名和氏

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名和氏奈和氏(なわし、なわうじ)は、日本氏族のひとつ。伯耆国本貫として勢力を張った。後に肥後国八代郡、さらに同国宇土郡へ移住した。


伯耆国の悪党から南朝の忠臣へ

。孫の長田行高は長田荘から名和荘に居を移し、名和氏を称するようになった。その名和行高の嫡子が南北朝の騒乱で名を馳せた名和長年である。しかし、その系譜については、仮冒であった可能性が高く、赤松則村楠木正成らと同様、地域に根付いた土豪悪党の類で、丹波道主を祖とする[1]海上貿易海運業で財を成した一族であった[2]

その12代長年・13代義高の時、元弘の変における後醍醐天皇への忠節が認められ、義高が肥後国八代郡を賜った。その後、長年が延元元年(1336年)に京都東寺合戦、義高が同3年/暦応元年(1338年)に和泉国堺浦合戦で戦死すると、14代顕興は一族を挙げて肥後へ移り古麓城を居城とした。

肥後八代時代

顕興は九州下向以後も南朝方として振る舞い、元中7年/明徳3年(1387年)には征西大将軍良成親王(後征西将軍宮)を高田郷に迎え、高田御所を置いた。だが翌元中8年/明徳4年(1388年)、顕興は九州探題今川了俊に膝を屈し、南朝方の最後となった組織的抵抗を終える ()。

顕興の後、名和氏は17代教長・18代義興と2代にわたって家中に内紛を生じた。長禄3年(1459年)に義興が弑逆しぎゃくされると、いまだ幸松丸という幼名を名乗っていた顕忠相良氏の許へ身を寄せ、11代相良長続の援助によって寛正6年(1465年)、古麓城へ帰還し19代当主となる。

顕忠はこのとき、領国復帰へ尽力してもらった謝礼として八代郡高田郷を相良氏に割譲した。

文明8年(1476年)、相良氏が薩摩国へ出兵した隙に顕忠は高田郷を押領しようとするが、葦北衆の来援によりこの企ては失敗する。しかし当時の相良氏12代当主・相良為続は激怒し、再三にわたって八代を攻撃した。

同16年(1484年)、相良軍によって古麓城は陥落し、顕忠も追放された。その身柄は阿蘇氏の監督下に置かれ、同年、甥の菊池重朝を討とうとして赤熊の戦いで重朝軍に敗北し、同じく阿蘇氏の監督下に入った宇土為光と懇意になり、縁戚関係となる。

明応8年(1499年)、為続が肥後国守護菊池能運と対立して豊福の合戦で敗れ、能運に加勢していた顕忠は念願の八代を奪回する。しかし為続は、文亀元年(1501年)に為光から守護の座を追われた能運を保護し、文亀3年(1503年)守護職奪回の兵を起こして為光を攻め滅ぼし、そのまま八代を攻める。為光に味方していた顕忠は古麓城へ追いつめられ、やがて追い落とされる。顕忠の所領はわずかに益城郡守富庄のみとなり、再び阿蘇氏の監督下に入って木原城へ移った。

宇土入城と名和氏の滅亡、そして明治へ

菊池系宇土氏の滅亡後、宇土城には菊池氏家臣の城為冬が城代として入城する。しかし永正元年(1504年)、肥後守護菊池能運の急死に伴う混乱で、為冬は宇土城を棄て本国へ帰還した。こうして空城となった宇土城へ入るのが、宇土為光の娘婿であった名和顕忠である(宇土名和氏初代)。以後、対外的には「宇土殿」「伯耆殿」と称された。

顕忠は菊池系宇土氏の時代に阿蘇氏へ割譲された郡浦庄の回復を試みているが、阿蘇氏の抵抗を排除することができないままに推移し、郡浦支配が達成出来るのは天文19年(1550年)、宇土名和氏3代行興の時まで待たねばならなかった。

しかし、もともと守富庄木原城にいた名和氏の政治的動向は漸次北上してくる相良氏へ対抗するため、宇土郡東南部での活動が主であった。中でも最大の争点となったのが、益城郡(当時は八代郡)豊福庄にあった豊福城をめぐる抗争であった。この城をめぐって、相良氏とも所有権を奪い合っている。

名和氏は以後、行興の子の行憲が宇土名和氏4代として永禄5年(1562年)に家督を継ぐが、行憲は当時わずか7歳であった。このため、行憲の名代の地位をめぐって宇土氏筆頭家老の内河氏と当時豊福城代だった一門衆名和行直が対立した。永禄7年(1564年)4月、行憲が急死すると両者の対立は激化し、ついに同年5月8日、行直は挙兵して内河氏を追放し権力を掌握して宇土名和氏5代として家督を継承するに至った。行直は元亀2年(1571年)に死去し、家督は子の顕孝が継いだ。墓石はかつての菩提寺だった宗福寺境内にあり、宇土市指定文化財となっている。

戦国時代末期、天正15年(1587年)の豊臣秀吉九州征伐に際して、宇土名和氏6代顕孝は秀吉に降伏し所領を安堵される。しかし、同年に生じた肥後国人一揆に際し、加担はしなかったが援軍にも加わらなかったため、秀吉のとがめを危惧した顕孝は自ら大坂まで赴いて釈明すべく、顕孝の弟でもある顕輝を宇土城代とした。その顕輝も翌天正16年(1588年)4月、宇土城へ来た秀吉軍の城明け渡し要求を拒否して篭城するが敗れ、城外へ逃れるも捕縛され殺害された。こうして、宇土城主としての名和氏はここに滅びた。

顕孝は一揆に加担しなかったこともあり、処罰の対象にはならず、後に筑前国に所領を与えられ同地の領主となった小早川氏の下に編入された。。

顕孝の子の長興柳川藩立花氏の客分となり、後に客分から家臣へと転じた。長興の子孫は伯耆氏を称したが、後に名和へ復姓して明治維新を迎えた。

明治11年(1878年)、時の当主である名和長恭が名和氏が南朝の忠臣であったという由緒から名和神社宮司となり、男爵位を授けられた。

脚注

  1. 『姓氏』(丹羽基二著作/樋口清之監修)376頁
  2. 『禅僧日記』

参考文献

  • 宇土市史編纂委員会、『新宇土市史』通史編第二巻 中世・近世、2007年。

関連項目

外部リンク