宇都宮正綱

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宇都宮正綱
時代 室町時代後期・戦国時代初期
生誕 文安4年(1447年
死没 文明9年9月1日1477年10月7日
氏族 宇都宮氏武茂氏

宇都宮 正綱(うつのみや まさつな)は室町時代後期から戦国時代初期の武将守護大名で、下野宇都宮氏16代当主、宇都宮氏庶流の武茂氏の当主も兼ねていた。

生涯

誕生

文安4年(1447年)、宇都宮等綱の二男[1][2]として誕生した。

武茂氏・宇都宮氏の当主となる

宇都宮氏宗家の家督は兄の宇都宮明綱が継いでいたため、等綱の実家である武茂氏の家督を継承し、武茂氏の当主となった[3]

寛正4年(1463年)死去した兄・宇都宮明綱に子がなかったので、宇都宮氏本家の家督も継承し宇都宮氏武茂氏両氏の当主となった[4]

この頃の宇都宮氏の勢威は衰退しきっており滅亡の危機に晒されていたが、明綱・正綱兄弟は小山氏当主小山持政の甥であるため、持政からの後見を受けていた。しかし、その代償として都賀郡や南部の宇都宮領を小山氏に譲渡することになった。また、当時は小山氏は最盛期を迎えており、持政に宇都宮家中を介入されたりもしていた[5]

戦国期宇都宮家中の原型を成立

正綱は塩谷氏武茂氏といった主要な宇都宮一族を臣従化させ、宇都宮家中の原型を形成させた。 臣従のあかしとして宇都宮氏惣領の通字である「」の一字を実名に与えていることが特徴であり、こうして形成された宇都宮家中は室町時代の頃の盟約的な一族結合である「一家中」とは明確に異なっていた[6]。そのため宇都宮正綱の代から少しずつ戦国大名化していった。

塩谷氏は文正元年(1466年)時点だと塩谷周防守(塩谷氏惣領)、塩谷安芸入道といった人物が活躍していたが宇都宮氏とは敵対的であり、次代の塩谷民部少輔の代には正綱に臣従している。以降、宇都宮氏と塩谷氏の関係が大きく変わっているため塩谷民部少輔は塩谷周防守の子ではなく別の宇都宮氏流塩谷氏出身である可能性も指摘されている。正綱が塩谷民部少輔を取り立て、塩谷氏惣領の家督を継承させた[7]。『秋田塩谷系譜』に基づけば、塩谷民部少輔は塩谷隆綱である可能性があるが定かではない。

武茂氏は正綱自身が継いでいたが、後に嫡男の兼綱に武茂氏を継がせて武茂氏当主にさせている。また、宇都宮一族の壬生氏壬生胤業の子にの一字を与え壬生綱重と名乗らせた[8]。但し、これらのことは次代の宇都宮成綱が行った可能性もある。

上三川氏今泉氏横田氏多功氏といった宇都宮一族は以前から宇都宮氏惣領に従順だった。

正綱が原型としての宇都宮家中を成立させ、次代の『中興の祖』宇都宮成綱がそれを発展させて家臣団の再編が成し遂げられた。

享徳の乱

享徳の乱以降関東においては古河公方足利成氏関東管領上杉氏が対立しており、正綱は小山持政に従い、成氏方について転戦していた。

しかし、1470年頃になると成氏方は押されつつあり、厳しい状況になっていた。その際に重臣芳賀高益の献策により宇都宮氏は一時的に上杉方に寝返っている。

1476年、上杉方の長尾景春が反乱を起こした(長尾景春の乱)。

1477年正月には、翌年に行われる予定の宇都宮社社殿の式年遷宮に向けて日光山と宇都宮社の関係を説き描いた『日光山縁起』絵巻の転写などの準備をしていた[9]

1477年、正綱は成氏に従い長尾景春の救援に向かったが、上野国川曲の戦いで陣没した。更に従軍していた宇都宮一族の横田綱親保業清業父子、今泉盛泰も討死し、紀党の棟梁益子唯正延正父子も討死する等甚大な被害を受けた[10]享年31。

宇都宮社社殿の式年遷宮は翌年(1478年)に、宇都宮氏17代当主となった成綱により無事行われた。

系譜

旧説の正綱の子の宇都宮興綱(芳賀興綱)に関しては様々な説があり、通説である宇都宮正綱の次男とする説[11]の他に、宇都宮成綱の末子とする新説[12]、又は宇都宮忠綱の子とする説もある[13]

興綱については、正綱、成綱、忠綱の誰の子とするかは、いずれも決定的な確証がなく未だに議論が絶えないのが実状である。

また、新説の場合、成高寺と宇都宮正綱・成綱父子の関係など芳賀氏が宇都宮氏に養子縁組した旧説の課題点も残されている[14]

通説


新説(江田郁夫提唱説)

偏諱を与えた人物

但し、以下の人物は次代の宇都宮成綱が偏諱を与えた可能性もある[16]


脚注・出典

  1. 但し、系図によっては、芳賀成高の子(宇都宮持綱の外孫)で宇都宮氏に養子縁組したともいう(『下野国誌』所収「芳賀系図」など)。だが、江田郁夫によれば、将軍足利義政から宇都宮正綱に充てられた御内書の中に「亡父等綱」と記されているものがあること、そもそも宇都宮等綱は芳賀成高ら重臣との対立の末に亡命先の奥州白河で没した経緯からして、等綱が自分を宇都宮から追放した成高の子と養子縁組をすることも、反対に成高が自分の子を自分が擁した明綱の対抗馬にする恐れのある養子縁組をすることも、いずれも考えにくいことから、宇都宮正綱は等綱の実子とする系譜が正しいとする(江田『戦国大名宇都宮氏と家中』岩田書院、2014年、P35 - 36)。
  2. 『武家事紀』には宇都宮明綱を「長子四郎」と表記されており、明綱以外にも実子がいた可能性を示している(江田『下野の中世を旅する』随想社、2009年、6 宇都宮正綱の出自 P107 - P111)。
  3. 父の宇都宮等綱宇都宮氏武茂氏両氏の家督を継承していたという。それを裏付けるのは等綱が康正元年(1455年)に白河直朝に「上杉奥州跡塩谷三ヶ郷ならびに武茂十二郷」を贈与していた出来事であり、芳賀氏とともに等綱に対し敵対していた嫡子宇都宮明綱に対する対抗措置として武茂荘を自由に裁量していたという点である(江田『戦国大名宇都宮氏と家中』岩田書院、2014年、P38 - 39)。
  4. 兄明綱の早世によって、正綱は宇都宮氏の家督となり、父等綱と同様に宇都宮氏と武茂氏の家督を兼ねた(江田『戦国大名宇都宮氏と家中』岩田書院、2014年、P39)。
  5. 恩田浩孝『座禅院昌尊の生涯 日光山の終焉と上三川 今泉家』(随想社、2015年)P169 - P171
  6. 江田郁夫 著『戦国大名宇都宮氏と家中』(岩田書院、2014年) P43-P44
  7. 江田郁夫 著『戦国大名宇都宮氏と家中』(岩田書院、2014年) P37-P38
  8. 江田郁夫 著『戦国大名宇都宮氏と家中』(岩田書院、2014年) P42
  9. 千田孝明『宇都宮と『日光山縁起床』-三本の絵巻を中心に』
  10. 恩田浩孝『座禅院昌尊の生涯 日光山の終焉と上三川 今泉家』(随想社、2015年)P172 - P173
  11. この説を裏付ける証拠として日光輪王寺の常行堂大過去帳には、興綱の享年が61と記されており、これに基づいて法要が行われていた事、さらに栃木県史 史料編・中世五 那須記 巻之七 資房上庄下庄一統事「我弟に彼跡を継せて・・・(注釈・宇都宮成綱山田資久の跡を弟に継がせようと企てる)」とあり那須記等においても興綱を成綱の弟と明記している事、秋田塩谷系譜では孝綱を四男と明記している事など
  12. 大永4年4月1日(朔)に出されたと比定できる長南三河守(上総武田氏一族)宛に出された足利高基書状(「東京大学史料編纂所所蔵幸田成文氏旧蔵文書」・『戦国遺文』古河公方編543所収)には宇都宮忠綱の失脚後に「名代若輩(若輩の当主代理)」が擁立されたことが記されている(江田、2012年、P249-252)
  13. 興綱を宇都宮忠綱の嫡子とする説もありそれを裏付ける資料として『堀田芳賀系図』の芳賀高綱の項に「大永七年十月六日忠綱卒 法名長雲 子息興綱号下総守」などがある
  14. 成高寺芳賀成高の菩提を弔うために建立された寺であり、あくまで宇都宮氏の重臣として在宮することが多い芳賀氏の菩提寺だった。『真岡市史』には「芳賀氏から宇都宮氏に入った正綱が、(中略)芳賀氏の当主であり、実父であった成高の菩提を弔うための寺院を建立し、同氏の菩提寺にしようとした。それが、次代の成綱にも継承されて文明18年に完成をみた」と書かれている(江田『下野の中世を旅する』随想社、2009年、6 宇都宮正綱の出自 P107 - P111)
  15. 武茂氏当主の頃に迎えた妻だという。
  16. 江田郁夫 著『戦国大名宇都宮氏と家中』(岩田書院、2014年) P42-P43

参考文献

  • 江田郁夫 著『戦国大名宇都宮氏と家中』(岩田書院、2014年)ISBN 978-4-87294-847-9
  • 市村高男 編著『中世宇都宮氏の世界 下野・豊前・伊予の時空を翔る』(彩流社出版、2013年)ISBN 978-4-7791-1949-1
  • 恩田浩孝『座禅院昌尊の生涯 日光山の終焉と上三川 今泉家』(随想社、2015年)ISBN 978-4-88748-312-5