場所請負制

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場所請負制(ばしょうけおいせい)は、江戸時代松前藩政下における家臣の知行形態である商場(場所)知行制から発生した、蝦夷地特有の流通制度。

発生の背景

松前藩では、地勢的に米の収穫が望めないため、藩主が家臣に与える俸禄石高に基づく地方知行ではなく、いわゆる商場(場所)知行制をもって主従関係を結んでいた。この制度は、蔵入地以外の蝦夷地及び和人地において給地に相当するものとして漁場およびアイヌとの交易地域である商場(場所)を設け、そこでの交易権を知行として家臣に分与する制度である。

和人地の給地では漁民からの現物税の徴収権があり地方知行とほぼ同様な形態であったが、和人地の大半は松前藩の蔵入地だったため、家臣の大半の給地は蝦夷地にあった。また、その給地内においても採金、鷹待、鮭鱒漁、伐木等の権利は全て藩主に属した。知行主に認められていたのは、年1回自腹で船を仕立てて交易することのみであった。

このような状況下で潤沢な資本力を持つ近江商人などが松前に出店を置いて本格的に進出して来た。知行を持つ家臣たちは、商人から交易用の物資や生活費までもを借りて交易に従事し、その結果得た商品を商人に渡して償還するようになった。しかし、次第に蝦夷地の交易が複雑化して資本的・技術的に武士の手に負えなくなって負債がかさみ、交易権そのものを「場所請負人」の名目で商人に代行させて知行主は一定の運上金を得るという制度に18世紀初頭移行した。これが場所請負制度である。

歴史

  • 1700年代 松前藩の監督下の元、場所請負制が進む。
  • 1774年(安永2年) 松前道広藩主自身の抱える5400両の債務整理で4つの漁場が請負制となる。
  • 1789年(天明8年) クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)。支配階級化した請負人に対するアイヌ側の蜂起。
  • 1795年(寛政7年) ラクスマンが根室に来航。幕府のロシアに対する緊張感が高まる。
  • 1799年 東蝦夷地(蝦夷地太平洋側)が事実上、公議御料(幕府直轄領)化。幕府によるアイヌ懐柔策として、東蝦夷地の場所請負制が廃止されて直捌制になる[1]
  • 1806年(文化3年) 西蝦夷地の公議御料化。蝦夷地全域が幕府直轄領となり、場所請負制が無くなる。
  • 1812年 経費節減等の理由により、幕府による場所請負制の再開が決定[2]。翌年から入札制度の導入、アイヌへからの搾取防止などの条件、制限が加わわる。
  • 1813年 場所請負制が19場所にて再開[3]
  • 1821年(文政4年) 松前藩復領。監督権が幕府から再び松前藩に移る。藩主の松前章広の死去(1833年)後は、藩の規律が乱れ再び請負人の権限が強まる。
  • 1855年(嘉永7年) 幕府による蝦夷地の再公議御料化。松前藩の領地は渡島半島南西部を限られる。公議御料となった地域は再び幕府の監督下に入り、請負人への監視が強化される。
  • 1868年(明治元年) 開拓使により廃止が決定。

制度の終焉

場所請負制は明治2年9月に島義勇によって廃止が明示されたが、場所請負人らの反対もあり同年10月漁場持と名称を変え旧東蝦夷地(太平洋岸および千島)や増毛以北の旧西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)で存続することとなった。明治4年12月から5年2月にかけて、北海道の分領支配の廃止にともない漁場持の再任がおこなわれたが、石狩以南の旧分領支配地諸郡には漁場持の設定がされなかった。漁場持ちは明治9年9月の廃止まで存続した。

運上屋

運上家ともいう。場所請負人によって蝦夷地内(北海道樺太千島列島)の場所ごとに85か所設けられ、そこには支配人・通弁・帳役、番人が詰めていた。この他に漁場ごとに番屋も置かれこちらにも番人が詰めた。運上屋は交易の拠点として設けられたが、やがて漁場の経営も取り扱うようになり、宿場松前藩の出先機関としても機能するようになった。蝦夷地が公儀御料となっていた頃には会所と呼ばれた。大政奉還の直前ころにこの運上屋は廃止となり、「本陣」と呼ばれる箱館奉行の出先機関となった。後志国余市郡(ヨイチ場所)には旧下ヨイチ運上家の遺構が残っている。

出典

参考文献

  • 函館市史「通説編第1巻」

関連項目