学徒出陣

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出陣学徒壮行会(1943年(昭和18年)10月21日)
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敷地内にある「出陣学徒壮行の地」の碑(2018年2月24日撮影)
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‪国立霞ヶ丘陸上競技場‬にあった『出陣学徒壮行の地』碑(マラソンゲート入口付近)2014年5月撮影
※同年、秩父宮ラグビー場に一旦移設された[1]

学徒出陣(がくとしゅつじん、旧字体: 學徒出陣)とは、第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。日本国内の学生だけでなく、当時日本国籍であった台湾人朝鮮人満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。学徒動員と表記されることもある[2]

概要

日本は1937年(昭和12年)以来、当初は中華民国との日中戦争支那事変)、続いて1941年(昭和16年)からはアメリカイギリスなど連合国との太平洋戦争大東亜戦争)を続けていた。特にアジア太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持や1942年(昭和17年)以降の戦局悪化で戦死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった。

従来、兵役法などの規定により大学高等学校専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶予の対象は狭くされていった。

まず1941年(昭和16年)10月、大学、専門学校などの修業年限を3ヶ月短縮することを定め同年の卒業生を対象に12月臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌1942年(昭和17年)2月に入隊させた[3]。この1942年(昭和17年)には、さらに予科と高等学校も対象として修業年限を6ヶ月間短縮し、9月卒業、10月入隊の措置をとった[4]

そして、さらなる戦局悪化により翌1943年(昭和18年)10月1日、当時の東條内閣在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布した[5]。これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃するものである。この特例の公布・施行と同時に昭和十八年臨時徴兵検査規則(昭和18年陸軍省令第40号)が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させることとした。

この第1回学徒兵入隊を前にした1943年(昭和18年)10月21日東京明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、東條英機首相岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。出陣学徒壮行会は、各地でも開かれた。しかし翌年の第2回出陣以降、壮行会は行われなかった。

学徒出陣によって陸海軍に入隊することになった多くの学生は、高学歴者であるという理由から、陸軍幹部候補生特別操縦見習士官・特别甲種幹部候補生や、海軍予備学生予備生徒として、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。

1943年(昭和18年)10月には教育ニ関スル戦時非常措置方策閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められた。さらに翌1944年(昭和19年)10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。

対象

1943年(昭和18年)の徴兵対象者拡大の際、学徒出陣の対象となったのは主に帝国大学令及び大学令による大学(旧制大学)・高等学校令による高等学校(旧制高等学校)・専門学校令による専門学校(旧制専門学校)などの高等教育機関に在籍する文科系学生であった。彼らは各学校に籍を置いたまま休学とされ、徴兵検査を受け入隊した。

これに対して理科系学生は兵器開発など、戦争継続に不可欠として徴兵猶予が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員された。ただし、農学部の一部学科(農業経済学科や農学科)は「文系」とみなされて徴兵対象となった[6]

また、教員養成系学校(師範学校)の理系学科(数学、理科)に在籍する者も猶予の制度が継続された。

出陣学徒壮行会

第1回は東京・台北同時開催。国外、その他国内地方でも開催された。1943年11月以降は開催されていない。出陣学徒の人数は伏せられた。

  • 出陣学徒壮行会」 場所:東京

1943年10月21日

1943年10月21日

昭和18年10月30日

1943年11月3日

  • 二世出陣学徒壮行会」 場所:東京

1943年11月14日

  • 出陣学徒壮行会ならびに分列行進」 場所:大阪

1943年11月16日

  • 関東北地方学徒壮行会」 場所:仙台

1943年11月18日

  • 出陣学徒壮行会」 場所:神戸

1943年11月19日

  • 東海地区学徒聯合演習及び出陣学徒壮行式」 場所:名古屋

1943年11月21・22日

  • 出陣学徒武運長久祈願祭並びに壮行会」 場所:京都

1943年11月21日

1943年11月27日

  • 出陣壮行式」 場所:札幌

1943年11月28日

学徒出陣の実施

1943年(昭和18年)10月21日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施された。壮行会の様子は社団法人日本放送協会(NHK)が2時間半にわたり実況中継(アナウンサー:志村正順)を行い(外部リンク参照)、また映画「学徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われた。秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々(引き続き徴兵猶予された理工系学部生、中等学校(旧制)生徒、女学徒などが計96校、約5万名が学校ごとに集められた)の前で東京都・神奈川県千葉県埼玉県の各大学・専門学校からの出陣学徒(東京帝国大学以下計77校)の入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍戸山学校軍楽隊)、宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戦詔書の奉読、東條首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、海ゆかばの斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされる。出陣学徒は学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。

壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)12月に陸軍へ入営あるいは海軍へ入団した。入営時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったが、戦況が悪化する中でしばしば玉砕沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出した。1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にかけて、戦局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れた。

全国で学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。ただし、当時の文部省の資料によれば当時の高等教育機関就学率(大学・専門学校・旧制高等学校などの総計)は5%以下であり[1]、さらに理工系学生は引き続き徴兵猶予されたため学徒兵の実数は決して多くなかった。しかしその多くが富裕層の出身であり、将来社会の支配層となる予定の男子であった大学生が「生等もとより生還を期せず」(江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戦場に向かった意味は大きく、日本国民全体に総力戦への覚悟を迫る象徴的出来事となった。

戦後の困難

1945年(昭和20年)9月2日に日本が降伏文書に調印し日本軍が武装解除されると、海外・外地各地(内地である沖縄・奄美・樺太・千島を含む)からの復員が開始された。しかし満州国駐留の関東軍北方方面の第5方面軍などに配属されていた学徒兵は、ソビエト連邦対日参戦によるシベリア抑留を受け、復員が出来ずに死亡する者も出た。

また学徒兵は前述のように学歴をいかし陸軍幹部候補生や海軍予備学生などを志願し下士官以上の階級となった者が多く、日本軍が行った捕虜の虐待や処刑などの残虐行為について現場責任者として告発される例が生じた。BC級戦犯裁判で死刑が宣告され、帰還後に日本であるいは降伏した現地で命を落とす学徒兵もあった。

帰国後の活躍

このような戦中・戦後の死線をくぐり、日本に帰還した学徒兵は多くが元の学校に復学し卒業した後は戦後日本の復興や発展の牽引役となった者も現れた。答辞を読んだ江橋慎四郎は出陣後、航空整備兵として内地で陸軍(大日本帝国陸軍)に所属して無事生還し、後に東京大学教育学部教授鹿屋体育大学学長になった。早稲田大学第一商学部から陸軍特別操縦見習士官に志願した竹下登も戦後に卒業して故郷の島根県で県議となり、後に内閣総理大臣まで務めた。竹下の後に内閣総理大臣となった宇野宗佑神戸商業大学在学中に学徒出陣となり、シベリア抑留を経て帰国した後も大学には戻らず滋賀県県議から政治家の道を歩んだ。宇野内閣では内閣官房長官塩川正十郎も慶應義塾大学経済学部の学生として明治神宮外苑の壮行会から出征した(出征中に卒業扱いとなった)。竹下と宇野、それに明治大学専門部政治経済学科から1944年(昭和19年)に徴集され、戦後復学して卒業した村山富市の3人が、日本の内閣総理大臣になった学徒出陣経験者である。また、宮澤内閣副総理などを務めた渡辺美智雄東京商科大学を繰り上げ卒業し学徒出陣した。このほか、日本統治時代台湾に生まれ、後に中華民国総統になった李登輝(日本名:岩里政男)も京都帝国大学在学中に学徒出陣している。

茶道裏千家家元の家に生まれた千玄室同志社大学法経学部経済学科在学中に徴兵を受け海軍で志願して特攻隊員となったが、出撃前に戦争が終結したために大学に復学し後に第15代家元を襲名した。千の居た部隊で生き残ったのは2人だけで、もう1人が日本大学専門部芸術科から徴兵された後に俳優になる西村晃だった。

宇野や塩川は自分の戦争体験を(宇野はその後の抑留を含めて)著書や講演などで語った。一方、江橋は沈黙を守っていたが、学徒出陣式から67年後の当日になる2010年10月21日付の朝日新聞でインタビューに答え[7]2013年の同日には毎日新聞の取材にも応じた[8]。毎日新聞のインタビュー記事では「僕だって生き残ろうとしたわけじゃない。でも『生還を期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外、ないじゃないか」と述べ、戦後に事実と異なる噂やデマによる中傷にも反論しなかった理由としながら、「自分が話すことが、何も言えずに亡くなった人の供養になる。最近そう思っている」として、自らの姿勢を変えた事を説明している。

わだつみのこえ

死亡した学徒兵達の意思を後世に伝えるため1947年(昭和22年)には東京大学の戦没学徒兵の手記として『はるかなる山河に』、続く1949年(昭和24年)にはBC級戦犯処刑者を含む日本全国の戦没学徒兵の遺稿集として『きけ わだつみのこえ』が出版された。これは当時の政府により学業を中断させられて戦場に出征し軍隊の不条理や死の恐怖と直面した学徒兵の哲学思索、日本国家や民族への考察、未来の平和への願望などが綴られた文章をまとめたもので、平和を強く希求していた当時の日本人には強いメッセージとして受け入れられ、現在よりもはるかに劣悪な流通事情にも関わらず約200万部を売り上げる当時の大ベストセラーとなった。また1950年(昭和25年)にはこの本の最初の映画化が実現し、最新では1995年(平成7年)にも再度映画となっている。

本書をきっかけに初映画化直後、日本戦没学生記念会が発足し現在に至るまで運動を展開している。2006年(平成18年)12月1日には東京大学のキャンパスに近い東京都文京区本郷のマンション内に「わだつみのこえ記念館」を設立し、戦没学徒兵の遺品などを展示している。

脚注

  1. 「学徒出陣」碑に献花式 国立競技場改築で移設 2014/10/22 日本経済新聞
  2. 『中学社会 歴史』(教育出版文部省検定済教科書。中学校 社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。教科書番号 17 教出 歴史762)p 260の本文には「また, 政府は理科系以外の学生も徴兵し, 多くの学生が学業の半ばで戦場に向かった。」と書かれていて、p 261には、2枚の写真の解説として「工場で働く女学生(左)と学徒動員の出陣式(右)」と書かれている。また、『新しい社会 歴史』(東京書籍文部科学省検定済教科書。中学校 社会科用。平成13年3月30日検定済。平成16年2月1日印刷。平成16年2月10日発行。教科書番号 2 東書 歴史702)p 174の写真(学徒出陣壮行会, 1943年10月, 東京)の解説として「学徒動員 1943年10月, それまで徴兵を猶予されていた学生も, 戦局の悪化にともなって動員され, 戦場に送られることになりました。」と書かれている。
  3. 大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件(昭和16年勅令第924号)、大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十六年度臨時短縮ニ関スル件(昭和16年文部省令第79号)。在学徴集延期期間ノ臨時特例ニ関スル件(昭和16年陸軍省令第43号)、在学徴集延期期間ノ短縮ニ関スル件(昭和16年陸軍省、文部省令第2号)。
  4. 大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十七年度臨時短縮ニ関スル件(昭和16年文部省令第81号)
  5. 御署名原本・昭和十八年・勅令第七五五号・在学徴収延期臨時特例(国立公文書館)』 アジア歴史資料センター Ref.A03022864800 
  6. 「おなじ農学部でも、学科によって学徒出陣、学徒動員に駆り出された者とそうでない者があった。」、「私は獣医学科に入学しました。クラスの者は昭和18年10月21日、明治神宮外苑で行われた学徒出陣式で、公私立大学専門学校の学生たちとともに激励を受けると、それぞれ故郷へ帰って臨時徴兵検査を受けました。その後、合格者には赤紙(召集令状)が来ましたが、獣医学科の学生の場合は、最後に召集を延期する旨の一文がありました。これが召集延期で、農学科や農業経済学科の学生にはありませんでした。」 - 以上、別冊「東京帝国大学が敗れた日」 『東大生が体験した「8月15日」』(立花隆文芸春秋、2005年)の中の「学部で分かれた徴兵猶予の有無」の段落より一部引用。
  7. 朝日新聞、2010年10月21日付。
  8. 毎日新聞、2013年10月21日付。

関連項目

慶應義塾大学在学時に学徒出陣が決定。享年22歳。最終階級は大日本帝国軍陸軍大尉。
東京大学在学時に学徒出陣が決定。戦後は体育学者として東京大学教授になった。
万葉集の持つ古代から続く日本の「抒情世界」と「近代」の「科学技術文明」との「融合」が、「散華」していった学徒兵たちが胸に抱いていた「浪漫主義」だった。学徒出陣の世代の必読書の筆頭が「万葉集」である(「日本浪曼派」・「近代の超克」参照)。
大和路」のを追い続けた写真家。戦没学生たちが胸に刻んで「散華」していった、祖国の「山河・まほろば」を象徴する作品をのこす。
明治神宮外苑競技場での壮行式に女学生として参加し、観客席から出陣学徒を見送った。後に作家となり、この時の印象を度々語っている[2]

外部リンク

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