南オセチア

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南オセチア共和国
Хуссар Ирыстон(オセット語)
ცხინვალის რეგიონი(グルジア語)
Южная Осетия(ロシア語)
国の標語:なし
公用語 オセット語ロシア語
首都 ツヒンヴァリ
最大の都市 ツヒンヴァリ

面積

総計 3,900km2???位
水面積率 不明

人口

総計(2015年 53,532人(???位
人口密度 13.7人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(xxxx年 xxx,xxxロシア・ルーブル
GDP (MER)

合計(xxxx年 xxx,xxxドル(???位
GDP (PPP)

合計(xxxx年xxx,xxxドル(???位
1人あたり xxxドル
独立
 - 宣言
 - ロシアより承認(最初の承認国)
グルジアより
1991年11月28日
2008年8月26日
通貨 ロシア・ルーブル (RUB)
時間帯 UTC +3(DST:なし)
ISO 3166-1 不明
ccTLD 不明
国際電話番号 不明

南オセチア/ツヒンバリ地域(みなみオセチア、ცხინვალის რეგიონი)は、南コーカサスジョージア(グルジア)北部に位置するオセット人の居住地域。南オセチア共和国(みなみオセチアきょうわこく)として事実上独立している。

概要

ジョージアの行政区画においてはシダ・カルトリ州とその周辺とされているが、南オセチア「自治州は1921年から1991年までのグルジア・ソビエト社会主義共和国(グルジアSSR)の時代に置かれた自治州で領域はシダ・カルトリ地区北半とその周辺だった。1991年のグルジア共和国独立で「南オセチア自治州」が消滅したことにオセット人が反発して自治権を要求した南オセチア紛争で「南オセチア自治州」が再設立され、同じ領域をもって南オセチア共和国Республикæ Хуссар Ирыстон首都ツヒンヴァリ)として独立を主張し、ジョージアからの分離、ロシア連邦への加入を目指している。ただし、独立は国際的には承認されていなかった。南オセチアと南オセチア自治州・南オセチア共和国の領域の相違は、カフカースの民族分布図と「南オセチア自治州」詳細図及びジョージア国の行政区画(シダカルトリ地区)を参照。

かねてから一部地域はジョージアの支配が及ばない状態が続いていたが、2008年8月8日グルジア軍が「州」政府支配地区に侵攻、ロシア連邦軍が反撃し、その帰属をめぐって対立状態にあったジョージアとロシア戦争状態に入った。2008年8月26日、ロシア連邦のメドヴェージェフ大統領は、南オセチアの独立を承認する大統領令に署名した[1][2]。同年9月にはニカラグア、2009年9月にベネズエラ[3]、12月にナウルが独立を承認している。コーカサス研究の廣瀬陽子によれば、南オセチアはロシアによるロシア化が進められていると指摘している[4]

地理

ファイル:Ossetia-map.png
ジョージアの行政区画図に記した「南オセチア自治州/共和国」の位置。北辺はロシア連邦の北オセチア共和国と接する

カフカース山脈の南斜面に位置する。最高点はハラツァ山(海抜3,941m)。面積は3,900平方km(埼玉県とほぼ同じ)で、海抜1,000m以上の土地が国土の89.3%を占める。カフカース山脈により北風から守られているため、北カフカース地域よりも温暖である。平均気温は、1月で+4.5℃、7月で+20.3℃である。年間平均降水量は、598mm。

住民

民族構成
オセット人
  
89.1%
グルジア人
  
8.9%
ロシア人
  
1.0%
その他
  
1.0%

住民の多くはオセット人であり、その外、ロシア人カルトヴェリ人(狭義の「グルジア人」)、ウクライナ人アルメニア人等もいる。人口は、1989年のデータで9万9千人だった。2012年の人口推計によるとオセット人が9割を占める。一方、2007年には25.0%を占めていたカルトヴェリ人は8.9%に減少。多くのカルトヴェリ人が難民として流出した。

主要言語は、オセット語。現在、ロシア北オセチア共和国に倣い、キリル文字を使用している。

歴史

ソ連時代

ファイル:Alania 10 12.png
北オセチアと南オセチア

ロシア革命後、オセチアは南北に二分され、南オセチアはグルジアに編入され、1922年4月20日、南オセチア自治州South Ossetian Autonomous Oblast)が誕生した。この時、北側は1924年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国北オセチア自治州(その後、北オセチア自治州は1936年に北オセチア自治ソビエト社会主義共和国となり、1993年にロシア連邦北オセチア共和国となる。)

自治州とされたが、ソ連時代を通じてカルトヴェリ人優先の政策が遂行された。例えば、1939年には、これまでラテン文字を使用していたオセット人にカルトリ文字(グルジア文字)が強制され、カルトリ語(グルジア語)の教育が必須とされた。様々な抑圧策の結果、南オセチアの人口は、戦前の10万7千人から1989年の9万9千人にまで減少した。

独立闘争

1980年代末から、グルジアSSRではカルトヴェリ人の民族主義が勃興し始め、カルトヴェリ人以外の民族は危機感をつのらせた。1989年、南オセチアでの公用語をカルトリ語とすることが決定されると、南オセチア自治州人民代議員会議は、南オセチア自治州を自治共和国にすることを要請した。しかし、グルジア最高会議は、この決定を違憲として却下した。

1989年11月23日、グルジアの政治家ズヴィアド・ガムサフルディアは、自分の支持者(3万~6万人)を引き連れ、南オセチアの中心都市ツヒンヴァリで示威行進を行った。平和的な集会だと宣伝されたが、数百人の武装兵が随行し、負傷者400人、死者6人を出した。

1990年4月、グルジアSSR最高会議は、旧ソビエト連邦共産党執政時代に採択された全法律の無効化を決定し、このことは、事実上、南オセチアの自治権の無効化を意味した。これに対して、南オセチア自治州人民代議員会議は、主権宣言、ソ連時代の憲法・法律の有効、共和国への昇格等を決定した。11月、グルジアSSRが国号を「グルジア(ジョージア/サカルトヴェロ)共和国」に変更し、ガムサフルディアがジョージア最高会議議長に選出されると対立は更にエスカレートした。

1990年は、南オセチア最高会議の任期満了の年だったが、ジョージアは選挙日を公示しなかった。12月9日、南オセチアは独自に選挙を実施したが、12月10日、ジョージア最高会議は、南オセチア自治州の廃止を全会一致で決定した。12月11日、ツヒンヴァリ市とドザウ地区に戒厳令が施行された。

1991年1月5日、ツヒンヴァリに警官隊とガムサフルディアの親衛隊が投入され、オセット人に対する大規模な弾圧を始めた。オセット人は、自警団を結成してこれに対抗し、ツヒンヴァリからグルジア人を追い出すことに成功した。武装闘争は、ロシア・ジョージア・オセチア混成の平和維持軍が導入された1992年7月14日まで継続した。

1991年1月29日、南オセチア最高会議議長トレズ・クルムベゴフが交渉のためジョージアに向かったが、その場で逮捕された。2月1日にはエネルギー供給が遮断され、4月29日には大規模な地震も発生し、住民の生活条件は極度に悪化した。事態打開のため、南オセチア代議員会議は、共和国から自治州への復帰を決議した。しかしながら、カルトヴェリ人武装勢力の攻撃は止まず、6月8日までに70の村落が焼かれた。9月1日、南オセチア代議員会議は、自治州への復帰を取り消し、共和国を復活させた。

1992年1月19日、南オセチア共和国の独立に関する住民投票が行われ、92%以上がこれに賛成した。2月、ツヒンヴァリ周辺にグルジアの砲兵と装甲車両が配備され、砲撃を開始した。

1992年3月8日、エドゥアルド・シェワルナゼがジョージアの指導者となったが、南オセチアに対する政策は変わらなかった。

1992年5月29日、南オセチア共和国最高会議は、国家独立法を採択した。

紛争調停と独立

ファイル:SO2.jpg
2007年6月時点での「南オセチア自治州/共和国」詳細図

1992年6月24日、ロシア、ジョージア、南北オセチア4者による紛争調停の原則に関する協定が署名され、7月14日、平和維持軍が導入された。

1993年11月2日、最高会議は憲法を採択し、この日は南オセチアの独立記念日とされている。1995年5月5日には、国歌を制定。1996年11月10日、南オセチア最初の大統領選挙が行われた。

2006年11月12日、大統領選挙が行われ、95%の得票でエドゥアルド・ココイトゥイが再選し、同時に行われた調査で、99%の住民が独立に投票した[5]

2008年2月17日コソボ独立宣言を受け、ロシアなど独立国家共同体 (CIS)、国際連合に対し、近くジョージアからの独立承認を求める方針を明らかにしたと報道されている。

ジョージア軍による武力攻撃

2008年8月8日、ジョージア軍が侵攻し、ミヘイル・サアカシュヴィリ大統領は同日の記者会見で、同地域の大半の制圧と州都・ツヒンヴァリの包囲を宣言、予備役を緊急招集した。また、南オセチア展開における過程で、平和維持軍として駐屯していたロシア軍基地に対するジョージア軍の攻撃も発生。これに対し、同州の後ろ盾となっているロシア政府は同州に増援部隊を派遣した。

政治

南オセチアは、独立国家を自認しているため、独自の政治制度を有している。

大統領は、直接選挙で選出され、任期5年。議会は、5年の任期で選出される。内閣は、大統領の提案を基に議会が承認する。

行政区分

3つの地区と1つの直轄市から成る。

外交

参照: 南オセチアの外交関係

2006年6月14日、国際的に未承認のアブハジア、南オセチア、沿ドニエストル共和国の3か国の大統領が、スフミで会談を行い、共同声明の形で民主主義と民族の権利のための共同体の設立を宣言した。同年11月17日には、互いの独立性を認識し合っている。また、後には同じ立場にあるアルツァフ共和国ナゴルノ・カラバフ)が参加し、お互いに承認している。2008年9月17日、ロシア連邦は南オセチアとの友好協力条約に調印した。

現在、4カ国の国連加盟国と3つの事実上独立している国家にロシア構成体の北オセチア共和国モルドバのガガウズ・ソビエト社会主義共和国(消滅・現在はガガウズ自治区)が、南オセチアを独立国家として承認している。他にも、ベラルーシは独立を支持しており、同じく事実上独立しているサハラ・アラブ民主共和国北キプロス・トルコ共和国はロシアの南オセチア国家承認を歓迎し、パレスチナの政党でもあるハマスは南オセチアとアブハジアの相互認識を歓迎している。

南オセチアが承認している事実上独立した地域には、アブハジア共和国と沿ドニエストル共和国、アルツァフ共和国、サハラ・アラブ民主共和国がある。ウクライナ東部の親露派が建国を主張しているルガンスク人民共和国ドネツク人民共和国両地域も承認している。

国家承認している国

 ベラルーシは承認していないが、独立の支持をしている。

国家承認している事実上独立した地域

承認している地域

かつて承認していた国

南オセチアが国家承認している地域

アブハジア、沿ドニエストル、アルツァフのほか、

がある。

軍事

軍事力としては、現役兵3千人を有し、最大1万5千人までの予備役が動員可能である。詳細は、南オセチア共和国軍を参照。

その他の軍事力としては、内務省(OMON2個大隊、SOBR)、国家保安委員会(国境警備隊)、国家警護庁が存在する。

脚注

外部リンク

テンプレート:グルジアの行政区画



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