山縣有朋

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山県 有朋[注 1](やまがた ありとも、天保9年閏4月22日1838年6月14日) - 大正11年(1922年2月1日

政治家,軍人,萩藩卒。伊藤博文と並ぶ長州閥の代表的な政治家の一人。長州藩の下級武士の家に生れた。安政5 (1858) 年頃から尊王攘夷運動に参加,松下村塾に学び,のちに奇兵隊軍監となった。明治新政府のもとでヨーロッパ視察に派遣され,帰国後兵部少輔に任ぜられて軍制確立に尽力。明治5 (72) 年陸軍大輔,1873年陸軍卿になり,この間徴兵令の制定,士族,農民反乱の鎮圧,軍人勅諭の発布などに指導的役割を果し,日清,日露両戦争では陸軍の最高指導者として活躍。一方,政界では,内閣総理大臣として 89年第1次山県有朋内閣を組閣し,教育勅語の発布を進め,96年には全権大使としてモスクワで山県=ロバノフ協定を締結。 98年の第2次内閣組閣後は,藩閥政治の維持のため政党勢力を抑圧,軍部大臣現役武官制の公布,文官任用令改正などで,軍部,官僚の指導権確立に努めた。第2次山県有朋内閣の崩壊後も元老として内閣の人事,行政に干渉し,権力をふるったが,1921年皇太子妃選定問題で政治的失策をおかし,政治生命を失った。



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