卑弥呼

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卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 247年あるいは248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号親魏倭王

史書の記述

『三国志』の卑弥呼

「魏志倭人伝」の卑弥呼

魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。この鬼道の意味には諸説あり正確な内容は不明だが、魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように卜術を能くする巫女(シャーマン)であった可能性が高い。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。

福岡県糸島の平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土していることから原田大六は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、魏志倭人伝における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。

既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。

卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、円墳ないしそれに近い形状であったと考えられる。

「魏書帝紀」の俾弥呼

三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。

年譜

『三国志』

  • 時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑彌呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はないが、弟がいて国の統治を補佐した。
  • 景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らをに派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた[1]
  • 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
  • 正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
  • 正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与[2]
  • 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢[3]を授与。
  • 時期不明 - 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

『後漢書』

『晋書』

『三国史記』新羅本紀

  • 173年 - 倭の女王卑弥呼[4]が新羅に使者を派遣した[5]
  • 193年 - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った[6][7]
  • 208年 - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ[8]
  • 232年 - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
  • 287年 - 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。

『三国史記』于老列伝

  • 233年 - 倭軍が新羅の東方から攻め入った。新羅の伊飡の昔于老[9]が沙道(地名)で倭軍と戦った。昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので倭兵は溺れて全滅した。
  • 249年 - 倭国使臣が新羅の舒弗邯の昔于老[10]を殺した。

以下の3つの中国正史にも記事はあるが、いずれも倭国の歴史をふりかえるという文脈での記述であり、史料としての価値はない。

『梁書』
  • 光和年間(178年 - 184年) - 倭国の内乱。卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。
  • 正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死亡。
『隋書』
  • 桓帝霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱
  • 189年前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は王に共立した。
『北史』
  • 光和年間(178年 - 184年) - 倭国の内乱。
  • 184年前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、よく鬼道を以て衆を惑わすので、国人は王に共立した。

日本列島における皆既日食

呼び名

三国志魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。

一説には、中華思想により、他国の地名、人名には蔑字を使っている為に、この様な表記となっている。

また他の一説には、古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。

現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。

  • ひみこ(日巫女、日御子) - 「日巫女」は太陽に仕える巫女の意。「日御子」は太陽神の御子の意。
  • ひめこ(日女子、姫子) - 駒澤大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。
  • ひめみこ(日女御子、姫御子)[11]
  • ひみか・ひむか(日向) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
  • ひみか・ひむか(日向) - 原田大六古田武彦が唱えた、糸島の平原遺跡と福岡の奴の国を結ぶ日向峠に由来するとの説。
  • ひみか(日甕) - 古田武彦が唱えた、筑後風土記に登場する女性・甕依姫に該当するという説。聖なる甕という意。
  • ぴやこ、みやこ(宮居) - 1937年に藤井尚治が「国史異論奇説新学説考」の中で唱えた説。中国の学者が、「宮居」を人名と誤解したとし[12]、卑弥弓呼は「ミヤツコ(宮仕)」に、卑狗が「ミコ(皇子)」になるとする[12]
  • ひむか・ぴむか - 長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語 ―弥生語復元―』学生社 2010年。3世紀の洛陽音の復元による。

など諸説あるが、その多くが太陽信仰との関連した名前であるとする。

一方、中国語発音を考慮すると、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。

現代中国語でのピンインでの表記

  • 卑弥呼:Bēi mí hū / Bei1 mi2 hu1
    • (俾彌呼:Bǐ mí hū / Bi3 mi2 hu1)
  • 掖邪狗:Yè xié gǒu / Ye4 xie2 gou3
  • 帥升:Shuài shēng / Shuai4 sheng1
  • 難升米:Nán shēng mǐ / Nan2 sheng1 mi3
  • 伊聲耆:Yī shēng qí / Yi1 sheng1 qi2[13]

弥生時代日本語の発音および当時の中国語の音写の法則については説が確立していない。

卑弥呼の死

魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。

倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹椽史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人
(倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) とは平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ) らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は) 塞曹椽史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ) に授け、檄文を作って諭した。して、卑弥呼は死んだ。死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が殉葬された。 )

この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとすれば、卑弥呼の死も240年から246年ごろに起きた可能性が高い。

「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告喻之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、卑弥弓呼との不和、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。そのために狗奴国の男子王の卑弥弓呼に卑弥呼は殺されたと考える説もある。

天文学者斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。[14]さらに、橘高章安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。

しかし現在の正確な計算によると皆既日食は日本付近において、247年の日食が朝鮮半島南岸から対馬付近まで、248年の日食が隠岐付近より能登半島から福島へ抜ける地域で観測されたと考えられ、いずれの日食も邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり[15]、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。

卑弥呼の墓

卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。この墓がどこにあるかは様々な説がある。一歩 (尺貫法)の単位については、周代では約1.35m、秦・漢代では約1.38m、魏代では約1.44mと言われ墓の径は約144mとなるが、行程の表記から魏志倭人伝が短里を採用している可能性が高いので一歩は0.3m、墓の径は30m前後と考えられる。魏や楽浪郡の有力者の墓の径は殆どが30m前後の円墳もしくは方墳であることから、卑弥呼の墓は径が約30mの円墳ないしそれに近い形状で、定型的な前方後円墳では無いと考えられる。

卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たる。邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は古墳の可能性があり、箸墓古墳宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。一方、九州説では平原遺跡[16]や九州最大・最古級の石塚山古墳、久留米の祇園山古墳などを卑弥呼の墓とする説がある。

魏志では殉葬者は奴婢百餘人と記述されており、卑弥呼の墓は、古墳埴輪が導入される以前だった考えられる。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。

邪馬台国畿内説の奈良県桜井市箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説があるが、箸墓古墳の後円部は約150mの巨大な前方後円墳であり、は魏志倭人伝による規模と形状が異なる。築造年代は3世紀第3四半期頃であるとの説があるが、卑弥呼の死去が3世紀中期なので時期的に矛盾する。

九州にある石塚山古墳については、築造時期が3世紀中頃(古墳時代開始時期)〜4世紀初頭と一致するが、前方後円墳で長は120m〜130m前後と規模と形状が魏志倭人伝の記載と異なる。

平原遺跡については古墳時代以前、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓がある遺跡である。1号墓からは直径46.5cm、円周が46.5×3.14 = 146.01cm「大型内行花文鏡」が出土しているが、原田大六はヤマト王権の三種の神器の一つ「八咫鏡」と同じ大きさであることから、その起源であると主張している。咫(あた)は円周の単位で約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていたので「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)の円鏡というこになる。『御鎮座伝記』では「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」と記載されており大型内行花文鏡と一致する。ただし墳墓の規模は魏志倭人伝の記載より小さく、また周囲には多人数の殉葬の墳墓が見つかっていない。

祇園山古墳は築造時期が三世紀中期と考えられ、形状や規模が一致し、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に数十名分の殉葬とみられる墓があること、周囲の甕棺から後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、などが魏志倭人伝の記載と良く一致するが、石室の副葬品が盗掘のため殆どが失われており、わずかに高良大社に出土品と伝えられる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)があるのみである。

人物比定

卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証もなく、別の王朝だった可能性もある。また一方、北史(隋書)における「倭國」についての記述で、“居(都)於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也”「都は邪靡堆にあるが、魏志に則れば、いわゆる邪馬臺者である。」とあり、基本的には連続性のあるヤマト王権の誰かであるだろうとして『日本書紀』の編纂時から推定がなされている。

天照大神説

中国の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはずで、ヤマト王権の史書編纂者にとって都合が悪い事実であっても何らかの形で記されたはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉和辻哲郎らに始まる[17]。卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命天照大神の説もある。

アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。

卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日248年9月5日の2回、北部九州皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある[18]。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている[19]

安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという[20]。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。

魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後のヤマト王権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。

安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが『記紀』の神武東征であるとしている[21]

井沢元彦は『逆説の日本史』で、伊勢神宮はアマテラスを祀った施設で宇佐八幡宮はそのモデルとなった卑弥呼を祀った墓所であるとし、卑弥呼が祀られた理由をタタリへの恐怖心と断定している。

この説の致命的な問題点は、そもそも現代の神話学では、神話上のストーリーを歴史上の事件とみることはないし、神話に登場する神々を古代に生存した歴史上の人物とみることも根本的にありえないということである。百歩譲って、弥生末期の歴史がなぜが荒唐無稽な神話に変形して伝承されたのだと仮定しても、以下のような難点がある。第一に、天照大神の神話を歴史とみる以上、天照大神と大和朝廷をつなぐ神話をも歴史とみざるをえなくなるため、神武東征伝承を邪馬台国の九州から大和への東遷を伝えたものだとする論者が必然的に多くなる。しかし九州にあった邪馬台国が東遷して畿内に到着したとは限定できず、畿内で卑弥呼女王の邪馬台国や倭国連合も創立されたとする説も十分に成り立つ。第二に「皇祖神たる太陽女神」なる観念そのものがさして古いとはいえない説があり[22]、事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王[23]が天を(倭王の)兄、日を(倭王)の弟としており(「俀王以天爲兄 以日爲弟」)倭王は日の出前に政治をして日の出になると「弟に委ねる」として退出していたとあり、もしこれが事実なら太陽神を天皇の祖先とする記紀の伝承とまったく噛み合わないことになる。天照大神という神格は天武天皇の時代に始まるとする説もある[24]。第三に、天照大神は本来は男性の神とする説が江戸時代からあり、近代になっても複数の神話学者や歴史学者らが男神説を唱えた[25]。また、「ヒルメ」を「日の女」であるから巫女である、とする説は他に「〜ノメ」を巫女とする用例がなく、根拠に乏しい(津田左右吉によればヒルメのメはツキヨミの「ミ」やワタツミの「ミ」と同じく神霊をあらわす言葉であって女性の意味ではない。ミヅハノメやイワツツノメなどは巫女とされた例もない)。「大日孁貴」の孁字が説文解字において巫女、妻の意があるとする説は説文解字に「女字也」とのみあることから、これも誤りである。

宇那比姫説

海部氏勘注系図』『先代旧事本紀』尾張氏系譜に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人物は別名を大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)ともある。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする[26]

また和邇系図では和邇氏の祖天足彦国押人命の子である押媛命と和爾日子押人命の母をこの宇那比媛命としており[27]、宇那比媛命には配偶者がいたことになる。いずれにしろ両系図の伝承を重んずる限り、宇那比姫はほぼ孝安天皇と同世代の人であり、孝安天皇は天足彦国押人命の実弟で、宇那比媛と孝安天皇は義理の姉弟という関係である。このことから魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼の男弟」を孝安天皇のことだと解釈することもできる。

倭迹迹日百襲媛命説

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倭迹迹日百襲媛命の墓と伝えられる、箸墓古墳(奈良県桜井市

孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。近年、卑弥呼と同一人物として推定される候補の中では最有力の説となってきている。

『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。

この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。しかし、径百余歩とは魏時代の尺度では40メートル程度であるとの指摘もある。

日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作(日中は人がつくり、夜は神がつくった)」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇神天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。さらに魏志倭人伝の「卑彌呼以て死す。(中略)徇葬する者、奴婢百余人。」と、日本書紀の「百襲」という表記の間になんらかの関連性を指摘する向きもある。

従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている[28][29]

現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物にあてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる場合には倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。

文献的にこの説の有利な点は、『古事記』の崩年干支から崇神天皇崩御の戊寅年については258年とみる説が少なくなく[30]、この場合、卑弥呼は記紀でいう崇神天皇と同時代となるということが挙げられる。

一方、この説の弱点は、倭迹迹日百襲媛命が皇族の一人ではあっても「女王」と呼べるほどの地位と権威を有していたとは、考えにくいことである。安本美典の批判するところによれば、「「魏志倭人伝」には、卑弥呼が亡くなって国中に争いが起きたと記述があるが、「日本書紀」等我が国の文献では、百襲媛命は天皇の親戚の巫女に過ぎず、亡くなって国中に争いが起きるほどの重要人物だとはとうてい考えられず、両者を同一人物とするには矛盾がある」となる。しかし、日本書紀によれば、倭迹迹日百襲媛命が亡くなった後、崇神天皇は群臣に「今は反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ」という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させており[31]、国中に争いが起きたことは確かであって、安本美典の批判は当たらない。記紀は律令国家時代の編纂なので、初期の天皇も中華式の王朝として描き、天皇より上の権威を認めなかったが、上述のように箸墓古墳を倭迹迹日百襲媛命の墓だと仮定したら、崇神天皇陵より巨大であって、当時は天皇よりも権威をもっていた可能性が高い。しかし崇神天皇の陵墓が、行燈山古墳または西殿塚古墳の可能性が高く、両古墳とも考古学的に4世紀前後であることから、崇神天皇は古事記の崩年干支戊寅から318年没で4世紀初頭の人物である可能性が高くなり、その場合には崇神治世まで生きた倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼である可能性はなくなる。

倭姫命説

戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。この説の支持者には橘良平、坂田隆などがいるが、倭迹迹日百襲媛命説と比べると支持者は極めて少ない。

神功皇后説

『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼を神功皇后と同一視できるように編集されている。この説への反論としては、神功皇后の百済関係の記事が、卑弥呼よりも120年(干支2回り)あとの時代のものであり、それを120年繰り上げているために卑弥呼の時代ではありえないとの説が井上光貞ほかから指摘されている。しかし、古事記の神功皇后には干支を伴った朝鮮関係の記事はなく、朝鮮関係記事は日本書紀編纂時に組み込まれたものにすぎないことは通説になっているため、この批判は「組み込まれる前の帝紀の原形がどうなっていたか」とはとりあえず関係がなく、これをもって神功皇后説を否定することはできない。現在でも、倭迹迹日百襲媛命説ほどではないがそれに次いで支持者が多い。また九州説論者でも神功皇后説を採る論者が何名もいる。またこの説の場合、九州各地に伝説の残る与止姫が神功皇后の妹虚空津比売と同一という伝承もあることから、まれにこの人物を台与に同定する者もいる。その亜流として、古田史学の会の代表の古賀達也与止姫壱与であると主張している。

これまでの諸説では多くの場合、神功皇后の説話を古代日本の女性指導者の姿を描いたものと捉え、「鬼道」の語を手掛かりに卑弥呼を巫女として捉えて卑弥呼が政治的・軍事的指導者であった可能性を否定したり、彼女の言葉を取り次いだという男弟が実際の政務を取ったと解釈したりしてきたが、義江明子はそれを批判して、卑弥呼もまた政治的・軍事的な実権を伴った指導者であったとする[32]。義江の論旨は「卑弥呼は単に祭祀を司掌した巫女だっただけでなく、王としての軍事的な実権、政治的な実権をもっていた。弟が政治を担当していたわけではない」ということであって、必ずしも「卑弥呼=神功皇后説」を主張しているわけではない。ただし「鬼道に事(つか)え」たという卑弥呼が巫女王としての色合いが強いのに対して、神功皇后は単に神憑りしたシャーマンに留まらず、勇壮な軍事指揮者という別の側面も同等に強くもっているのは義江の主張するとおりであるが、魏志による限り卑弥呼は(王としての通常適度の軍事権をもっていただけで)格別に神功皇后のような軍事指揮者としての強い属性があるかどうかは定かで無い。

熊襲の女酋説

本居宣長鶴峰戊申那珂通世らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である[33]。本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している[34]那珂通世も、大隅国姫木を邪馬台国とし、卑弥呼は九州の女酋であり、朝廷や神功皇后とは無関係であるとする。星野悟は、新井白石が邪馬台国を筑後国山門郡に比定した[35]のを承けて、邪馬台連合国女王卑弥呼とされているのは、山門(ヤマト)にいた土蜘蛛(土着の豪族)の女王田油津媛(日本書紀によると神功皇后に成敗された)の先々代にあたるとした。  宣長は日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は到底受け入れられるものではなかった。本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており、これらの考えは古田武彦らの吉田史学へと引き継がれている。また古田史学の会員の日野智貴クマソタケルを卑弥呼と壱与の間の「男王」であると主張している。

甕依姫説

九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張している。ただし筑後風土記逸文の原文からは、甕依姫がいつ頃の人なのか不明でありその生存年代をうかがう術はまったくない。

登場作品

小説
漫画
映画
特撮
テレビアニメ
テレビゲーム
ビデオゲーム
  • beatmania IIDX16 EMPRESS(2008年)
  • トゥームレイダー(2013年)
  • モンスターストライク(2014年)

;歌 NHK-Eテレ

ひみつのヒミコちゃん(2018年)

関連項目

  1. 同三年(239年)の誤記とする説が有力
  2. ただし帯方郡に付託した状態でありこの段階では倭国にはまだ届けられてはいなかった。
  3. この黄幢は正始六年に帯方郡に付託されていたもの。
  4. この年紀は干支1運60年繰り上がっており実際は233年ではないかとの説が有力。
  5. 二十年夏五月 倭女王卑彌乎遣使来聘
  6. 192年から194年にかけて、新羅・高句麗・中国で異常気象や飢饉の記録があるので、山本武夫はこの頃東アジア一帯が小氷期に見舞われていたとして、倭人の飢饉もその一環とする説を唱えている。
  7. 新羅本紀第二伐休尼師今十年六月 倭人大饑来求食者千余人
  8. 新羅本紀第二奈解尼師今十三年四月 倭人犯境遣伊伐飡利音将兵拒之
  9. 日本書紀の神功皇后紀に登場する「宇流助富利智干」(うるそほりちか)か。
  10. 日本書紀の「宇流助富利智干」は神功皇后に降伏した新羅王として出てくるが「一書曰く」で始まる別伝では、日本に殺される新羅王の話があり、これは『三国史記』の于老の話と筋立てが同じであるから同一の史実に基づくと考えられる。
  11. 伊藤博文著『皇室典範義解』第三十一条解説は「・・・上古に考うるに皇子は『みこ』と称え、皇女は『ひめみこ』と称う」と指摘している伊藤博文著『皇室典範義解』現代語訳参照
  12. 12.0 12.1 国史異論奇説新学説考 藤井尚治 1937年
  13. 歴史言語学と日本語の起源 卑弥呼(=pimiho)再論-「呼」の読みについて-1~4歴史言語学と日本語の起源 卑弥呼(=pimiho)再論-「呼」の読みについて-5~7
  14. 更に同書では「倭国大乱」は158年の皆既日食を原因とし、その時期を167年169年頃と推定する。また卑弥呼はその中で自身を「太陽の化身」と称して人望を集め民衆を統率したが、248年の狗奴国との戦争中に皆既日食が発生して自身の正当性が崩れた為に大敗して邪馬台国が壊滅寸前にまで至り、その結果王頎の部下の張政が作成した檄文によって弑殺されたとしている。
  15. NASAによる241~260年の皆既・金冠日食。一般の天文シミュレータでも確認可能。
  16. 奥野正男『邪馬台国は古代大和を征服した』、糸島平原遺跡の研究 など。
  17. 「倭女王卑弥呼考」『白鳥庫吉全集』 第1巻 岩波書店 1969年和辻哲郎『新稿 日本古代文化』 岩波書店1951年井沢元彦 『逆説の日本史』シリーズ小学館1993年
  18. 毎日新聞(関西)朝刊 1995年7月25日8月5日
  19. 「中国・日本の古代日食から推測される地球慣性能率の変動」(論文)名古屋大学の河鰭公昭、国立天文台の谷川清隆、相馬充は、慣性能率の変動によると疑定される有意な地球の自転速度変化を論じ、自転速度低下率が一定であると仮定していた過去の計算法の精確性に対して疑問を投げかけている。
  20. 『卑弥呼の謎』講談社新書 1972年など。
  21. 安本美典『神武東遷』(中公新書 中央公論新社 1982年 ISBN 9784121001788、徳間文庫 徳間書店 1988年 ISBN 9784195984840)
  22. 岡正雄三品彰英は、本来の皇祖神はタカミムスビであるとしている。
  23. 隋書では俀國、俀王。
  24. 筑紫申真『アマテラスの誕生』 講談社 2002年、佐藤弘夫『アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座』 法藏館 2000年
  25. 折口信夫『天照大神』 1952年松前健『日本の神々』 中央公論社 1974年、松前健『日本神話の謎』 大和書房 1985年
  26. 『古代海部氏の系図』(金久与市,1983年)
  27. 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店 1963年 第三巻P6661(原典は静岡県磐田市、國玉神社大久保氏系図)
  28. 2世紀後半の倭国大乱~孝霊天皇の吉備平定~卑弥呼(百襲姫)誕生
  29. 邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳産経新聞 2009年5月29日
  30. ただし、古事記の崩年干支を重視しつつも、具体的にそれが西暦の何年なのかという点では様々な説が数多く存在する。
  31. 全現代語訳日本書紀上巻(宇治谷孟訳、講談社学術文庫、1988年)129頁。
  32. 義江明子「"聖なる女"の思想的系譜」(初出:竹村和子・義江明子 編『ジェンダー史叢書3 思想と文化』(明石書店、2010年)/所収:義江『日本古代女帝論』(雄山閣、2017年) ISBN 978-4-8273-1290-4)。なお、義江は近代以降の卑弥呼研究が明治以降の欧米の原始女子シャーマン説や大元帥としての男性天皇像、戦後の象徴天皇制の下で盛んになった天皇不親政論やフェニミズムに基づく女性の霊性論などによって実態とかけ離れた方向に向かっていると批判している。
  33. 本居宣長馭戒慨言』、鶴峯戊申襲国偽僣考』、近藤芳樹征韓起源』など。安本美典『江戸の邪馬台国』 柏書房 1991年等を参照。
  34. 本居宣長『馭戎概言』
  35. 誤解が流布しているが筑後国山門郡説を唱えたのは本居宣長ではなく新井白石である。

外部リンク