八十里越

提供: miniwiki
移動先:案内検索
ファイル:OSM Hachijurigoe.png
八十里越(オープンストリートマップ
新潟県三条市(左上)から魚沼市(左下)を経て福島県只見町(右下)へと至る。赤は国道289号、黄は新潟県道183号鞍掛八木向線、白(実線および破線)は建設中の八十里越道路を示す。

八十里越(はちじゅうりごえ)は、新潟県三条市から魚沼市を経由して、福島県南会津郡只見町に至る街道およびである。

概要

三条市下田地区から魚沼市の北端部を経由して只見町に至る街道で、北側の中ノ又山(標高1070m)と南側の浅草岳(標高1585m)との中間の鞍部に鞍掛峠(くらかけとうげ、標高965m)、木の根峠(きのねとうげ、標高845m)の2箇所の峠がある。

八十里越の名の由来は、実際の距離は八里(約31km)でありながら、険しさゆえに一里が十里にも感じられるほど余りに急峻かつ長大な山道であることなど、諸説ある。

明治時代後期までは、新潟県中越地方北部と福島県会津地方南部とを結ぶ重要な街道で、新潟から南会津へは塩、魚類や鉄製品などの生活物資が、南会津から新潟へは繊維の原料や林産物などが運ばれるなどしていた。

だが沿道は急峻な地形豪雪地帯でもあり、1914年(大正3年)に岩越線(現在の磐越西線)が全通すると、人々の移動や物資の輸送は鉄道へ移行し、鉄道網や道路網がその後全国各地で整備される一方で、八十里越は衰退の一途をたどった。共に新潟県中越地方と只見町との間を結ぶ街道の一つで、約15km南西側に所在する魚沼市と同町の間の六十里越では、1970年代前半に国道252号東日本旅客鉄道(JR東日本)の只見線[1]が、それぞれ県境区間の開通および開業によって通行が容易となったが[2]、それとは対照的に八十里越の整備は今日に至るまで遅々として進まず、2015年(平成27年)の時点でも国道289号などの国県道はいずれも両県境を挟んで約20kmにわたり、自動車の通行不能区間が残存している。

新潟・福島両県と国土交通省では、国道289号の通行不能区間を解消するため「八十里越道路」の改築事業を実施している(詳細は後述)。

歴史

河井継之助

八十里越は、幕末から戊辰戦争時にかけて越後長岡藩家老であった河井継之助が生涯最後に越えた峠であり、現在の只見町は継之助の最期の地として知られる。

慶応4年(1867年)夏の北越戦争で長岡藩は継之助の巧みな用兵により、開戦当初は新政府軍と互角に戦ったが、徐々に押され5月19日(新暦7月8日)に長岡城を奪われた。長岡藩は7月24日9月10日)夕刻、八丁沖渡沼作戦によって新政府軍を奇襲し、翌日には長岡城を奪還したが、奇襲作戦の最中に継之助は左に流れ弾を受け重傷を負った。その4日後に長岡城は再び陥落し、継之助は戸板で担送され会津へ落ち延びた。

一行は8月3日9月18日)、越後側の麓の吉ケ平に着き、翌4日に八十里越に向かい、山中で一泊して只見に着いた。この間に拓かれた短路はのちに「河井新道」と呼び伝えられた。また継之助は峠を越える際「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」という、「腰抜け」と「越後を脱け出る」とを重ねた自嘲の句を詠んでいる。

しかし、継之助が負った傷は只見に着いた頃には既に破傷風によって悪化しており、一行は若松(現在の会津若松市)を目指して東進したものの、継之助は8月16日10月1日)、塩沢(現在の只見町大字塩沢)の医師宅で死去した。

塩沢の終焉家の所在地は1961年(昭和36年)、只見川の電源開発に伴って水没し、終焉の間は近隣の大字塩沢字上ノ台に所在する河井継之助記念館に移築保存されている。

八十里越道路

1970年(昭和45年)4月1日付で、八十里越を含む新潟・福島県の区間が国道289号に指定された。新潟・福島県と国土交通省によって、三条市大字塩野淵字御所から只見町大字叶津字入叶津に至る、総延長20.8kmの区間で改築事業が進められている。

区間内には合計でトンネル14本、橋梁16本が建設され、このうち福島県が施工する只見町内の1.1kmの区間が竣工し、既に供用されている。この改築事業の区間は三条市・只見町のみを経由しており、魚沼市は含まれていない。

前掲のように、沿線は急峻な地形で豪雪地帯であることから工事は難しさを極めており、とりわけ施工できる期間が積雪の無い5月下旬から11月上旬にかけてのおおむね半年間のみに限られることから、主要構造物の建設は年度ごとに段階的に進められている。また事業区域付近ではイヌワシクマタカなどの希少野生生物の生息が確認されており、自然環境に配慮しながら適切な保全対策を講じる必要が生じている。このため新潟・福島県と国交省では「八十里越道路環境検討委員会」を設置し、環境調査の実施や学識経験者からの意見聴取などを通じて、施工方法などの検討を実施している。

全線の供用開始時期は未定で、新潟・福島県と国交省では2020年代半ばの全線開通を目途としているが、沿線自治体では早期開通を求めている。

八十里越(一次改築)

このうち県境を含む、三条市大字塩野淵字御所から只見町大字叶津字木ノ根山に至る延長11.8kmの区間は八十里越(一次改築)の名称で、1983年(昭和58年)度のルート承認を経て1986年(昭和61年)度に建設省(現在の国土交通省)の直轄権限代行区間として事業化され、1989年(平成元年)度の工事着手以降、トンネル11本と橋梁8本の建設が進められている。

この代行区間は全区間にわたり、三条市側を管轄する国土交通省北陸地方整備局長岡国道事務所が事業を実施している。

2002年(平成14年)7月から掘削に着手した県境部の9号トンネル(仮称、延長3,168m)は三条市側からのみの一方向掘削という厳しい条件のもとで建設が進められた。また坑内の地質は凝灰岩が占め、2003年(平成15年)には盤脹れが発生するなどしたため[3]、路盤部にインバート工が施された。その後2010年(平成22年)11月7日に貫通し[4]2012年(平成24年)度に概成した。

大江道路

直轄権限代行区間の両端部は、両県が事業を実施している。

このうち三条市内の区間は、新潟県が大江道路(おおえどうろ)の名称で事業を進めている。全区間が三条市大字塩野淵字御所に所在し、直轄権限代行区間起点に至る延長1.2kmの2車線道路として1986年(昭和61年)度に事業化され、トンネル1本、橋梁1本の建設が進められている。

日本平トンネル(延長478m)の掘削工法は、施工途中で岩質が硬くなったことなどから機械掘削から発破掘削に変更され、こちらも9号トンネルと同様、坑内の地質は凝灰岩が占めていることから、全区間にわたってインバート工が施された。

入叶津道路

只見町内の区間は、福島県が入叶津道路(いりかのうづどうろ)の名称で事業を進めている。只見町大字叶津字木ノ根山の直轄権限代行区間終点から叶津字入叶津に至る、延長7.8kmの2車線道路として1973年(昭和48年)度に事業化され、トンネル2本、橋梁7本などの主要構造物は2004年(平成16年)度までに既に概成している。このうち前掲のとおり1986年(昭和61年)度には延長1.1kmの区間(うち橋梁2本)が既に供用済で、残る区間は車線確保や雪崩対策などの施工を進めた上で2017年(平成29年)度中の供用開始が予定されている。

脚注

  1. 県境区間が開業した当時の只見線は日本国有鉄道(国鉄)の路線であった。
  2. ただし六十里越の県境区間は雪崩や落石の危険性があるため、国道252号は11月中旬から5月中旬にかけて冬季閉鎖の措置が取られており、通年では通行できない。一方の只見線は通年運行しているものの、こちらも大雪などの際には県境区間で運転見合わせの措置が取られる。
  3. (平成18年度管内事業研究会 資料)一般国道289号八十里越の9号トンネル施工時の盤脹れについて (PDF)”. 国土交通省北陸地方整備局 (2006年7月26日). . 2015閲覧.
  4. “国道289号「八十里越」の通行不能区間 県境トンネル3,173mが11月7日に貫通!” (PDF) (プレスリリース), 国土交通省長岡国道事務所, (2010年10月8日), http://210.148.110.37/press/2010/10/101008cyoukoku.pdf . 2015閲覧. 

関連項目

外部リンク

座標: 東経139度12分27秒北緯37.39667度 東経139.2075度37.39667; 139.2075


テンプレート:国道289号