討ち事件に見られるように確執があったものの、一方で山門の末社である東山の祇園社との関係は深く、祇園社の宿舎である高橋屋を借り上げ自身の宿舎とするほどだった。南朝の攻撃をうけ美濃にまで落ちた義詮が京都に復帰した際にはこの高橋屋を宿舎としており、四条京極の邸よりも寧ろ高橋屋を本拠としていた様子が窺える。

所領においては運送の拠点となるような地域を望むことが多く、前述の高橋屋が所在したのは京都の商業地域であり、流通や商業にも深い関心があったことが窺える。また、北条仲時を包囲した五辻宮による悪党山の民、野伏の集団には導誉の後援、もしくは主導的な関わりがあったと考えられておりこうした集団とも関わりをもっていた。以上のように導誉は所領からの収入をもとに生計をたてるというような一般的な武士からは遠く離れた経済生活を送っていた。

皇族・公家に対しても人を食った態度や木で鼻をくくる態度を取ることもあり、変わり者であることは否めない。

3男の高秀が描かせたといわれる法体の肖像画が滋賀県甲良町勝楽寺にあり、現在は京都国立博物館に保管されている。

系譜

京極宗氏
京極宗綱の娘
義父
京極貞宗
兄弟
京極貞氏
京極導誉
京極貞満
京極秀信
京極時満
京極経氏
道誉の妻は「佐々木系図」『尊卑分脈』第三編に記載される秀宗の母「三河守時綱の女」が知られる[7]。実名は不詳であるが、父は二階堂時綱とされる[8]。時綱は鎌倉末期・南北朝時代に鎌倉幕府・足利幕府の有力御家人として名が見られる人物で、二階堂氏と佐々木氏は立場が近いことから婚姻がなされたとも考えられている[9]
また、国立国会図書館所蔵「伊予佐々木家文書」に含まれる永和5年(1379年)3月8日付足利義満袖判所領安堵状に拠れば、甲良荘尼子郷を安堵された道誉の妻として「北(きた)」が登場する[10]。同文書では「北」の法名を「留阿」としており、応安6年(1373年)の道誉死去に際して出家したと見られている。「北」の出自は不詳[11]
ほか、同じ「伊予佐々木家文書」に含まれる応安6年(1373年)2月27日付道誉書状に登場する「ミま」の存在が知られる[12]。これは最晩年の道誉が子息の高秀に対し後事を託し、甲良荘尼子郷を「ミま」に譲ることを記した書状で、内容は「ミま」に対して深い愛情を示している[13]。この「ミま」については道誉の孫の六郎左衛門(高秀の子・高久か)とする説と[14]、道誉の妻「北」とする説がある[15]
「ミま」の素性についても不明であるが、1994年に森茂暁は「伊予佐々木家文書」に「御ミまへ たうよ」と記された墨引きの跡を持つ懸紙が伝存していることから高秀宛文書とは別に「ミま」に対して宛てられた譲状が存在したと推測している[16]。森は道誉が高秀に対して後事を託す人物として高秀の子・高久以外に曾孫の秀頼を想定しつつも、秀頼が系図上では早世しており事跡も知られないことから、「ミま」は「北」を指すとしている[17]。一方で、森は応安6年から永和3年の短期間で呼称が変化していることや将軍安堵状の発給時期からも問題が残り[18]、さらに「ミま」への譲与は一代限りであった可能性も指摘している[19]
京極秀綱(母不詳)
京極秀宗(母二階堂時綱娘)
京極高秀
赤松則祐
斯波氏頼
六角氏頼

脚注

注釈

  1. 尊卑分脈』では応安6年8月25日に68歳で死去したとの記載があり、逆算すると徳治元年(1306年)生まれとなる(紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.17))。この説は『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』(編:安田元久、新人物往来社、1990年)p.241 「佐々木高氏」の項(執筆:勝山清次)のほか、『世界大百科事典 第2版』、『大辞林 第3版』、『百科事典マイペディア』、『デジタル大辞泉』が採用している(コトバンク - 佐々木高氏 の項)。
  2. 自署は「導誉」であるが、同時代の文書に「入道々誉(入道道誉)」と記されたものが多いため。
  3. 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18)では、『尊卑分脈』記載の没年および享年から算出した徳治元年(1306年)生まれ説を採用して元服の時期を1315年-1320年頃と推定し、その当時の得宗家当主であった高時と烏帽子親子関係を結んだとしている。永仁4年(1296年)を採用して1305年-1310年もしくはこの前後に元服したと考えたとしても同様に考えることができる(高時は1309年に元服、1311年に得宗家当主となっている)。
  4. なお、このとき導誉は「配流の宣下には俗名が記されるが、将軍と同じ高氏では申し訳ない」との理由で峯方に改名している。峯はすなわち比叡山を指すことから、この改名もまた山門を挑発する目的で行われたことが窺える。
  5. 当時北朝の公家だった洞院公賢は日記『園太暦』の正平14年/延文4年(1359年8月17日条に武家権勢導誉法師と導誉を記している。
  6. 正平18年/貞治2年(1363年7月19日、吉田厳覚が秀綱の孫で導誉の曾孫に当たる嫡流の佐々木秀頼を擁立しようとして高秀に殺害された。高秀は事件前後に義詮に報告、黙認を取り付けていたが、高経は事件の責任を追及して高秀の侍所頭人を辞職に追い込んだため、導誉の失脚を目論んだ可能性がある。

出典

  1. 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク)「佐々木高氏」の項、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』(コトバンク)「佐々木道誉」の項。
  2. 花営三代記』応安六年十二月二十七日条。
    山門神輿造替沙汰被執行之。惣奉行人高秀。親父道誉去八月廿五日他界之間。……
  3. 常楽記』応安六年十二月二十七日条。
    佐々木佐渡大夫判官入道道誉帰寂於江州
  4. 今井尭ほか編 1984, p. 301.
  5. 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.11〜14)、臼井信義 「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」(所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)、p.69)。
  6. 前日に竹の下方面の脇屋義助軍の大友貞載塩冶高貞が足利方に寝返っており、義助軍は劣勢となっていた。箱根方面の義貞軍は有利に展開していたが全体の情勢から一旦退却・立て直しの判断をした。この撤退中に義貞軍の道誉が寝返り行為を行った。
  7. 森(1994)、p.166
  8. 森(1994)、p.166
  9. 森(1994)、pp.167 - 168
  10. 森(1994)、p.168
  11. 森(1994)、pp.169 - 170
  12. 森(1994)、p.170
  13. 森(1994)、p.215 - 217
  14. 『貴重書解題 第六巻』
  15. 『日本歴史地名体系25滋賀県の地名』(1991年)
  16. 森(1994)、p.171
  17. 森(1994)、p.171 - 172
  18. 森(1994)、p.172 - 173
  19. 森(1994)、p.173

参考文献

創作作品

関連項目

外部リンク

テンプレート:京極氏歴代当主