尼子氏

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尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「」(ひさ)。


概略

出自

尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家で、京極尼子家とも呼ばれる。家紋平四つ目結(ひらよつめゆい)も、京極氏のそれである。南北朝時代婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響力を持った佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる[注釈 1]

京極氏の出雲守護代を務めるも、後に自らが守護となる。室町時代に高久の次男・持久は、宗家京極氏が守護を務める出雲守護代として同地に下向し、月山富田城(現在の安来市広瀬)に拠った。やがて出雲と隠岐の守護代を通して雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。

応仁の乱では東軍に属している。

戦国大名へ

15世紀末に守護代を継承した持久の孫・経久は、室町幕府からの税の要求に従わなかったため守護職である京極政経により、文明16年(1484年)守護代の地位を剥奪され月山富田城を追われた。新たな守護代として塩冶掃部介が月山富田城に派遣されたが、文明18年(1486年)経久は奇襲により月山富田城を奪い返し、不在の守護・京極氏に代わって出雲の支配権を奪取して、尼子氏を戦国大名に発展させた。

永正5年(1508年)に、前将軍足利義尹(後の義稙)を戴き、大内義興山陽山陰九州勢を率いて上洛すると、細川高国はこれに呼応し、共に入京した。この上洛に経久は従い、京では船岡山合戦に参加している。この時期に、次男・国久は細川高国から、三男・興久は大内義興から偏諱を受けている。さて永正15年(1518年)、経久の嫡男・政久は合戦にて討ち死にし、享禄3年(1530年)、三男・塩冶興久が出雲西部・南部及び備後の有力国人と結託し反尼子勢力として反乱を起こすと、これを鎮圧し首を取るなど子との関係には色々因縁があった。なおこの乱以降、天文8年(1539年)まで、大内氏とは表面上は和睦関係を維持しており勢力拡大の矛先は東に向けられている。主家の庶流とはいえ守護代から成り上がった経久であるが、出雲鉄の事業開発や海上交易を行ない、山陰を中心に勢力拡大に励んだ。

山陰・山陽八ヶ国の領有

天文6年(1537年)、経久は家督を孫の晴久(詮久)に譲っている。晴久の時代には、山陰・山陽八ヶ国(出雲・隠岐伯耆因幡美作備前備中・備後)の守護、及び幕府相伴衆に任ぜられた。

天文年間にかけて、尼子氏はほぼ備中を平定し、備前から美作播磨への勢力拡大を図っている。天文8年(1539年)には、上洛の構えを見せていた晴久だが、いわゆる大内包囲網が瓦解し、西からの圧迫が強まったこともあり、出雲へ撤収している。

天文9年(1540年)、3万の軍勢で安芸へ侵攻し大内氏方の安芸有力国人である毛利氏の本拠地・吉田郡山城を攻めるが、毛利氏への大内義隆援軍・陶隆房の活躍などもあって吉田郡山城を攻め切れず、翌天文10年(1541年)には兵を引いてしまう(吉田郡山城の戦い)。

天文11年(1542年)、今度は大内軍が大内義隆を総大将として、毛利氏ら安芸、周防石見国人衆も集め、2万の兵で出雲に出兵してくる。この遠征は1年4ヶ月続いて月山富田城は攻囲されるが、尼子氏所領奥地に侵入した大内軍の補給線と防衛線をゲリラ戦術で分断しながら、大内氏配下の三刀屋久扶三沢為清本城常光吉川興経ら国人衆を寝返らせて大内軍を弱体化させ、翌天文12年(1543年)敗走させた(第1次月山富田城の戦い)。

天文23年(1554年)、惣領である晴久の元から政治的に距離を置くようになっていた「新宮党」(出雲にも多くの直轄地を持つ独立集団と化していた)を率いる尼子経久次男・国久誠久親子を滅ぼすなどの集権化を進め、さらなる尼子氏の勢力拡大を図った。1555年、尼子家は尼子晴久の元最盛期を迎え、その勢力は本拠である出雲、直轄地である伯耆、隠岐の他石見東部、美作、因幡西部、備後北部、備中北西、備前西部まで及び尼子家の名は中央にまで届くほどであった。

衰退

1559年、尼子家支配下の備後北部に毛利氏が攻撃を開始、晴久は美作東部から兵を引き返し、備後へ援軍に駆けつけたが、備後北部の尼子方国人衆は駆逐されており、為す術もないまま、尼子軍は備後より撤退。備後庄原から南部の支配権を喪失した。 また山名氏の因幡の尼子方国人への攻撃により因幡西部の支配権を喪失して尼子家は衰退していった。また、備中の毛利方国人、三村家親の攻撃により備中松山城を奪取され備中での尼子家の支配権は消え、備中北部から尼子方勢力は消えた。

滅亡

弘治3年(1557年)に大内氏の内紛後の混乱を制した毛利元就は、安芸から防長を手中にしたいわゆる戦国大名となり、やがて石見東部へ侵攻を始めた。晴久は石見銀山を巡る戦いでは優勢であったが、永禄3年(1560年)に晴久が急死する。

晴久の跡を継いだ嫡男・義久は、この事態に際して将軍・足利義輝に毛利氏との仲介を依頼し一旦、和睦したものの毛利元就はその後、一方的にこれを破棄し永禄5年(1562年)より出雲侵攻を本格化させた(第2次月山富田城の戦い)。義久は月山富田城に籠城し、尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし永禄6年(1563年)に、元就は支城である白鹿城を攻略すると、月山富田城を包囲して、兵糧攻めに持ち込んだ。同時に、元就は謀略を開始し、疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼をも粛清してしまう。ついに永禄9年(1566年)11月、義久は降伏を余儀なくされ、ここに戦国大名尼子氏は滅亡した。

その後、尼子氏の遺臣である山中幸盛立原久綱らは、尼子一族の尼子勝久を擁立して、織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興した。しかし天正6年(1578年)に播磨上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、幸盛は誅殺されたため、尼子氏は完全に滅亡した。

末裔

一方、義久とその兄弟は毛利氏に降った後、安芸で配流生活を送り、子孫は関ヶ原の戦いの後に毛利氏から知行を給されて長州藩に仕えた者、水戸藩に仕えた者などがいる。

義久は、慶長15年(1610年)8月28日、長門で死去(享年71)したが、毛利家の意向により、養子の尼子元知(弟の倫久の長男)が尼子氏を継ぎ、尼子氏は代々系譜し存続する。就易の代(曽祖父隆慶の母が国久の娘)から、晴久が粛清した国久の系統が尼子の血脈を後世に伝えることになった。

1940年昭和15年)に最後の当主・寅介が嗣子なく東京・高輪の毛利家別邸で亡くなったため、尼子高久から続いた尼子氏は絶家した。ただし、寅介とは別に佐佐木甚五朗・忠雄系統を尼子宗家とする説もあり、そちらの系統は2018年現在も存続している。

また、義久の直系の子孫は、毛利の重臣福永氏として、末代まで残る。尼子氏の拠点であった福永要害の所在地名である、現広島県神石郡神石高原町福永から、福永姓を名乗ったとも、先祖である佐々木源氏の所領近江国福長(永)荘から名乗ったとも言われるが詳細は不明である。直系子孫は昭和初期、福長(永から長へ)に改姓、昭和30年代まで山口県防府市に在住していた。嫡流子孫は現在広島市安佐南区中須に在住。庶流は山口県、広島県、愛媛県等に在住しているが、出雲尼子一族会の会長を務める見明昭は自らを義久の正統な直系の子孫であると称している。

幕末長州藩来島又兵衛政久(旧姓:喜多村氏)の養父政常は、尼子経久の子・森親久を祖とする来島(きじま)氏の末裔とされる。

また尼子勝久亡き後の尼子再興軍については、信長からの播磨上月城放棄退却の命を主君に伝え復命に戻った尼子氏庶流の亀井茲矩が生存し、残党を率いその後も転戦を続け、本能寺の変後も引き続き秀吉麾下にて朝鮮出兵にも参加、因幡国鹿野より転封を経て、長州と隣接する石見国津和野に津和野藩四万三千石の大名として明治まで続いた。

の筆頭家老職を明治まで務めた多胡氏もまた、雲芸和議の後も尼子方として毛利軍と徹底抗戦し敗死した石見刺賀城多胡辰敬の直系である。

一門

尼子氏歴代当主

  1. 尼子高久京極高秀(佐々木高秀)の次男。刑部少輔
  2. 尼子持久:出雲守護代。京極持高より1字を賜う。兄は近江国に住した尼子詮久
  3. 尼子清定:出雲守護代。京極持清より1字を賜う。美保代官。
  4. 尼子経久:尼子氏4世。出雲守護代。主君・京極政経より1字を賜う(嫡男尼子政久も同様)。のちに政経を追放し、事実上の守護に。
  5. 尼子晴久:尼子氏6世。経久の嫡孫(政久の嫡男)。初名は詮久。将軍足利義晴より1字を賜う。山陰山陽八ヶ国守護となり、尼子氏最大勢力図を築いた名君。
  6. 尼子義久:晴久の嫡子。将軍足利義輝より1字を賜う。尼子氏滅亡時当主。
  7. 尼子元知(久佐元知):倫久の子。伯父・義久の養子。毛利輝元より1字を賜う。
  8. 佐佐木就易(尼子就易/佐々木就易):宍道就兼の子、尼子国久の血を引く。長州藩主毛利秀就より1字を賜う。元知養子。佐々木(佐佐木)に復姓。
  9. 佐佐木広高(佐々木広高):宍道元兼(就兼の兄)の次男。初名は氏久。長州藩主毛利綱広より1字を賜う。
  10. 佐佐木元氏(佐々木元氏):広高の嫡子。初名は光久。長州藩主毛利吉元より1字を賜う。
  11. 佐佐木時久(佐々木時久):元久の嫡子。実子は無く縁戚の粟屋氏から胤久(就清)を養子を迎える。
  12. 佐佐木就清(佐々木就清):栗屋常方の次男。初名は胤久。長州藩主毛利重就より1字を賜う。時久養子。
  13. 佐佐木房高(佐々木房高):就清の嫡子。初名は紀久。長州藩主毛利斉房より1字を賜う。娘の於満志に婿を迎える。
  14. 佐佐木元久(佐々木元久(もとひさ)):宍戸房純の次男。初名は鎮久(しげひさ)。長州藩主毛利斉元より1字を賜う。房高の婿養子。天保12年3月16日没。
  15. 佐佐木親辰(佐々木親辰(ちかたつ)):元久の嫡子。初名は実久(さねひさ)。長州藩主毛利慶親(敬親)より1字を賜う。浦元襄の養子となった浦親教(ちかのり)は実弟。明治27年10月17日没。
  16. 佐々木道介(河北道介):長州藩士河北信蔵の次男。兄に河北一、従兄弟に山田顕義。嘉永3年3月21日生。先代・佐佐木親辰の娘スガ子を婚し、婿養子となり佐々木家を継承する。上京し川上冬崖(とうがい)、Abel Guérineau(アベル・ゲリノー)に洋画を学ぶ。明治7年に陸軍仕官学校の図画教授掛となり、明治19年~22年にかけて鉛筆画の指導書『鉛筆画独学』を連載刊行。明治22年に教授となり、明治30年までフランスに留学する。家督を嫡男薫久に譲り、河北家に復籍。明治33年にパリ万国博事務官として再び渡仏、翌明治34年に帰国し、以後は朝鮮半島の開拓事業に従事した。明治40年5月11日没。
  17. 佐々木薫久:道介の嫡子。父道介の河北家に復籍に伴い、佐々木家を継承。明治32年没。
  18. 佐々木寅介(佐々木允久):市川清水の次男。は允久(みつひさ?)。慶応2年生。道介の娘政と婚し、義兄・薫久の逝去に伴い、佐々木家を継承する。昭和10年4月21日、東京高輪の毛利家別邸で逝去。継嗣を残さなかったことにより、尼子氏嫡流は絶家となった。佐々木尼子家によって伝来され、寅介が旧蔵していた戦国尼子氏関連文書群『佐々木文書(佐々木寅介文書)』は、尼子氏研究の上での重要史料である。佐々木尼子氏断絶もあり、現在『佐々木文書』の原本は行方不明となっているが、東京大学史料編纂所が大正5年・昭和12年の二度にわたり、山口県吉敷郡平川村(現山口市)の寅介邸にて調査し、作成した影写本により、その全内容(全237点)を知ることが出来る。


尼子再興軍当主

  1. 尼子勝久:尼子国久の孫。尼子誠久の五男

尼子氏は大名としては滅亡しているが、囚われの身とはいえ、当主尼子義久は健在であり、尼子勝久は当主ではない。

尼子氏一門

系譜


尼子氏主要家臣団

「尼子氏一族衆(親類衆とも)」

「尼子氏家老衆」

「尼子氏奉行人衆・晴久期に取り立てられた将」

「立場不明瞭な家臣」

「出雲国衆」

「外様衆(従属勢力・同盟勢力)」

関係項目

関連用語

尼子氏の末裔

尼子一族会

尼子一族会は、全国の尼子氏の子孫・関係者が一堂に集い、集会を開く。5年に一度行われる。

書籍

歴史小説

関連作品

脚注

注釈

  1. 尼子姓の由来について一つの伝説がある。始祖が天女との間に子供をもうけ、やがて子供は天女の子供という意味から、天子(あまこ)という姓を名乗るようになる。しかし京にいる天子様(天皇)と同じ字は恐れ多いと、読み方はそのままに尼子という字に改めたという。

出典

参考文献


テンプレート:尼子家当主