宮沢胤勇

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宮沢 胤勇(みやざわ たねお、1887年12月15日 - 1966年6月2日)は、日本政治家実業家

来歴・人物

長野県諏訪郡川岸村(現・岡谷市)に台湾総督府官吏宮沢長吉の長男として生まれる。

日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)を経て早稲田大学に進み、卒業後実業界を経て政界入りした。衆議院議員選挙に通算6回当選した。

戦前は立憲民政党に所属、戦後は旧民政党出身の大麻唯男野田武夫小泉純也浜野清吾真鍋儀十山本粂吉らと行動をともにし、改進党日本民主党自由民主党に所属した。大麻の死後は大麻派に所属していた野田・小泉・浜野・真鍋・山本らとともに岸派に所属し、岸派の分裂後は河野派に参加した野田や藤山派に参加した小泉と別れて浜野とともに川島派に所属した(なお真鍋・山本は岸派の分裂前に政界から引退した)。

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富里(後に成田市三里塚に計画変更)での空港建設内定を報じる、1965年11月18日付の毎日新聞夕刊。宮沢が空港公団総裁に内定とある

岸の計らいにより、新東京国際空港(現・成田国際空港)建設に際して新東京国際空港公団総裁への就任が内定していたが、当初建設地とされていた富里八街での大規模な反対運動により遅延していた公団設立を目前に控えて急死。急遽、戦前に朝鮮食糧団の幹部を務め岸と知り合っていた、成田努が就任することとなった。運輸大臣を経験したベテラン政治家である宮沢が空港公団総裁に就任していれば、その後の成田空港問題の展開も違ったものになっていたといわれる(成田は翌年に自らのスキャンダルで辞任し、その後の空港公団総裁職は事務次官経験者ら官僚のポストとなる)[1][2]

略歴

脚注

  1. 東京新聞千葉支局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、73-74頁。
  2. 原口和久『成田空港365日』崙書房、2000年、205頁。

参考文献

  • 田島清 編『信州人物誌』1969年
  • 中村勝実 著『信州の大臣たち』1996年

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