喜多川歌麿

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喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、宝暦3年(1753年)頃? - 文化3年9月20日1806年10月31日))とは、江戸時代日本で活躍した浮世絵師。画名の読みは「うたまる」が正しいが見出しは慣例に従う。

来歴

は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めのは豊章といい、天明初年頃から歌麻呂、哥麿とも号す。通常は「うたまろ」と読むが、秘画本には「うたまる」としているものもある。なお、天明2年(1782年)刊行の歳旦帖『松の旦』に「鳥山豊章」、「鳥豊章」の落款例がある。俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆の綾丸、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。生年、出生地、出身地など不明。生年に関しては、一般には没年(数え54歳)からの逆算で宝暦3年(1753年)とされるが、関根只誠の『名人忌辰録』では没年が53歳とされているので宝暦4年(1754年)生まれとなり、また瀬木慎一の『日本美術事件簿』では宝暦5年(1755年)から8年(1758年)の間と推定している。出身に関しても研究者の間では文献から川越野口米次郎や関根只誠が主張)と江戸市中の2説が論争されており、他にも大坂栃木などの説もある。

鳥山石燕のもとで学び、根津に住む。細判の役者絵絵本を制作する。初作は安永4年(1775年)冬に北川豊章の落款で描いた中村座の富本節正本『四十八手恋所訳』(しじゅうはってこいのしょわけ)2冊の下巻の表紙絵辺りであろうといわれる。錦絵においては安永6年(1777年)の細判「すしや娘おさと 芳沢いろは」が初作であった。初めは勝川春章風の役者絵、次いで北尾重政風の美人画、鳥居清長風の美人画を描いており、安永期では細判数点のほかに版本の挿絵が9点ほど知られている。また天明8年(1788年)から寛政初期にかけて、蔦屋重三郎を版元として当時流行していた狂歌に浮世絵を合わせた狂歌絵本『百千鳥』、『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』、『汐干のつと』などを著した。これら狂歌絵本では植物、虫類、鳥類、魚貝類を題材にした華麗で精緻な作品を描き、狂歌人気と相まって歌磨の出世作となった。その後は蔦屋の援助を得て抜群の才を発揮、歌麿の画風の独立はその後援によって急速に進むこととなった。ここで歌麿は重政や清長の影響を脱し、自己表現として完成度の高い「風流花之香遊」や「四季遊花之色香」のような清新な作風の美人画を制作した。寛政2年(1790年)か寛政3年(1791年)の頃から描き始めた「婦女人相十品」、「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で特に人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」、「娘日時計」、「歌撰恋之部」、「北国五色墨」などと優れた大首半身物の美人画を刊行した。全身を描かず、半身あるいは大首絵でその女性の環境、日常、性格までを描こうとしたのであった。豊麗な情感は一面理想的な女性美の創造の結果であったが、一方、逆に最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。「北国五色墨」の「川岸」、「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感の強烈さは決して浄化の方向ではなく、生身の存在、息づき、汚濁もある実存世界へと歌麿の眼が届いていることも知らされる。歌麿は無線摺、朱線、ごますきなどといった版技法を用いて女性の肌の質感、衣裳、身体の質感及び量感表現を工夫していった。やがて、「正銘歌麿」という落款をするほどまでに美人画の歌麿時代を現出、自負した。また、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。

歌麿は背景を省略して白雲母を散りばめ、更にそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き顔を中心とする構図を考案した。これにより、美人画の人物の表情だけでなく内面や艶も詳細に描くことが可能になった。歌麿は遊女花魁、さらに茶屋の娘(三河の出のたかが有名で歌麿の死に水をとったとされる)など無名の女性ばかりを作品の対象としたが、歌麿の浮世絵によってモデルの名前はたちまち江戸中に広まるなどし、歌麿の浮世絵は一つのメディアへと育っていった。これに対して江戸幕府は世を乱すものとして度々制限を加えたが、歌麿は判じ絵などで対抗し美人画を書き続けた。しかし文化元年(1804年)5月、豊臣秀吉醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受ける。これは当時、豊臣秀吉を芝居や浮世絵などにそのまま扱うことは禁じられていたことに加え、北の政所淀殿、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿が当代の将軍徳川家斉を揶揄する意図があったと見なされたためである。この刑の後、歌麿は非常にやつれ、病気になったとされる。しかし歌麿の人気は衰えず、版元たちは病から回復する見込みがないと知ると、これが最後と版下絵の依頼が殺到し、まるで他に描ける人がいないかのようだったという[1]。その過労からか二年後の文化3年(1806年)死去した。享年54。墓所は世田谷区烏山の専光寺。法名は秋円了教信士。

開国後、他の例に漏れず多くが国外に流出した。特にボストン美術館のスポルディング・コレクションは歌麿の浮世絵383点を所蔵。公開を長く禁止したため非常に保存状態が良く、すぐに退色するツユクサの紫色もよく残っている[2]

作品

錦絵

  • 『婦女人相十品』 大判 揃物 寛政3年‐寛政4年頃
  • 『婦人相学十躰』 大判 揃物 寛政3年‐寛政4年頃
  • 『歌撰恋之部』 大判5枚揃 寛政5年頃
  • 『娘日時計』 大判5枚揃 寛政6年頃
  • 『北国五色墨』 大判5枚揃 寛政7年頃
  • 『青楼十二時』 大判12枚揃 寛政中期
  • 『教訓親の目鑑』大判10枚揃 享和1年‐享和2年
  • 「針仕事」 大判3枚続 寛政7年頃
  • 「風流七小町」
  • 「当時全盛美人揃 越前屋内唐土」 大判 東京国立博物館所蔵
  • 「当時全盛美人揃 玉屋内しつか」 大判
  • 娘日時計」辰ノ刻・巳ノ刻・午ノ刻・未ノ刻・申ノ刻 大判 東京国立博物館所蔵
  • 「相合傘」大判 東京国立博物館所蔵
  • 「歌枕」
  • 「針仕事」 大判3枚続の左 城西大学水田美術館所蔵
  • 「山東京伝遊宴」 大判 錦絵3枚続 城西大学水田美術館所蔵
  • 「音曲比翼の番組」 小むら咲権六 間判 城西大学水田美術館所蔵
  • 「橋下の釣」 長判 城西大学水田美術館所蔵
  • 「北国五色墨 切の娘」 大判 日本浮世絵博物館所蔵
  • 「高島おひさ」 大判 大英博物館所蔵
  • 「高島おひさ」 細判 ホノルル美術館所蔵 寛政5年頃 両面摺(一枚の紙の表面におひさの正面、裏面に後ろ姿を摺分けている。)
  • 「歌撰恋之部 稀二逢恋」 大判 大英博物館所蔵
  • 「見立忠臣蔵十一だんめ」 大判2枚続 東京国立博物館所蔵 寛政6年‐寛政7年頃 画中に歌麿自身が描かれている。
  • 「青楼十二時 丑の刻」 大判 寛政6年頃 ブリュッセル王立美術歴史博物館所蔵
  • 婦人相学十躰 浮気之相」 大判 寛政4年‐寛政5年頃 東京国立博物館所蔵
  • 「婦人相学十躰 ぽっぴんを吹く娘」 大判 寛政4年‐寛政5年頃 ホノルル美術館所蔵
  • 「歌撰恋之部 物思恋」 大判 寛政4年‐寛政5年頃 ギメ美術館所蔵
  • 「当時三美人」 大判 寛政5年頃 ボストン美術館所蔵
  • 「婦人泊り客之図」 大判3枚続 寛政6年‐寛政7年頃 慶応義塾所蔵
  • 「化物の夢」 大判 寛政12年頃 フィッツウィリアム美術館所蔵
  • 姿見七人化粧 鬢直し 」 大判 東京国立博物館所蔵

絵本

  • 『画本虫撰』 絵入り狂歌本 天明8年
  • 『歌まくら』 彩色摺艶本 天明8年
  • 『潮干のつと』 絵入り狂歌本 寛政1年‐寛政2年頃

肉筆浮世絵

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 制作年 落款 印章 備考
雨中湯帰り図 絹本著色 額1面(元は1幅) 個人蔵(アメリカ) 天明中期 「哥丸舎豊章画」 「魚水有清言」朱文方印[3]
品川の月図 紙本著色 額1面(元は1幅) 147.0x319.0 フリーア美術館 天明末期 吉原の花、深川の雪との連作。
遊女と禿図 絹本著色 1幅 ボストン美術館 寛政初期 「哥麿画」 「岸識之印(?)」朱文方印・「字子華白(?)」朱文方印
かくれんぼ図 絹本著色 1幅 鎌倉国宝館 寛政初期 「哥麿画」 「岸識之印(?)」朱文方印・「字子華白(?)」朱文方印 特殊な落款・印章が一致することから、上記の遊女と禿図と双幅か、3幅対のうちの2点だと推測される。
吉原の花図 紙本著色 額1面 186.7x256.9 ワズワース・アシニアム(米国) 寛政3-4年頃 品川の月、深川の雪との連作。
遊女と禿図 絹本着色 1幅 城西大学水田美術館 寛政3-5年頃 「歌麿画」 「歌麿」朱文円印
女達磨図 紙本着色 1幅 栃木市 寛政3-5年頃 「歌麿画」 「歌麿」朱文円印 中国から輸入された竹紙が使われている。
文殊菩薩図 絹本着色 1幅 寛政3-5年頃 「本朝画師歌麿源豊章筆」 「歌麿」朱文円印
三福神の相撲図 紙本墨画淡彩 1幅 栃木市 寛政3-5年頃 「歌麿画」 「歌麿」朱文円印
鍾馗図 紙本墨画 1幅 栃木市 寛政3-5年頃 「喜多川歌麿源豊章画」 方印未読
万才図額 絹本著色 4面(二曲一隻) 鎌倉国宝館 寛政3-5年頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 元は引き手襖。
福禄寿三星図 絹本著色 1幅 日本浮世絵博物館 寛政3-5年頃 「歌麿源豊章図」 「歌麿」朱文円印
西王母図 絹本着色 1幅 84.3x35.7 ウェストン・コレクション 寛政3-5年頃 歌麿画 「歌麿」朱文円印[4]
遊女と禿図 紙本墨画 1幅 117.6x46.3 個人 寛政3-5年頃 「喜多川歌麿源豊章画」 「歌麿」朱文円印 山東京伝[5]
雨宿り図 紙本墨画淡彩 1幅 39.0x56.5 個人 寛政3-5年頃 「喜多川歌麿源豊章画」 「歌麿」朱文円印[6]
納涼立美人図 絹本著色 1幅 105.4x32.3 個人 寛政6-8年頃 「歌麿画」 「歌麿」朱文円印 重要美術品
花魁道中図 紙本墨画淡彩 1幅 ミシガン大学付属美術館(米国) 寛政6-8年頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 山東京伝賛
遊女と禿図 絹本墨画淡彩 1幅 千葉市美術館 寛政6-8年頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
美人夏姿図 絹本着色 1幅 101.5x31.9 遠山記念館 寛政6-8年頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 重要美術品[7]
立姿美人図 絹本著色 1幅 87.6x32.2 個人蔵(国内) 寛政6-8年頃 「歌麿筆」 「歌麿」朱文円印 重要美術品
納涼美人図 絹本著色 1幅 39.5x65.6 千葉市美術館 寛政6-8年頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 重要美術品
美人読玉章図(びじん たまずさをよむず) 絹本著色 1幅 84.3x29.3 浮世絵太田記念美術館 寛政6-8年頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
美人と子供 紙本墨画 1幅 個人 寛政6-8年頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印[8]
入浴美人図(寒泉浴図) 絹本著色 1幅 MOA美術館 寛政後期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 鶯谷吏隠(垣)(大田南畝)賛「蘭湯灔々昭儀坐其中 若三尺寒泉浸明玉 録飛燕別集語」。一般的には両者の関係から寛政後期の作とされるが、南畝が「鶯谷吏隠(垣)」の号を用いるのは文化元年2月に小石川金剛寺坂(現在の文京区春日2丁目)に転居した後とされるので[9]、歌麿最晩年の可能性がある[10]
桟橋二美人図 絹紙本著色 1幅 MOA美術館 寛政後期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
遊女と禿図 絹本着色 1幅 旧ハラリー・コレクション 寛政後期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 禿は団扇をもつ
三美人図 絹本著色 1幅 岡田美術館 寛政後期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
雪兎図 絹本著色 1幅 個人 寛政後期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
遊女と二人の禿図 絹本著色 1幅 キヨッソーネ東洋美術館 寛政後期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
三美人図 絹本著色 1幅 海の見える杜美術館 寛政後期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 麻生工芸美術館旧蔵。歌麿の寛政後期の基準作
杭打ち図 紙本墨画淡彩 1幅 寛政後期頃 「行年四十三才 哥麿筆」 「歌」「麿」朱文方形連印
琴を弾く遊女 紙本着色 扇1面 ウェーバー・コレクション 寛政後期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印(別印)
美人と若衆図 絹本着色 1幅 ニューオータニ美術館 1802年(享和2年)頃か 「哥麿筆」 「きた川歌麿」朱・白文方印 重要美術品(1938年(昭和13年)指定)。印章は中央に白文で「歌麿」とあり、その左右に朱文のくずし字で「きた・川」という他に類例がない珍しい印である[11]
二美人図 絹本著色 1幅 メトロポリタン美術館 享和期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
朝粧美人図 絹本著色 1幅 大英博物館 享和期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
男と娘(つぼみ)図 絹本著色 1幅 個人 享和期頃 「哥麿筆」 「歌」「麿」朱文方形連印 春画
娘と子ども図 絹本着色 1幅 出光美術館 享和期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
花魁道中図 絹本着色 1幅 享和期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
芸妓図 絹本着色 1幅 岡田美術館 享和期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
ほととぎす図 絹本着色 1幅 享和期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
浴後、犬を見る美人 紙本着色 1幅 享和期頃 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
男女遊愛図 絹本著色 1幅 個人 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 春画。歌麿の肉筆春画は、上記の「男と娘図」と本作の2点しか確認されていない。
更衣美人図 絹本着色 1幅 117.0x53.3 出光美術館 文化年間初期(1804年 - 1805年 「歌麿筆」 「歌麿」朱文円印 重要文化財
三味線を弾く美人図 絹本著色 1幅 41.5x83 ボストン美術館 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 紺屋安染・三八市成・山吹多丸・根事良白音・通用亭賛
遊女と禿図 絹本着色 1幅 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 禿は鞠をもつ
花魁道中図 紙本墨画淡彩 扇1面 東京国立博物館 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌」「麿」朱文方形連印
月見の母と娘図 絹本著色 1幅 香雪美術館 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
更衣美人図 絹本着色 1幅 享和-文化初期 「哥麿画」 「歌麿」朱文円印 着賛
芥川図 絹本著色 1幅 ロシア国立東洋美術館 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
三美人図 紙本着色 1幅 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
三番叟図 紙本着色 1幅 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
三味線を弾く遊女図 絹本著色 1幅 フリーア美術館 享和-文化初期 「歌麿筆」 「歌麿」朱文円印
文読む遊女図 紙本著色 1幅 125.6x53.5 大英博物館 文化2-3年頃 「歌麿筆」 「歌麿」朱文円印 中国の画仙紙を用いている[12]
深川の雪 紙本著色 1幅 198.8x341.1 岡田美術館 享和-文化初期 品川の月、吉原の花との連作。

門人

歌麿の門人には2代目歌麿千代女行麿道麿月麿藤麿秀麿磯麿、あし磨、峰麿此麿年麿竹麿花麿などがいたが、師に比すべき絵師は現れず、当事の絵師、また後世の絵師たちに与えた影響は計り知れないものがある。

脚注

  1. 由良哲次編 『総校日本浮世絵類考』 画文堂、1979年、p.133。
  2. 小林忠 『ボストン美術館秘蔵 スポルディング・コレクション名作選』 小学館、2009年11月、ISBN 978-4-09-682038-4。
  3. 『喜多川歌麿』 新潮社〈新潮日本美術文庫16〉、1997年。
  4. 永田生慈監修 日本経済新聞社企画・編集協力 『シカゴ ウェストンコレクション 肉筆浮世絵─美の競艶』 小学館スクウェア、2015年4月20日、pp.88-89,193、ISBN 978-4-7979-8573-3
  5. 石田泰弘監修 福岡市美術館ほか編 『肉筆浮世絵の世界 -美人画、風俗画、そして春画-』 西日本新聞社 テレビ西日本、2016年8月8日、p.75、171。
  6. 石田泰弘監修 福岡市美術館ほか編 『肉筆浮世絵の世界 -美人画、風俗画、そして春画-』 西日本新聞社 テレビ西日本、2016年8月8日。
  7. 遠山記念館 秋田市立千秋美術館編集 『至高の日本美術 遠山記念館名品選』 秋田市立千秋美術館、2017年9月23日、p.21。
  8. 『肉筆浮世絵名作展』 櫛形町立春仙美術館、1995年
  9. 沓掛良彦 『大田南畝 詩は詩佛書は米庵に狂歌おれ』 ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2007年3月。ISBN 978-4-623-04865-6。
  10. 小林忠 「歌麿大画「深川の雪」考」『国華』第1462号、國華社、2017年8月20日、pp.15-16、ISBN 978-4-02-291462-0。
  11. 小林忠監修 『大谷コレクション肉筆浮世絵』 株式会社ニューオータニ ニューオータニ美術館発行、2005年7月、pp.149-150。
  12. ティモシー・クラーク 訳=矢野明子 「喜多川歌麿筆 文読む遊女図」『国華』第1462号、國華社、2017年8月20日、pp.22-26。

参考文献

文献

  • 林美一 『艷本研究 歌麿』 有光書房、1962年
  • 渋井清 『歌麿の世界』(『日経新書』) 日本経済新聞社、1968年
  • 菊地貞夫 『歌麿』(『保育社カラーブックス』) 1972年
  • 井上ひさし南原幹雄・佐藤光信 『歌麿の世界』(『講談社文庫』) 1976年
  • 祖田浩一 『歌麿』 毎日新聞社、1985年
  • 楢崎宗重編 『肉筆浮世絵Ⅱ(明和〜寛政)』〈『日本の美術』〉 至文堂、1987年
  • エドモン・ド・ゴンクール隠岐由紀子訳) 『歌麿』(『東洋文庫』) 平凡社、2005年 ※同訳で『北斎』が続刊で刊行予定だが時期未定。
  • 近藤史人 『歌麿抵抗の美人画』(『朝日新書』) 2009年
  • 浅野秀剛監修 『歌麿 決定版』 平凡社<別冊太陽 日本のこころ245>、2016年12月、ISBN 978-4-582-92245-5
概説書
  • 藤懸静也 『増訂浮世絵』 雄山閣、1946年 155 - 161頁 ※近代デジタルライブラリーに本文あり。
  • 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年、※14頁
  • 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年
  • 稲垣進一編 『図説浮世絵入門』〈『ふくろうの本』〉 河出書房新社、1990年
  • 小林忠監修 『浮世絵師列伝』 平凡社<別冊太陽>、2006年1月 ISBN 978-4-582-94493-8

関連項目

外部リンク