岩村藩

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岩村藩(いわむらはん)は、美濃国(現在の岐阜県)の岩村城を拠点として美濃国と駿河国の一部を支配した[1]

戦国時代

岩村が有名になったのは戦国時代である。当時、美濃を支配下に置いていた織田信長は、元亀年間に敵対した武田信玄の領国・信濃との要衝にある岩村城の重要性を考えて、城主・遠山景任に美貌で知られた自身の叔母・おつやの方を妻として娶らせ、一門衆として遇していた。やがて足利義昭との対立から各国に信長包囲網が敷かれると、岩村も元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦に伴ってその家臣・秋山虎繁(信友)に攻められることとなる。景任は懸命に防戦したが、不幸にもその最中に病に倒れ、死去してしまった。信長も当時は浅井長政と対峙していたため、援軍を送ることができなかった。

城将がおらず、援軍の望みも無い岩村城はかくして武田軍の手に落ちた。しかしこのとき、秋山虎繁はこともあろうに景任未亡人のおつやの方を溺愛し、結婚してしまったのである。これを知った信長は激しく怒り、信玄の死や長篠の戦い武田氏が衰えると、即座に岩村城に対して大軍を差し向けた。虎繁は懸命に防戦したが持ちこたえられるわけが無く、捕らえられて岐阜に送られ、逆さ磔の極刑に処されてしまったのである。このとき、信長は叔母のおつやの方、そして城兵全員までをも処刑している。信長の凄まじい怒りが虐殺という形で現われたのであった。

豊臣氏時代は、田丸忠昌が4万石で入っていた。忠昌は関ヶ原の戦いのとき、徳川家康に従って下野国小山まで参陣したが、家康が石田三成の挙兵を知って軍を西に返すと、「豊臣秀頼さまに背くことはできない」と言って家康の下から去り、西軍に与した武将である。しかしこのため、戦後に改易されてしまった。

しかし、田丸忠昌(直昌)が小山参陣した形跡は無く、自身は大阪の守備につき、戦後改易されている。上記の話は創作であるとも言われている。

藩史

関ヶ原後は、家康譜代の家臣・松平家乗慶長6年(1601年)1月に上野那波藩から2万石で入った。慶長19年(1614年)2月に家乗は死去し、後を子の松平乗寿が継いだ。乗寿は大坂の役で戦功を挙げたことを賞され、寛永15年(1638年)4月25日に遠州浜松藩へ加増移封される。

寛永15年(1638年)4月27日、三河伊保藩より丹羽氏信が2万石で入る。この丹羽氏(一色丹羽氏)は、信長に仕えてその四天王(織田四天王)にまでなった丹羽長秀と血縁関係の無い別の一族である。第2代藩主・丹羽氏定正保3年(1646年)11月11日、弟の丹羽氏春に1000石を分与したため、1万9000石の大名となる。第5代藩主・丹羽氏音のとき、藩政改革をめぐって家臣団内部で対立が発生し、遂には家臣の村瀬兵衛が幕府に内情を訴えたために御家騒動となり、幕府からそれを咎められて、元禄15年(1702年)6月22日、越後高柳藩へ減移封となった。

元禄15年(1702年)9月7日、信濃小諸藩より松平乗寿の孫・松平乗紀が2万石で入る。歴代藩主の多くが奏者番寺社奉行など幕府の要職を歴任しているが、そのために第4代藩主・松平乗賢時代の享保20年(1735年)5月23日に1万石の加増を受けて3万石となったが、その内の5,276石が駿河国の15ケ村(現在の藤枝市焼津市島田市静岡市の一部)で横内村に横内陣屋を設置し代官を派遣した。また岩村藩主が大坂城代に就任した期間は摂津国和泉国美作国で計1万石を給付された。

なお、大給松平家は学問を奨励し、松平乗紀は藩校・文武所(のちに知新館)を創設した。松平乗薀の3男・松平乗衡は大学頭である林信敬養子となり、後に林氏を継いで林述斎(林衡)となる。

1858年箱館奉行所の要請により足立岩次らを蝦夷地へ派遣。近代北海道初の陶磁器生産である箱館焼の生産を開始するが数年で失敗。

明治2年(1869年)、最後の藩主である松平乗命版籍奉還により岩村藩知事に任じられる。明治4年(1871年)の廃藩置県により、岩村藩は廃藩となり、岩村県を経て岐阜県に編入された。

歴代藩主

松平(大給)家

2万石(譜代)

  1. 松平家乗
  2. 松平乗寿

丹羽家

2万石(譜代)

  1. 丹羽氏信
  2. 丹羽氏定
  3. 丹羽氏純
  4. 丹羽氏明
  5. 丹羽氏音

松平(大給)家

2万石→3万石(譜代)

  1. 松平乗紀
  2. 松平乗賢
  3. 松平乗薀
  4. 松平乗保
  5. 松平乗美
  6. 松平乗喬
  7. 松平乗命

幕末の領地

  • 美濃国
    • 恵那郡のうち - 岩村、上飯羽間、中飯羽間、下飯羽間、岑上、富田、大円寺、久保原、上村、漆原、下村、小田子、串原、沢中、藤、永田、久須見、阿木、青野、両伝寺、福岡新田、飯沼、東野、野井、佐々良木、椋実 
    • 土岐郡のうち 柿野、細野、駄知、神箆、猿子、一日市場、山之内、肥田、浅野、定林寺、河合
    • 武儀郡のうち 上白金、下白金、跡部、笹賀、田栗
    • 安八郡のうち 北方
    • 山県郡のうち 上願、藤倉、畑野富永、谷合、青波、片狩、田原
    • 揖斐郡のうち 大野、名札、神原、松山、瀬古、麻生浅木
  • 駿河国
    • 駿河国内の15村については横内陣屋(現在の静岡県藤枝市横内字堂ノ前)において支配を行った。
    • 有渡郡のうち 広野、鎌田、北脇、北脇新田、石部 - 5村(静岡藩に編入)
    • 志太郡のうち 宮島、横内、落合、大草、前島、稲葉堀田、助宗、村良- 8村(同上)
    • 益津郡のうち 吉津、下当門 - 2村(同上)
  • 明治維新後に、土岐郡14村(旧幕府領9村、旗本領6村)が加わった。なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない。
  • 摂津国(大坂城代に就任期間中の給付地)
    • 住吉郡のうち - 遠里、小野、杉本、大豆塚
  • 和泉国(大坂城代に就任期間中の給付地)
    • 日根郡のうち - 新、波有手、下出、黒田
  • 美作国(大坂城代に就任期間中の給付地)
    • 勝南郡のうち - 書副、城田、今井、中原、長内、堂尾、則平、下香山、黒土、墨坂、勝間田、新田、鳥淵、福田、西吉田

脚注

  1. 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」(東京堂出版、2004年9月20日発行)304ページ

外部リンク

先代:
美濃国
行政区の変遷
1601年 - 1871年 (岩村藩→岩村県)
次代:
岐阜県