大坂の陣

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大坂の陣
戦争: 大坂の陣
年月日: 慶長19年(1614年11月 - 慶長20年(1615年5月
場所: 摂津国河内国和泉国
結果: 江戸幕府軍の勝利、豊臣氏滅亡
交戦勢力
戦力
冬の陣:約200,000
夏の陣:約165,000
冬の陣:約90,000
夏の陣:約55,000
損害
不明 不明(40000人以上)

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。

端緒

豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍を指揮して三成ら西軍を撃破する。徳川家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地(いわゆる太閤直轄地)を東軍への恩賞という形で全国にあった220万石の内ほぼ4分の3を削減してしまった。これにより豊臣家の所領は摂津河内和泉の約65万程度まで削がれた[注釈 1]

慶長8年2月12日1603年3月24日)、家康は伏見城征夷大将軍に就任、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。家康の政治目標は徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たり、別格的存在となる豊臣家に対し、服属させるか、それが拒絶された場合には処分する事を考え始めたという。

同年7月徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入した。

慶長10年(1605年正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗奥羽大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍を率いて上洛した。同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り、自らの官位であった右大臣位を秀頼に譲る。将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼はこうして右大臣になったが、秀忠の将軍職継承は天下にはもはや豊臣家ではなく徳川家が君臨することを示すものである。先の家康の将軍任官時の序列はまだ秀頼が上であって、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており[1]、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していたが[注釈 2]、既に家康、そして徳川政権が時を追うごとに優位になっていくことを止めることはできなかった。[2]

5月8日、秀頼が臣下の礼を取るように、高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求した。淀殿は会見を拒否したが、家康は松平忠輝を大坂に遣わし融和に努めている[2]

慶長16年(1611年3月後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する(二条城会見[注釈 3][2]。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17年(1612年)には前年上洛していなかった東北関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない[注釈 4]

二条城の会見後の慶長16年(1611年)に浅野長政堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政・浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まり、幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり[注釈 5]兵糧浪人を集めだし、更には前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。

豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲大筒の製作を命じ、他にも石火矢鋳造イギリスオランダに対し大砲焔硝(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教陣営との接触は両軍共に存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる。[注釈 6]

こうしたなかで発生した方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は後述)。慶長19年(1614年8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、以心崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は西国の大名50名から誓詞をとっている。

且元は大坂へ戻り、9月18日、私案として以下の3つの妥協案の一つを採用するように進言した。

  • 秀頼を江戸に参勤させる
  • 淀殿を人質として江戸に置く
  • 秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する

この案に淀殿は怒り且元は次第に裏切り者として扱われるようになった。秀頼や木村重成からの調停があったものの、28日に高野山に入るとして大坂城を出ることを決めたが、これは秀頼側ら穏健派の態度をも硬化させ、「不忠者である」として改易が決められる。10月1日に片桐且元は蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、300程の雑兵を率き連れ、貞隆、石川貞政らと共に大坂城を退去した。

且元は慶長18年に秀頼から一万石を加増された際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の命により拝領している。このように且元は豊臣家の家臣でありながら家康の家臣でもあり[4]、豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に口実を与えることになった。家康はこの件を根拠にして諸大名に出兵を命じ、大坂の陣が勃発している。[4]

家康の天下普請

徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に藤堂高虎の協力で築城を始めた膳所城を皮切りに伏見城・二条城・彦根城篠山城亀山城北ノ庄城名古屋城の再建・造営や江戸城・駿府城姫路城上野城などの大改修など、諸大名を動員した建築事業として御手伝普請を課し、いわゆる天下普請を行った[2]。この中で駿府城の普請は、普請に対する主従関係の希薄な五百石夫(知行高五百石につき人夫一人)という形で行われ、これは秀頼の所領に対しても賦課された[2]。駿府城の改修により、家康は大御所政治を始動する[2]。名古屋城普請の際には豊臣家へも動員が命じられたが、淀殿がこれに拒否反応を示し、沙汰止みになっている。

秀頼の寺社造営

豊臣秀頼・淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っている。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮石清水八幡宮北野天満宮鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。慶長13年(1608年)には、家康が方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建を勧めている。

これら多くの造営で秀吉が大坂城に遺した金銀は底をつくのではないかという憶測も流れたが、実際には全く困窮していなかった。大坂の役で多くの戦費を消費したにもかかわらず、大坂城落城後、約2万8千枚の(約28万)と約2万4千枚の(約24万両)が幕府に没収されている[5][6]

方広寺鐘銘事件

慶長19年(1614年)、同14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺文英清韓に選定させている[3][4][7]

且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていた。7月26日、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた[3]

8月に家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させた[3][4]。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった[3]。また清韓自身は、あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している[3]

  • 国家安康」について五山の僧の見解を、江戸時代に編纂された史料である『摂戦実録』(大日本史料第十二編之十四)は次のように伝えている[8]
東福寺
御名ノ二字ノ間ニ、安ノ字ヲ被入候事、第一悪候事カト存候事、(聖澄
(名前の二字の間に安の字を入れたことは、何よりも悪いことと考える。)
国家安康之語、倭漢共ニ、避天子諱候事ハ古法也、吾朝俗家諱之説雖無之、避天子執政将軍之諱可乎、不可過用捨、(守藤)
(国家安康の言葉については、日本・中国共に天子の諱を避ける事は古くからのしきたりである。日本の庶民の諱についてはこのしきたりが無いことがあると言えども、天子・執政・将軍の諱は避けるべきで、見逃してそのままにはできない。)
天龍寺
御所様ノ御名乗、聊爾ニ被書、殊銘之語被触御諱之儀、不案内候哉、但手前忘却候哉、憚至極候、(令彰)
(家康の名前を考えなく書くこと、特に銘文の言葉が諱に触れることは、承知できることではない。ただし遠慮して避けるのが道理かは、自分は忘れた。)
南禅寺
銘文中ニ、相公御名乗之二字書分候儀、古今無之、其上雖為同官、天子之次相公二相列位無之事、(宗最)
(銘文中に大臣(家康)の名前の二字を分けて書いたことは、過去・現在に例は無い。その上同じ官位であっても、天子に次ぐ大臣と同じ位置に並ぶことはあってはならない[注釈 7]。)
第一相公御諱ノ二字ヲ、四言之内ニ被書分候事、前代未聞ニ候、縦二字続候事モ、文章ノ詞之内ニ被書載候段、一切無之候事、(景洪)
(何よりも大臣の諱の二字を、四言詩に分けて書くことは前代未聞である。仮に二字を続けたとしても、文章の詞の内に記載することは、全く無い。)
相国寺
銘之中ニ、大御所様諱被書之儀、如何敷存候、但武家御法度之儀者不存候、於五山、其人之儀ヲ書申候ニ、諱相除書不申候法度御座候事、(瑞保)
(銘文中に家康の諱を書いたことは、好ましいことではないと考える。ただし武家のしきたりは知らないが、五山においてはある人物について書く時に、その人の諱を除いて書くしきたりは無い。)
建仁寺
銘云、国家安康、侵前征夷大将軍尊諱之語如何、(慈稽)
(銘文の国家安康で前征夷大将軍の諱を侵したことは、好ましいことではない。)
  • 林羅山の見解と清韓の弁明
右僕射源朝臣家康
右僕射源朝臣、是ハ「源ヲ射ル」トヨミツツケ候下意ニテ、如此仕候事、(林羅山)
(右僕射源朝臣は「源を射る」と読む意図と考えられる。)
右僕射ト申ハ右大臣ノ唐名也、王子誕生ノ時、蟇目ヲイサセラルル官也、他ノ敵ヲホロホシ、悪神ヲモ射ハラウ職ナレハ右僕射云、秀頼モ右大臣ニテ候ヘハ唐名ヲ書、マガイ候ハヌヤウニトテカキカヘ申候、(清韓)
(右僕射というのは右大臣の唐名である。王子が誕生した際に蟇目(鏑矢)を射る官である。他の敵を滅ぼし、悪神を射る職なので右僕射と言う。秀頼も右大臣なので(家康の右大臣は)唐名を書き、(両者を)間違えないように書き変えた。)
国家安康
国家安康ト書申候、是ハ御諱ヲ犯シ申候、無礼不法ノ至、其上御諱ノ字ノ中ヲキリ申候沙汰之限ノ事、(林羅山)
(国家安康は、諱を侵している。無礼で不法極まりない。その上で諱の字の中を切るのは沙汰の限りである。)
鐘ト申ス物ハ、奇特不思議ノアルモノナレハ、此功徳ニヨリテ、四海太平、万歳モ長久ニマシマセト云心ソ、国家安康ト申候ハ、御名乗ノ字ヲカクシ題ニイレ、縁語ヲトリテ申ス也、分テ申ス事ハ、昔モ今モ縁語ニ引テ申シ候事多ク御座候、惣テ御名乗ハ賞翫ノ物ナレハ如此申候、諱ト申候ハ、松杉ナト連歌也、歌ノ作者ニ一字御座候ヲ申候ト承及候、但御侍公方家ノ御事、無案内ニ候、御名乗ハ名乗字ト相ツツキ、是ヲ字ト申候テ、賞翫ノヤウニ承及候間如此仕候、随分アカメタテマツリ仕候ヘトモ、愚人夏ノ虫ノ如クニ候、御慈悲ヲタレタマイ、トトキ候ハヌハ、不才ノトガニテ候、万事芳免ヲクダサレバ、生前死後ノ大幸也、(清韓)
(鐘は奇特且つ不思議なもので、この功徳により四海は太平になり、万歳も長久になるという心である。国家安康というのは、家康の字を隠し題に入れて縁語にしている。名を分けることは今も昔も縁語では多くあり、全ては家康の名を尊重するためである。諱については松杉等の連歌で歌の作者の一字を頂いている。ただし侍・公家の家のことは、分からない。名乗り(諱)は名乗り字(名乗りに用いる漢字)に続き、これを字と言い尊重するように頂いている。随分と尊んだのであるが、愚人や夏の虫のようになってしまった。御慈悲を頂きたいが、頂けぬのなら(自身の)不才の罪である。赦して頂けるなら、生前死後における大きな幸いである。)
君臣豊楽
君臣豊楽、子孫殷昌ト書申候、是モ「豊臣ヲ君トシ子孫ノ殷ニ昌ナルヲ楽シム」トヨム下心ナリ、シカレハ下心ニフカク呪詛調伏ノ心ヲカクシテ、秀頼ノ現世ノ祈祷ノ為タル事、(林羅山)
(君臣豊楽・子孫殷昌も「豊臣を君(君主)として、子孫の殷に昌なる(盛んに栄える)を楽しむ」という下心がある。その上で下心に深く呪詛調伏の心を隠して、秀頼の現世の祈祷としている。)
是モ豊臣ヲカクシ題ニ仕候、此例モ昔シ御座候、(清韓)
(これも豊臣を隠し題にしたものである。この例も昔にあったものである。)

宮本義己は「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない[9]」としており、この考え方は以下に述べるように笠谷和比古や渡邊大門に影響を与えている。 この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し[3][4]、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった[3]。しかし家康の追及は終わらなかった。たとえ、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても[3][4]、当時のに関する常識から鑑みれば[3][4]、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく[3]、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり[3][4]、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった[3]。姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある[3]。家康のこの件に対する追求は執拗であったが[3][4]、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず[3][4]、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない[3][4]。しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている[4]。清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま1621年に没している[10]。なお鐘と銘文は、方広寺にそのまま残され、現代に至っている。

大坂冬の陣

ファイル:Osaka no eki winter.png
冬の陣布陣図(慶長19年12月)拡大

豊臣方の準備

慶長19年10月2日(1614年11月3日)、豊臣家では旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった[注釈 8]。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・の建築なども行った。

集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、明石全登後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親毛利勝永ら五人衆のほかにも塙直之大谷吉治などがいた。彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は違えど、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの烏合の衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。

豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重ので囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された[注釈 9]

同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。

幕府軍の出陣

10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。 翌12日には豊臣方の真木島昭光の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。

そして、23日に家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。

11月1日摂関家の当主らが、家康の元に訪れて朔日の祝いを述べた。ところが現任の関白である鷹司信尚のみは、延期された方広寺の大仏の開眼供養に出席しようとしていたことを家康から問題視されて会見を断られてしまう。信尚はそのまま謹慎を余儀なくされ、その後家康が行った禁中並公家諸法度の草案に対する公家たちへの意見聴取の対象にもされることがないまま、翌年閏6月に関白の辞表の提出をしている[11]

幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされた。福島正則や黒田長政は関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力したが、これはあくまで不仲であった石田三成の討伐が目的だった為、豊臣家との戦となれば敵方に寝返る可能性があった。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。

諸大名らの軍勢は揃って江戸から出立したわけではなく、当主が急遽帰国し、各々の国許から(家康らとは別に)指定された集結地点(瀬田・大津・京都郊外、大坂付近など)に集結した。例として、越前福井藩主の松平忠直は当時江戸に滞在していたが、緊急に本国に使者を派遣して出陣を指示、越前松平家附家老の本多富正が軍を率いて越前を出立、近江国大津に軍を進め、同地で江戸からやってきた忠直と合流した、などがある。

11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。

緒戦

慶長19年11月19日(1614年12月19日)、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後11月26日には鴫野・今福で(鴫野今福の戦い)、11月29日には博労淵、野田・福島において戦闘が行われた(博労淵の戦い野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。

攻囲戦

豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を[12]、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じている。4日より各隊は竹束塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10から5・6町まで接近していった[13]。これ以前、家康は10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している[14]

この接近時に起こった真田丸の戦い12月3日、4日)で豊臣軍が徳川軍を撃退。秀忠は4日に岡山に着陣し、家康が和議を考えていると知り家康に総攻撃を提案するが、家康は「敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよ」と却下している[15]。5日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し[16]、8日までに到着した部隊にも仕寄(しより、塹壕の事)の構築を命じている。

9日。家康が11月23日[17]より伊奈忠政福島忠勝毛利秀就角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄橋の工事が完了し、大和川があるため干上がる事はなかったが川の深さは膝下まで下がる[18]。大和川の塞き止めも行われ、諸隊に命じて毎夜三度(の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている(この鬨の声は京まで届いた)[19]。この頃より大坂城総構への方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は松平忠明隊は20から30、藤堂隊は7間に近接している[20]

10日には降伏を促す矢文を送り[21]、11日には甲斐佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁石垣を破壊する為の坑道の掘削を始めた[22]。13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている[23]。更に、船場の堀の埋め立ても命じた[24]。また、大坂方武将への調略も行われ、本多正純が弟で前田家家老の本多政重真田信尹(徳川軍使番・真田信繁の叔父)と協力して、真田信繁を徳川軍に寝返らせるよう指示した文書が残されている。

16日から全軍より一斉砲撃が始められる[25]方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿御対面所(俗称千畳敷)に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。 この砲撃では国友製3貫目の大砲、芝辻理石衛門により鍛造で造られた鉄製の大砲が使われた。芝辻理石衛門製の大砲は靖国神社の遊就館に奉納されている。 6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)[26]も含まれていると思われる。

豊臣方は近づいてくる徳川方に火縄銃で対抗。竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと火縄銃の効果は激減する[27]。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ、激励していたといわれる(『当代記』)[28]。 大砲も使い、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげた(17日)。

和議

徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり[注釈 10]、真の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8・12日にも有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。

豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓・陣屋などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中、8人共死んだ。淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、あまりに凄惨な光景を見て和議に応ずる事を決める(16日)。

朝廷から後陽成上皇の命により、17日に武家伝奏広橋兼勝三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、あくまで徳川主導で交渉を進めた[注釈 11]

交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。

講和内容は豊臣家側の条件として

  • 本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること。
  • 淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

が提出され、これに対し徳川家が

  • 秀頼の身の安全と本領の安堵。
  • 城中諸士についての不問。


を約束する事で和議は成立。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた(ただし、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある[注釈 12])。

堀の埋立

和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。

城割(城の破却)は古来行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すだけ、城郭の一部の破壊については外周の外堀だけを埋めるという儀礼的なものだった。しかし徳川側は松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく、周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。この際、門や櫓も徹底的に破壊されている。

幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てる卑劣な手段を使ったとされてきたが、この話は後代に記された書物にしか記載されておらず、当時の第一次史料の中には確認できない。さらに、この工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事を巡り大坂方との間で揉め事が発生しているような形跡が見つからず「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであった」といえる[29]

大坂夏の陣

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大坂城炎上 1663年絵図

和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。慶長20年3月15日1615年4月12日)、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。 4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。 4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。

家康が名古屋城に入った4月10日、秀忠は江戸を出発している。4月12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康は18日に二条城に入った。このころ秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも家康に伝えてくれと依頼している。

4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うことを命じた。この二手の他、紀伊浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じている。

5月5日、家康は京を発した。その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたという。

豊臣方では、4月9日に交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、4月12日に金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。また主戦派の浪人、大野治房たちが埋められた堀を掘り返したりしている。 和議による一部浪人の解雇や、もはや勝ち目無しと見て武器を捨て大坂城を去るものが出たため、この時の豊臣家の戦力は7万8000に減少した。一方、大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いと判断し、総大将の首を討つ機会のある野戦にて徳川軍との決戦を挑む事が決定された。 なおこの頃、織田有楽斎は大坂城を退去している。

樫井の戦い

豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日筒井定慶の守る大和郡山城を落とし(郡山城の戦い)、付近の村々に放火。28日には徳川方の兵站基地であったを焼き打ちする。治房勢は、4月29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い討死した(樫井の戦い)。その後、大野治長らは浅野勢と対峙しつつ、5月6日まで堺攻防戦を行った。

道明寺・誉田合戦

5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起こる。寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取ることができず、後藤基次隊2,800は単独で小松山に進出したが、伊達政宗、松平忠明ら2万以上から攻撃を受け、基次は討死した。次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死した。

さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止めた。しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して後退。幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃を行わなかった。

八尾・若江合戦

同日、木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が、河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した八尾・若江合戦が起こっている。まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊5,000を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ、後退中に追撃を受け壊滅。木村は藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊3,200らと交戦の末に討死した。

5月6日の戦闘の結果は幕府方の優勢で、豊臣方は大坂城近郊に追い詰められた。

天王寺・岡山合戦

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夏の陣(天王寺・岡山合戦)布陣図(慶長20年5月7日)拡大

5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。

天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500、岡山口には大野治房ら4,600、別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣した。

これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置いた。岡山口には前田利常ら計27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。

正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は豊臣方の真田隊・毛利隊・大野治房隊などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は混乱に陥るなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により、豊臣軍は大坂城本丸に総退却した。

終局

本丸、掘り返した堀以外の堀を埋められて裸同然となっていた大坂城に、殺到する徳川方を防ぐ術はもはやなく、真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入した。遂には秀頼の下で大阪城台所頭を務めていた大角与左衛門が徳川方に寝返り、手下に命じて城の大台所に火を付けさせるという事態も発生し[30][31]、全体に延焼した大坂城は灰燼に帰し、落城した[31]。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。なお、大阪城陥落直後の1615年6月11日付の長崎の平戸オランダ商館の関係者の報告では、徳川家康側に赦免を得るために寝返った数名の大名が秀頼を裏切り、城に火を放って逃亡を図るが適わず、その場で城壁から突き落とされて死亡したとされている[32]

翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに蔵の中で勝永に介錯され自害した[注釈 13]

現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した福岡藩黒田長政が当時一流の絵師を集めて描かせた大作の屏風絵大坂夏の陣図屏風」通称、「黒田屏風」(重要文化財)の左半分には、乱妨取りに奔った徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。また、。落城後の混乱の中でも豊臣勢の抵抗はしばらく続いた[33]

ある町人が残した記録「見しかよの物かたり」には

男、女のへだてなく
老ひたるも、みどりごも
目の当たりにて刺し殺し
あるいは親を失ひ子を捕られ
夫婦の中も離ればなれに
なりゆくことの哀れさ
その数を知らず

と、その悲惨さが語られている。

諸大名の対応

島津氏は秀頼からの書状に対し「豊臣家への奉公は一度済んだ」と返事したが、徳川方としての出陣は冬の陣・夏の陣とも結果的にかなわなかった(夏の陣では、鹿児島を発ち平戸に到着した時に大坂の役の情報を聞いて引き返している)。これは当時、藩主島津忠恒が進めていた藩政改革がうまく行かず、家臣団の統制すらままならなかったからであるが、島津の不参加は一時「島津謀反」の噂を引き起こし、小倉藩の監視を受ける羽目となった。この一件以後、島津氏は藩政改革を一気に推し進め、また幕府の行う事業や島原の乱への出兵など積極的にこなしていった。

戦後処理

秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。豊国社は廃絶され、家康の指示で大仏の鎮守にするために方広寺大仏殿の裏手に遷された。大阪城に残された豊臣家の財宝は、家康の指示で、1か月余りにわたりくまなく捜索され、焼けた倉庫跡から金1万8000枚、銀2万4000枚を発見しすべて回収した[34]。長宗我部盛親はじめ残党の追尾は10年以上に亘って行われた(徳川幕府転覆を企てた由井正雪の片腕とされた丸橋忠弥は長宗我部盛澄といい盛親の側室の次男という)。盛親以外には、細川興秋は父・細川忠興から自刃を命じられ、増田長盛は盛次の罪を背負う形で配流先の岩槻で、また古田重然は豊臣に内通したという疑いから自刃した[35]明石全登の行方は定かではないが、その息子・明石小三郎は寛永10年(1633年)に薩摩で捕まっている。

その一方で、仙台藩では、捕虜となった長宗我部盛親の姉妹の子である柴田朝意(父は長宗我部家臣の佐竹親直)が仙台藩の奉行になったり、信繁の子の真田守信が仙台藩重臣片倉重長に匿われて、後に仙台藩に仕官したりしており、実際の残党狩りは藩により温度差が生じている。また、旧室町幕府幕臣であった真木島昭光がかつての同僚である細川忠興らの嘆願で助命されるなど、特別な事情で処刑を免れた事例もあった。 また秀頼に内通したとして、福島正則の弟で大和国宇陀松山藩主の福島高晴が改易となった。蝦夷松前藩では、松前由広が内通の疑いで父・松前慶広の命令で斬られた。織田有楽の嫡男とみられた織田頼長は、豊臣軍の武将として徳川軍と戦ったため、有楽は所領を相続させず、頼長の弟2人に分与した。毛利輝元の密命で豊臣軍に加わった内藤元盛は戦後、徳川軍に捕縛されたが、毛利家は無関係だと主張し、自刃した。輝元は、内藤元盛の子2人を斬り、孫を幽閉して、いったん内藤家は断絶となったが、元盛の曾孫の代になって毛利家の家臣として復活を許された。

戦後、大坂城には松平忠明が移り、街の復興にあたった。復興が一段落すると忠明は大和郡山に移封され、以降大坂は将軍家直轄となった。幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き、西国支配の拠点の一つとした。

一方、松平忠輝は総大将を務める天王寺合戦で遅参したことが理由の一つとなり、翌年に改易となった。松平忠直は、大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであったことを不満としており、後に乱行の末改易となった。戦後に新しい領地が幕府より与えられた例としては、伊達秀宗伊達政宗の長男)に伊予国宇和島藩10万石、前田利孝(前田利家の5男)に上野国七日市藩1万石、織田信雄大和国宇陀松山藩5万石が与えられ、蜂須賀至鎮には淡路国8万石が加増され、井伊直孝藤堂高虎には、それぞれ5万石が加増され、水野勝成には三河国刈谷藩3万石から大和国郡山藩6万石へ加増転封となった。

この戦いを境に応仁の乱より断続的に続いていた大規模な戦闘が終焉した[36][37]。これを元和偃武と言う[37]

伝承

真田信繁

大坂夏の陣での真田信繁(幸村)の活躍はまず、屏風絵に見られる。最初に黒田長政によって作成された「大坂夏の陣図屏風」(黒田屏風)に始まり、後世、版画の錦絵に描かれるなど、徳川政権下でも後世へ語り継がれた。文献では特に、江戸中期頃に書かれた「真田三代記」は信繁のみならず真田一族の名を高めるのに貢献した。天王寺合戦は江戸時代後期に書かれた島津家の伝承を集めた「薩藩旧記」で「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由、惣別れのみ申す事に候[38]」、「家康が切腹も考えるほどだった」などと記された。また家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記である高山公実録にも「御旗本大崩れ」と記され、藤堂勢は応戦はしたものの、真田隊の勢いの前では効果無く、ほどなく家康は本陣を捨ててしまい、高虎自身も、家康の安危を確認できなかったと振り返っている。後に真田隊の猛攻を恐れ、家康を残して逃走した旗本衆の行動を詮議したという「大久保彦左衛門覚書」(三河物語)も残っている。

また、信繁以外にも毛利勝永、大野治房らも天王寺・岡山の戦いで活躍した(『日本戦史 大坂役』)。信繁は徳川軍の中を敵中突破した一方、勝永と治房らは自軍の数倍もの徳川軍に正面から当たり、壊滅させたと言われている(『日本戦史 大坂役』)。 さらに、真田隊が強行突破できたきっかけとなったのは、毛利隊の快進撃を何とか防ごうと、松平隊の背後にいた浅野隊が毛利隊に当たろうとし、その動きを松平隊が「浅野隊が寝返った」と思い、混乱したことでもあるとする説もある(『日本戦史 大坂役』)。

真田隊や毛利隊がどれだけ家康自身に迫ったのかは諸説あり、そのため後世の創作である軍記、歌舞伎、錦絵や再現イラスト、歴史漫画では様々な様子が描かれている。また、家康の周囲にいた人間も小栗又一、大久保彦左衛門など本によって様々である。

信繁討死についても諸説があるが、一般的には「安井神社で石畳に腰をかけているところを討たれた」と言われている。安井神社は天王寺公園・茶臼山の北にある一心寺の北に所在する。これは明治時代に当時の大日本帝国陸軍参謀本部が制定したものとされ、安井神社にある「眞田幸村戦死跡之碑」には戦死の地の選定に際しての参謀本部の関与を示す一文が刻まれている。

信繁を討ち取った西尾宗次が属した越前松平家の文書[39]が近年発見[40]され、これによると、西尾は生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で休息していた信繁を討ち取ったといい、安居神社説は誤伝とみられる[41]

秀頼生存伝承

鹿児島県には、「信繁は合戦で死なず、山伏に化けて秀頼·重成を伴って谷山(鹿児島市)に逃げてきた」という説がある。京都大坂では陣の直後頃に、「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」という京童に歌われたという[42]

家康討死伝承

堺市にある南宗寺には「大坂夏の陣茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との異伝を伝えている(『南宗寺史』)。当地にはかつて東照宮もあり、元和9年(1623年)の将軍宣下の折に2代秀忠(7月10日)、3代家光(8月18日)が相次ぎ参詣している。戦災で失われ、現在の「東照宮 徳川家康墓」と銘のある墓標は、かつての水戸徳川家家老裔の三木啓次郎が昭和42年(1967年)に再建したものだが、墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文も残る。[43]

大坂城攻城法伝承

大坂冬の陣で家康は一旦和睦し堀を埋め立てた後に再度、兵を挙げることで大坂城を落としているが、この方法は家康が存命中の秀吉に直接聞いたものという逸話がある。

参加武将

豊臣軍(豊臣家)

出自 氏名 備考
豊臣家譜代 豊臣秀頼
速水守久青木一重(夏の陣には不参加)、伊東長実堀田盛重中島氏種真野頼包野々村吉安杉善右衛門 七手組
大野治長大野治房大野治胤木村重成渡辺糺竹田永翁木村宗明郡宗保山口弘定六角定治細川頼範山名堯政赤座直規槇島重利生駒正純毛利重能内藤長秋織田昌澄真木島昭光赤星親武薄田兼相
浪人 明石全登後藤基次真田信繁長宗我部盛親毛利勝永 五人衆
真田幸昌塙直之御宿政友大谷吉治新宮行朝北川宣勝木村清久山川賢信福島正守福島正鎮淡輪重政岡部則綱箸尾高春氏家行広細川興秋早川長政真田信倍増田盛次(冬の陣は幕府方)、伊木遠雄井上時利米田是季浅井長房浅井政高仙石秀範石川康勝佐藤方政樋口雅兼毛利秀秋赤松祐高平塚左馬助青木久矩木下秀規仙石定盛玉置永直玉置小平太内藤元盛吉田康俊十河存英稲木教量宮島兼与戸田為重高松久重黒川貞胤三浦義世小倉行春川崎和泉津川親行湯浅正寿結城朝勝藤野半弥内藤忠豊南部信景平井保延平井保能名島忠純鈴木正祥森宗意軒岡平内木曾義春(義成)
井上頼次飯田家貞矢野正倫平子正貞蘆塚忠右衛門南条元忠(冬の陣で幕府方に内応、切腹) 冬の陣で死亡
公家 持明院基久持明院基征 天王寺・岡山の戦いで戦死
その他 織田長益織田頼長 夏の陣直前に大坂城を退去

幕府方

冬の陣

各将の配置は史料により異同がある。

城包囲時の持ち口 氏名
森村・中浜 本多忠朝浅野長重真田信吉真田信政佐竹義宣上杉景勝丹羽長重堀尾忠晴戸田氏信牧野忠成
大和橋口 秋田実季本多康俊植村泰勝小出吉親
黒門口 松下重綱仙石忠政酒井家次水谷勝隆小出吉英
平野口 南部利直
真田丸正面 前田利常
八丁目口 井伊直孝松平忠直松倉重政榊原康勝桑山一直古田重治脇坂安元寺沢広高
谷町口 藤堂高虎
松屋町口 伊達政宗伊達秀宗
西南 毛利秀就徳永昌重福島忠勝
西 船場 浅野長晟蜂須賀至鎮池田忠雄石川忠総戸川達安山内忠義松平忠明稲葉典通鍋島勝茂森忠政
北西 中之島 山崎家治加藤貞泰一柳直盛
福島 九鬼守隆向井忠勝千賀信親小浜光隆
今橋口 有馬直純
浜筋 立花宗茂分部光信
天神橋 本多忠政有馬豊氏
天満橋 池田利隆中川久盛加藤明成
川崎口 松平康俊岡部長盛
京橋口 能勢頼次関一政竹中重門別所吉治市橋長勝
東北 京街道 長谷川守知本多康紀片桐且元片桐貞隆石川貞政宮城豊盛蒔田広定林武吉木下延俊花房正成花房正盛
不明 京極高知京極忠高生駒正俊松平信吉新庄直定松平康長相馬利胤稲葉紀通黒田忠之佐久間安政佐久間勝之
本営 岡山 徳川秀忠
茶臼山 徳川家康
その他 在国 津軽信枚脇坂安治
参陣できず 島津忠恒
江戸城留守居 福島正則黒田長政加藤嘉明蜂須賀家政平野長泰

夏の陣

方面軍 氏名
河内方面軍 先鋒 藤堂高虎井伊直孝
右備 榊原康勝小笠原秀政仙石忠政諏訪忠恒保科正光藤田信吉丹羽長重
左備 酒井家次松平忠良松平信吉牧野忠成松平成重
二番手 右備 本多忠朝真田信吉浅野長重秋田実季松下重綱植村泰勝
左備 松平康長相馬利胤水谷勝隆六郷政乗稲垣重綱内藤忠興
三番手 右備 松平忠直
左備 前田利常
大和方面軍 先鋒 水野勝成堀直寄松倉重政奥田忠次桑山元晴桑山一直本多利長丹羽氏信神保相茂
二番手 本多忠政古田重治菅沼定芳分部光信稲葉紀通織田信重
三番手 松平忠明徳永昌重一柳直盛西尾嘉教遠山友政堀利重
四番手 伊達政宗
五番手 松平忠輝村上義明溝口宣勝
紀伊方面軍 浅野長晟
本営 一番手 右備 酒井忠世脇坂安元新庄直定
左備 土井利勝佐久間安政
二番手 本多正純立花宗茂
本陣 徳川家康徳川秀忠
後詰 徳川義直徳川頼宣
城北方面 京極高知石川忠総池田長幸池田利隆有馬豊氏堀尾忠晴
水軍 九鬼守隆向井忠勝小浜光隆
不明 黒田長政加藤嘉明細川忠興本多康俊本多康紀宮城豊盛佐久間勝之森忠政
その他 京都警備 上杉景勝
在国 津軽信枚脇坂安治
参陣できず 蜂須賀至鎮山内忠義稲葉典通島津忠恒佐竹義宣福島忠勝
江戸城留守居 福島正則

その他

日本国外の記録史料

オランダ人商人(東インド会社駐在員)が陣前後の各地の様子を書き残した文書がオランダのハーグ国立文書館Nederlands版で見つかった。「家康に寝返る大名がいたが、寝返る前に秀頼によって突き落とされ死亡した」などの記述がある[44][45][46][47]

2018年4月に広島県立歴史博物館が、冬の陣、夏の陣の詳細な陣形を記録した最古級、最大級の陣図が見つかった、と発表した[48]。冬の陣図は4枚組みで、中心の1枚(縦1.89メートル、横1.15メートル)に大坂城の本丸から茶臼山付近まで、他の3枚には城外で戦いに加わった大名などの配置が記録され、全体で2.5メートル四方の大きさ[48]。夏の陣図は1枚(縦1.89メートル、横1.15メートル)で、冬の陣の中心図と対になる構成になっている[48]

関連作品

小説
ドラマ
コンピュータゲーム
  • 大阪冬の陣、CSK/木屋通商、1983年、PC-8801以降
  • 『大阪の陣パートII』CSK、1984年、PC-8800シリーズ
アーケードゲーム
ボードゲーム

脚注

注釈

  1. このことによって豊臣家が一大名に転落したとする見解と(今谷明『武家と天皇』)、豊臣家が西国を支配する二重公儀体制であったとする見解がある(笠谷和比古)。
  2. 関ヶ原の戦いの直後に九条兼孝関白に任官したことにより、秀頼が関白就任への可能性を絶たれたとする見解(今谷明『武家と天皇』)もある。慶長10年には兼孝の次に摂関家の近衛信尹が関白に任じられている。
  3. 2人の応対や礼法などを分析し、この会見について秀頼が家康に臣従させられた(今谷明、本多隆成、渡邊大門)、対等な立場での会見であった(笠谷和比古)と両方の見解がある。
  4. これをもって秀頼の臣従は成っていないとする見解(笠谷和比古)と、秀頼を慮りつつ孤立化を図ったとする解釈がある(渡邊大門)。
  5. 慶長11年に、家康は朝廷より武家官位推挙権を獲得していた。豊臣家は依然として徳川幕府体制の外にあったため、幕府の制定した法令に縛られないというのが豊臣側の論理である。
  6. また、家康は林羅山放伐論の是非を問うなど、主家である豊臣家を討つことの倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩したといわれているが[3]、この時期の林羅山は家康に対して大きな発言権はないとする近年研究もある[4]
  7. これは国家安康(家康)と君臣豊楽(秀頼)の文言が鐘に並んで(しかも後者の方が一段高く)刻印されていることを指していると考えられる。
  8. 接収米の内訳は福島正則分八万石、徳川家分三万石(ただし、接収を免れたという説もある。)、諸大名分三万石、商人からの買米二万石
  9. この軍議が実際にこの内容で行われたかどうかどうか、行われたとすればいつかについてははっきりしない。ただ、浪人衆入城が10月6日、同日に家康より伏見へ出陣を命じられた近畿の諸大名が現地に着いたのが16日なので、浪人衆が唱えたとされる策は現実性は乏しい(また、伏見城には平時より城代松平定勝大番2組等が詰めている)
  10. ただし、11月28日に小堀政一に命じて蔵米8万石と豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じているので、徳川方の兵糧不足は一時的なものと思われる
  11. この時家康はかねてから公家たちに求めていた「古今礼義式法之相違」に関する意見の提出を両名に督促しており、豊臣氏との合戦と並行して翌年制定される禁中並公家諸法度の制定に向けて意見の集約を進めていたことが分かる(橋本政宣 「禁中并公家中諸法度の性格」『近世公家社会の研究』 吉川弘文館、2002年、ISBN 4642033785 P541-543)。
  12. 大名や家康近臣、宣教師の記録には二の丸破壊の記述があり、当代記や複数の覚書には二の丸破壊は記されていない
  13. 現在の大阪城公園内には天守閣北側の山里丸跡に「自刃の地」と記した碑があるが、落城・焼失後に江戸幕府が再建した際に縄張りを改めており、豊臣時代のものとは位置に若干の相違がある。また、自害の地としては籾蔵の他に「山里丸内の隅櫓」など諸説がある

出典

  1. 毛利輝元書状(『萩藩閥閲録』)、『義演准后日記』慶長七年十二月晦日条、『鹿苑日録』慶長八年四月二十日条(当時の僧録西笑承兌)など。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 渡邊大門『大坂落城』pp33-65。
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 3.14 3.15 3.16 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』pp204-215
  4. 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 渡邊大門『大坂落城』p68-82
  5. 『駿府記』
  6. 渡邊大門『大坂落城』p178
  7. 方広寺大仏鐘銘草稿本(京都市歴史資料館蔵){{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}
  8. 一部は「方広寺鐘銘事件」『関ヶ原合戦と大坂の陣』pp204-215に記載
  9. 宮本義己「徳川家康公の再評価」(『大日光』64号、1992年)
  10. 渡邊大門『大坂落城』p178、p187
  11. 橋本政宣 「禁中并公家中諸法度の性格」『近世公家社会の研究』 吉川弘文館、2002年、ISBN 4642033785 P551-555
  12. 大日本史料 12編16冊575頁
  13. 大日本史料 12編16冊600頁
  14. 大日本史料 12編15冊579頁
  15. 大日本史料 12編16冊737頁
  16. 大日本史料 12編16冊743頁
  17. 大日本史料 12編16冊176頁
  18. 大日本史料 12編16冊787頁
  19. 大日本史料 12編16冊783頁
  20. 大日本史料 12編16冊727・783頁
  21. 大日本史料 12編16冊809頁
  22. 大日本史料 12編16冊810頁
  23. 大日本史料 12編16冊891頁
  24. 大日本史料 12編16冊892頁
  25. 大日本史料 12編16冊908頁
  26. 宇田川武久 『真説鉄砲伝来』(平凡社、 2006年)
  27. 大日本史料 12編16冊754頁
  28. 田端泰子「「大阪冬・夏の陣」に収斂する淀殿の役割」(『京都橘女子大学女性歴史文化研究所紀要』11号、2003年)
  29. 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(2007年、吉川弘文館)239-241頁
  30. 近藤瓶城『続史籍集覧 第8冊』「駿河土産 巻5」太閤に大角与左衛門と言者成立之事、2017年11月25日閲覧。
  31. 31.0 31.1 『徳川実紀 第1編』「東照宮御実紀附録 巻16」、p. 273、2017年11月25日閲覧。
  32. 朝日新聞2016年9月22日朝刊34面に掲載された記事より
  33. 大坂夏の陣を記した新史料、松本で発見 落城後も緊迫
  34. 磯田道史『日本史の内幕』中公新書 2017年 pp.80-85
  35. 「古田織部」『日本人名大辞典』講談社。
  36. 徳川宗家19代目・徳川家広「『元和偃武』の本当の意味とは?」”. AERA. 朝日新聞出版 (2016年6月12日). . 2017閲覧.
  37. 37.0 37.1 和歌森太郎編 『日本の歴史』上 有斐閣 1957年 p.11 「第1話 日本史観」
  38. 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」(小林計一郎編『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』KADOKAWA、2015年)156頁
  39. 『忠昌様大坂ニ而御戦功有増』(『松平文庫』、福井県立図書館所蔵)
  40. 「真田幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見」読売新聞、2013年2月25日付
  41. 丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社新書、2015、pp.251-252
  42. 小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」(小林計一郎編『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』KADOKAWA、2015年)164頁
  43. 日本経済新聞堺支局長 原明彦 (2012年9月1日). “大阪・堺に「徳川家康の墓」の謎 夏の陣で討ち死に伝説”. 日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西. 日本経済新聞. . 2016閲覧.
  44. 駐日オランダ人が「大坂の陣」を記録 「寝返った大名が秀頼に落とされた」 日文研、オランダの大学と共同調査”. 産経新聞 (2016年9月21日). . 2016閲覧.
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  47. 「秀頼に落とされ死んだ」大坂の陣、オランダで新文書”. 朝日新聞 (2016年9月21日). . 2016閲覧.
  48. 48.0 48.1 48.2 「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級毎日新聞、2018年4月4日

参考文献

  • 宮本義己「徳川家康公の再評価」(『大日光』64号、1992年)
  • 池上裕子 『織豊政権と江戸幕府』 講談社〈日本の歴史15〉、2002年1月。ISBN 4-06-268915-4。
  • 笠谷和比古 『関ヶ原合戦と大坂の陣』 吉川弘文館〈戦争の日本史17〉、2007年10月。ISBN 978-4-642-06327-2。
  • 大日本史料 第12編』(東京大学史料編纂所
  • 『日本戦史 大坂役』(参謀本部
  • 曽根勇二 『片桐且元』 日本歴史学会、吉川弘文館〈人物叢書〉、2001年2月。ISBN 978-4-64-205221-4。
  • 曽根勇二『大坂の陣と豊臣秀頼 (敗者の日本史) 』(吉川弘文館、2013年)ISBN-13: 978-4642064590。
  • 『大坂の陣』(学研歴史群像シリーズ40)
  • 『戦況図録 大坂の陣』(新人物往来社別冊歴史読本56)
  • 渡邊大門 『大坂落城 戦国終焉の舞台』 角川学芸出版〈角川選書〉、2012年9月。ISBN 978-4-04-703512-6。
  • 田端泰子「「大阪冬・夏の陣」に収斂する淀殿の役割」(『京都橘女子大学女性歴史文化研究所紀要』11号、2003年)
  • 長浜市長浜城歴史博物館 『片桐且元:豊臣家の命運を背負った武将』 サンライズ出版、2015。ISBN 9784883255733。

関連項目

外部リンク