堤康次郎

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堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年明治22年)3月7日 - 1964年昭和39年)4月26日)は、日本実業家もしくは財界人で、滋賀県選出の衆議院議員として政治家でもあった。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者。第44代衆議院議長滋賀県大津市名誉市民。滋賀県平民[1]正三位勲一等。「ピストル」の異名を持つ。

五島慶太東急対西武戦争(箱根山戦争伊豆戦争)でライバルとも言われた。

来歴・人物

生い立ち

滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち・秦荘町、現・愛荘町)に農業仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた。[2]4歳で[3]父を腸チフスで失い[4]、母が実家に戻されたことから、康次郎は妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。

1902年(明治35年)に八木荘小学校高等科を卒業し彦根中学校への入学手続をしたものの、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」と心配した[5]ことから進学を断念して農業に従事する。1903年(明治36年)6月に祖母が死去すると、祖父とともに彦根へ出て米相場を張ったり肥料商を手掛けるも何れも失敗。翌年には八木荘に戻って、耕地整理と土地改良に精を出す。

早稲田大学へ

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早稲田大学政経学部政治学科在学中の堤康次郎

1906年(明治39年)に京都の海軍予備学校へ入学し、翌年に予備校を卒業すると郡役所の雇員となる。同年に祖父が死去し、「堤の家の再興は、金を儲けよというのではない。金儲けもよいが、それより名誉ある堤家にしてくれ」と遺言を遺した。18歳で、両親と祖父母を失い、妹と共に残された康次郎は途方に暮れ、後に当時のことを「私の失望落胆は言語を絶していた」と語っている。

1909年(明治42年)故郷の田地を担保に入れて5000円の金を工面して[6]上京、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学した。早大では弁論部柔道部に属するも、授業はあまり顔を出さずに試験の時に通学するだけで副業やアルバイトに熱中していた[7]

また政治活動にも熱中し、中橋徳五郎の応援演説に大阪まで出張ったこともある。このように、大学時代に経済活動、政治活動において経験を積んだ。

1913年(大正2年)3月に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業(政治学士号を取得)すると、大隈重信が主宰し主筆に永井柳太郎を据えた政治評論雑誌『新日本』(1911年発刊)に社長として経営に携わった。

首相桂太郎による立憲同志会の結成計画に永井らも参加すると、これを追って創立委員に名を連ね、桂を介して後藤新平を、更に財界の大物だった藤田謙一を紹介される。だが名士とお近づきになるのとは裏腹に『新日本』を含めて康次郎の事業は何れも巧くいかず、不調を挽回しようと手を出した真珠の養殖も失敗。失敗の連続だった当時を「毎日血尿が出る思いだった」と本人は振り返っている。結局、最後の望みを不動産事業に託し[8]、『感謝と奉仕』を生活信条とする[9]

実業家として

康次郎が最初に不動産事業に着手したのは、沓掛村一帯(現在の中軽井沢駅周辺)の別荘地開発だった。1915年(大正4年)夏頃に早大の学生服姿で沓掛村に出向き、村長に「別荘地をつくりたいからできるだけ大きな土地が欲しい」と村有地の購入を打診した。隣の軽井沢が欧米の宣教師達の別荘地として発展していくのに危機感を抱いていたとは言え村民の議論は2年越で続き、1917年(大正6年)12月の区民総会での了承を経て60万坪(後の再測量では80余万坪)を30,000円(現在の数億円)で売却し、50軒の別荘を分譲することを条件として契約が成立した。

だがこの時点で康次郎は手許資金が不足していて、当時の妻であった川崎文の実家などから買収金を工面しても足りず、佐久の銀行から1万5千円借りて不足分は新聞紙を10円札の大きさに切って上下に本物の札を重ねて「見せ金」とした[10]。沓掛一帯の分譲を行う会社として藤田謙一を社長に招聘し千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)。沓掛の土地を一軒500円で簡易別荘として分譲販売を始め、その収益を基に1919年(大正8年)箱根の強羅に10万坪の土地を買収した。翌1920年(大正9年)には千ヶ滝遊園地を清算(計画倒産説あり)し、同じく藤田を社長として箱根土地株式会社(後のコクド、現在は消滅)を設立。更に湯の花沢10万坪を13万5千円で買収[11]したり、1923年(大正12年)には駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の経営権を掌握していった。関東大震災後には都内皇族華族の大邸宅を買収し、目白文化村など住宅地として分譲した。

政界進出後も事業欲は衰えを見せず、大泉学園国立小平学園都市開発に着手し、東京商科大学の誘致に成功すると共にアクセス鉄道として多摩湖鉄道を開通。大泉学園開発では沿線を走る武蔵野鉄道との関わりが出来、1940年(昭和15年)には大株主の浅野財閥からの株式を買収して多摩湖鉄道をこれに合併させた。太平洋戦争中は武蔵野鉄道に加え(旧)西武鉄道の経営に参画すると共に、都内の糞尿処理対策や流木対策として糞尿運搬や木工業、更には合成ゴム化学肥料製造、果ては銀行業(高田農商銀行)にまで事業の手を広げた。

箱根で小田急と激しく争っていた時代、康次郎の私費で建設した道路の上にロープウェイを計画した小田急に対し、土地使用料を無料にし、その道路も静岡県の要請で後に譲り渡した。また、箱根町の中学校建設の時には、所有地を無償提供するなど大局的な経営も見られた。

戦後は皇籍剥奪や華族の特権廃止・財産税などの負担で困窮した旧宮家華族都心部に所有していた邸宅地を買い取り、華族やその関係者をグループで雇用して生活の安定に寄与するとともに、邸宅地を活用してプリンスホテルを開業した。

堤康次郎が開発した国立は高級住宅街として、軽井沢箱根などは日本を代表的するリゾート地として発展し、現在も人気を集めている。

政治家として

箱根土地の経営に関与している頃から、康次郎は永井柳太郎の選挙参謀となるなど政治にも関わっていたが、1924年(大正13年)の総選挙に滋賀5区(当時)から衆議院議員に立候補[12]する。旧彦根藩家老職を務めた家柄である堀部久太郎が対立候補だったが、当時としては先進的な土地改革を公約するなどして大差で初当選を果たした。以後、途中の断続を経て衆議院議員には計13回当選。当選後は立憲民政党に所属し、1932年(昭和7年)6月斎藤実内閣拓務政務次官に就任した。 翼賛選挙で推薦議員であったばかりか西武農業鉄道の首脳として国策に関与するなどしたことで公職追放を受けるものの、追放解除後の昭和26年(1951年)に民政党時代の同僚議員だった大麻唯男松村謙三らの「民政旧友会」へ参加。民政旧友会は「新政クラブ」を経て、翌1952年(昭和27年)に改進党の結党に参加した。

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1953年5月18日、衆議院議長に就任(上。下は副議長の原彪

1952年(昭和27年)の総選挙で国政に復帰し、1953年(昭和28年)5月に全野党に推される形で衆議院議長に就任( - 1954年12月)、議長秘書官は山本廣治堤清二が務めた。議長の認証式には当時内縁関係にあった青山操(清二の母)を伴ったことで大きく批判され、しかも議長就任後は改進党とは距離を置き山下春江らと新党同志会を結成、保守合同を目指した[13]。衆議院議長としては1954年(昭和29年)6月の警察法全面改正の際の議事をしたが、会期延長議決及び警察法改正成立の有効性について裁判となった(警察法改正無効事件を参照)。

大津市の米軍キャンプ地返還や膳所刑務所移転等、今日の大津市の基盤づくりに大きく貢献したため、1957年(昭和32年)に大津市初の名誉市民の称号を受賞した。

晩年

康次郎は、1963年(昭和38年)の総選挙で13回目の当選を果たすが、この時地元後援会の堤会から選挙違反で180名余が逮捕、後に150名余が有罪となる。

池田勇人と仲が良く、派閥の色分けで言うと宏池会に属す[14]河野一郎とは仲が悪く、池田に「河野と縁を切れ、切らないと付き合わない」と迫って揉めていたとき亡くなった[14]

1964年(昭和39年)4月24日内縁関係にあった石塚恒子(義明の母)を連れて熱海に向うため、13時15分発の準急「いでゆ号」に乗ろうと国鉄東京駅の地下道を急いでいた途中で昏倒し緊急入院。4月26日に心筋梗塞で死去。本葬は自民党葬として豊島園でとり行われ、約3500人が参列。会葬者は3万人にのぼった。堤康次郎は鎌倉霊園に埋葬された。

東京オリンピックのために建設を計画した東京プリンスホテルの完成を見ることはできなかった[15]。堤の没後、選挙地盤は山下元利が引き継いだ。

人物像

家庭

家庭での康次郎は亭主関白そのものだった。彼が出かけるときには、操親子をはじめ義明、使用人ら全員が正座をして見送らなければならなかったし、帰ってきたときには、これまた全員が三つ指をついて迎えなければならなかった。義明の返事や対応が気に入らなければ、すぐに暴力に及んだという[16]

会社内

一方で、顧客は絶対に大事にして、会社内でも社員を気遣い、また徹底的に任せきるなど家庭とは異なる一面を見せた。

  • 戦後しばらく、大雪が降ると線路を切り替えるポイントが凍結して、電車がよく停まった。そうした事態を阻止するため、西武では社員が徹夜でポイントを監視していた。だからどんなに雪が降っても西武だけは電車が停まらなかった。康次郎はこの仕事をしてくれた社員をねぎらい、頻繁に自宅に呼び、自ら作ったカレーを、来た社員に振る舞っていたというエピソードが伝えられている[17]
  • 武蔵野鉄道が旧西武鉄道を吸収合併する際、通常社名は吸収する側の武蔵野鉄道になるはずが、「西武鉄道の従業員に合併されたという劣等感をあたえてはいけない」という堤康次郎の配慮で、社名が西武鉄道になった。[18]
  • 部下からは「自分たちの全てを安心して任せられる」指揮官であったことから、「社長」や「会長」、「親分」でもなく『大将』と呼ばれていた。[19]
  • 28歳の時、当時逓信大臣だった後藤新平の口利きで、渋沢栄一の娘婿とゴム会社の共同経営者となったが、現場の要の工場長が結核で倒れてしまった。その時、娘婿は工場長に辞めてもらう考えだったが、康次郎は「アンタとは考えが違う」と言って、会社を辞め新しいゴム会社を設立してその工場長を引き取り、終生面倒を見た。[20]
  • 大手建設会社のトップと商談の約束をしていた康次郎が急な所用で行けなくなってしまい、代役に自社の若い平社員が交渉に当たった。その商談は大詰めを迎え、契約の段階にまできたが、当時で数億もの商談であり、念を押さずにいられなかった建設会社のトップは、席を外して康次郎に電話をすると「彼を私と思って契約していただいて結構です」と答え、その商談の契約は成立した。[21]
  • 戦後初めての賃上げ闘争では、一気に5倍に引き上げた。また、社員のために食糧難の時代には食糧確保に奔走した。[22]

女性関係

康次郎の女性関係は派手だった。お手伝いさんから華族まで“女”と名のつくものであれば“手当たり次第”だった[23]。お手伝いさんから女子社員、部下の妻、看護婦、マッサージ師、乗っ取った会社の社長夫人、秘書、別荘管理人、旧華族…社員たちの言葉の端にのぼっただけでもざっとこんな具合である[24]。このあと始末は部下の仕事だった[25]。愛人の数は有名な女優を含めて、正確な数は誰もわからないし、本人もわからなくなっていた[26]。子供12人というのは嫡子として認めた数にすぎず、100人を超えるという説もある[26]。葬儀には康次郎そっくりの子どもの手を引いた女性が行列を作ったという[26]

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左から吉田茂首相、操夫人、正力松太郎、康次郎
1954年(昭和29年)7月衆議院議長就任レセプション)

西武グループ幹部で、康次郎に仕えていた老人によると「ワシも西武の人間だから西武について書かれたことには興味があって読んどるが、どれも正確なことは書いとらん[27]。とくに大将の女関係、つまり子供たちの母親が誰で、どうして大将の女になったのか、そのへんのことはわかっとらん[27]。大将は希代の英雄じゃったがその反面業(ごう)のかたまりのようなお人じゃった[27]。」という。

操夫人の父は倒産した東京土地の社長青山芳三であるが、倒産した東京土地の残務整理のため青山家に通っていた上林国雄によると、堤は零落した青山家の姉妹四人をすべて“愛人化”しようとしたという[28]。青山家の長女は康次郎の好みからかけ離れていたためあとまわしにされたが、あとの三人は美人ぞろいであった[29]。康次郎はまず操のすぐ上の姉から手をつけた[29]。本当は操に強く惹きつけられた康次郎だったが、彼女があまりにも手強かったため姉のほうにいってしまった[29]。そして次が一番下の妹だった[29]。この妹を康次郎が“自分の女”にしたのは、彼が36歳だったのに対して彼女はまだ16歳であった[29]。何年かのち二人とも相次いで身籠った[30]。上林国雄によると「おわかりでしょう[31]。姉の子が清二さん、妹の子が邦子さんなのです[31]。」という。

ピストル堤

「ピストル堤」の異名は、堤の強引な手法に怒りを爆発させた関係者らが、日本刀など凶器を持って殴り込みをした際にピストルで応戦したため、付けられたという説や[32]、ピストルを乱射しながら屋敷へ乱入してきた暴徒を柔道で投げ飛ばしたためとの説(堤は柔道の全日本選士権で3位の実績を持つ腕前)[32]、ピストルで撃たれても全く動じなかったためとの説もある[33]

評価

世間の評価は真向から分かれている。不毛の土地を買収し、開発、発展させた上で価値を創出するという抜群の手腕や先見の明が高く評価される一方で、その剛腕さや成功に対するやっかみ、妬みを強く受けていた。 評論家の大宅壮一は、と断ったうえでこんな話を紹介している。「関東大震災の直後、一家全滅したようなところの焼跡に、かたっぱしから「堤康次郎所有地」と書いた棒杭(ぼうぐい)を立てた[34]。どこからも文句がでなければそのまま、出れば法廷でお抱えの弁護士をつかって、所有権を証明する物的証拠を示せ、と争った[34]」という。軽井沢の大地主だった早大教授の市村今朝蔵は、広大な土地を争って、弁護士の費用などで、泣くに泣けぬ状態におとしいれられたという[34]

大宅は堤に「近江の知能犯」というレッテルを貼り、彼のやり方を徹底的に批判した[34]立石泰則は、堤のやり方は「とてもまともな実業家の姿とはいえないことだけは確かである」と評している[32]

略年譜

3月7日 - 滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち・秦荘町、現・愛荘町)の農家に生まれた。

栄典

家族・親族

堤家

滋賀県愛知郡愛荘町神奈川県二宮町東京都
  • 祖父・清左衛門(せいざえもん)
  • 祖母・キリ
  • 父・猶次郎[35](ゆうじろう、滋賀県平民[35]農業仲買商)
  • 母・みを
実家は神崎郡八幡村(現東近江市)にあり、代々、水産物問屋「松前屋」を営む商家だった[36]
  • 妻 - 康次郎が正式に入籍した正妻は3人[38]西沢コト川崎文青山操である[38]。この他に一般に知られている女性として岩崎ソノ石塚恒子という日陰の女がいる[38]
コト(滋賀県の堤家の縁戚西沢家の娘)
(ジャーナリスト)
千葉県の風祭家の長女として生まれ、母方の川崎家の養女となる。風祭家、川崎家ともに士族の出身で、東大医学部出身の医師を多く出している名家だった[39]。康次郎との間に子供はできなかった。
(元東京土地社長青山芳三の娘、青山家は士族の出身[40]
操の長姉・雪子は三菱グループの重鎮だった荘一族に嫁いでいる[41]荘清次郎戦前の三菱本社理事[41]。雪子が嫁いだのはその息子の荘素彦三菱製紙重役[41]。兄弟に元三菱商事社長の荘清彦らがいる[41]
操は長年康次郎と夫婦同然の関係だったが、1954年昭和29年)7月正式に結婚[42]。歌人大伴道子の名でも知られる
母はコト
母は康次郎が学生のころ経営していた3等郵便局の事務員岩崎ソノ(未入籍)
母は操。操の姉が実母であるとの説もある[43]。辻井喬などの筆名での著書あり。
  • 二女・邦子(エッセイスト。森田重郎の妻、のち離婚)
母は操。操の妹が実母であるとの説もある[44]
母は新潟県出身の歯科医師・政治家石塚三郎(元衆院議員)の娘石塚恒子(未入籍)
母は石塚恒子。
  • 五男・猶二(インターコンチネンタル東京ベイ運営会社社長)
母は石塚恒子。

著作

  • 『日露財政比較論』博文館 1914
  • 『人を生かす事業』有紀書房 1958
  • 『苦闘三十年』三康文化研究所 1962
  • 『太平洋のかけ橋』三康文化研究所 1963
  • 『叱る』有紀書房 1964

編纂

  • 『對支外交論』永井柳太郎述 公民同盟出版部 1915
  • 『國體の精髓』大隈重信述 公民同盟出版部 1915
  • 『日本植民論』後藤新平述 公民同盟出版部 1915
  • 『日支民族性論』大隈重信述 公民同盟出版部 1915

参考文献

  • 私の履歴書 経済人1』(日本経済新聞社、1980年) - 1956年7月日本経済新聞連載
  • 筑井正義『堤康次郎傳』(東洋書館、1955年)
  • 辻井喬(堤清二) 『彷徨の季節の中で』 (新潮社、1969年)
  • 上之郷利昭『西武王国 堤一族の血と野望』(講談社、1982年)(1985年講談社文庫
  • 猪瀬直樹ミカドの肖像』(小学館、1986年)
  • 上林国雄「わが堤一族血の秘密『文藝春秋』1987年10月号、156-176頁
  • 永川幸樹『野望と狂気 「西武」の創始者堤康次郎波瀾の生涯』(経済界、1988年)
  • 由井常彦編著『堤康次郎』リブロポート 1996年
  • 神一行『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(角川書店、2002年)316-327頁 - 初版(毎日新聞社、1989年)
  • 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』新人物往来社 2003年 306頁
  • 辻井喬(堤清二)『父の肖像』(新潮社、2004年)
  • 中嶋忠三郎『西武王国 その炎と影』(サンデー社 2004年)
  • 昭和・平成 日本 黒幕列伝 時代を動かした闇の怪物たち』(宝島社、2005年)30-31頁
  • 立石泰則『淋しきカリスマ堤義明』講談社 2005年

関連書籍

堤康次郎をモデルとした小説

脚注

  1. 『人事興信録. 7版』(大正14年)つ三一
  2. 堤家については麻を取り扱ったりしていた農家であったことは確定的であるが、「代々小地主自す作農を主業とし、副業として麻布工場などを経営しており、村では一応旧家に属していた」(永川幸樹著『野望と狂気』33頁)「家業は製麻業であったが、数歩(すうたんぶ)の田畑を所有し、一部は小作に出すなど暮らし向きは豊かな方であった。」(立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』22頁)「いわゆる五反百姓だった。田畑は7だったという説を唱える土地の古老もいたが、いずれにしても貧農である」(猪瀬直樹 著『ミカドの肖像』304頁)などとその暮らし向きについては諸説がある。
  3. 筑井正義『堤康次郎傳』15頁
  4. 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』23頁
  5. 『私の履歴書 昭和の経営者群像2』 9頁
  6. 『私の履歴書 昭和の経営者群像2』 12頁
  7. 『私の履歴書 昭和の経営者群像2』 15頁。康次郎自身の回想によると、渋谷で鉄工所を経営したり日本橋蛎殻町三等郵便局長を務めたり(1911年(明治44年))し、後藤毛織の株で6万円(現在の貨幣価値にしておよそ7000万円 永川幸樹著『野望と狂気』84頁)儲けたりしたと言う。
  8. 堤は『私の履歴書』の中で「もう自分は世の中に生きている値打ちのない人間だとまで思った。思い悩んだ末考え付いたのがもうけよう、もうけようと考えたのがいけない。自分はもうけなくてもよいからこの世の中のために少しでもできるだけのことをしようという奉仕の心だった。そして最初に考えたのが不毛地の開発事業だった」と書いている。
  9. ちなみに西武鉄道グループの社是は堤家支配が崩壊するまで長きにわたり『感謝 奉仕』であった
  10. 猪瀬直樹 著『ミカドの肖像』
  11. 1921年(大正10年)頃。だが、この湯の花沢分譲地は全く売れなかったと言われている。(『堤康次郎傳』 57頁)
  12. 堤は『私の履歴書』の中で「大体私は人生で最高の仕事は政治だと思っている。金をかけて事業をやってみたところでそれは国全体のある一部分でしかない。国全体を考え、国民全部を幸福にするのはかかって政治にある。それで私は早くから政治を志していた」と書いている
  13. 実際保守合同が実現したのは1955年11月。
  14. 14.0 14.1 上之郷利昭『堤義明は語る』 講談社 1989年 ISBN 4-0618-4383-4 126頁
  15. 死後、鎌倉霊園の巨大な墓地で眠っているが、堤家支配時代の西武鉄道グループ社員全員には墓参が義務付けられていた。
  16. 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』73-74頁
  17. 「創業100年企業の血脈」 第二回 西武鉄道 「社員にカレーを振る舞ったピストル堤」より
  18. 筑井正義著「堤康次郎伝」121頁
  19. 永川幸樹著 「堤義明・男の凄さ」212頁
  20. 永川幸樹著 堤義明男の凄さp235
  21. 三笠書房「堤義明男の凄さ」P122 永川幸樹著
  22. [名言DB https://systemincome.com/18843]
  23. 永川幸樹著『野望と狂気 「西武」の創始者堤康次郎波瀾の生涯』187頁
  24. 永川幸樹著『野望と狂気 「西武」の創始者堤康次郎波瀾の生涯』199 - 200頁
  25. 永川幸樹著『野望と狂気 「西武」の創始者堤康次郎波瀾の生涯』200頁
  26. 26.0 26.1 26.2 『昭和・平成 日本黒幕列伝時代を動かした闇の怪物たち』31頁
  27. 27.0 27.1 27.2 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』318頁
  28. 「わが堤一族、血の秘密」(『文藝春秋』昭和六十二年八月号)、立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』56-57頁
  29. 29.0 29.1 29.2 29.3 29.4 永川幸樹著『野望と狂気 「西武」の創始者堤康次郎波瀾の生涯』193頁
  30. 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』56頁
  31. 31.0 31.1 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』57頁
  32. 32.0 32.1 32.2 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』40頁
  33. 「堤義明・男の凄さ」81頁 永川幸樹著
  34. 34.0 34.1 34.2 34.3 「日本ユダヤ教総本山・滋賀県」(『文藝春秋』1958年(昭和33年)11月号)、立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』39頁
  35. 35.0 35.1 35.2 35.3 35.4 35.5 35.6 35.7 35.8 35.9 『人事興信録. 6版』(大正10年)つ二六
  36. 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』23頁
  37. 『人事興信録. 7版』(大正14年)な一〇七
  38. 38.0 38.1 38.2 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』319頁
  39. 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』50頁
  40. 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』54頁
  41. 41.0 41.1 41.2 41.3 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』327頁
  42. 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』83頁
  43. 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』57頁
  44. 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』57頁

関連人物

関連項目

外部リンク

議会
先代:
大野伴睦
日本の旗 衆議院議長
第44代:1953年 - 1954年
次代:
松永東