吾妻郡

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吾妻郡(あがつまぐん)

上野国(群馬県)西北部の郡。明治の郡区編制では利根・西群馬・碓氷、長野県北佐久・小県・上高井・下高井、新潟県南魚沼の諸郡に隣接し、利根川の支流吾妻川の流域を占めていた。古くは「あづま」と称したかとも思われるが、『延喜式』の古訓や『和名類聚抄』ではすでに「あがつま」と訓じている。『和名類聚抄』に長田・伊参(いさま)・大田の郷名がある。「長田」が「名久田(なくた)」に転訛したとすれば、伊参・太田とともに旧村名に採用されており、現中之条町に入る。郡衙の地は吾妻町大字原町字大宮鎮座の大宮巌鼓(おおみやいわづつみ)神社付近。同社は郡衙の守護大宮売神とその地から真北に仰ぐ稲包山神(『三代実録』元慶四年条の従五位下稲裹地神)とを祀ったものであり、その地は吾妻川を隔てて金井廃寺址と相対し、古墳が群在している。これらの古墳群は吾妻渓谷以西には見当たらない。長元年間(一〇二八―三七)の『上野国交替実録帳』の吾妻郡に「正倉参宇 東二甲倉壱宇 東甲倉壱宇 北一甲倉壱宇、三館 宿屋壱宇 向屋壱宇 長田院雑舎壱宇 伊参院東一屋壱宇(下略)」などとある。『吾妻鏡』建久六年(一一九五)三月十日条、東大寺供養の供奉人に「吾妻太郎」、同承元元年(一二〇七)八月十七日条の放生会随兵に「吾妻四郎助光」の名がみえる。また同建久四年三月二十一日条に下野国那須野・信濃国三原の狩倉とある三原は上野国吾妻郡の地であり、同仁治二年(一二四一)三月二十五日条には海野幸氏・武田光蓮の争論に幸氏領として上野国三原荘とある。永仁六年(一二九八)筆写の『上野国神名帳』吾妻郡の筆頭に「従一位白根明神、従二位小白根明神、従三位浅間明神」など西部の神名がみえる。この地域には十二、三世紀の修験道の遺跡が発見されているばかりでなく、草津町の北方には十世紀ごろの四十軒以上の集落も発見された。中世以降草津の湯の名があらわれ、有名人の入湯のことが紀行や伝承に残っている。戦国時代の終りには信濃国の真田昌幸の勢力が吾妻郡全部から利根郡に及び、名胡桃城(利根郡月夜野町)の争奪が豊臣秀吉の小田原征伐の緒となった。江戸時代初期には東部は沼田藩、西部はほぼ天領であった。このためか赤谷川を境とし、その右岸は吾妻郡と称され、明治時代初期には吾妻郡に管轄されたが、明治二十九年(一八九六)郡制実施にあたりその地は利根郡に編入され、吾妻郡は東から高山・名久田・伊参・中之条・沢田・東・太田・原・岩島・坂上・長野原・六合(くに)・草津・嬬恋(つまごい)の十四ヵ町村となり、昭和三十一年(一九五六)町村合併によって、中之条・吾妻・長野原・草津の四町と東・嬬恋・六合・高山の四ヵ村に統合され今日に至った(昭和四十九年四月一日現在)。主要産業として、古くから硫黄・べんがら・麻・小豆・繭・生糸などが著名である。



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