天龍寺

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天龍寺
所在地 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
位置 東経135度40分25.58秒北緯35.0159639度 東経135.6737722度35.0159639; 135.6737722
山号 霊亀山(れいぎざん)
宗旨 臨済宗
宗派 天龍寺派
寺格 大本山、京都五山一位
本尊 釈迦如来
創建年 康永4年(1345年
開基 足利尊氏夢窓疎石(開山)
正式名 霊亀山 天龍資聖禅寺
札所等 神仏霊場巡拝の道 第88番
文化財 庭園(特別名勝・史跡)、絹本著色夢窓国師像3幅、絹本著色観世音菩薩像、木造釈迦如来坐像ほか(重要文化財)
世界遺産
地図
天龍寺の位置
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天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

歴史

天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

足利尊氏後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。

天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。

また、2500点余りの天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵しているが、中世のものは度々の火災で原本を失ったものが多く(案文重書案などの副本の形で残されている)、後に関係の深い臨川寺の文書が天龍寺に多数移されたこともあって、「一般に天龍寺文書といわれるが、現実には臨川寺文書が多数を占める[1]」とまで言われている。これに対して近世のものは寺の日記である「年中記録」などの貴重な文書が伝えられている。ともに、中世・近世の京都寺院の状況を知る上では貴重な史料である。

方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

伽藍

境内東端に勅使門、中門があり、参道は西へ伸びている。これは、通常の禅宗寺院が原則として南を正面とし、南北に主要建物を並べるのとは異なっている。参道両側に塔頭(山内寺院)が並び、正面に法堂(はっとう)、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、僧堂、多宝殿などがあるが、いずれも近代の再建である。

  • 勅使門 - 四脚門。寺内最古の建物である。
  • 法堂 - 禅寺の中心堂宇としては珍しい、寄棟造単層の建物で、1900年(明治33年)の再建。本尊釈迦三尊像を安置する。天井画の雲龍図は明治時代、鈴木松年によって描かれたが、傷みがひどかったため、1997年(平成9年)加山又造により八方にらみの龍の雲龍図が描かれた。
  • 大方丈 - 1899年明治32年)の建築。
  • 小方丈 - 1924年大正13年)の建築。
  • 多宝殿 - 1934年昭和9年)の建築。近代の建築だが、鎌倉時代頃の建築様式を用いている。後醍醐天皇の木像を安置する。

別院塔頭

  • 松厳寺(松岩寺)四辻善成の建立で、晦谷祖曇を開祖としている。1353年(文和2年)の創建である。
  • 弘源寺
  • 慈済院 無極志玄を開基としている。1363年(貞治2年)に創建されている。
  • 妙智院
  • 三秀院 1368年(応永元年)に夢窓国師の直弟子で天龍寺16世をつとめた不遷法序和尚を開祖として創建、天龍寺三秀院派の本寺。創建後、応仁の乱の兵火で焼失、1662年(寛文2年)天外承定禅師により再興、再び1769年(明和6年)の大火で焼失等を繰り返した。現在地に移転したのは1908年(明治41年)である。東向大黒天像は後水尾天皇勅願の嵯峨人形であって、比叡山・上野寛永寺の大黒天と共に日本の三大黒天として有名である。[2]
  • 永明院 夢窓国師三世の法孫、大岳周崇禅師が応永20年(1413年)に開創したお寺。妙心寺、退蔵院の国宝「瓢鮎図」には当時の五山を代表する禅僧が賛詩を寄せていますが、序文と第一句を書いておられるのが、大岳周崇禅師です。[3]

山外塔頭

天龍寺十境[4]

  • 貞和2年(1346年)に夢窓は亀山十境のちの天龍寺十境を創設。
    • 普明閣(ふみょうかく)
    • 絶唱谿(ぜっしょうけい)
    • 霊庇廟(れいひびょう)
    • 曹源池
    • 拈華嶺(ねんげれい)
    • 渡月橋(とげつきょう)
    • 三級巌(さんきゅうがん)
    • 万松洞(ばんしょうどう)
    • 龍門亭
    • 亀頂塔

文化財

特別名勝・史跡

  • 庭園 - 特別名勝及び史跡の指定範囲は、前庭と方丈裏庭[5]。前庭は、勅使門から放生池を経て法堂に至る境内中心部を指す。方丈裏庭は曹源池(そうげんち)を中心とした池泉回遊式庭園で、夢窓疎石の作庭。

重要文化財

  • 絹本著色夢窓国師像 徳済の賛あり
  • 絹本著色夢窓国師像 暦応庚辰仲秋の自賛あり
  • 絹本著色夢窓国師像 木訥叟(夢窓)自題あり[6]
  • 絹本著色観世音菩薩像 
  • 絹本著色清涼法眼禅師像・雲門大師像
  • 木造釈迦如来坐像
  • 遮那院御領絵図
  • 往古諸郷館地之絵図 
  • 応永鈞命絵図 
  • 東陵永璵墨蹟(4字目は王偏に「與」) 
  • 北畠親房消息
  • 臨川寺領大井郷界畔絵図 貞和三年仲冬夢窓疎石裏書[7]

出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

府指定

映画と天龍寺

天龍寺は明治の活動大写真の時代から、京都の映画人に愛され、映画のロケ地に数多く使われた。現在では映画のロケは断っているが、撮影所や嵐山電車からの近さ、武家屋敷のようなたたずまいや、近くに渡月橋や峡谷もあり、変化の多い風景から大正時代には毎日一、二組がロケをするほどだった。明治45年に日活が創立されると、1月、2月には必ず大雪になるというので、毎年のように尾上松之助主演の「忠臣蔵」雪中討入りの場面がここで撮影された。

戦時中は出征も戦没もすべて神社優先となり、寺院は経済的に苦しくなり、稲垣浩監督は天龍寺から「たまにはロケをしてくださいよ」と頼まれたことがあったという。戦後、『柳生武芸帖』(稲垣浩監督)での三船敏郎鶴田浩二の大チャンバラや、『大岡政談 完結篇』(伊藤大輔監督)での、大河内傳次郎丹下左膳が死の決心をする悲愴な場面はここで撮られている[11]

所在地・アクセス

脚注

  1. 原田正俊 編『天龍寺文書の研究』(思文閣出版、2011年) ISBN 978-4-7842-1571-3 P432
  2. 『曹源』第30号 発行 大本山天龍寺 2017年9月 12-13p
  3. 『曹源』第29号 発行 大本山天龍寺 2016年8月
  4. 平田精耕 玄侑宗久著「新版 古寺巡礼 京都 9 天龍寺」(2007年、淡交社)104p
  5. 『図説日本の史跡 6 中世』、同朋舎出版、1991、p.285
  6. 本品は重要文化財指定物件であるが、文化庁サイトの「国指定文化財等データベース」には収録漏れになっている。指定告示は明治39年4月14日内務省告示第39号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション
  7. 平成24年9月6日文部科学省告示第125号
  8. 京都観光・旅行
  9. 平田精耕 玄侑宗久著「新版 古寺巡礼 京都 9 天龍寺」(2007年、淡交社)、p.30
  10. 平田精耕 玄侑宗久著「新版 古寺巡礼 京都 9 天龍寺」(2007年、淡交社)、p.77
  11. 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)

参考文献

  • 井上靖、塚本善隆監修、水上勉、関牧翁著『古寺巡礼京都4 天龍寺』、淡交社、1976年
  • 針谷 広己『昭和京都名所図会 洛西』駸々堂、1983年
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館

関連項目

外部リンク

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