加納久宜

提供: miniwiki
移動先:案内検索

加納 久宜(かのう ひさよし、嘉永元年3月19日1848年4月22日) - 大正8年(1919年2月26日)は、幕末上総国一宮藩主、明治大正時代の政治家である。鹿児島県知事千葉県一宮町長、貴族院議員十五銀行取締役日本体育会会長、日本体育会体操学校(現日本体育大学)校長。全国農事会幹事長、帝国農会初代会長。産業組合中央会副会長。日本競馬会創設に尽力、「日本農政の父」と仰がれる。官位は従二位勲二等子爵遠江守。第92代内閣総理大臣麻生太郎の曾祖父にあたる。

経歴

立花種道下手渡藩(筑後三池藩)主・立花種周の五男)の三男として生まれる。幼名は嘉元次郎。安政2年(1855年)の安政江戸大地震で、本所下屋敷が倒壊して下敷きとなり、自身は助けだされるが両親を亡くす。宗家立花氏の養子に入っていた深川の実兄立花種恭(幼名:鐘之介)に引き取られる。兄・種恭に読書、習字、弓術の指導を受けるとともに、剣術は小谷精一郎、馬術は大坪本流磐井槍吉の指南を受けた。老中格で幕閣参政として軍制改革に取り組む兄の影響を受け、フランス兵学に興味を持ち、佐久間象山の高弟・蟻川功に師事して兵学を学ぶ。

慶応2年(1866年)、上総一宮藩主・加納久恒が急死したのを受けて急遽養子となり、19歳で藩主となる。新政府軍は主にイギリスから、列藩同盟軍は主にドイツから、軍事教練や武器供与などの援助を受けていたこともあり、国入り早々近習の侍を集めてフランス式操練を行った。折りしも鳥羽・伏見の戦いが始まると海路出陣、京都に向かうが、大時化などで伊豆下田で足止めとなり、間に合わなかった。

維新後の版籍奉還により一宮藩知事となり、廃藩置県で免職となる。留学に備えて大学南校東京大学の前身、後の開成学校)でフランス語など西洋の社会・人文諸学を学ぶ。周囲の反対で留学を断念し、明治6年(1873年文部省督学局に出仕した後、岩手県師範学校初代校長、全国一の規模を持つ新潟学校長を歴任する。明治9年(1876年立花鑑寛立花種恭とともに華族学校の設立を建議する(校名は学習院となる)。

明治14年(1881年)には司法界に転じて熊谷始審裁判所長、大審院検事東京控訴院検事などを務める。

明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した[1]

明治22年(1889年)、大日本帝国憲法の発布、議院法と貴族院令が公布されると、上院(貴族院)において有爵者の任務を研究する「子爵同志研鑽会」の発足にかかわった。明治23年(1890年)、子爵の互選により兄の種恭とともに帝国議会貴族院子爵議員に選出され、明治30年(1897年)7月まで務める。第1回議会(明治23年(1890年))では弁護士法委員、両院交渉事務規定特別委員に選出されている。第2回議会(明治24年(1891年))では予算委員(第二科 外務省司法省)、帰化法案特別委員に選出されている。会派が形成される以前であったが、積極的に会合(「同士会」(加納有志会))を定期的(月2回)にもっている。その後、侯爵中山孝麿が中心となっているグループ(有志者会)と合併するがやがて脱退し、無所属となった。

明治27年(1894年)1月20日、鹿児島県知事に就任[2]。同年、内村鑑三新渡戸稲造東京英語学校で同学で、札幌農学校に学んだ岩崎行親を知事顧問として招聘し、不偏不党の方針を掲げ農業、水産、土木、教育の諸事業に積極的に取り組んだ。農会の設置と系統化を通じた農業の近代化と生産力の向上に努め、米の生産量を75%増収し、みかんやお茶などの特産品を奨励した。鹿児鉄道の新設、鹿児島港の近代化、道路などインフラ整備にも尽力し、おおきな成果を挙げる。教育の面でも、全国に先駆け、小学校の授業料を無料化し、遅れていた就学率を男女とも全国のトップレベルに引き上げた他、中学校の増設、高等学校(現鹿児島大学)の創設などに努めた。知事の肩書きにとらわれず、私財を投じ自ら先頭に立つ姿勢、気さくな性格とあいまって、県民から親のように慕われた。西南戦争により無気力化していた鹿児島県を近代化に導き、その基礎を築いた知事として、高い評価を受ける。明治33年(1900年)9月8日に知事を休職[3]。明治36年(1903年)9月7日、休職満期となり退官した[4]

鹿児島県知事を退任すると、東京都入新井村に居住した。ここでは、学務委員として地域の教育振興にも努め、明治35年(1902年)7月、英国の協同組合を見本に、大森山王の自邸を事務所にして、妻と2人で手作りで帳簿を揃えて、都内最古の入新井信用組合(現:城南信用金庫入新井支店)を設立し、荒廃していた地域を模範村にかえていき、村民から慕われる。 同時期の明治35年(1902年)、鹿児島県での実績から全国農事会幹事長に就任し、農業生産の拡大に尽力する。その後、帝国農会初代会長に就任するなど、全国の農政にも深く関与する。一方で、入新井信用組合の運営者として全国に信用組合の模範を示し、全国農事会の幹事長の立場でも産業組合運動の普及宣伝にも情熱を注ぎ、全国を遊説し、その普及活動に努める。 明治38年(1905年)には、産業組合運動の振興のため、入新井信用組合と全国農事会の主催により、全国産業組合役員協議会(後の全国産業組合大会)を開催し、自ら座長を務める。同年、大日本産業組合中央会副会頭に就任する(会頭は平田東助)。こうした活動で「産業組合の育ての親」と称される。

明治37年(1904年)、日本体育会(体操学校・現日本体育大学)会長(校長)として荏原中学(現在の日体荏原高等学校)を設立する。同年7月、再度、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任する。

明治39年(1906年)、安田伊左衛門などとともに東京競馬会の発足に尽力する。日本人による初の馬券付き競馬を、東京大森の池上競馬場にて開催する。明治43年(1910年)には、東京競馬会・日本競馬会・京浜競馬倶楽部・東京ジョッケー倶楽部を統合して東京競馬倶楽部が設立され、初代会長に就任する。

明治45年(1912年)に清浦内閣成立の折には、農商務省大臣就任が要望されたが、地元一宮町民の熱望により一宮町長に就任する。その任期中、特に農業畜産の振興、耕地整理による基盤整備、名士の別荘招致、海水浴場創設と植林、青年会等各種団体の育成、一宮女学校開設、他多数の事業を力強く推進した。

大正6年(1917年)、町長退任後も名誉町長格で毎日役場に出勤していた。同年、一宮町の農業青年70人を率いた大視察団とともに鹿児島県を訪れる。鹿児島入りしたときは、駅頭黒山の歓迎陣で埋まった。最初に発した言葉は「昔植えたミカンを早く見たい」であった。

大正8年(1919年2月26日、避寒療養先の大分県で亡くなる。「地方自治の恩人 加納子逝く 一昨夜別府で 享年七十有四」と『東京日日新聞』(2月28日)は報じている。葬儀は3月6日、東京谷中斎場で行われ、加納家墓地に葬られる。遺言は「一にも公益事業、二にも公益事業、ただ公益事業に尽くせ」。晩年の家庭の話題は鹿児島のことばかりで「もし我輩が亡くなっても鹿児島のことで話があったら冥土に電話せい」が口癖であったという。同年3月1日、長年の産業振興への貢献により藍綬褒章を受章した[5]

大正11年(1922年)には偉業、威徳を慕う一宮町民多数の懸請により、町を見下ろす城山に分骨を納めた「加納久宜公の墓」が建立されている。墓前には、昭和18年(1943年)に鹿児島県知事加納久宜顕彰会からの寄贈による薩摩風石灯籠一対もある。町民の要望により、分骨されている。

昭和18年(1943年)に鹿児島県では記念行事が催され、また加納知事顕彰会より鹿児島県庁跡に記念碑が建てられ、一宮町の墓に薩摩灯篭が奉納されている。

栄典

家族

  • 長女:嘉子(夭折)
  • 二女:冲子(陸軍中将・武田三郎室)
  • 三女:国子(子爵・阿野季忠室)
  • 四女:八重子(地質学者、実業家・野田勢次郎室)
  • 五女:治子(内務大臣・後藤文夫室)
  • 六女:夏子(実業家・麻生太郎(=麻生元総理の祖父)室)

橋本龍太郎の妻・久美子、麻生太郎、作家・野田昌宏なども子孫に当たる。

脚注

  1. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. 『官報』第3167号、明治27年1月22日。
  3. 『官報』第5158号、明治33年9月10日。
  4. 『官報』第6058号、明治36年9月9日。
  5. 『官報』第1972号、大正8年3月3日。
  6. 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
  7. 『官報』第6101号「叙任及辞令」1903年10月31日。
  8. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。

参考文献

  • 『鹿児島の勧業知事 加納久宜小伝』 編者 加納知事五十年祭奉納会 著者 大囿純也 春苑堂書店1969年。
  • 『加納久宜 鹿児島を蘇らせた男』大囿純也著 高城書房 2004年。
  • 『加納久宜集』松尾れい子編 冨山房インターナショナル 2012年。
  • 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』衆議院・参議院編 1990年。

関連項目

外部リンク


日本の爵位
先代:
叙爵
子爵
一宮加納家初代
1884年 - 1919年
次代:
加納久朗

テンプレート:鹿児島県知事 テンプレート:一宮藩主