信濃川

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新潟市河口部(写真左(西)は日本海
写真上(北)から、阿賀野川、信濃川、関屋分水
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信濃川(新潟県十日町市)

信濃川(しなのがわ)は、新潟県および長野県を流れる一級河川。信濃川水系の本流である。新潟市日本海に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県にさかのぼると千曲川ちくまがわと呼称が変わる。この項目では千曲川と呼称される上流部を合わせ記述する。全長367キロメートルのうち、信濃川と呼ばれている部分が153キロメートルなのに対し、千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと千曲川の方が長い。ただし、河川法上では千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっている。

流域面積11,900km2は日本第3位。新潟、長野両県内でほとんどを占めるが、一次支川中津川の源流部が群馬県野反湖付近にあり、水系流域としては群馬を含む3県に及ぶ。

千曲川(信濃川)は古くは万葉の頃から多くの詩歌に歌われ、近代になっても流域の佐久市小諸市周辺を島崎藤村千曲川旅情のうた小諸なる古城のほとり)が、長野市周辺から新潟県境付近の豊田村(現:中野市)周辺を高野辰之朧月夜故郷)が歌にしている。

地理

千曲川埼玉県山梨県長野県の県境に位置する甲武信ヶ岳の長野県側斜面(南佐久郡川上村)を源流とし、八ヶ岳関東山地などを源流とする諸河川と合流しつつ佐久盆地(佐久平)、上田盆地(上田平)を北流する。長野盆地(善光寺平)の川中島の北端に該当する場所で、飛騨山脈を源流とし松本盆地(松本平)から北流してきた犀川と合流する。なお合流地点には落合橋(おちあいばし)が架橋されている。この橋はT字型の特殊な形態の橋である。川はその後北東に流れ、新潟県に入って信濃川と名前を変える。信濃川は、十日町盆地を通って越後平野(新潟平野)に出て群馬・新潟県境の谷川岳から流れてきた魚野川と合流、新潟市日本海に注ぐ。河口は阿賀野川の河口に近く、時代によっては新潟の地で合流して河口を共有していたこともあった。

地学的知見

源流域の川上村〜佐久市〜上田市にかけては、千曲川構造線に沿うようにして北西に流下し千曲市付近で北東方向に約90°方向を変え長野市からは、信濃川断層帯を北東に延長した断層帯域の地質的に弱い所を浸食し流下し、日本海へと向かう。 河床勾配の変化を見ると、上流部の佐久地域で 7.3%、上田地域で、5.5%である。しかし、長野市周辺では、0.93%となるが、西大滝ダム付近を変化点としては再び河床勾配は急になり、長野新潟県境付近から下流の十日町付近までは、3.5%の勾配となる [1]。こうした勾配の変化をもたらしている原因は第四紀後期完新世の隆起活動と隆起に伴い形成された断層による物で、隆起としては中野市から飯山市付近の高丘丘陵などが影響を与えて、断層としては立ヶ花付近には長野盆地西縁断層のひとつ長丘断層が河を横切っている、また西大滝ダム付近には重地原断層、北竜湖断層があり、長野新潟県境付近には津南断層がある。

水害の歴史

長野県の水害

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長野県小布施町にある洪水水位標。地面が水位約6.9m で、一番上が、寛保2年の氾濫水位 10.7mを示す。

千曲川流域の洪水で最も古いものは、文献(日本紀略)などに仁和4年(888年)が記録されている。歴史上、最大の洪水は1742年(寛保2年)の洪水で「戌の満水」と呼ばれている。そして徳川幕府治世の時代を通じて64回の水害が記録されていたとされる。

  • 888年6月20日(仁和4年)887年に発生した仁和南海地震東海地震で八ヶ岳の山麓が崩壊し形成された堰止め湖(河道閉塞)が、303日後に決壊し発生した土石流が原因と考えられる洪水[2][3][4]。大月川に出来た河道閉塞の湛水量は5.8億m3と推定されている[4]
  • 1543年天文12年)千曲川大洪水で船山郷が流失。
  • 1602年慶長7年)千曲川大洪水で黒彦郷が流消分散。
  • 1742年寛保2年) 戌の満水千曲川で史上最大の大洪水 立ヶ花水位(36尺 10.9m)。死者 2800名
  • 1847年弘化4年) 善光寺地震による土砂崩れが犀川をせき止め、崩壊し下流に大きな被害。立ヶ花水位 8.2m
  • 1859年安政6年) 現在の千曲市の戸倉大西堤防、千本柳下河原堤防が決壊[5]
  • 1868年明治元年) 千曲川、この年合計7回の出水、4月と5月は甚大な被害。家屋流出102戸
  • 1885年(明治15年) 9月、10月堤防決壊、浸水700戸[5]
  • 1896年(明治29年) 千曲川、寛保以来の大洪水。『横田切れ』流出、浸水家屋は10000戸以上。
  • 1897年(明治30年) 千曲川、犀川ともに洪水、千曲川流域で浸水家屋599戸。
  • 1898年(明治31年) 現在の千曲市の粟佐堤防決壊、浸水7300戸以上、死者6名[5]
  • 1910年(明治43年) 千曲川をはじめ、各河川が氾濫。流失259戸、床上・床下浸水12800戸以上。
  • 1914年大正3年) 死傷者36人、流出家屋30戸、浸水家屋339戸。
  • 1945年昭和20年) 阿久根台風の影響による低気圧による大雨、死者42人、床上浸水2204戸、床下浸水4843戸。長野市綱島と須坂市大倉崎で破堤。
  • 1949年(昭和24年) キティ台風による。全壊家屋45戸、半壊家屋187戸、浸水家屋1478戸。長野市丹波島と須坂市村山で破堤。
  • 1958年(昭和33年) 台風21号により中小河川が氾濫決壊、死者9名、全壊家屋9戸、半壊家屋62戸、流出家屋19戸、床上浸水564戸、床下浸水2807戸。
  • 1959年(昭和34年) 台風7号[6]による、死者・行方不明者65人、全壊家屋1391戸、半壊家屋4091戸、床上浸水4238戸、床下浸水10959戸。立ヶ花水位10.44m
  • 1961年(昭和36年) 6月梅雨前線[7]による大雨により千曲川流域の死者107人、全壊家屋903戸、半壊家屋621戸、床上浸水3170戸、床下浸水15351戸。
  • 1965年(昭和40年) 長野県内死者2人、床上浸水265戸、床下浸水2815戸。
  • 1969年(昭和44年) 犀川支川高瀬川流域に被害が集中。観光客、登山客が高瀬、梓渓谷に約500人取り残され、3日後に救出。
  • 1981年(昭和56年) 昭和34年以来の大洪水、死者11人、床上浸水4906戸、床下浸水3683戸。
  • 1982年(昭和57年) 6月、梅雨前線と台風10号による。死者4人、全壊流出家屋23戸、半壊44戸、床上浸水80戸、床下浸水1384戸。立ヶ花で昭和34年に次ぐ戦後第2の水位。9月、台風18号による。千曲川支川の樽川が決壊、死傷者54名、床上浸水3794戸、床下浸水2425戸。
  • 1983年(昭和58年) 梅雨前線[8]により飯山市の千曲川本流が破堤、死者9名、全壊家屋7戸、半壊家屋8戸、床上浸水3891戸、床下浸水2693戸。立ヶ花で既往最高水位を記録。(11.13m)
  • 1985年(昭和60年) 犀川で被害発生、床上浸水171戸、床下浸水1032戸。
  • 1995年平成7年) 梅雨前線[9]による。家屋浸水765戸、JR飯山線に大きな被害。
  • 1998年(平成10年) 床上浸水8戸、床下浸水110戸。
  • 1999年(平成11年) 熱帯性低気圧[10]による、死者1名、浸水家屋779戸、道路寸断、列車運休が多発。
  • 2004年(平成16年) 台風23号による。床上浸水31戸、床下浸水432戸立ヶ花において既往第4位の水位を記録、浸水家屋139戸。立ヶ花水位10.32m
  • 2006年(平成18年) 7月梅雨前豪雨[11]。床上浸水4戸、床下浸水50戸。立ヶ花及び陸郷において既往第2位の水位を記録、避難勧告4市11地区。立ヶ花水位10.68m

後述の河川改修・治水工事により、同じ規模の増水では堤防の決壊などは起こらなくなっていることが読み取れる。 立ヶ花観測点(1951年観測開始)は旧豊野町(現長野市)と中野市の境にある国土交通省による水位観測点で、千曲川河床の勾配が緩くなると共に1000mを超える川幅が210mにまで狭窄する部分[12]。これより下流は、第四紀後半から始まる地盤の隆起のため川の流れは蛇行し流速が落ちる。立ヶ花水位観測点の計画高水位は10.75m、氾濫危険水位は8.6m、普段の水位は2 - 3 m程度。

新潟県の水害

  • 1620年 (元和 6年) 長岡西北地方で氾濫。
  • 1868年(明治元年)流出家屋10戸。
  • 1896年(明治29年)『横田切れ』。流出家屋 2500戸、大川津水位 4.4m。
  • 1913年(大正2年) 小阿賀野川北岸の木津池点が破堤(「木津切れ」)、浸水1440戸、死者2名[13]
  • 1914年(大正 3年)死者55名、床上浸水7154戸、床下浸水1881戸。
  • 1917年(大正 6年)『曽川切れ』。曽川水門補修箇所で破堤。死者76名、流出家屋19戸。大川津水位 4.5m。
  • 1917年(大正15年)死者1名、流出家屋3戸、床上浸水250戸、床下浸水120戸。
  • 1935年(昭和10年)家屋浸水425戸。
  • 1949年(昭和24年)キティ台風による洪水、家屋全壊1戸、床上浸水45戸、床下浸水307戸。
  • 1952年(昭和27年)死者3名、流出家屋1戸、床上浸水156戸、床下浸水1858戸。東台通川で破堤。
  • 1956年(昭和31年)死者7名、床上浸水730戸、床下浸水1605戸。
  • 1958年(昭和33年)死者9名、流出家屋19戸、床上浸水4429戸、床下浸水7723戸。
  • 1959年(昭和34年)死者3名、床上浸水44戸、床下浸水859戸
  • 1960年(昭和35年)死者4名、全壊家屋2戸、半壊家屋2戸、床上浸水1474戸、床下浸水4602戸。
  • 1961年(昭和36年)8月台風による大雨により、死者3名、全壊家屋2戸、半壊家屋2戸、床上浸水1474戸、床下浸水4602戸。
  • 1964年(昭和39年)全壊家屋20戸、半壊・床上浸水2730戸、床下浸水13970戸。
  • 1967年(昭和42年)全壊家屋21戸、半壊・床上浸水5072戸、床下浸水12496戸。
  • 1969年(昭和44年)高柳川で破堤。死者9名、全壊家屋122戸、半壊・床上浸水839戸、床下浸水7447戸。
  • 1978年(昭和53年)全壊家屋21戸、半壊・床上浸水4217戸、床下浸水9035戸。
  • 1981年(昭和56年)魚野川(六日町)で破堤。死者2名、床上浸水1446戸、床下浸水1502戸。
  • 1982年(昭和57年)9月、半壊家屋1戸、床上浸水52戸、床下浸水322戸。
  • 1983年(昭和58年)床下浸水12戸。
  • 1985年(昭和60年)床上浸水1戸、床下浸水13戸。
  • 1998年(平成10年)8月梅雨前線[14]により、半壊家屋3戸、床上浸水1422戸、床下浸水8842戸。9月台風により、床上浸水3戸、床下浸水183戸。
  • 2004年(平成16年)7月前線により、五十嵐川と刈谷田川で破堤。死者15名、全壊家屋169戸、半壊家屋810戸、床上浸水10712戸、床下浸水6359戸。

生態系

信濃川水系開発史

為政者達の治水

縄文時代、新潟市を中心とした越後平野日本海であった。その後、徐々に信濃川や阿賀野川が運搬してきた土砂と、対馬海流が運んできた土砂が越後砂丘を形成し堆積、現在の越後平野を形成したが低湿地で方々にが存在し、水捌けの悪い地域であった。又、洪水によって幾度も流路を変えた。1597年慶長2年)、越後春日山城主上杉景勝の執政で名将と謳われた直江兼続は燕・三条付近の洪水調節を図る為中ノ口川を開削。これが近世信濃川治水史の端緒となる。上杉氏転封後の江戸時代新発田藩主となった溝口氏は中ノ口付近も領していた為に代々の藩主は河川改修を実施していた。長岡藩第9代藩主の牧野忠精は信濃川の河川改修に特に力を入れた。新川開削の大事業を行い蒲原平野に存在していた3つの潟の悪水を日本海に排水し、蒲原平野の新田開発を成功させた。信濃国・千曲川でも江戸時代を通じて64回の洪水を記録し、犀川との同時洪水ですら11回を記録するという。この間に福島正則松代藩主・松平忠輝の家老花井氏親子や真田氏歴代が築堤や掘割、河道の付替えなどを度々行った。

大河津分水計画

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大河津分水。流路は人工の幾何学的曲線を描く。
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1930年頃(昭和初頭)に発行された新潟市の地図。大河津分水によって流量が減った河口部では川幅縮小工事が行われ、萬代橋を短縮して架け替えたり、中州の万代島まで右岸を埋め立てたりしている。

だが、度重なる治水事業を行っているにも拘らず、信濃川は度々氾濫を繰り返し為政者の頭を悩ませた。こうした中で浮上して来たのが大河津分水路計画である。そもそもの発端は享保年間に寺泊の豪商・本間屋数右衛門らが幕府に言上したのが始まりである。1842年天保13年)に江戸幕府は大河津分水計画を本格的に検討しだしたが、その後は北越戦争等で越後は混乱を来たし分水計画は宙に浮いた。

明治時代に入ると本格的な分水計画に着手。1870年明治3年)には第1期大河津分水路工事が開始された。しかし、反対運動も多く、結局外国人技術者の意見を容れ1875年(明治8年)に第1期工事は中止の止む無きに至った。翌1876年(明治9年)、内務省による「信濃川河身改修事業」が着手された。この事業が近代信濃川治水史の原点とも言われている。これは堤防の築堤と河川敷整備を中心としたものであった。だが、河川敷整備は川原に棲息するツツガムシによる古典型恙虫病の蔓延によって多くの工事従事者が病に倒れた。更に1896年(明治29年)7月、信濃川を有史以来の記録的な洪水「横田切れ」が流域に甚大な被害を与え、堤防整備の有効性に疑念が噴出した。こうした中で原田貞介が大河津分水工事改良案を提出。これを元に1909年(明治42年)、原田案をベースに第2期大河津分水路工事が着手された。難工事による100名以上の殉職者を出しながらも1922年大正11年)、大河津分水路は通水に成功し2年後の1924年(大正13年)に悲願の完成を果たした。実に、発案から完成まで200年近くを費やしている。1918年(大正7年)〜1941年昭和16年)には、千曲川第1期補修事業が内務省の手によって進められたが、洪水は容赦なく発生し根本的な解決には至らなかった。

戦後の治水〜ダムと放水路〜

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鳥屋野潟および阿賀野川と信濃川を結ぶ小阿賀野川

1948年(昭和23年)からは千曲川第二期補修事業が建設省(現・国土交通省北陸地方整備局)の手によって着手され現在も進行中である。しかし、数年に一度は洪水による被害を流域は受けており、根本的な治水対策としてダムによる洪水調節が図られた。信濃川水系においては建設省直轄事業よりも先に新潟県長野県による県営ダム事業が推進され、裾花ダム裾花川)、笠堀ダム(笠堀川)等が建設された。建設省は1960年(昭和35年)に関屋分水路の建設を計画したが、1964年(昭和39年)の新潟地震によって新潟市内が広範囲にわたり浸水したことから鳥屋野潟の排水計画に着手した。この後、黒川放水路1969年(昭和44年)に完成。関屋分水路は1972年(昭和47年)に通水し、蒲原大堰・中の口川水門も建設が開始された。

だが1969年8月の集中豪雨は流域に大きな被害をもたらし、対策として建設省は1974年(昭和49年)、「信濃川水系工事実施基本計画」を改定。この中で多目的ダムの建設を計画し、大町ダム高瀬川)が1986年(昭和61年)に、三国川ダム(三国川)が1993年平成5年)に完成した。県営でも大谷ダム(五十嵐川)や破間川ダム破間川)が新潟県に、奈良井ダム奈良井川)や奥裾花ダム(裾花川)が長野県に完成した。又、人口が急増している長岡市に上水道を供給するため妙見堰(信濃川)が1990年(平成2年)に完成している。

治水整備は進められている一方、その後も水害は繰り返し起こり2004年(平成16年)には平成16年7月新潟・福島豪雨(7・13水害)が三条市見附市等に被害をもたらした。この様に古来より洪水と治水は「いたちごっこ」の状況で、信濃川の治水の難しさを物語っているが現在でも広神ダム(和田川)・晒川ダム(晒川)などの多目的ダムが建設中である。

日本屈指の水力発電地帯

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小千谷市付近を蛇行する信濃川。この蛇行部近くにJR東日本発電所があり、写真中央に調整池が見える(新潟県小千谷市)
蛇行部拡大画像はこちら

一方、信濃川は水量が豊富でかつ上流部は関東山地飛騨山脈木曽山脈である事から急流であり、水力発電には絶好の適地であった。大正時代には高瀬川の高瀬川発電所が建設されていたが、昭和初期に入ると各地で水路式発電所が建設された。特に、旧・鉄道省(現・JR東日本)は信濃川に大規模水力発電所を建設。信濃川本川に宮中ダム1938年(昭和13年)に建設、新山本・浅河原調整池や千手・小千谷・新小千谷発電所を建設し首都圏の鉄道運転の為の電力を供給した。

戦後に入ると大規模な揚水発電所が各所に建設された。特に梓川の安曇水殿発電所や高瀬川の新高瀬川発電所、南相木川の神流川発電所、清津川の奥清津・奥清津第二発電所は日本有数の規模を誇り、首都圏に電力を供給する上での重要性は大きい。

公共事業見直しと「脱ダム宣言」

この様に信濃川は治水・利水の為の施設が多く存在する。だが、1990年代以降公共事業見直しの機運が全国的に高まり、利根川淀川等全国の主要河川においてダムを始めとする河川施設の建設中止が相次いだ。信濃川水系も例外ではなく2002年(平成12年)に信濃川水系では最大規模の総貯水容量を擁する予定であった清津川ダム(清津川。国土交通省北陸地方整備局)が、2003年(平成13年)には戦前から連綿と続き戦後「只見特定地域総合開発計画」でも取り上げられた『只見川水力発電新潟分水案』に基づく「湯之谷揚水発電計画」、その根幹である佐梨川ダム(佐梨川。新潟県)が上池と共に中止となり長年に亘る新潟分水案はここに潰えた。県営ダムでも三用川ダム(三用川。新潟県)が建設中止となっている。

又、国土交通省北陸地方整備局(当時は建設省北陸地方建設局)は1981年(昭和56年)の信濃川洪水を機に、1954年(昭和29年)より構想のあった「千曲川上流ダム計画」を南佐久郡南牧村に計画した。これは洪水調節・上水道等を目的とした多目的ダムとして、信濃川本川上流に堤高約80.0m、総貯水容量が約70,000,000tという本格的なダムを建設しようとしたものである。「千曲川上流ダム」が完成すると南牧村を中心に250戸が水没する他、JR小海線が水没する。1984年(昭和59年)に実施計画調査の為の予算が付いたが住民の強硬な反対に遭い、その後地元南牧村を始め南佐久郡5町村が建設推進を撤回して反対に回り、計画が凍結した。その後公共事業見直しの機運の中で計画は再検討され、2002年に「千曲川上流ダム計画」は国土交通省によって白紙撤回となった。こうして日本最長の河川に建設される予定であった唯一の多目的ダムは中止されたが、ダムに代わる治水代替案は確定されていない。

2004年(平成14年)に入ると、長野県知事・田中康夫の『脱ダム宣言』によって長野県内に計画中の信濃川水系のダム計画が纏めて中止となった。浅川ダム浅川)・角間ダム(角間川)・黒沢ダム(黒沢川)・清川ダム(清川)が対象となり、有無を言わさぬ形での中止であった。この宣言には「先進的な思想」・「環境保護を重視した良策」・「公共事業と利権の癒着を抉り出す第一歩」と賞賛する声が多い。その一方で「治水対案が根拠薄弱」・「住民の安全を無視した愚策」との批判もある。代替案である「河道内遊水地」が結局名前を変えたダムであるとの指摘もあり、浅川ダムの様に下流住民の合意を得ずに中止した面もあるため、洪水の多発する信濃川で今後洪水が起こったときに知事がどのような対応を取るのか、注目されていたが、2006年(平成18年)7月の平成18年7月豪雨で天竜川流域が豪雨による被災を受けた。『脱ダム宣言』が直接災害に関係していたわけではないにしろ、治水対策の不備を含め田中県政に対する様々な不満が表面化。県知事選挙に敗北し田中は野に下った。

田中に代わり村井仁が知事に就任したが、『脱ダム宣言』については当初は批判的発言を繰り返していたものの就任後は性急なダム建設回帰には慎重な姿勢を示したが、2007年2月河道内遊水池(穴あきダム)を是とする判断が出された。

信濃川水系の主要河川

信濃川水系の河川施設

信濃川の利水に関しては、本流と支流で異なった特徴を持つ。信濃川本川には高さ50メートルを超えるダム多目的ダムは存在しないが、その分放水路が多い。一つの河川に放水路が2か所も建設されているのは信濃川だけである。それだけ治水に苦労していることをうかがい知ることができる。また、利根川木曽川淀川ほど水資源確保のための系統的利水施設が多く存在しないのも特徴で、主眼はあくまでも治水と灌漑に置かれている。逆に支流には大小数多くの治水・治山・利水ダムが建設されている。

一方、水力発電施設においては全国屈指の発電量・発電施設を誇る。揚水発電所だけでも梓川・相木川・高瀬川・黒又川・清津川の5か所に建設された実績があり、これも全国屈指の数である。また、新潟県内ではJR東日本首都圏の鉄道網を支える電力供給を信濃川から得ている。

河川施設一覧

ダム
一次
支川名
(本川)
二次
支川名
三次
支川名
ダム名 堤高
(m)
総貯水
容量
(千m3
型式 事業者 備考
千曲川 西浦ダム 14.2 335 重力式 東京電力ホールディングス 小堰堤
千曲川 西大滝ダム 14.2 770 重力式 東京電力ホールディングス 小堰堤
信濃川 宮中ダム 16.4 970 重力式 東日本旅客鉄道
信濃川 妙見堰 可動堰 国土交通省
東日本旅客鉄道
信濃川 大河津分水 放水路 国土交通省
信濃川 蒲原大堰 可動堰 国土交通省
信濃川 関屋分水 放水路 国土交通省
信濃川 信濃川水門 水門 国土交通省
(河道外) 浅河原調整池 37.0 1,065 アース 東日本旅客鉄道 土木遺産
(河道外) 新山本調整池 42.4 3,640 ロックフィル 東日本旅客鉄道
相木川 南相木川 南相木ダム 136.0 19,170 ロックフィル 東京電力ホールディングス
抜井川 古谷ダム 48.5 2,200 重力式 長野県
抜井川 余地川 余地ダム 42.0 523 重力式 長野県
湯川 湯川ダム 50.0 3,400 重力式 長野県
金原川 金原ダム 36.5 388 ロックフィル 長野県
依田川 内村川 内村ダム 51.3 2,000 重力式 長野県
神川 菅平ダム 41.8 3,451 重力式 長野県
犀川 大正池 ラバーダム 東京電力ホールディングス 小堰堤
犀川 釜ヶ渕堰堤 29.0 アーチ式 国土交通省 砂防ダム
登録有形文化財
犀川 奈川渡ダム 155.0 123,000 アーチ式 東京電力ホールディングス
犀川 水殿ダム 95.5 15,100 アーチ式 東京電力ホールディングス
犀川 稲核ダム 60.0 10,700 アーチ式 東京電力ホールディングス
犀川 犀川白鳥湖 5.8 可動堰 中部電力 小堰堤
犀川 生坂ダム 19.5 3,100 重力式 東京電力ホールディングス
犀川 平ダム 20.0 3,033 重力式 東京電力ホールディングス
犀川 水内ダム 25.3 4,248 重力式 東京電力ホールディングス
犀川 笹平ダム 19.3 2,755 重力式 東京電力ホールディングス
犀川 小田切ダム 21.3 2,546 重力式 東京電力ホールディングス
犀川 セバ川 セバ谷ダム 22.7 46 重力式 東京電力ホールディングス
犀川 奈良井川 奈良井ダム 60.0 8,000 ロックフィル 長野県
犀川 高瀬川 高瀬ダム 176.0 76,200 ロックフィル 東京電力ホールディングス
犀川 高瀬川 七倉ダム 125.0 32,500 ロックフィル 東京電力ホールディングス
犀川 高瀬川 大町ダム 107.0 33,900 重力式 国土交通省
犀川 会田川 水上沢川 水上ダム 38.0 276 重力式 長野県
犀川 麻績川 宮川 北山ダム 43.0 213 重力式 長野県
犀川 麻績川 別所川 小仁熊ダム 36.5 1,930 重力式 長野県
犀川 裾花川 奥裾花ダム 59.0 5,400 重力式 長野県
犀川 裾花川 裾花ダム 83.0 15,000 アーチ式 長野県
犀川 裾花川 湯の瀬ダム 18.0 330 重力式 長野県企業局
百々川 灰野川 豊丘ダム 81.0 2,580 重力式 長野県
中津川 野反ダム 44.0 28,700 ロックフィル 東京電力ホールディングス
中津川 渋沢ダム 20.7 220 重力式 東京電力ホールディングス
中津川 穴藤ダム 55.3 630 重力式 東京電力ホールディングス
中津川 (河道外) 高野山ダム 33.0 560 ロックフィル 東京電力ホールディングス
清津川 二居ダム 87.0 18,300 ロックフィル 電源開発
清津川 カッサ川 カッサダム 90.0 13,500 ロックフィル 電源開発
清津川 カッサ川 カッサ川ダム 20.5 104 アーチ式 東京電力ホールディングス
清津川 釜川 大谷内ダム 23.2 1,206 アース 北陸農政局
魚野川 三国川 三国川ダム 119.5 27,500 ロックフィル 国土交通省
魚野川 破間川 破間川ダム 93.5 15,800 重力式 新潟県
魚野川 破間川 薮神ダム 23.0 1,857 重力式 東北電力 土木遺産
魚野川 破間川 黒又川 黒又川第二ダム 82.5 60,000 アーチ式 電源開発
魚野川 破間川 黒又川 黒又川第一ダム 91.0 42,850 重力式 電源開発
魚野川 破間川 黒又川 黒又ダム 24.5 1,454 重力式 東北電力 土木遺産
魚野川 破間川 和田川 広神ダム 83.0 12,400 重力式 新潟県 建設中
大河津分水 大河津可動堰 可動堰 国土交通省
中ノ口川 中ノ口川水門 水門 国土交通省
刈谷田川 刈谷田川ダム 83.5 4,450 重力式 新潟県
五十嵐川 大谷ダム 75.5 20,000 ロックフィル 新潟県
五十嵐川 笠堀川 笠堀ダム 74.5 15,400 重力式 新潟県
下条川 下条川ダム 31.0 1,530 重力式 新潟県
関屋分水 新潟大堰 可動堰 国土交通省

(注):黄欄は建設中もしくは計画中のダム(2006年現在)。

頭首工・取水堰
一次支川
(本川)
所在地 堰名 管理主体 備考
千曲川 長野県上田市 上田農水頭首工 土地改良区
千曲川 長野県埴科郡坂城町 埴科頭首工 土地改良区
信濃川[16] 新潟県三条市[16] 大島頭首工[16] 新潟県[17]

水位観測点

国土交通省 河川事務所の観測点は、下流側より

新潟県
  • 西港 新潟県新潟市中央区入船町
  • 帝石橋 新潟県新潟市西区山田
  • 新酒屋 新潟県新潟市江南区花ノ牧
  • 臼井橋 新潟県新潟市南区堀掛
  • 保明新田 新潟県南蒲原郡田上町大字保明新田
  • 荒町 新潟県三条市荒町
  • 尾崎 新潟県三条市栄町尾崎
  • 大河津 新潟県燕市大川津
  • 長岡 新潟県長岡市信濃1丁目
  • 小千谷 新潟県小千谷市元町433-2
  • 岩沢 新潟県小千谷市真人町
  • 十日町所在地 新潟県十日町市新宮乙
  • 宮野原 新潟県中魚沼郡津南町上郷寺石
長野県
  • 立ヶ花 長野県中野市立ヶ花52-1
  • 大倉崎 長野県飯山市常盤
  • 殿橋 長野県中野市大字江部632-1
  • 杭瀬下 長野県千曲市杭瀬下
  • 生田 長野県上田市生田字下梨平
  • 塩名田 長野県佐久市御馬寄1538

主な橋梁

河口より記載

利用

水運

千曲川・信濃川は共に江戸時代から明治時代にかけて川舟による通船が全盛を迎え、流域の物流を担った。河口は古代から蒲原津(かんばらのつ)、沼垂津(ぬったりのつ)、新潟津などの(新潟三ヵ津)が栄え、特に新潟は江戸時代に大きく発展して日米修好通商条約による開港場のひとつとされた。新潟港には現在もロシア韓国などとの国際便が就航する。

漁業

千曲川水系の長野県内の漁業協同組合。ただし、犀川水系を除く。
漁業組合名 流域
南佐久・南部 南佐久郡八千穂村から上流の千曲川本支流
佐 久 小諸市から南佐久郡佐久町の千曲川本支流
上 小 小県郡と上田市の千曲川本流、依田川、神川
更 埴 長野市松代町から埴科郡坂城町の千曲川本支流
千曲川 小布施町から長野市松代町の千曲川本支流
北 信 鳥居川・夜間瀬川と千曲川本支流
高 水 水内郡栄村から飯山市の千曲川本支流
志賀高原 雑魚川の本支流
  • 漁業者により捕獲が行われる主な魚種は、アユ、コイ、フナ、ウグイ、オイカワ、クチボソ、ナマズ、ドジョウ。特徴的な漁法は「つけ場漁」で、川の流れの中に人工的に整備した産卵床を整え、そこに集まってくるウグイを捕獲する漁法である。オイカワは1929年に始まったアユの稚魚放流に伴い琵琶湖から移入された[18]。かつて流域で漁獲量は1万8千〜4万尾の漁獲量を誇ったサケ(シロザケ)、マス(サクラマス)は、西大滝ダム宮中ダムの完成により遡上がほとんど無くなり、1940年(昭和15年)を境に漁業としては成立しなくなった。長野県では、「カムバックサーモン」キャンペーンを昭和55年から展開し、21年間で1億6,000万円かけて899万匹を放流したが、西大滝ダム下流まで遡上したのは、48匹であった[19]
  • 放流が行われる主な魚種は、アユ、イワナ、ウナギ、コイ、サケ、ニジマス、ヤマメ、カジカ。千曲川ではかつて、コクレンハクレンソウギョカムルチーの放流も行政の主導で行われていた。
  • 外来種として生息が確認されている魚類は、カムルチー、オオクチバス、コクチバス、ブルーギル、カワマス、ブラウントラウト、カダヤシ、テラピア、タイリクバラタナゴ。
信濃川水系新潟県内の漁業協同組合
漁業組合名 流域
信濃川 新潟市中央区・昭和大橋上流端から同市秋葉区・小須戸橋下流端に至る信濃川本支流

脚注

  1. 新潟平野∼ 信濃川構造帯の地震と活断層(pdf)新潟大学理学部自然環境科学科地球環境科
  2. 仁和の洪水信州発考古学最前線
  3. 平安時代に起こった八ヶ岳崩壊と千曲川洪水 (PDF) 歴史地震 (26), 19-23, 2011
  4. 4.0 4.1 長野県中・北部で形成された巨大天然ダムの事例紹介 (PDF) 歴史地震研究会 歴史地震第26号
  5. 5.0 5.1 5.2 千曲市及び千曲川の主な水害の被害状況 (PDF) 千曲市
  6. 台風第7号 昭和34年(1959年)8月12日~8月14日
  7. 昭和36年梅雨前線豪雨 昭和36年(1961年) 6月24日~7月5日
  8. 昭和58年7月豪雨 昭和58年(1983年) 7月20日~7月29日
  9. 梅雨前線 平成7年(1995年) 6月30日~7月22日
  10. 熱帯低気圧 平成11年(1999年) 8月13日~8月16日
  11. 平成18年7月豪雨 平成18年(2006年) 7月15日~7月24日
  12. 平成26年度事業概要 千曲川・犀川 (PDF) 国土交通省 北陸地方整備局 千曲川河川事務所
  13. 亀田郷を襲った大洪水 - 亀田郷土地改良区、2017年6月15日閲覧。
  14. 梅雨前線 平成10年(1998年) 8月3日~8月7日
  15. 河川管理施設紹介 満願寺閘門と小阿賀樋門 阿賀野川河川事務所
  16. 16.0 16.1 16.2 新潟県の主な土地改良施設(大島頭首工と白根排水機場ほか2排水機場)”. 農林水産省北陸農政局. . 2014閲覧.
  17. 施設管理係のホームページ”. 新潟県農地部農地建設課施設管理係. . 2014閲覧.
  18. 片野修、中村智幸、山本祥一郎、阿部信一郎「長野県浦野川における魚類の種組成と食物関係」、『日本水産学会誌』第70巻第6号、公益社団法人日本水産学会、2004年11月15日、 902-909頁、 doi:10.2331/suisan.70.902NAID 110003161507
  19. 千曲塾 第14回議事録 国土交通省千曲川河川事務所

参考文献

関連項目

外部リンク