前尾繁三郎

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前尾 繁三郎(まえお しげさぶろう、1905年12月10日 - 1981年7月23日)は、日本政治家官僚宏池会第二代会長。第58代衆議院議長

来歴・人物

1905年に京都府与謝郡宮津町(現・宮津市)に生まれた。京都府立宮津中学校を卒業後上京し、第一高等学校に進学する。一高では寮で朝食の時に、飯を7杯、味噌汁を12杯を平らげ、ドイツ語を意味する「マーゲン」というあだ名を奉られた。一高時代の同期生に作家の高見順がいる。一高卒業後、東京帝国大学法学部に進学。

東大卒業後、大蔵省に入省する。大蔵省受験の時に口頭試問試験を控え室で待っていると、大蔵省の4つの局名(主計、主税、理財、銀行)が出るとアドバイスしてくれたのが福田赳夫であったが、前尾は肝心の局名を主計局と銀行局の2局しか答えられなかった。

入省の翌年、結核肋膜炎に罹病し休職。1年間の休職期間が過ぎたため退職を余儀なくされたが、5年間療養生活に努めたあと、大蔵省に復職する。同じ頃、四期先輩でのちに内閣総理大臣となった池田勇人も落葉性天疱瘡という大病のため休職、退職していたのが復職している。

復職後、前尾は和歌山税務署長に、池田は大阪玉造税務署長となって赴任した。前尾と池田は性格は正反対であったが、互いに大病で倒れ出遅れ、大の好きということで肝胆相照らす間柄になった。和歌山税務署長の後、名古屋税務監査局、大阪税務監査局、東京税務監査局直接税部長を務めた後、インドネシアに左遷され、1945年池田勇人主税局長の下で主税局第一課長。1947年に池田が大蔵次官に就任すると、後任の主税局長に就任する。しかし、GHQと徴税方法をめぐり対立し大阪の造幣局長に左遷される。インドネシア出向中に知り合った宮澤喜一は、GHQと前尾の処遇を巡り交渉するが事態は変化せず、前尾に詫びるが前尾は気にする様子もなく局長室で好きな読書三昧の生活を送る。

1949年には第24回衆議院議員総選挙に京都2区(当時)から吉田茂民主自由党公認で立候補した。前尾はヌーボーとした風貌から「暗闇の牛」のあだ名がついたが、由来の一説にこの選挙の時に宣伝車のトラックに七輪を持ち込んで熱燗をやりながら選挙運動をし、ある夜暗い夜道に牛が出てきて酔っぱらった前尾は、牛に頭を下げたというのがある。

その他、前尾は演説でもっぱら「政界浄化」や「行政整理」を訴えたり、財政の数字を並べたりときまじめで学者肌で大衆受けするものでは無く、周囲は「明日の大蔵大臣」などと前尾を宣伝するのに、本人は夜の会合で、酒を注ぐのも嫌がったり、胸に花をつけるのも恥ずかしがったくらいであった。しかし、誠実な人柄と、運動員が手弁当で行った選挙運動や大蔵省の最終ポストがお金を作る造幣局長であったことから3位当選を果たし、以後、当選12回を数えた(当選同期に橋本龍伍岡崎勝男麻生太賀吉小渕光平西村英一橋本登美三郎福永健司塚原俊郎藤枝泉介木村俊夫稲葉修河本敏夫森山欽司床次徳二有田喜一など)。

前尾は「吉田学校」の一員として衆議院地方行政委員長や外務委員長を経て、1957年の第1次岸改造内閣通商産業大臣として入閣。1960年に池田内閣が成立すると女房役として自由民主党幹事長に就任した。幹事長として渾身の力を振るい池田内閣を支え、所得倍増計画の推進と池田のブレーン作りに大いに力があった。

また、軍人恩給、農地補償の成立、破壊活動防止法(破防法)の廃案決定や、国民協会による自民党への政治献金一本化、党財務委員会の設置による政治資金の透明性を模索した。1963年の衆議院解散の際、池田が冒頭解散を目論んだことに対しては、野党代表質問が全部終わらないうちに解散するのは、議会政治の筋が通らないと、思いとどまらせたことは前尾の筋を通す硬骨ぶりとして伝えられている。池田は喉頭癌が理由で1964年11月に内閣総辞職し、1965年8月に死去した。

池田の後、前尾は宏池会を引き継ぎ会長となった。前尾は派閥を政策集団として認識していた次のエピソードがある。政治資金を無心に来た陣笠議員に「金が沸く本」として貴重な蔵書を渡したところ、陣笠議員はその本に札束が入っているだろうと頁をめくるがいっこうに見つからない。前尾はその本の内容を理解すれば人格も磨かれ自然と政治資金が集まってくると説いたつもりであったが、後日、その陣笠議員に「どうだ、金が沸いてきそうだろう?」と尋ねたために、その議員の人心を失ったというものである。

こうした前尾の考え方に、同じ宏池会に所属し池田内閣を支えてきた大平正芳は、派閥をあくまで政権獲得を第一義とし、認識が違った。前尾と大平の関係は次第に悪くなり、これが1968年の自由民主党総裁選挙に顕在化した。佐藤栄作の三選阻止で出馬した前尾は95票を獲得したが、107票を獲得した三木武夫を下回る3位と惨敗したのである[1]ことから始まる。

また小坂善太郎丹羽喬四郎らの古参議員と斎藤邦吉佐々木義武伊東正義ら中堅・若手議員の派内対立も起きた。1970年の総裁選挙の際に佐藤栄作は前尾に対して「四選後に内閣改造を行う際には前尾派を優遇する」と約束したため前尾は出馬を見送ったが、四選を果たした佐藤は内閣改造を見送り、前尾は生き恥をさらす結果となった。これに田中六助田沢吉郎塩崎潤などの大平系若手議員が猛反発、前尾を会長から引きずり下ろし、大平を会長とした(大平側近の田中六助は「池田さん(池田勇人元首相)が生きていたら、私は池田派に籍を置くつもりだった。もう二度と宏池会の会合には出席しない」と前尾を批判した)。佐藤は前尾が宏池会会長を辞任した三ヶ月後に内閣改造をして前尾を法務大臣に任命した。

宏池会会長辞任後、椎名悦三郎灘尾弘吉と私的な懇談を持ち、これはのちに「三賢人の会」と呼ばれるようになる。1973年5月に中村梅吉衆議院議長が失言問題で辞任した際、前尾は後任の衆議院議長に就任した。在任中、田中角栄首相の後任として前尾の名前も取りざたされたが、議長は総理になるべきではないと意に介さなかった。議長退任後は長年対立していた大平と和解。1979年の総選挙でまさかの落選を喫し、翌1980年に行われた総選挙で復活を遂げる。1981年7月23日死去。75歳没。旧京都2区の地盤は野中広務が引き継いだ。墓地は京都市右京区清涼寺にある。

逸話

政界有数の読書家、教養人としても知られた。小学生時代に『太平記』を読破し、蔵書は和漢、欧米の原書など約4万冊と言われる。国会内書店で月400万~500万もの書籍を購入し書店主に「あんな人はもういない」と舌を巻かれたことがある[2]。1981年の死後には遺族が故郷の宮津市い蔵書と多額の建設資金を寄贈し[3][4]、死去からちょうど2年後となる1983年7月23日には宮津市立前尾記念文庫が開館した[5]

芸事も巧みで、小唄は春日流名取で「春日と繁利」の名を持ち、入院中、見舞いに来た宮沢喜一と床でおさらいをしたり、田中角栄と並んで東横ホールに出演し唄ったこともある。三味線ハーモニカバイオリン、明笛もこなした。

著書

  • 『政の心』(毎日新聞社
  • 『現代政治の課題 一政治家の反省と考察』(毎日新聞社
  • 私の履歴書 牛の歩み』(日本経済新聞社
  • 『政治家のつれづれ草』(誠文堂新光社
  • 『政治家のつれづれ草(続)』(誠文堂新光社)
  • 『政治家のつれづれ草(続々)』(誠文堂新光社)
  • 『政治家の歳時記』(誠文堂新光社)
  • 『政治家の方丈記』(理想社
  • 『十二支攷』全6巻(思文閣出版)没後、十二支の研究書として

ほか多数

脚注

  1. 森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十三章 (PDF)”. 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2013閲覧.
  2. 読売新聞、2014年7月6日、4面
  3. 宮津市立前尾記念文庫 宮津観光ピント会
  4. 青山忠正「前尾記念文庫所蔵の近代政治家書簡群について」『仏教大学総合研究所紀要』仏教大学総合研究所、第9号、2002年、pp.65-71
  5. 『前尾繁三郎先生のこころ』田中太一郎、1984年

関連項目

議会
先代:
中村梅吉
日本の旗 衆議院議長
第58代:1973年 - 1976年
次代:
保利茂
先代:
植原悦二郎
日本の旗 衆議院外務委員長
1955年 - 1957年
次代:
野田武夫
先代:
中島守利
日本の旗 衆議院地方行政委員長
1950年 - 1951年
次代:
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公職
先代:
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第29代:1971年 - 1972年
次代:
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先代:
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第26代:1966年
次代:
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先代:
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第17代:1957年 - 1958年
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党職
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宏池会会長
1965年 - 1971年
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先代:
中村梅吉
自由民主党総務会長
第11代:1965年 - 1966年
次代:
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第7代:1961年 - 1964年
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1960年 - 1961年
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