奥田敬和

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奥田 敬和(おくだ けいわ、1927年昭和2年)11月26日 - 1998年平成10年)7月16日)は、日本政治家

衆議院議員(10期)、郵政大臣第44代)、自治大臣第40代)、国家公安委員会委員長第50代)、運輸大臣第65代)を歴任。自由民主党所属時代は「竹下派七奉行」の1人。

来歴・人物

石川県石川郡美川町(現:白山市)出身。

旧制石川県立金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)から旧制第四高等学校卒業。1948年早稲田大学政治経済学部に入学。早大時代はレスリング部に所属し、小柄ながら戦闘的な性格と行動力を培った。3年生の頃から、郷里の北國新聞社東京支社で政治部記者として首相官邸通商産業省運輸省の担当となる。この当時に食糧品配給公団総裁、第1次佐藤栄作改造内閣農林大臣などを務めた郷里・旧石川1区選出の衆議院議員、坂田英一の知遇を得ることとなる。

1958年、北國新聞社を退職し、父親の会社の経営に携わりながら、1967年に石川県議会議員に立候補し当選する。

1969年、坂田が脳溢血で倒れ、さらに衆議院議員の井村重雄も健康上の理由で次期総選挙に不出馬を宣言、石川1区選出の自民党衆議院議員が不在となった。そのため坂田の後継者として同年12月の第32回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し、3位当選を果たす(当選同期に小沢一郎羽田孜梶山静六渡部恒三綿貫民輔塩崎潤村田敬次郎松永光江藤隆美中山正暉浜田幸一など)。この選挙では、無所属で出馬した森喜朗も初当選しており、のちに二人の対決は「森奥戦争」と呼ばれることになる。当選後は佐藤栄作派を経て、田中角栄派に所属。

次第に田中派の中堅幹部として台頭し、1983年第2次中曽根内閣郵政大臣として初入閣。竹下登による派中派・創政会の結成時には、田中側近の小沢辰男に近いことと、その忠誠心の高さから誘われなかった。また奥田自身、派中派を作って後継者に認めさせるというやり方には反対であったため、田中の意を受け派内の中間派議員の切り崩しに奔走。田中の面前に箕輪登を呼び、竹下の後見人である金丸信に電話をかけさせ、創政会への参加を断念させるなどした。

やがて田中が倒れると、当初は竹下・二階堂進双方に与せず、田村元とともに中間派として分裂状態にある田中派の一本化を最後まで模索したが、竹下が新派閥・竹下派を正式に結成して、田中派が完全に分裂するにあたっては田村とともに中間派をまとめあげ、竹下派に合流した。1990年第2次海部内閣自治大臣国家公安委員長1991年宮澤内閣運輸大臣に就任。また、この間、党国会対策委員長に就任している。

1992年に経世会が分裂した際は、当選同期の小沢一郎、羽田孜、渡部恒三、二階俊博らの若手と「改革フォーラム21(羽田・小沢派)」を結成(同じく当選同期の高鳥修と梶山静六は経世会に残留した)。1993年、宮沢内閣不信任案に賛成し、自由民主党を離党して新生党の結党に参加する。総選挙後、衆議院議院運営委員長に就任し、野党となった自民党だけでなく日本社会党など連立与党相手に国会運営を担った。

奥田の地元・石川県では、奥田系の地方議員がそろって離党し、自由民主党金沢市支部を壊滅状態に追い込んだ。また、1994年、現職知事の死去に伴う石川県知事選挙では、副知事だった谷本正憲非自民連立与党統一候補として全国で初めて擁立し、自由民主党推薦候補石川弘に競り勝つなど、自由民主党が圧倒的勢力を誇った県政界の再編に取り組んだ。ちなみに石川は奥田の竹馬の友だったが、奥田は谷本支援。

自民・社会・新党さきがけ連立の村山富市内閣の誕生で新生党が下野した後、旧連立与党が合流した新進党に参加。二大政党の実現を目指す一方、わずか2か月で首相を辞職した羽田の再登板を願い、1969年以来27年間行動を共にした小沢と袂を分かった。

1996年の総選挙で敗北後、新進党離党を決意した羽田と共に太陽党を結成。その後、野党再編で民政党を経て民主党に合流したが、この頃から病魔に侵されるようになる。1998年7月12日の第18回参院選では石川県副知事の岩本荘太を非自民・非共産候補として擁立し、自民党現職の沓掛哲男を抑え当選させる原動力となるも、4日後の7月16日、半蔵門病院にて胃癌のため死去した。享年70[1]

元衆議院議員の奥田建は長男。

エピソード

奥田は宮澤喜一内閣の運輸大臣に就任した際に、「農地には耕した者の魂がある。お金で売買できるようなものではない」として、成田空港問題打開を図るべく空港反対派との対話路線に踏み出したことで知られる。奥田自らが成田空港問題シンポジウムに出席するなど、運輸大臣就任時に積極的に空港反対派との対話を進めた[2]。シンポジウム初日に反対派が練り上げた「徳政をもって一新を発せ」と題する文書を一時間にわたって発表すると、奥田が即興で「大臣という立場でなく、国民の一人として、ただ今の発表を承り、心の中で打ち震えるような感銘を受けておりました。心血を注いで農地を守り、土とともに生きてこられた農民の原点に触れさせられた思いでいっぱいです」と官僚が作った文書を読み上げる前に発言して応じ、反対派は舌を巻いた[3]

一方で、奥田は国家公安委員長として過激派対策をしていた経緯もあり、運輸大臣就任早々に成田空港問題について「いつまでも待っているわけにはいかんでしょう」と発言し、強制収用をほのめかした。この発言は、反対派だけでなく空港自体には賛成しつつ反対派と行政の間を取り持っていたグループも激怒させ、一時シンポジウムの実施が危ぶまれた[4]

また『困っている人々のためにこそ、政治が光を当てねばならない』という信念を終生持ち続けていた。その思いは『強い力を削いで弱い方へ回す、ハンディキャップを埋めるのが政治だ』という言葉を残している[5]ことからも伺える。

奥田は日本とアフリカ諸国との関係強化にも腐心しており、『日本・コートジボワール友好議員連盟』や『日本・エチオピア友好議員連盟』の初代会長に就任している[6]

奥田は死去した際に、「香典や供物は不要、両親が眠る墓に一緒に入れて欲しい」[5]旨の遺言を残している。

略歴

経歴

政歴

選挙歴

当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第6回石川県議会議員一般選挙 1967年4月15日 金沢市選挙区 自由民主党 - -
第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 石川県第1区 自由民主党 49,014 13.84 3/10 - -
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 石川県第1区 自由民主党 67,627 18.28 3/7 - -
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月5日 石川県第1区 自由民主党 89,311 27.30 2/5 - -
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月7日 石川県第1区 自由民主党 81,125 28.75 2/4 - -
第36回衆議院議員総選挙 1980年6月22日 石川県第1区 自由民主党 111,216 30.18 2/5 - -
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 石川県第1区 自由民主党 85,597 26.55 2/5 - -
第38回衆議院議員総選挙 1986年7月6日 石川県第1区 自由民主党 98,666 26.13 2/5 - -
第39回衆議院議員総選挙 1990年2月18日 石川県第1区 自由民主党 134,161 33.25 1/4 - -
第40回衆議院議員総選挙 1993年7月18日 石川県第1区 新生党 141,614 37.54 1/4 - -
第41回衆議院議員総選挙 1996年10月20日 石川県第1区 新進党 87,329 49.36 1/3 - -
当選回数11回 (衆議院議員10・石川県議会議員1)

文献

著書

  • 『青い王道:“1970年代の世界と日本”を求めて』敬山会、1971年7月
  • 『テレコム列島改造論:ニューメディア時代に挑む』出版開発社、1984年12月、ISBN 4879680168

賞詞

脚注

  1. 奥田敬和衆議院議員・元運輸相が死去
  2. 週刊三里塚
  3. 朝日新聞成田市局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、161-165頁。
  4. 朝日新聞成田市局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、150-152・163-164頁。
  5. 5.0 5.1 奥田敬和衆議院議員の墓に参詣して思ったこと - 森田実の時代を斬る 2005年11月28日
  6. 心に生きる奥田敬和先生 - 二階俊博 2001年11月

関連項目

外部リンク


議会
先代:
原田憲
日本の旗 衆議院懲罰委員長
1996年
次代:
左藤恵
先代:
与謝野馨
日本の旗 衆議院議院運営委員長
第51代:1993年 - 1994年
次代:
中村正三郎
先代:
浜田幸一
日本の旗 衆議院予算委員長
1988年
次代:
大野明
先代:
中尾栄一
日本の旗 衆議院外務委員長
1980年 - 1981年
次代:
中山正暉
公職
先代:
村岡兼造
日本の旗 運輸大臣
第65代:1991年 - 1992年
次代:
越智伊平
先代:
渡部恒三
日本の旗 自治大臣
第40代:1990年
次代:
吹田愰
先代:
渡部恒三
日本の旗 国家公安委員会委員長
第50代:1990年
次代:
吹田愰
先代:
桧垣徳太郎
日本の旗 郵政大臣
第44代:1983年 - 1984年
次代:
左藤恵
党職
先代:
渡部恒三
自由民主党国会対策委員長
第33代:1989年 - 1990年
次代:
村岡兼造

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