太皇太后

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太皇太后(たいこうたいごう、: Grand Empress Dowager)は、先々代の帝王の正妻(皇后)もしくは、当代の帝王の祖母に対して用いる尊称である。

日本の太皇太后

概要

転じて日本では、以前皇后だったものに対して用いる尊称ないし位とされたことがある[1]。現在の敬称は「太皇太后陛下」であるが、古くは太皇太后宮(おおきおおいきさいのみや)というように「宮」(ぐう)の字をつけて敬称した。

日本では律令制の導入以降この称号が使われるようになった。令では中宮職を担当の役所となし、『令義解』では「太皇太后……の宮また自ずから中宮なり」とし、中宮職をもって太皇太后に仕える根拠とするが、実際には中宮職と別個に太皇太后宮職をおいて奉仕させた。天皇の在位期間が短くなる、平安時代後期には、以前に皇后(中宮)だったものが、のちに新たに皇后が立てられると皇太后と称せられ、さらにまた新たな皇后が立てられると、繰り上がって太皇太后の位を贈られるようになった。

明治になり、律令は廃止されたが、太皇太后の称は残り、旧皇室典範で太皇太后は皇族とされた。太皇太后への敬称は陛下を用いる。また皇室喪儀令大正15年皇室令第11号)では、太皇太后が崩ずるに際しては、宮内大臣が公示し追号を定め、天皇が喪主となると定める。

第二次世界大戦後、日本国憲法と共に新たに皇室典範が施行され、同じく太皇太后は皇族とされ(第2条)、また摂政に就任しうるものとされる(第17条)。また敬称は陛下を用い(第23条)、太皇太后を葬るところは陵と称する(第27条)。

なお平安末期の保元3年(1158年)2月に太皇太后になった藤原多子近衛天皇皇后。後に二条天皇後宮に入り「二代の后」と通称された)を最後に、彼女の死後から現在に至るまでの822年間、歴史上(皇統)に太皇太后は登場していない。これには、前近代には皇后が立てられない時期も長かったのと、明治以降当代の天皇が在位中に(現在の皇室典範では)祖母に当たる女性が同時に存命していることがないからである(大正天皇の生母である柳原愛子は孫の昭和天皇が即位した後の昭和18年まで健在だったが、皇后ではなかったので皇太后・太皇太后にはなっていない)。

歴代の太皇太后

太皇太后 天皇との関係 立太皇太后年月日 立太皇太后以前
藤原宮子 文武天皇夫人
聖武天皇
孝謙天皇祖母
天平勝宝元年(749年[2] 皇太夫人
橘嘉智子 嵯峨天皇皇后
仁明天皇
天長10年(833年)3月2日 皇太后
正子内親王 淳和天皇皇后 斉衡元年(854年)4月26日 皇太后
藤原順子 仁明天皇夫人
文徳天皇
清和天皇祖母
貞観6年(864年)1月7日 皇太后
藤原明子 文徳天皇夫人
清和天皇母
陽成天皇祖母
元慶6年(882年)1月7日 皇太后
藤原穏子 醍醐天皇皇后
朱雀天皇
村上天皇
天慶9年(946年)4月26日 皇太后
昌子内親王 冷泉天皇皇后 寛和2年(986年)7月5日 皇太后
藤原遵子 円融天皇皇后 長和元年(1012年)2月14日 皇太后
藤原彰子 一条天皇皇后
後一条天皇
後朱雀天皇
寛仁2年(1018年)1月7日 皇太后
禎子内親王 後朱雀天皇皇后
後三条天皇
治暦4年(1068年)4月16日 皇太后
章子内親王 後冷泉天皇皇后 延久元年(1069年)7月3日 皇太后
令子内親王 白河天皇皇女
鳥羽天皇准母
長承3年(1134年)3月19日 尊称皇后
藤原多子 近衛天皇皇后 保元3年(1158年)2月3日 皇太后
贈太皇太后 天皇との関係 贈太皇太后年月日 贈太皇太后以前
高野新笠 光仁天皇夫人
桓武天皇
平城天皇祖母
大同元年(806年)5月19日 贈皇太后
藤原安子 村上天皇皇后
冷泉天皇
円融天皇
安和2年(969年)8月25日 贈皇太后

三后表

参照: 后位

日本以外の太皇太后

脚注

  1. 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)1678頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)1503頁参照。
  2. 孝謙天皇即位後

参照文献

文献資料

  • 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
  • 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059

関連項目

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