土井利勝

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土井 利勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 元亀4年3月18日1573年4月19日
死没 寛永21年7月10日1644年8月12日
幕府 江戸幕府老中大老
主君 徳川家康秀忠家光
下総小見川藩主→佐倉藩
古河藩
氏族 水野氏土井氏
特記事項 徳川家康落胤説あり

土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代武将政治家江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府老中大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った[1]。その事績や資料については原念斎が編纂した『賢相野史』に詳しい。

生涯

出生

元亀4年(1573年)3月18日、水野信元の三男(末子)として生まれ、兄に早世した十郎三郎甚左衛門(茂尾平兵衛)がおり、徳川家康の母方の従弟にあたる。

土井氏の系図には徳川家家臣・土井利昌(小左衛門正利)の実子と記載されている。この場合、遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)で生まれで、母は葉佐田則勝の娘という説もある[2]

また、家康の落胤という説もある(後述)。

天正3年(1575年)に父・信元が佐久間信盛の讒言で武田勝頼の武将の秋山信友と内通・兵糧を売った嫌疑の罪により[3]、三河大樹寺岡崎市鴨田町字広元)において織田信長の命をうけた家康配下の平岩親吉によって殺害されると、家康の計らいで土井利昌の養子になった。利昌には実子で長男の元政(甚三郎)がいたが、それを差し置いて利勝が家督を継いでいる。

江戸幕府開府まで

天正7年(1579年)4月に徳川秀忠が生まれると、7歳にして安藤重信青山忠成と共に秀忠の傅役を命じられた。役料は200俵である。天正19年(1591年)に相模国に領地1,000石を得る。慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの際には、利勝は秀忠に従って別働隊となり、江戸から中山道を通って西へ向かった。しかし信濃上田城真田昌幸を攻めあぐみ、関ヶ原の決戦にはついに間に合わなかったものの、戦後に500石を加増されている。

慶長6年(1601年)に徒頭に任じられ、慶長7年(1602年)12月28日に1万石を領して諸侯に列し、下総国小見川藩主となった。

家康・秀忠時代

慶長9年(1604年)、李氏朝鮮より正使・呂祐吉以下の使節が来日するとその事務を総括した。慶長10年(1605年)4月、秀忠が上洛して後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられると、随行していた利勝も4月29日に従五位下・大炊頭に叙位・任官し、以後は秀忠の側近としての地位を固めていった。

慶長13年(1608年)には浄土宗日蓮宗の論争(慶長宗論)に裁断を下して政治的手腕を見せ、慶長15年(1610年)1月、下総国佐倉3万2,000石に加増移封となった。10月に本多忠勝が死去すると、家康の命令により12月1日に秀忠付の老中に任じられた。慶長17年(1612年)に4万5,000石に加増される。

慶長20年(1615年)、大坂の陣が起こると、利勝は秀忠付として従軍し、豊臣氏滅亡後、秀忠より猿毛柄の槍を贈られ、さらに6万2,500石に所領を加増された。夏には青山忠俊酒井忠世と共に徳川家光の傅役を命じられた。元和2年(1616年)、秀忠の名で一国一城令武家諸法度(13条)を制定した。これにより戦国時代は完全に終わりを告げ、諸大名は幕藩体制に組み込まれることとなった。4月に家康が死去すると、久能山に葬られる際には利勝がその一切の事務を総括した。

元和4年(1618年)、黒坂藩関一政改易されたため、一政の弟・関盛吉食客とした。

元和8年(1622年)、家康の側近として辣腕を振るった本多正純が失脚した。背景に利勝の策動を指摘する声もある。正純の失脚によって、利勝は「名実ともに幕府の最高権力者」[1]となった。

家光時代

元和9年(1623年)、秀忠は将軍職を家光に譲った。将軍交代の際には側近も変わるのが通常であったが、利勝はこの後も青山忠俊、酒井忠世と共に家光を助け、幕政に辣腕を振るっていく。寛永2年(1625年)に14万2,000石に加増された。

寛永10年(1633年)4月7日、下総国古河16万石に加増移封される。寛永12年(1635年)、武家諸法度に参勤交代を組み込むなど19条に増やして大改訂し、幕府の支配体制を確定した。政権が家光に移ってほどなく、徳川忠長加藤忠広が改易されたが、家光と内密に謀を巡らせた利勝がわざと家光との不仲を装い、謀反の旨をつづった文を諸大名に回したところ、他の諸大名はこれを即座に家光に提出したが忠広と忠長だけは提出しなかったことが改易の契機になったという話がある。[4]

なお、利勝の妹が忠長の乳母であったという説もあり、乳母コネクションを重視する作家・永井路子は、忠長派と見なされてもやむをえない立場にあった利勝と家光との間に一種の暗闘と妥協があったと見ており(「異議あり日本史」)、この事件後に利勝は徐々に政治の実権から遠ざかったとしている。

寛永13年(1636年)、それまでの永楽通宝など明銭に頼っていた通貨制度を一新し、寛永通宝の鋳造を柱とする新通貨制度を制定した。寛永通宝は明治時代の中頃まで流通していたという。

寛永14年(1637年)頃から中風を病むようになり、病気を理由に老中辞任を申し出るが、家光より慰留されて撤回する。寛永15年(1638年)11月7日、体調を気遣った家光の計らいにより、実務を離れて大老となり、事実上の名誉職のみの立場となった。

寛永21年(1644年)6月に病床に臥し、将軍代参の見舞いを受けるなどしたが7月10日に死去。享年72。後を長男の利隆が継いだ。

人物・逸話

利勝と同じく、江戸時代初期に幕僚として活躍した人物には優れた人物が大勢いたが、なかんずく、利勝は公正さを重んじいたと評される[5]

  • 秀忠が家督を家光に譲ることを利勝を経由して家臣達に申し渡したとき、井伊直孝一人が不安な様子を見せていた。利勝は直孝を白書院へと連れてゆき理由を問いただした。直孝は、大坂の陣などで諸大名の財政が逼迫しているのに、さらに将軍が隠居すれば、祝儀などにより金を使うことになり、民を虐げることにもなると危惧していた。それを聞いた利勝は、直孝の懸念を秀忠に伝えた。直孝の強い直言もあって秀忠も納得し、翌年の秀忠隠居は取りやめとなった[6]
  • 将軍・家光が増上寺へ参拝へ向かおうとしていた時、櫓の白壁が欠損していることに気づいた。家光は松平信綱に修繕を命令したが、修繕は困難であった。そこで信綱は、他の櫓の戸をはずし、壊れた部分に一時的に当てることによって修復したように見せかけようとしたが、利勝は、それは姑息なごまかしに過ぎず、無理であれば無理であると率直に言上すべきであると信綱を叱責した[7]
  • 利勝は、最上義俊最上騒動で改易されて浪人となった際、義光以来の重臣・鮭延秀綱の身柄を預かると、のちに召抱えて5,000石もの高禄を与えた。しかし秀綱はこの5,000石を自分の家臣14人に公平に与えて自らは無禄の客分となり、その14家へ日々順に転々として寄宿し、余生を過ごした。その14名は土井家では中級の家士に取り立てられ、大半の家は幕末まで続くことになるが、鮭延の没後、その恩顧に報いるべく古河に鮭延寺を建立して供養に努めた。
  • 幕府の実力者として諸藩より評価されており、依頼を受けた場合は幕藩関係で事前の根回しや指南を行う取次の老中となって、その藩の指導をおこなった。

落胤説

利勝には家康の落胤という俗説がある。

井川春良が著した『視聴草』には、家康の隠し子であることが書かれている他、徳川家の公式記録である『徳川実紀』にも説が紹介されている。この説によると、利勝は幼少時から家康の鷹狩りに随行することを許されたり(土井家は三河譜代の家臣ではない)、破格の寵愛を受けていたためである。また当時、家康は正室の築山殿との仲が冷え切っており、そのために築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれたという可能性も否定できないところがある。森銑三は、父とされる信元と家康の性格を比較した時、短慮であった信元よりも、思慮深い家康の方が利勝の性格と共通する要素が深いと考察している[8]

なお利勝自身は落胤と噂される事を大変嫌っていたと伝わる[9]

年表

  • 元亀4年(1573年)3月18日、誕生。
  • 天正7年(1579年)、徳川秀忠の傅役となる。
  • 慶長5年(1600年)、関ヶ原へ出陣するも間に合わず。
  • 慶長7年(1602年)12月28日、下総小見川1万石の大名となる。
  • 慶長8年(1603年)、江戸城神田橋内に屋敷を拝領する。
  • 慶長13年(1608年)12月、1万石加増される。
  • 慶長15年(1610年
    • 1月、下総佐倉3万2000石に加増転封される。
    • 8月3日、老中となる(『寛政重修諸家譜』。『柳営補任』によると老中就任は元和9年9月)
  • 慶長17年(1612年)、4万5000石に加増される。
  • 慶長20年(1615年)閏6月21日、6万5000石に加増される。
  • 寛永2年(1625年)9月2日、14万2000石に加増される。
  • 寛永10年(1633年)4月7日、16万石余をもって下総国古河城主となる。
  • 寛永15年(1638年)11月7日、大老就任。
  • 寛永21年(1644年)7月10日、大老在職のまま没。

主な登場作品

NHK大河ドラマ
その他のテレビドラマ
映画
  • 柳生一族の陰謀』(1977年、演:芦田伸介) - 三代将軍争いが秀忠の死と同時に始まるなど確信犯的に史実を無視した映画であり、利勝も忠長派の総帥として暗殺合戦の陣頭指揮をとり、自らも暗殺される物語となっている。
小説

注釈

脚注

  1. 1.0 1.1 『江戸お留守居役の日記』 42ページ
  2. 川口素生 著『戦国武将、逸話の真実と謎』学習研究社、2007年、p.318
  3. 松平記』巻6
  4. 藤野保「徳川幕閣」(中公新書)・136ページ
  5. 森銑三著作集続編 第一巻 80ページ
  6. 森銑三著作集続編 第一巻 78-79ページ
  7. 森銑三著作集続編 第一巻 77ページ
  8. 森銑三著作集続編 第一巻 79ページ
  9. 川口素生 著『戦国武将、逸話の真実と謎』学習研究社、2007年、p.319

参考文献

書籍
史料

外部リンク

先代:
土井利昌
土井宗家初代当主
1598年 - 1644年
次代:
土井利隆

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